天才ワナビー
  1. 無料アクセス解析
レビュープラス
加速学習ブログと見せかけて最近はただの読書ブログ。色々実験中。
対話260 ロジャー・N. ウォルシュ 『「シャーマニズムの精神人類学」―癒しと超越のテクノロジー』


<殿堂入り>
個人的読みやすさ:B
読書時間:2時間


スタニスラフ・グロフは「死んで生まれ変わるという強烈な体験の連続は、かつてあらゆる心理療法に抵抗してきたようなさまざまな情動的、心身症的、対人的問題を劇的に緩和することができる」(69)と述べている。(p.95)


これまた素晴らしい一冊。新しい境地を僕に少し見せてくれた本だ。

 プラセボ効果など、人が信じる力のことを考えたりするとどうしてもシャーマニズムなどに行き着いてしまうと最近感じている。
 たとえば僕が高校生の時はシャーマニズムだとか呪術なんて気が触れているとしか思わなかった気がするけど、最近の僕には全然おかしいものでもなんでもないものと映ってしまう。2年もあれば体内の構成要素はほとんど変わってしまうという記事を以前読んだが、精神においても2年という歳月はすっかり変えてしまうのには充分なのだろう。尤も、肉体と同じくその変化は徐々に進行する病のようなものなので、2年前の自分とすっかり変わってしまうことになど日常でそこまで意識出来ることでもないけども。

 さて、この本の内容であるが、信じることで体を治すことが出来たり破壊したりすることが出来る、というプラセボ的観点以外にも、面白い記述はいくつもあってそれが僕的には栄養満点だったりした。
 引用にも入れたが、たとえば「死んで再生すること」の意義。
現代科学的に考えて、人の肉体は死んで生まれ変わったりしない。でも、精神上ならそれが全て許される。そして一度精神が死んだあとに訪れるのは再生だ。再生。圧倒的に死ねば圧倒的に蘇る。悲観的に死ねば悲観的に人生がリスタートする。シャーマンたちはこの摂理を体感的に知ることが出来ていて、僕はそれが少しうらやましいと思う。

 また、シャーマンはいかにトランスするか、の技術を良くわきまえている。ドラミング、儀式、社会的コンセンサス。非合理だと思っていた太古の世界はなんて合理的な世界だったのか!魔法が使えるための世界というのはある意味閉じた世界なのであって、それを外部から侵食されないために人は布教津堂を、手を変え品を変え行ってきたのかもしれない。社会的コンセンサスを破壊するということは、その魔法体系を破壊してしまうということと同義なのだから。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

対話259 パトリック ルモワンヌ 『偽薬のミステリー』


<お気に入り>
個人的読みやすさ:B
読書時間:50分


天才的やぶ医者だったノック先生が、村人たちに親しげにされることを嫌い、どんな場合にも「先生」と呼ぶように求めたのは虚栄心からではなく、尊敬されることで信頼が増し、結果として治療効果を高めることになることをよく心得ていたためである。(p.68)


最近プラセボ効果関連の本ばっかり読んでいるような気がするが、この本もそのうちの一つ。

 プラセボ効果というのは調べれば調べるほど非常に魅力的な心理的効果であり、ある意味ジョーカー的な位置づけにあると僕は思っている。
 上記の引用例も、完全なるパラダイムの転換である。優秀な医者だから尊敬されるのではなく、尊敬されるから優秀な医者なのである、というのは言葉遊びや皮肉なのでは勿論なく、正当なる真実をついているにほかならないのだと思う。

大多数の宗教や文化は罪悪感を持ち続けてきた。そうであったからこそ、マーケッティングという単純な観点から見れば、司祭兼医師、魔術師兼医師、腸ト師その他の魔術師が顧客の心をより確実に引きつけることができたのである。自分と罰を下す神とのあいだにあって唯一の仲裁者を名乗る人物、すなわち治癒を望む者のために尽くす義務をもった人物、そのような人を敬わない人間などいようか?(p.124)


 人間は、他人に対してある一定の役割を期待しているし、その役割を相手に押し付けている。
そしてその役割を真っ当してもらうためなら、正当なる効果を発揮させるために、時には尊敬したり、崇拝したりすることもいとわないのだろう。
 尊敬や崇拝も、無意識レベル(あるいは意識レベルなのかもしれないが)では手段の一つなのだから。

♯本書のプラセボとしてホメオパシーが挙げられているのが印象に残った。ホメオパシーとは少しずつ毒を摂取すればやがてそれに対する抗体が出来るよ!みたいなものと僕は理解しているのだけど、まさに現代において論議の中心の一つになっているものであって、この魔法がどのような結末を辿るのか、科学に否定されて雲散霧消するのか、現代を生きる奇跡として生き残るのか、興味深いところである。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

【レビュー】 COURRiER Japon(クーリエ・ジャポン) 2009年12月号

278163.jpg

僕的レビュー第2弾。
 大特集として銘打たれているのは「世界が見た日本」であり、海外の反応が気になってしょうがないしがない一市民である僕としてはこの本は読まずにはいられなかった。

 普段雑誌をあんまり読まない僕にとって、クーリエジャポンなる雑誌を読むのは勿論今回が最初のことであるので普段どんな感じになっているのかはわからないけど、毎回こんなボリュームで出てくるなら定期的に読んでも全然良いと思えるレベル、というのがシンプルな感想。今回は10周年ということもあっておそらく普段よりも気合の入った内容だったとは想像するけども。

 記事の内容では、僕の中ではやはり日本のサブカルが世界でどう扱われているのかが気になるもの。
ネットにもそういう類の記事は最近ものすごい勢いで落ちていて、ちょっと前までmoonlight fantasiaくらいしかなかったことが想像も出来ないほどなのだけど、さすが雑誌というべきか、
多方面から日本の色々なところに焦点をおいて、日本を取り上げている外国雑誌の記事を紹介している。

 確かに、日本のことを紹介している日本の雑誌の記事はよく見るけども、海外の雑誌の記事はそれほどお目にかからない。僕は一応英語が読めるのだけどちょっとめんどくさいと思ってしまうし、そんな「英語はよみたくないけど海外の雑誌の内容でどんなことが書かれているのか知りたい」という層にはぴったりなのだなと感じた。

 あと、ネット媒体と雑誌媒体の違いで思ったことなのだけど、やはり書籍だと内容全てを読むのにある程度の強制力がかかる。ネット媒体の良いところでも悪いところでもあるのが自分の興味がありそうな記事しか読まない、ということ。雑誌媒体だと長年の習性もあり、どうしても結構色々な記事に目を通してしまうわけで、そうすると普段あまり興味のないような分野の知識が増えて相対的に興味深くなっている。これは時間の損失とも捉えられるけど、全体への知への繋がりは残しておきたいもの。
テレビという媒体がそれほど信頼が置けなくなってしまっている現在、そこを担うのはある程度広範囲に情報をザッピングした雑誌だとか書籍という媒体になるのかなと思う。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

再始動
また2週間以上放置してしまいましたが、学校でのごたごた(主に期末)が終わりましたのでぼちぼち再開させる予定です。この間の読書メモが大変めんどくさい感じになっておりますが、気長にポストしていこうかと思います。

それにしてもツイッターをやっているとそっちで満足してしまってブログの更新が減りますねー。
まあ僕の場合は減るっていうか止まってたといったほうが正しいのですけども。
対話258 梶村 尚史 『「朝がつらい」がなくなる本―ぐっすり眠る、すっきり起きる習慣術。』



個人的読みやすさ:A (知識の確認に)
読書時間:20分


そうならないためにも、すっきりと起きられない状態が続いているようなら、あえて何かを「捨てる」ことです。(p.83)


 最近どんどん寒くなり、しかも今住んでいるところが学校に近いこともあり、もの凄い勢いで朝体が起き上がらない現象が続いているので藁にもすがる思いで手に取った本。

 僕は昔から睡眠には関心があるというか睡眠に問題を抱えていたので(別に不眠症というわけではまったくないんだが……)、いくつかの本を読んでいるのだが、この本は睡眠に関する知識がわかりやすくまとめられていて、知識の確認としてはなかなか良いなと思う。あまりエモーショナルな書き方ではないので、今日から俺は!みたいな感じにはそこまでならないかもしれないが、少なくともいくつかの点においてこれからは気をつけようと思わされる箇所があった。

 睡眠に関して思うのだけど、季節はどんどん変わっていく以上、固定化した考えを持つことは必ずしも良くない気がする。自分自身のコンディションが季節の変化をものともしないくらい練られているならまた話は別なのだけど、僕レベルの人間であれば柔軟に姿勢を変えていくのも大事なのかな、と思った。基本的に僕は健康志向だけど、大学生をやっていると集団プレゼンの準備で寝れない、ということは往々にして発生する(というか先週に2回くらいそういうシチュエーションが起きた)わけだし、そういうときにいつでも早く寝る、みたいな鉄則を持ってしまうと世の中生きづらくなってしまいそうになるので。

 これについては僕の食生活にも同じことがいえる。以前ちょっとベジタリアンになろうとしたが、少なくとも日本においてはこのようなポジションを持つことはあんまり利益にならないことがよくわかった。全体的な視点から見て、何が自分にとって良いのか、ということを考えることは本当に大事なのだと今日改めて思う。

 

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

対話257 石井 大地 『東大理3生の「人を巻き込む」能力の磨き方』


個人的読みやすさ:A (さらっと読みたいとき向け)
読書時間:20分


2分40秒以上続けて話すな(p.91)


 書いてあることに目新しさは特になかったけども、こういう風に簡潔にまとめられている本は知識の再点検、および自分自身への再点火にとても役に立つ。ましてや、この著者のように学生によって書かれた本だとそれがなおさらになるのだと思う。なんとこの著者、僕と生まれが2年しか変わらず、しかもこの本を出したときは学部2年である。がーん、追い抜かれた!

 自分で改めて注意したいな、と思ったのは姿勢、それと引用したところでもある話の長さだろうか。
こういうとき、武道などをやっている人は大きなアドバンテージを持っているのだろうなと思う。僕は中学生のときとか高校生のときに致命的に姿勢が悪かったというディスアドバンテージがあり、最近はそれでもましになってきたがまだまだ良いとはいえない方向だ。一回なんらかの矯正させる機関に入るなりなんらりしたほうがいいのかもしれない。

 話の長さというのも特に人前で話しているときは意識しづらいことであるので、なんらかの装置を使って一回自分をチューニングしてみたいところではある。人前で話すことは結構好きなほうなのだが、それが乗じてついつい喋りすぎるということも僕の場合ありがちなので気をつけたい。

 しかしこの本を読んでなにより、特に一番触発されたのは内容うんぬんではなく出版すること自体である。だめもとでこの休みに企画書を作ってどこかの出版社に掛け合ってみようかなと考え中。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

【レビュー】MacPeople (マックピープル) 2009/10/29発売号

275952.jpg

Fujisan.co.jp
http://www.fujisan.co.jp/product/2512/


 非常に突然なんだけど、レビュープラスというサイトに登録しておくと、色々とレビューをする代わりにただで本を送ってきてくれるのでとっても良いよ!という宣伝。そして実はこの記事もその第一弾レビューだったりするんだ。

 何故今までウィンドウズを使い続けていた僕がMacPeopleなのか、そこのところを突っ込みたいという気持ちは非常に理解できるというか僕自身なんでMacPeople買ってるの?という気がしなくもないけど、でも最近のMacの勢いを見るかぎり、明日にはMacUserになってしまってもまったくおかしくない。そんなスメルを嗅ぎ付けて、では敵前視察をしなければ!というわけでこういう雑誌が欲しくなったわけで、そういう意味で今回のレビューは僕にとってとってもタイミングが良かったといえるわけである。

 まあそもそも周囲にマックユーザーが多いというのもあるしね。

 さて、前置きはこの辺にしてこの雑誌のレビューという感じでいきたいのだけど、僕のような窓使いが林檎に移行するとどんな良いことがあるのー?という素朴な疑問に対して、この雑誌はいくつかの答えを用意してくれているように思える。

 直球で答えをばばん!と出してくれているのがウィンドウズ7とマックOS Xの比較で、確かにここのところの比較は僕としても非常に気になっていたのでありがたかった。雑誌がマック、しかもおそらく購読者はマカーなのであるということを考慮すると記事の姿勢にかなりのバイアスがかかっていることはちょっと否めないんだけど、マックを買うことに対して一定以上の勇気をもたらしてくれるような気がしてその点はとってもよかった。あれ、いつの間にかマックに思考が犯されてね?

 その他、雑誌全体を通して感じられたのがマックがある程度”閉じた世界”であるということ。ウィンドウズだと規模も大きいし使っている人も多いしフリーソフトいっぱいあるしついでにいうと画面見にくいしとか色々あって、拡張性というよりもよくわからん感を出しているのだけど、マックのほうはこの雑誌のテクニックとかがあればこれで結構満足できるような期待感がある。これはなんでだろう、デザインがまとまっているからなのかちょっと判断がつかないけど、いずれにせよ僕のような非マックユーザーから見れば、この一冊に書かれているテクニックだけでも結構やっていけそうな気がする。この辺は雑誌の中にある「至高のテクニック」というところ参照。

 んで、最後に一番の注目点としてあげられるのがなんといっても新マックの記事。というかこのためにマックに心変わりしそうになっているといっても過言ではないわけで、去年PCを買った身としては非常に悩ましいわけなのだけど、でも見れば見るほど欲しくなってくるという……

 あと、デコイ的な要素があるのかもしれないけど全てのマック商品が褒められているわけではないのも良かった。全部褒められていると僕はかなりひいてしまうのだけど、褒められているのは新しいデスクとノートがちょっとくらいで、miniとかのレビューは割と悲惨で笑った。


結論:僕もとりあえず新しいマックブック欲しいです^q^

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

対話256 岸田 秀 『ものぐさ精神分析』


<殿堂入り>
個人的読みやすさ:C (文体はそこまで読みやすいとは思わない)
読書時間:3時間

 わたしは、個人というものをさまざまな私的幻想をもつ存在として理解している。その私的幻想がすべて私的なものにとどまっているかぎり、他者との関係はあり得ない。二人のあいだに関係が成立し得るためには、二人のおのおのの私的幻想を部分的にせよ吸収し、共同化し得る共同幻想がなければならない。(p.177)


恋愛とは魔法であり、魔法とは幻想である。ならば恋愛は幻想なのではないか?

 唯幻論、という立場から国家やら恋愛、日常、空間や時間などについて書き綴ったエッセイ集というのがこの本の立ち位置なのだろうけど、僕はとにかくこの唯幻論というものにやられた。岸田によれば人は私的幻想と共同幻想で成り立っているものだし、それに基づけば恋愛だって国家だって、その表面の感触が幻のものであるということに気付いてしまう。私たちはそれに気付かないように時には触ることを避けたり、触れたとしても見てみぬふりをしたり、触っているはずなのに知覚できないという現象を起こしたりするわけだ。それはまるで人類全体が催眠にかかってしまっているに違いないということを表している。

 僕は”魔法”というトピックをひとつの自分のキーワードと思っているのだけど、魔法とはすなわち幻想である。幻想であるが故に、化学的にどうであれ生物学的にどうであれ物理的にどうであれ、その人の魔法の強さによって現実は思ったとおりに姿を捻じ曲げる。私達の使う魔法は時間と空間に立脚した現実を捻じ曲げる魔法であり、その手触りを味を臭いを音を姿を捻じ曲げる魔法である。そしてそれは時に崩壊し、特に再構築され、私たちの目の前に次々とまるでオードブルのように提供されていく。私たちは日々魔法に染まった物体を食べているわけである。

 その魔法を打ち破ることに意義があるし(だから自然科学が発達する)、また打ち破らないことにも意義があったりする。その線引きはとても面倒なもので、私達はどこまで自明的であるべきなのかについての選択をこれからの世のなかでも迫られるのだろう。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

対話255 リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』


<お気に入り>
個人的読みやすさ:D (追加された後半が辛かった……)
読書時間:2時間


不妊の働きバチが一匹死ぬことは、その遺伝子にとってごく些細なことでしかない。それは、木の遺伝子にとって、秋に葉を一枚落とすことが、些細なことであるのとまったく同じことである。(p.263)


 ドーキンスの提唱している<利己的な遺伝子>という世界観は、まさに現代だからこそ生まれたものだ。それ自体がひとつの大きな世界観でありながら、科学的な背景を同時に持っている。

 以前から気になっていたドーキンスの『利己的な遺伝子』にやっと手を出すことになった僕だが、実際読んでみるとそのわかりやすさとわかりにくさに脳内の震えを憶える。具体的には、前半の内容はt理系ではない僕でもかなり容易に理解することが出来たが、後半の2章はかなり苦労したしあまり理解できているとはいいがたい。とはいえ、読めてよかったと思える本であることは疑いようもないと思う。

 この本を読んで痛切に僕が感じたのは、「現代において<世界観>をいかに確立していくか?」ということである。
 これは自分自身にとって、ひとつの大きなテーマになるということを僕はかなり確信している。この<世界観>というフレーズは藤沢烈さんにお会いしたときにいただいた言葉。宗教という括りはあれだし、思想というと少し広すぎる。世界観という言葉はその人の持つ世界を説明する上でかなり適切な言葉だと思う。

 ドーキンスの提唱している利己的な遺伝子は、それ自体がひとつの大きな世界観だ。いくら科学的な背景に基づいていようが僕はこれが絶対的な世界観ではないと思うし、世界中の人がこの考えに基づいて自らの宗教観などを持つ必要は特にないと思う。そんな場面はまったくもって想像出来ないしね。

 ただ、ドーキンスの説は科学的な背景に基づいて生まれている、という一点において非常に「強い」、そして「現代的な」世界観なのである。その人なりの世界観というのは必ずあって、そして一応それには制限がない。人が内側でどう思っていて、どのようなレンズで世界を見ているかなんていちいち制限できるものではないのは明らかなことだ。

 だけど科学がここまで発展した現在、これを無視して自らの世界観を確立していくことは社会的に危険な状態に陥る。宗教はあっていいと個人的には思うし、宗教を持つこと自体に大きなメリットがあることは統計的にも結果が出ている(たとえば幸福か否かを問うアンケートでは無神論者よりも宗教がある人間のほうが高くでるし、寿命もなんらかの宗教を持っている人のほうが平均すれば長い)。よく日本では宗教に属しているというだけでかなり白眼視されてしまうものだけど、あまりにも宗教に属するもの全てを批判するのはかなり病的であるとすら思う。

 尤も、日本人の場合そんなこと言いながら色々な宗教思想を雑多に取り入れていることが多いというのが実情だから、この場合必ずしも無神論者を指してるわけではなく、正確には日本全体に広がっている<実態のない緩やかな思想>の信者である、と言うこともできるかもしれないが。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌

対話254 丹野 義彦 『認知行動アプローチと臨床心理学―イギリスに学んだこと』


<殿堂入り>
個人的読みやすさ:B (イギリスの臨床心理のことがよく伝わってきた)
読書時間:1時間


 日本では、基礎的心理学と心理臨床が直接的に対立してしまう。それは「科学」対「反科学」の様相を帯びてしまう。基礎的心理学の側では、「心理臨床は科学ではない」と批判し、逆に、心理臨床の側では、「基礎的心理学の科学的方法論は実践の役に立たない」と批判する。日本の心理臨床は、基礎的心理学や精神医学とのインターフェースがよくない。こうした点からも、イギリスの心理学のあり方は、日本にとって参考になるところが多い。(p.19)


臨床にはそれほど興味を持っていなかった僕が、この本を読むことで臨床も良いなと感じ始めた。同時にイギリスという国で学ぶことの意義も見出せたように思う。

 臨床の現場のことについて僕はほとんどわからない。
身内にカウンセラーがいるのでなんとなく口づてに聞いたりして「ああ、やっぱ色々大変なんだなあ」と思うことはあっても、実際今までそこに関わろうとはほとんど思わなかった。

 多分自分には人の話を聞いて〜というカウンセリングスタイルは合っていないと思っていたし、他人からも「え、お前がカウンセリング?無理無理」みたいな反応をされた記憶もある。まあ根本的な部分で僕は調べたり研究したりするほうが好きなのだろう。

 しかし本書で取り上げられている認知行動療法は僕の想像するカウンセリングというスタイルとはかなり違うようである。そしてイギリスはそれを非常に体系的に、また臨床心理、精神科医、社会との3つの軸をうまく使ってクライアントに対応しているという事実。これだけでも僕がイギリスと認知行動療法に興味を持つには充分な素材ではないか。

 なおかつ、イギリスでは臨床心理士、あるいは精神科医が一対一でクライアントに接するのではなく基本的にはチームで接することになるそうなので、必然的に共有できるエヴィデンスが非常に重要になってくる。そうした背景もあって、エヴィデンスをいかに測るか、というところに着眼が置かれていてこれがまた素晴らしい。そもそも認知行動療法の一つの大きな利点としては効果を確認しやすいというのがあると思うが、これはこうしたイギリスの臨床体制から生まれた姿勢なのかなと思う。

 こうしたスタイルが日本に導入されるにはかなりの年月がかかることになるだろう。あんまり日本の事情のことには詳しくないので下手なことはいえないのだけど、身近な例で考えてもイギリスと日本の臨床の場面には大きなギャップがあるだろうし、そもそも認知行動療法自体がそこまでメジャーではない。軽く調べたところこれを行っているところも結構あるっぽいが、たとえば僕の身近な友人であるJさんは様々なカウンセラーのもとへ行ったり精神科医のもとを訪れたりしているが、認知行動療法の存在すら知っていなかった。

 ともかく、今後日本の臨床の現場が、そして生活とカウンセリングの関係がどのように変化していくのかについては今後も詳しく見ていく必要がありそうだと思った次第。

テーマ:読書メモ - ジャンル:本・雑誌