スポンサーサイト

--.--.--.--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

対話408 James G Kelly, Anna Song "Six Community Psychologists Tell Their Stories: History, Contexts, and Narrative"

2011.12.23.10:31


My understanding of psychology as a discipline was more integrative than the reality of the field .
(p.90)


 「心理学」という言葉は非常に多くを含みすぎているし、何より一般的に心理学という言葉から想像されるものを含んでいないことがままあるということは、心理学を専攻しようと大学に入った学生に訪れるひとつの典型的な症例だ。

 とくに「科学的」でないポップ心理学みたいなのに興味があって心理学をうっかりやろうとした人は、とりあえず大学に入ってその性根を叩きなおされる。特に関東では心理学が科学性を標榜する傾向が強いとかどっかで聞いたことがあるけど、大小あれどその傾向は全国共通だろう。科学性の上に乗らない心理的なところはすべて文化に回収される、ということを多くの高校生は知らないし、実は文化と名のつく多くの授業でもそれらは扱わないということを知らないのだ。

 とはいえ、ポップ心理学で扱われているような領域は普通に面白い分人口に膾炙するので、それを単純に否定するというだけではなく、文化的に考察を加えて、どのような距離感を保つべきかをきちんと教えるということはかなり重要だと思う。というのも、「あれは非科学的なので信用しないでくださいね」といっても、たとえばある占いを強く信じている人にその言葉は届かないかもしれないし、それがなぜ効果を及ぼすのかについて、プラシーボやらなにやらが効いているだとか、そういうことを、もっと真剣に伝えてその価値を検討するべきなのだ。

 心理療法でも実験でもない部分でも、つまり臨床心理学でも実験心理学でもない部分での心理学。そしてそこでまことしやかに使われているスキルのうちの少なくないものが魔術的だったりするわけだけど、そういうものに、それを取り巻く世界観やもっと引いた行動科学的な視点からの考察を考慮に加えた上で、触れ合う機会を持つことはいろいろなものにエンカウントする現代社会において必要な態度なのではないかと思う。自己防衛的な意味でも特に。



more...

スポンサーサイト

対話406 ティク・ナット ハン 『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』

2011.12.23.01:53


だれかが私たちの悪口を言ったとき、もし相手がなぜそのようなことを言うのかわかっていて、その言葉を深刻に受け取らなければ、こころはまったく動揺しません。こころにしこりは生じないのです。しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解できないでいらだってしまうと、こころのなかにしこりが生じます。
(p.81-82)


 理解というのはなかなか暴力的だなといつも思う。そしてその暴力性の自覚があるとき、理解というのはもっと暴力的に用いてもよいと認識されるべきだと思う。

 理解というのはすごくアートだ。というか、アートな理解とサイエンスな理解があるかなというのがなんとなくの実感なんだけど、意味深いレベルでの理解はすべてアート。そして理解というのは上記の引用にあるような、問題の(自分の中での)解決とかにつながる。それをいかにうまく成し遂げるか?というアートは、いわば自分をうまいことだますテクニックみたいなものだ。

 ただ、前述したように、大事なこととしてそこに自覚性がなければいけない。アートということはすなわち遊びなのだから、そこを見失ったときにそこから抜けることができなくなってしまう。アートは恣意性であり、恣意性だからこそ価値があるのだ。時にはパートタイム的にそれに没入することもあるだろう。その場合でも、何か自分の体に帰ってこれるような紐のようなもの――それは友人かもしれないし条件付けかもしれない――をまきつけておくことが大事だ。

 もちろん、自覚性を持っている、と思うこともひとつの罠だ。ミイラ取りがミイラになる、というのは非常によく起こることだし、その点を含めての自覚性、というかシステムの構築が肝要なのだろう。



more...

対話405 島薗 進 『新新宗教と宗教ブーム』

2011.12.23.01:12


 ワヤンというのは英語が話せるバリの呪術師で、来日したとき二週間いっしょに生活し、その霊感や生活態度に感銘を受けた。彼が帰国した晩、伝授された瞑想を一人で実践すると、指先がビリビリする、失神するなど初めてのことが起こった。気持ちはいいし、気分は落ち着くので、それから毎晩瞑想するようになった。、一瞬間ほどして、バリの最高神のビジョンが見えるという神秘的な体験を得る。しばらくして今度は、すごい恍惚感に包まれる体験がある。
(p.59)


 神秘主義の反省するべきところを端的に述べるのであれば、体験を絶対視するところだ。

 「体験したのだから信じるしかない」っていうのは結構こういう怪しい世界にタッチしていると頻繁に聞くことだし、実際そういう人たちの中には「もともとすごく懐疑的だったけれども、実際に効果があった=それは真実である」という図式を持ち出す人がとても多い。

 そこに足りていないのは、「各個人の中において、真実はいくつも屹立しうる」ということである。
なるほど確かに効果があったかもしれない。ある世界観はその現象をうまく説明するのかもしれないし、あるイメージなりモチーフはそれに影響を強く与えるのかもしれない。世界観を受け入れることでさらにそのテクニックは強化されるのかもしれない。

 だけども、ある世界観がある現象をうまく説明できたからといって、そのほかに説明する方法などいくらでもある。たとえば宗教的な説明があったとして、そのほかに生理学的な説明がある。あるいは社会心理学的な説明もありそうだし、その技法と臨床心理上の技法で似ているものがあるかもしれない。

 ようするに、問題となるのは「真実(と感じられるもの)は1つとは限らない」ということを知っておくことである。僕は何もたとえばある世界観が絶対に誤っている、などというつもりはない。主観的な世界の中ではどんな世界観であれ真実足りうるし、またそれは実利的な性格すら持っている。実利的な性格を持つものを無碍に否定しても効果は薄いし、その世界観に対する尊厳が足りないとすら言える。だけども、真実はいくつでも開拓できる。それが科学的といわれているものであれ疑似科学的といわれているものであれ宗教的といわれているものであれ世俗的といわれているものであれ、何か説明能力が高いと思えるものはすべて真実であり、違いがあるとしたら真実色のグラデーションの違いである。

 この点を認識していない神秘主義は非常に危険だ。そして強調すべきこととして、しかしその神秘主義者の体験を無碍に否定しようとがんばる外部の人間の行いも同様に危険だ。というか拙いし幼い。

 大事になってくる態度は、そこにあるいかなる(広い意味での)合理性を認めようとする、超合理主義者(もうこの言葉はフッサールがもう使ってるけど)的な態度なのではないだろうか。そこのところどうでせう皆様方。



more...

対話403 マハーシ長老 『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』

2011.12.22.14:40


 逆に、念と智慧が突然、速やかに活発に進歩して、修行がうまくいくと、
「まもなく智慧が一段上がる」
と期待し、喜びます。
そのため、修行が後退してしまうこともあります。
(p.113)


 期待することでその進歩が止まってしまう、ということは別に瞑想に限らず結構頻出するような気がする。

 期待とはすなわち自意識の表れだ。自意識とはすなわち健在意識であり、僕らは健在意識にかかわるものはいまいちなんか信用できない気がするし、だから直感とか占いとか、自意識を超えたところにあるものを信じるような傾向にあると思う。

 自意識はすなわち「限定条件つきの観察者」みたいなものだと認識されているけど、自意識ってスムーズに流れている人生に一つ歯止めをかけちゃうし、語弊を恐れずにいれば一種の病みたいなものなのなんじゃないか?

 別にだからといって「自意識を滅却するべき」みたいな方向に行く必要はないしちょっとそれはやりすぎな気もするけど、ただその「観察者」たる自意識が、人生がうまくいっていないときにうまく方向転換する礎になるかというと大して役に立っていない、むしろ悪化させているっていうケースは多い気がするし、そもそも直感が自分自身の体から出た声なのだとすれば、直感を鈍らせるような自意識の存在はちょっと害悪なのではないかという気すらしてくる。

 自意識というのは――そしておそらくはそれが生み出される原因ともなった言語というものは――あくまで他者とのコミュニケーションのために用いられるべき存在なのであって、というか他者とのコミュニケーションに用いるべき言語を自己にも適応した結果生まれたのが自意識という存在に違いない。それは文化的には非常に面白いものだと思うけれども、実用性ということを考えたとき、特に自己変革とかそういうものを考えたとき、マイナスに作用することがほとんどの代物なのだということを忘れないようにしておきたい。


more...

対話402 清野 智昭 『ドイツ語のしくみ』

2011.12.22.14:26


 精神分析の始祖とも言えるフロイトは、自分自身で捉えられない無意識の世界をEs「エス=イド」と名づけました。こうしてみると、esを使った表現が段々と少なくなっているのは、ドイツ語という言葉が無意識なものよりも人間の自我を前面に出す表現を好むようになって来たからだと言えるのではないでしょうか。
(p.121)


 言葉がその文化の人たちに与える影響って果たしてどのくらいなのだろう?という研究を行っているのはおそらく認知言語とか認知心理学らへんなのだろうけど、その中でも主語の構造が与える影響ってのは体感レベルであるなあと思えるので、上記の引用に関しても自分の経験と照らし合わせてなかなか興味深く読んだ。

 というのも、結構日本語で「僕」とか「俺」とかつけるとなんか目障りというか、「この人自意識過剰じゃね?」とか思ってしまうし、「僕」という単語をものすごく使うtwitter上では他の人から「僕僕うっせよwww」みたいに突っ込まれることも稀ではない。

 なんか、僕とかそういう単語を最初にもっていくことで、自分のことを語る蓋然性が高くなるのではないか、もしかして?

 だからたぶんアメリカ人が自分語りとか多く感じる(少なくともそういうステレオタイプがある)のも、いちいち文頭に主語を持ってこなきゃいけないあの言語的構造に起因しているのではないだろうかとか、そういうことを妄想した一日の始まり(もう昼だけど


more...

twitter
プロフィール

×÷

Author:×÷
はらわたに秩序。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。