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着想のための読書は内容定着にも役立つ?

2010.02.21.00:50

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 先日、読書をしながら着想したことをtwitterにポストして書くともの凄く面白いよ!ということをブログの記事にしたのだけど、これはもしかしたら内容の定着にも大きな影響を及ぼしているのかもしれない。まだ2日しかチャレンジしていないので確信は特にないが、実際今日読んだ本は結構細部のほうまで印象に残っていたりする。

 エビングハウスの記憶曲線の通り、時間が経てばその細部の部分は結構忘れてしまうことも多いのだろう。でも多分次に読んだときに思い出せる質はやっぱり今までより高い気がするし、そもそも読んでいるときの質感がいつもと異なる感じがするのだ。

 多分これは読んでいる最中にアウトプットとして出そうと意識することで、細部の部分により注意深くなり、読書を一方通行のコミュニケーションと認識しないことからきているような気がする。また、アウトプットをしようとすると途中途中で今自分がそこから何を得られたのか自然に確認するようになっているから不思議だ。

 勿論他の要因も考えられる。今日読んだ魔女と聖女に関する本では途中字面を追ってるだけだと理解度が低いかなと思い簡単に映像化しながら読み進めたからそれの影響もあるのだろう。ともあれ、これからしばらくはアウトプット型の読書を意識しながら本と接していきたいなと思う。何よりそれが僕にとっては楽しい読み方なのだ。
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着想のための読書は面白い

2010.02.20.02:00

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 着想のための読書は面白い。

 僕の読書は一定周期で変わっていて、確か去年の今頃は読みながらマインドマップに書いていた。その前は本に直接自分の着想したことを書いていたし、去年の後半くらいからは面白いと思ったところに付箋を貼って、あとでブログで引用するついでにそこ等辺を見返すようにしていた。

 そんな風に実験的に読み方を変えるということをやっていると思うのだけど、自分を着想させる媒体としての読書、というのは一味違う面白さがあるのだなとここ2日くらい思う。
 大学が冬学期に入ってから、つまり12月くらいから、僕はあんまり本を読まなくなった。というよりは色々なことを言い訳に読めなくなったといったほうが近いのかもしれないが、それは今思うと僕が読書から着想させるための媒体、としての性格を少しずつ捨て去っていたことが影響していたのだなと今なら考えられる。あの当時は情報を抜き取って、それに対するリフレクションを行うということを主にやっていた。それはそれで読書のスタイルとして悪くはなかったのだけど、やはり自分に着想させる読書とは少し異なっている。

 自分に着想させる読書というのはつまり、その本を読むことで今まで自分が考えていなかった、あるいはまとまっていなかった概念が自分から自然と生み出されるような状態にさせる読書ということである。それはその本の内容を自分なりに噛み砕こうとした結果なのかもしれないし、そこから連想したアイディアだったりするのかもしれない。その動きは実際の対話におけるものと非常に似ていて、やはり読書に至っても対話スタイルで読んだほうがより意義深い時間を味わえるのではないか、と思う。まあ討論形式のクラスよりレクチャー形式のクラスのほうが面白いという人もいるではあろうし、やることによっては着想ばかりしていても仕方が無いということもあるので、これは完全に僕の好みと興味関心領域によるものなのかもしれない。

 ともかく、読書の面白さがよくわからない、という人はとりあえず自分がそこから何を着想できるか?という視点で読んでみると面白いかもしれないよ、ということだけはいいたい。着想ってどうやるのさ、と聞かれると僕も自分の意識を超えて出てくることなのでよくわからないけど、インプットを増やしていけば自然に出てきそうだとは思うし、念じていれば3日後くらいには自分が着想モードになっているかもしれない。とにかく、本とは知識を得るだけに使うものではないし、筆者の意見を批判的に見るだけに使うものではない。第3の、そこから自分が何を発想するかにも使うことが出来る媒体なのである。そして自分がそこから出てくるアイディアに多少なりとも驚きを感じたのであれば、そのアイディアが元のアイディアと指して変わらないものであっても、当人にとってはとっても大事なことなのだと思う。

わたくしにとって英語を話すということ

2010.01.27.18:45

英語。
その言葉はその概念は、僕がこの大学に所属している限りどこにいっても付きまとってくるものに違いない。

 うちの大学は3学期に分かれていて、最後の冬学期が始まったのが去年の12月の最初の頃だった。
なんだかんだで留学に行くことが決定した僕は「こりゃあそろそろ英語をやらなければなりますまい」と思い、ここ最近全然とっていなかった英語開講の授業をいきなり10単位分くらい増やし、さらに果敢なる行動力で特に自分の専攻とは直接の関係のないものばかりを取ってみた。「多分このくらいすれば開拓精神が養われて、アメリカでも僕は渡っていけるようになるのではないか」というよくわからない思いで。

 結論として---まあ結論といっても冬学期は終わってすらいないのだが---英語開講の授業で埋めておけば英語に対してどんどん自信がつく、というような簡単なオチにはなってくれそうにもないというのが僕にとっての現実だった。
 
「確かにリスニングの能力はそのままでも養われるかもしれない」
 僕はリスニングが本当に苦手で、今まで大体の会話を9割以上の推測でこなしてきた男だ。そんな僕が授業では依然としてよくわからないことが多発しているながらも、ある程度の成長は多分この1ヶ月程度でしたのかもしれない。
でも僕は別にリスニングを鍛えるためだけに授業を取っているわけではない。授業を取っている以上、日本語でしているように狙い済ましたような発言やら質問をしてみたいし、目立ちたがり屋精神を発揮して面白いことを言いたい。だけど、せいぜい僕に出来ることはなんとなく理解したような振りをしながら机に座っているだけ。
「養われるかもしれない」とか書いたけどいまだに理解出来ないときは本当に出来ないし、ましてやオプショナルで発言やらなにやらをするなんて考えられない。そう思っていた。


 しかし。 
 幸運にも、ここ最近何故かネイティブの人と個別で結構長い間、会話する機会が多くなってきた。
これはうちの大学に入ってから残念なことに初めての出来事であり、今までも多分やろうと思えば全然こういう機会は作れたのだろうけど、でも僕にとってはそれは遠い存在のように感じることであったのだ。

 そして話しているうちに気付いた。ああ、やはりここ最近僕が感じているフラストレーションは「満足にアウトプット出来ないことから来ているのだ」と。そしてまた気付いた。「ああ、ネイティブにも話しやすい人と話しにくい人がいて、話しやすい人とはとても会話がすすむのだな」と。


 日本にいる以上、日常生活における大部分の会話は日本語だ。やはり授業の中だけでしか英語を使わないということは(しかもネイティブばっかりで今一発言しづらいことと)圧倒的に量が足りなさ過ぎる。僕にとって、質にばかり目がいって量にあまり目がいかないというのは昔から続いている悪癖なのだけど、量を通さなければ自分にとってなにが適しているのかがわからないというのもまた真理なのだ。

 今までもネイティブの人と話す機会は多かったけども、僕はいつもそのときに焦りを感じていた。そして「勉強しなくちゃ」「もっとやらなきゃ」というよくわからない罪の意識みたいなのを感じてしまって、それきりそういう活動性を潜めてしまう、ということがよくあった(あれ、よく考えたらあんまりなかったかも……?)
 だけどそこで結論を僕の英語能力だとか、そういうのに帰結するには早すぎたのだ。いや、僕の英語運用能力に問題があるのは疑いようもないのだけど、それを気にせずにあまりある楽しさを共有できる人間がいるはずなのだ、ということを僕は忘れていた。

 人間はやっぱり当たり前だけど人それぞれで、それならば一人当たってみて難しさを感じても他の人にすぐぶつかれる精神性を持つことはとっても素晴らしいことなのだ。


 今日はそんなことを思わせる出会いがある日だった。まあ言いたいこととしては日常で英語使って楽しく会話することって大事だよっていう普通の一般論なんだけどね!

去年の読書を振り返ってみて

2010.01.22.18:03

 最近のこのブログはほとんどただの読書日記といってしまってもよいくらい僕が何を読んだかばかり書いていたのだけど、
今ちょっと冷静になって振り返ってみると1年の読書日記目標である365には届かず、300にも行かなかった結果になった。

 正直365は僕が数日以上サボることを含めてもかなり甘く設定したほうだったので、
行かなかったのはちょっと意外なところ。
原因はでは何か、と考えたところ、やはり僕の気まぐれさというか、何日も何も読まない日が出来てしまうことにあると思う。

 本を読むか読まざるか、というのは結構その日の気分によって、そしてその直前の習慣によって決定されていることが多いように思う。
僕が本をごりごり読んでいたときは結構差が激しくて、読む日は3~5冊読む、読まない日はまったく読まないという形になっていた。
ONとOFFがしっかり出来ていて良いといえば良いのだけど、ただOFFの怖いところはそれがだらだら続くと読書習慣自体がおざなりになってしまい、しばらくぶりに本に目を通したらその疲れ具合に愕然となるということがあげられる。それは丁度今の僕のように。

かといってまったく本を読みたくないときは本当に読みたくないわけで、こんな風に10日以上何も読んでいませんみたいな状態を作らないようにするためには、どこかの場所に対しての条件付け、そしてその場所に自分がちゃんと訪れるかの設定をよく考えたほうが良いのだと思う。

思えば去年は前半のほうが圧倒的に本を読むペースが早かった。
これは去年の後半から読む本の内容がだんだんとアカデミック方面にシフトしていった(比較的、という意味で……)というのもかなり影響は及ぼしているだろうけれど、
それとは別に去年の後半から僕が友人とルームシェア、という形で大学の近くに住むことになったというのが大きいと思う。

以前の僕は電車の中が主な読書時間だった。
電車の中で僕にすることは他には睡眠くらいしかなかったし、電車の時間以外はあることに結構きつく拘束されていたので、その切り替えがうまく出来たのだと思う。

しかし電車=本という動機付けが引越して以降、うまく働かなくなってしまった。
こうなったとき、僕が取るべき行動としては「あらたに場所と読書をリンクさせ、そしてそれは自分が毎日関わる場所にすること」ということを考えるということだったのだけど、今まで特に意識することなく読書に励んでいたためそれを怠ってしまった。
そういうような背景があって、現在の僕はあまり本を読まなくなってしまったのだと思う(まあ冬休み明けてから気が抜けているというのもありますが)。

とはいえ、せっかく本が早く読めますよーとか自己主張をしているので今年も本はもりもり読んでいきたい。目標読書日記数500超えくらいの勢いではやっていきたい。
あと、別に僕はよく考えたら読書日記をつけたくてこのブログを始めたわけではなかったので、これからは読書以外のこともどんどんと書いていきたいと思う。

今年も皆様よろしくお願いします。




頭が良くなるということ

2009.10.25.15:51

ここ数日、急激に頭が良くなったような気がする。

頭が良くなったといっても、外部的な指標でよい点数を取ったとか、人から褒められたとかそういうことではない。ただ単に、自分自身をそう評価できる程度に、内的なところで変化があったような気がするというだけだ。

でも1つの物事を感じるときに受けるインプットの量があからさまに変わったし(少し一瞬の時間を遅く感じる?)、比例してアウトプットの量も半端なく上がった。今までアイディアの種みたいなのを書いていたメモ帳は1日に半ページ、良くて1ページぐらいしか進まなかったのに、今日はもうおきてから見開き4ページ分くらい埋まってしまっている。そして何より人生が楽しくて仕方ない。ハーレルゥーヤ!ってまさにそんな感じ。我ながらちょっとウザい。

夏休みのトレーニングが終わったあと、割と僕は自堕落に暮らしていたのに何故いきなりこんな変化が起きたのだろう。夏休みのトレーニングが段階的に効いてきた、というのももしかしたらあるかもしれないけど、むしろ僕の生活に心地よい程度のストレスが最近あるからなのだと思う。それが着火の鍵であり、トレーニングはその炎を大きくするガソリンのようなものなのだろう。火がなければガソリンはただの匂いのする液体なのだ。

僕はその人の性質が内在していて無条件にいつでも引き出せるもの、というようにはあんまり考えていない。なのできっとこの覚醒モードみたいなのもちょっとした拍子に影に隠れてしまうということもあるだろう。頭が良くい続けるということは、つまるところそのときのような環境に居られ続けるかという環境構築能力と言ってしまっても良いだろう。僕はここ最近、確かに正しいライフスタイルを送り(二度寝とかは結構しているけど……)義務を果たし、つまり自分で作った約束を守り、豊潤な思索の時間が取れ、そこから生まれた考えを発表し、いくつかのフィードバックを受けている。むしろ、それらによって頭が回る状態でいてもいいのだ、と許されたように感じているのかもしれない。人生にはいかなるときも許しが必要なのである。

このような環境をいかにこれからも構築していくか?
これは何も外部環境を整え続けることだけを意味しているのではない。内部環境さえ十全であれば、外部環境がいかように変化しても乗りこなすことが出来るのであるのは無数の先人たちが証明しているのだから。ただ、未だ外部環境に大きく依存しているような状態であれば、自分にとって適切な外部環境を構築していく傍らで、内部環境を意識的ないしは無意識的に整え続け、最終的にはどんな外部環境にも動じない人間になることが望ましいのだろう。そして、それは外部環境という”親”からの真の巣立ちなのだと思う。親離れというのは直接的に肉親だけをさすのではなく、それまで当事者を包み込んできた環境からの巣立ちすらも意味する。

いずれにせよ、ひとまず今は覚醒モードを楽しんで、素晴らしいものを吸収しながら色々な形でそれを表現していきたい。
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はらわたに秩序。

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