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読書は今後こちらに移します

2012.02.03.17:31

今までこちらで公開したりしていなかったりした読書メモですが、今後はこちらのサイトにアップしていきたいと思います。よろしくお願いします><

超引用集。
http://booklog.jp/users/imagestreamer
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近いうちに新しいサイトを作ります

2012.01.14.10:58

ちょっと現在ばたばたしてるのでおそらく二月中旬以降になるかと思いますが、一応報告。いい加減周りをITな人間に囲まれながらまったく自分がしないのもどうかと思うようになってきたのでその辺のことを勉強しつつ、新しいものを立ち上げたいなと思います。

対話410 島薗 進 『“癒す知”の系譜―科学と宗教のはざま』

2011.12.26.15:04

 <癒す知>への期待が高まると、ある種の宗教が掲げる途方もない夢に転ずることがある。また、宗教の掲げる途方もない夢が、人びとの<癒す知>への期待を呑み込んで膨張することもある。オウム真理教の中には<癒す知>や「科学と宗教の統合」といった理念に、強い関心をもった経験がある人びとが少なくなかった。また、大正時代に『変態心理』誌の森田正馬や中村古峡が「迷信打破」に使命感を抱いたのもごく自然なことに思えてくるかもしれない。<癒す知>の運動が掲げる知の妥当性について厳しくチェックし、怪しいものは排除した方がよいという考え方だ。(中略)
 しかし、現代の環境問題や医療が抱える諸問題を無視することができない現代人にとって、近代科学や近代的な制度を支える知の限界は、やはり霊性に見定めておくべき事柄である。そして近代知ではカヴァーしきれない領域に、何らかの認識システムの網をかぶせようとする試みを、すべて「迷信」として抑圧したり、笑い飛ばしてしまうわけにもいかないだろう。
(p.259)


 うっかり科学とか持ち出すとそれすなわち真理でしょ、みたいな話にもって行きやすくなるため、とりあえず霊性って言葉で落ち着けようよというのが筆者の見解だと思うし僕もまたそれが一番無難というか、科学を尊重する態度になるのかなと最近思う。そしてそのことについて肯定的になり、そこにある価値をそれでも認めること、これこそが今まで島薗先生の著作をいくつか拝見して見出した結論である。

 たぶんこの考えにものすごく同調できるのは、僕自身「宗教団体とかにどっぷり入っている人とは深い部分で違ってて仲良くなれなそうだけど、それに対してとりあえず叩いとくかみたいな風潮にも賛成できない」という価値観を持っているからだろう。なんというか、僕は天邪鬼なので、まず最初に叩く側に回るんだけど、その後叩く側が大して考えてもないのに叩いていることにげんなりして、だんだん嫌気が差してどちらも叩く側に回るという性質を持っていて、きっとそういう性格がこういう態度を取らせることにしている。別にこれは宗教とかに限らず、生活態度すべてにつながっている。われながらめんどくさい性格だ。

 「そこにまともな思考がはさまれていないのに、なんとなく叩く」みたいな浅はかさに対する嫌悪感は、この場合宗教側だろうが非宗教側(と本人が思っている側)に対してだろうが共通する。それが熟慮の上だとか経験ベースで何かあった場合はこの限りじゃないけど、とりあえず「批判することで耳を閉じ続けること」にはいざという時にそれ相応のリスクがあるということを承知してしかるべきだと思う。

 ちなみに僕の宗教的な、あるいは霊性的な態度を明言しておくと、大事なのは「そこに自由度がいかにあるか」ということである。言ってみれば遊びだとかゆとりという部分の余地が自分にとっては大事だ。

 つまりそれは「神を信じること」もできるし、「神を侮辱すること」もできるという両義性の態度である。「正しいことをしなければならない」と信じる正義側にも、「悪いことをしなければいけない」という悪側でもない、そのどちらもそのときに応じて行うことが出来るというコウモリの姿勢だ。もちろん風見鶏のようにならないように、あるいは寓話の中のコウモリのようにならないように、そのどちらをそのときに選ぶかについては熟考の元に行われる必要があるわけであるが。

 最近の漫画であればめだかボックスの球磨川君が同じようなことをいっていた。きっと球磨川君が好きな人は僕の考えにもある程度同調してくれるに違いない。



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対話409 田邉 信太郎(編), 弓山 達也(編), 島薗 進(編) 『癒しを生きた人々―近代知のオルタナティブ』

2011.12.25.16:16

 ここに森田の精神療法の考え方のエッセンスがある。つまりわれわれは自分を知ることによりより不安を解消したり、コントロールすることが本当に出来るのか、われわれの精神の活動を自分の都合のよいように操作できるのか、そのように心を支配し操作しようとすること自体がわれわれの悩み、苦悩の原因ではないのかと森田は鋭く問う。
(p.155)


 何かを操作しようとすることは、それが他人であれ自分であれ(というよりも「自分」はより「他人」に近い)、力学的な行いであると最近とみに実感する。

 力学的な行いであるということはそこに力が働くということであり、つまりそれはピストルを撃ったときに反動がこちらにも来るのが必然のように、自分自身への操作も含みうる。つまり、有名なニーチェの言葉を改変するのであれば、何かを操作しようとするとき、自分自身もまた操作されている。

 知るということはその対象物を――本当は液体ないしは気体のような性質を持つ対象物を――言葉によって凝固させる行いである。それでは多くを取りこぼしてしまうし、全体のバランスを良かれ悪かれ変えてしまうのだろう。既知の範囲の自分や他人を変えようとすることはその不完全な切り取られた一部に働きかける行いであるといってもよく、ゆえにここから歪みが生じないというのはありえない。

 もちろん、知るという言葉にはいろいろな意味があって、もっと深いレベルでの場合はケースが異なる。ではその場合の知るというのが何を指すかということだが、これは単純に身体レベルでの知ということになるのだろうなあというのが今のところの印象。あるいは夢とかの無意識的レベルといってしまってもよいが、身体レベルのほうがごまかしというか幻想が入りにくいのかなという気もする。


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対話408 James G Kelly, Anna Song "Six Community Psychologists Tell Their Stories: History, Contexts, and Narrative"

2011.12.23.10:31


My understanding of psychology as a discipline was more integrative than the reality of the field .
(p.90)


 「心理学」という言葉は非常に多くを含みすぎているし、何より一般的に心理学という言葉から想像されるものを含んでいないことがままあるということは、心理学を専攻しようと大学に入った学生に訪れるひとつの典型的な症例だ。

 とくに「科学的」でないポップ心理学みたいなのに興味があって心理学をうっかりやろうとした人は、とりあえず大学に入ってその性根を叩きなおされる。特に関東では心理学が科学性を標榜する傾向が強いとかどっかで聞いたことがあるけど、大小あれどその傾向は全国共通だろう。科学性の上に乗らない心理的なところはすべて文化に回収される、ということを多くの高校生は知らないし、実は文化と名のつく多くの授業でもそれらは扱わないということを知らないのだ。

 とはいえ、ポップ心理学で扱われているような領域は普通に面白い分人口に膾炙するので、それを単純に否定するというだけではなく、文化的に考察を加えて、どのような距離感を保つべきかをきちんと教えるということはかなり重要だと思う。というのも、「あれは非科学的なので信用しないでくださいね」といっても、たとえばある占いを強く信じている人にその言葉は届かないかもしれないし、それがなぜ効果を及ぼすのかについて、プラシーボやらなにやらが効いているだとか、そういうことを、もっと真剣に伝えてその価値を検討するべきなのだ。

 心理療法でも実験でもない部分でも、つまり臨床心理学でも実験心理学でもない部分での心理学。そしてそこでまことしやかに使われているスキルのうちの少なくないものが魔術的だったりするわけだけど、そういうものに、それを取り巻く世界観やもっと引いた行動科学的な視点からの考察を考慮に加えた上で、触れ合う機会を持つことはいろいろなものにエンカウントする現代社会において必要な態度なのではないかと思う。自己防衛的な意味でも特に。



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対話407 ヴィパッサナー瞑想 実践レポートと解説

2011.12.23.10:05

しかし、もし私たちが経験している出来事を、瞬間瞬間”サティ”で捕らえてフィルムのようにバラバラに切り刻んだら・・・・もうそこには「物語」は分断されて存在しない。その苦しみの「物語」に巻きこまれている「私」という感覚も、実は錯覚でしかなかったということに気づけるでしょう。
(p.24)


 ここでいう「物語」は「過去」だとか「未来」だとか「思い出」だとか「将来の夢」という言葉で表現されるような、その人個人の中にあるお話、幻想のことである。大体、物事が意味を持っているということはすなわちそれが「物語」になっているということであり、そのとき、私たちは小説を読むように自分自身の人生を読んでいる。

 自覚性の重要性、みたいな話をこのひとつ前のエントリーでした。
そこで問題になる、というか難しいな、と思うのが「その自覚性をどう喚起するか?」ということだ。

 自分が今どのような物語の流れの中にいるのかというのはなかなか自分では見えづらい。
そしてその物語というのは大体、心地よいからという理由で採択されている。
実際自分自身に自覚があったと思っていても、そこから抜け出せるというオプションをいざという時に取ることが果たしてどの程度可能なのか?というのは大いに疑問だ。

 まあ、いつでも抜け出せるような態度が果たして必ずしもよいのか?というとかなり意見が分かれるところだろう。
いつでも抜け出せる程度にしかコミットメントしない人が何か大きなことを成し遂げることは、確率的にいうと深く深く抜け出せない程度にコミットメントする人に比べれば普通に低い気がする。
ようは自分で安全圏内にとどまろうとするということ=物語性の自覚なので、安全圏内にとどまろうとすればするほどそこで何かを成すことができなくなっていくというのは割と普通の発想だということはわかっている。

 しかしそもそもなんで「物語性」なんてものを自分の人生においていちいち自覚しなきゃいけないのかという話かというと、「のめりこみすぎると危険だから」とか「今もしその状況が気に入らなくても、あくまでその評価付け、色づけは自分が行っている」ということを認識する上で大事だからだ。のめりこみすぎは世界観を狭める危険性がある、ということが物語性の自覚を持つことの大きな意義となっているし、現在が悲観的であればそれを打開するために相対化が行われてしかるべきだろう。

 うまい「物語性の自覚」への態度は今も考えて実践しているところだが、ひとつの解としては「遊戯」としての態度なのかなと思う。つまり物語を意識的にあるいは無意識的に構成するとき、それを遊戯のようにみなして取り扱うこと。「遊戯ということはその対象物を適当に扱うこと」というのは必ずしも正しいことではない。遊戯だからこそハマる。遊戯だからこそ真剣になる。だけれど、結局は遊戯なのであり、昔お母さんに「ゲームは1日1時間までね」といわれた例のアレとなんも変わらないわけだ。

 そういうようなうまい感じのポジション取り、セッティング、それをもっと自分の中でも徹底させていきたいし、思想面でももっとそのことを念頭に入れていきたい。



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対話406 ティク・ナット ハン 『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』

2011.12.23.01:53


だれかが私たちの悪口を言ったとき、もし相手がなぜそのようなことを言うのかわかっていて、その言葉を深刻に受け取らなければ、こころはまったく動揺しません。こころにしこりは生じないのです。しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解できないでいらだってしまうと、こころのなかにしこりが生じます。
(p.81-82)


 理解というのはなかなか暴力的だなといつも思う。そしてその暴力性の自覚があるとき、理解というのはもっと暴力的に用いてもよいと認識されるべきだと思う。

 理解というのはすごくアートだ。というか、アートな理解とサイエンスな理解があるかなというのがなんとなくの実感なんだけど、意味深いレベルでの理解はすべてアート。そして理解というのは上記の引用にあるような、問題の(自分の中での)解決とかにつながる。それをいかにうまく成し遂げるか?というアートは、いわば自分をうまいことだますテクニックみたいなものだ。

 ただ、前述したように、大事なこととしてそこに自覚性がなければいけない。アートということはすなわち遊びなのだから、そこを見失ったときにそこから抜けることができなくなってしまう。アートは恣意性であり、恣意性だからこそ価値があるのだ。時にはパートタイム的にそれに没入することもあるだろう。その場合でも、何か自分の体に帰ってこれるような紐のようなもの――それは友人かもしれないし条件付けかもしれない――をまきつけておくことが大事だ。

 もちろん、自覚性を持っている、と思うこともひとつの罠だ。ミイラ取りがミイラになる、というのは非常によく起こることだし、その点を含めての自覚性、というかシステムの構築が肝要なのだろう。



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対話405 島薗 進 『新新宗教と宗教ブーム』

2011.12.23.01:12


 ワヤンというのは英語が話せるバリの呪術師で、来日したとき二週間いっしょに生活し、その霊感や生活態度に感銘を受けた。彼が帰国した晩、伝授された瞑想を一人で実践すると、指先がビリビリする、失神するなど初めてのことが起こった。気持ちはいいし、気分は落ち着くので、それから毎晩瞑想するようになった。、一瞬間ほどして、バリの最高神のビジョンが見えるという神秘的な体験を得る。しばらくして今度は、すごい恍惚感に包まれる体験がある。
(p.59)


 神秘主義の反省するべきところを端的に述べるのであれば、体験を絶対視するところだ。

 「体験したのだから信じるしかない」っていうのは結構こういう怪しい世界にタッチしていると頻繁に聞くことだし、実際そういう人たちの中には「もともとすごく懐疑的だったけれども、実際に効果があった=それは真実である」という図式を持ち出す人がとても多い。

 そこに足りていないのは、「各個人の中において、真実はいくつも屹立しうる」ということである。
なるほど確かに効果があったかもしれない。ある世界観はその現象をうまく説明するのかもしれないし、あるイメージなりモチーフはそれに影響を強く与えるのかもしれない。世界観を受け入れることでさらにそのテクニックは強化されるのかもしれない。

 だけども、ある世界観がある現象をうまく説明できたからといって、そのほかに説明する方法などいくらでもある。たとえば宗教的な説明があったとして、そのほかに生理学的な説明がある。あるいは社会心理学的な説明もありそうだし、その技法と臨床心理上の技法で似ているものがあるかもしれない。

 ようするに、問題となるのは「真実(と感じられるもの)は1つとは限らない」ということを知っておくことである。僕は何もたとえばある世界観が絶対に誤っている、などというつもりはない。主観的な世界の中ではどんな世界観であれ真実足りうるし、またそれは実利的な性格すら持っている。実利的な性格を持つものを無碍に否定しても効果は薄いし、その世界観に対する尊厳が足りないとすら言える。だけども、真実はいくつでも開拓できる。それが科学的といわれているものであれ疑似科学的といわれているものであれ宗教的といわれているものであれ世俗的といわれているものであれ、何か説明能力が高いと思えるものはすべて真実であり、違いがあるとしたら真実色のグラデーションの違いである。

 この点を認識していない神秘主義は非常に危険だ。そして強調すべきこととして、しかしその神秘主義者の体験を無碍に否定しようとがんばる外部の人間の行いも同様に危険だ。というか拙いし幼い。

 大事になってくる態度は、そこにあるいかなる(広い意味での)合理性を認めようとする、超合理主義者(もうこの言葉はフッサールがもう使ってるけど)的な態度なのではないだろうか。そこのところどうでせう皆様方。



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対話404 地橋 秀雄 『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』

2011.12.23.00:52

 ヴィパッサナー瞑想の効果を三つに大別してみました。
☆能力開発系
 *頭の回転が速くなる
 *集中力がつく
 *記憶力がよくなる
 *分析力が磨かれる
 *決断力がつく
 *創造性が開発される

☆経験事象の変化系
 *現象の流れがよくなる
  ・トラブルが解決する
  ・人に優しくされる
  ・健康になる

☆心の変化系
 *苦を感じなくなる
 *怒らなくなる
 *不安がなくなる
  ・根本的に解決する
 *執着しなくなる
  ・静かに達観する
(p.7-9)


 能力開発と呼ばれる分野のものを実際にいくつかやった経験を踏まえて言うと、それらの効果の多くは心理療法的な効果を伴っているということだ。

 それは別にイメージを使うものにしてもこの本で紹介されているヴィパッサナー瞑想にしてもそうなのだが、一応主眼としては能力向上だったり悟りだったり、心理療法とはまた別のところにとりあえずのところ本義が設けられている。しかしながらそこには心理療法的な、ゲーム的に言えばホイミないしはケアル、あるいはキアリーまたはポイゾナみたいな効果がある。この心理療法的な効果と、能力向上の効果の関係性に今興味がある。

 つまり、単純に心理療法的な効果をもたらすだけでも全体のパフォーマンスは向上するのではないか?
いや別にこの瞑想にしろ他の方法にしろ、心理療法的な効果以外の何かはたぶんあるんだろう。でもそれはもしかしたら心理療法的なものとなんらかの関係がある。もっといえば、心理療法的な効果のない能力開発法(とうたわれているもの)はないのではないか?あるのだとしたら、たぶんそれはあんまり効果が感じられないものに違いない。

 心理療法的な、HPだかMPだかを回復させることはそのままその人が扱える精神力の数値が増えるということだ。
回復呪文が使えるから相手のところにも無理して特攻することができるというか、そういう構図がもしかしたらこれらの技法に関する文化にはあるのかもしれない。





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対話403 マハーシ長老 『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』

2011.12.22.14:40


 逆に、念と智慧が突然、速やかに活発に進歩して、修行がうまくいくと、
「まもなく智慧が一段上がる」
と期待し、喜びます。
そのため、修行が後退してしまうこともあります。
(p.113)


 期待することでその進歩が止まってしまう、ということは別に瞑想に限らず結構頻出するような気がする。

 期待とはすなわち自意識の表れだ。自意識とはすなわち健在意識であり、僕らは健在意識にかかわるものはいまいちなんか信用できない気がするし、だから直感とか占いとか、自意識を超えたところにあるものを信じるような傾向にあると思う。

 自意識はすなわち「限定条件つきの観察者」みたいなものだと認識されているけど、自意識ってスムーズに流れている人生に一つ歯止めをかけちゃうし、語弊を恐れずにいれば一種の病みたいなものなのなんじゃないか?

 別にだからといって「自意識を滅却するべき」みたいな方向に行く必要はないしちょっとそれはやりすぎな気もするけど、ただその「観察者」たる自意識が、人生がうまくいっていないときにうまく方向転換する礎になるかというと大して役に立っていない、むしろ悪化させているっていうケースは多い気がするし、そもそも直感が自分自身の体から出た声なのだとすれば、直感を鈍らせるような自意識の存在はちょっと害悪なのではないかという気すらしてくる。

 自意識というのは――そしておそらくはそれが生み出される原因ともなった言語というものは――あくまで他者とのコミュニケーションのために用いられるべき存在なのであって、というか他者とのコミュニケーションに用いるべき言語を自己にも適応した結果生まれたのが自意識という存在に違いない。それは文化的には非常に面白いものだと思うけれども、実用性ということを考えたとき、特に自己変革とかそういうものを考えたとき、マイナスに作用することがほとんどの代物なのだということを忘れないようにしておきたい。


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はらわたに秩序。

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