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対話335 ポストイットされた空間

2010.07.07.06:04




個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 人にはそれぞれ、時間密度の高い場所、高い時間帯があります。
 私の場合、それは朝のバスルームであり、タクシーの中であり、近所のスターバックスです。(p.176)


 最近、空間のデザインだとか、その空間が持つシンボル性についてものすごく興味関心意欲が高い。
たっかたかたかたかたかたかたかた高い興味関心意欲態度を空間のシンボル性に対して持っている僕は、自分の部屋でまともに学習することがいかに難しいことかということにちゃんと気付いている。

 僕の部屋の中で今まで行ってきたことを考えればよい。
僕は今までほとんど自分の部屋でまともなことをしてこなかった。
これはすなわち自分の部屋に対して「まともなことはしませんよ」というラベリングを貼っていたということになる。何年も、何時間何分何秒かけて、丁寧に丹念に「この部屋ではまとも以外のことをするのですよ」ということを自分の身体に刻みつけてきたのだ。
 そんな僕が、その怠惰の象徴である実家の自室に帰って一体何をすることがあるというのだろうか?答えは絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた怠惰そのものである。多分僕の部屋には怠惰の象徴であるベルフェゴールが大量に住んでいるに違いない。嫌な世の中になったものです。

 反対に、自分が一番作業効率がいいのはどこか思い浮かべてみると、それは圧倒的にカフェである。なんだかちょっぴりおしゃれな横文字を使ってしまって少し申し訳ないのだけれど、事実一番効率が良いのだからしょうがない。
 今思えば昔昔、現在よりさらに尻が真っ青かつ顔面蒼白だった時代の僕は、カフェとかで高い金を払って勉強する人のことを信じられない人だと思っていた。正直軽蔑していたといっても過言ではないし、特にスタバなどバカ高い(当時基準)ところで勉強している人はどこの貴族階級のブルジョワジーたちなんだろうと思っていたりもした。怒れる庶民であった。

 今でもスタバが高いという指摘は持ち続けているわけなのであるが、僕のカフェに対する見識はしかしながら今になってすっかり変わってしまった。哀れな僕はついにおしゃれマジョリティに屈するという結末をたどり、しかし作業効率自体は上がっているので特に後悔はせず、ニュー速民っぷりの手のひら返しを披露しながらカフェに足しげく通っている。すでに僕にとって、カフェ=勉強をする場所というラベリングが貼られているのである。

 自分は今まで環境に対してどのようなラベリングを貼ってきたか?それは剥がせるものなのか?剥がすべきなのかそうではないのか?そこらへんのことを考えると、僕の世界には色々なものが貼りついていて、こびりついているのだなあと思う。多分貼ったことをずっと忘れてしまっているようなものは、ノリがすでにべっとりとくっついていて、今はがそうとしてもなかなかうまく剥がれず汚い痕が残ってしまったりすることもあるのだろう。人生にはイソプロピルアルコールによる塗装剥がしが必要。

対話331 物質の完全なる停止はその質量を無限大にする

2010.04.25.13:57




朝日新聞社 『仕事力 青版』

個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


自分を追い込むような勉学や仕事を続け、乗り越えてきた人は見るからに集中力が違い、問題や新しいアングルを発見する力が違いますその厳しさがあなたの仕事を面白くするはずです。(p.191)


 僕は、今まで余熱で生きていたような男だった。

 というのも、やはりそれは自分にとって楽で、無理のない生き方であったからだと思う。
今までなんだかんだ、そこまで大した努力もなく生きることが出来てしまっていたというのが一つの要因だ。
そう書くとちょっと偉そうに聞こえてしまうかもしれないのだけど、事実僕は何かに真剣に打ち込んだことはない。自分を追い込むようなレベルで、何かをしたことなんて経験にないのだ。まぁ、中学生の頃のカードゲームに関しては確かにのめりこんでいたともいえるけど、その時も別に自分を追い込むことはしていなかった。

 自分を追い込むことは多分、一つのギャンブルなのだと思う。
最近いろいろな団体の活動をしているせいでちょっと追い込まれることが増えてきたのだけど、そういうときにそれを痛烈に感じる。
ここを乗り越えたら多分大きなリターンがあるのだろう。
だけど失敗してしまったらもうそれでご破算。
ふつうのギャンブルとの違いは、すべてが運任せなのではなく、ある程度自分がコントロールできる(と思える)というところだろうか。

* * *

 余熱で生きていた僕がなんらかのリスクテイキングをして、自分を追い込むのも悪くないなと思ったのは友人からの影響だった。

 彼は僕なんかよりもはるかに凄い人で、でもそんな凄い人にも今まで自分を追い込むほどの努力と苦難が連続していた。
彼はつい昨年ほど一つの大きな苦難を乗り越えて、より大きな魅力を出すようになっていた。
余熱でもそこそこ生きることが出来た自分にとって、それは確かに衝撃だったのだろうと思う。
彼は別に余熱で生きることが出来るだけの能力は十分にあるのに、それでもなお自分を追い込む場に身を投じて、魅力を放っている。
自分もそういう場に身を置くことが出来たら、とそこから次第に思うようになっていった。

* * *

 僕の今やっていることがはたして本当にプラスに働く形での追い込めなのかはわからないし、それが自分の将来にどうつながるかもいまいち見えてはいない。
けれども、自分を追い込むというスキルはもっと開発しても良いと思うし、自分の体を壊すことを過度に恐れていたら長期的に失うものもきっとあるのだろう。
僕は心理学を学んでいる手前、オーバーワークをするということを非常に毛嫌いしてきた。そんな僕だからこそ、多少やりすぎるくらいのほうがもしかしたら丁度いいバランスを保てるようになるのかもしれない。

 精神と肉体のバランスを壊滅的なレベルで壊さない程度に、ちょっと自分を追い込むような環境に身を投じたい、と思う。少なくともこの年齢のうちは、ね。

対話327 現代における教養とは何か

2010.04.19.00:21



山形 浩生 『新教養主義宣言』

個人的読みやすさ:C
読書時間:30分


 ……いかがですかなお殿様。なかなかいいエンディングだろう。もちろん人生はマカロニウェスタンではないんだけれど……いや、どうかな。ただ、そういうエンドマークのつけかただって、ひょっとしたらあるかもしれないんだよ。(p.112)


 新しい時代の教養とは何か、ということは結構個人的に大きな関心ごとの一つだ。
僕は一応教養学部に通う学生なのでそれはある意味当然のことなのだけど、
ネットやリアルではしばしば「教養の意味」みたいなのを問われることが多くて、
そのたびにいろいろと考えさせられている。

 人によっては「そんなのいらねーよバーカ」みたいな人もいるし、あるいは反対に「日本は専門ばかり育ててて、専門バカ集団しかいないじゃねーかターコ」みたいな人もいる。

 僕のスタンスはどちらかというと後者、というか、僕はいまいちプロフェッショナルになろうと思えない人間だ。
たとえば僕の一応の専攻である心理学にしても、僕が魅了されるのはむしろその学際性であって、ついついそちらの側面にばかり引きずられ、いろいろと中途半端になっているというのも否めない。
 理想としては一つの専門を持ったジェネラリストである、ってどっかの文章で前読んで深く納得したのだけど、
あんまりジェネラリストでいようとすると僕の場合専門がかけ消えそうになるので、バランスをとるためにもう少し何かを集中してやったほうがいいのかもしれない。ふむ。

 ではさて何が教養なのか?という僕としての回答なのだけど、この間取った授業で教授がいいことを言っていたのでそのままパクって載せてしまおう。

教養とは英語でいうとリベラルアーツであり、その人の知的な不自由に対して自由をもたらすもの。


 なるほど、というアイディアである。リベラル(自由)というのはつまり知的な不自由からの解放を示しているのか、と僕はその時結構ふつうに感動した。うまいこといいやがって!

 そう考えてみると、確かに教養を学ぶということはそういうことなのかなという気がしてくる。
その対象についての多くを知っているわけではなくとも、そのコンテクストくらいは共有できる。
その態度と、その態度を形成する上で必要になる知識みたいなものを教養と呼ぶのであろう。

対話326 私が死にたいと切望したとき

2010.04.17.08:16




浅野 弘毅, 岡崎 伸郎 『自殺と向き合う』


個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


「死にたい」は「生きたい」だ。アンビヴァレンスなどはない。概念の場を誤った誤認だ。後者を聴くには前者を聴かねばならない。(p.143)



 対話というよりはインタビューに近い読書第4弾。
僕が関わっている団体の勉強会の都合で、1日で6冊を読んでパワポにまとめた日があった。その時のうちの一冊。

 僕がその時読んだ本の中では比較的カジュアルという印象を抱いた。正確にいえばカジュアルな文章も含んでいる、といったほうが正しいか。
 もう本を読んだときから悠久の年月が流れ(てはいないが)、そろそろこの本に書かれていた特有の内容も思い出せなくなってきたので、ここはひとつ僕が死にたいと思っていたときのことをエッセイ的な感じで書いてみようと思う。


 まずはじめに、現在の僕が「死にたい」なんて思うことはまずない。
今でもそう口にすることはあるけれど、そういうときの自分の言葉にはパンチはまったく聞いていなくて、所詮適当に言っているだけである。最近はむしろそういうときですら「死にたい」なんて口にしないようになっていて、我ながら「死にたい死にたい」病からは完全に抜けてしまったなあとすら思う。

 そもそも僕はかなりのオプティミストだ。これは昔からその傾向が変わっていなくて、ある意味何も考えていないというだけなんじゃないかとすら思えてくる。
オプティミストであることをたまにしんどいと思うときもあるけれども基本的にその立場は崩したいとも思わないし、今更崩せるものでもなくなってきた。
 友人もオプティミストの友人としゃべっているときのほうがなんだかんだ話が合うことが多いしね。
もっとも、オプティミストが集まって会話をするとすさまじい空中戦になることもしばしばなのだけど。

 だけれど、そんな僕にも「死にたい」という言葉を当人なりにはまじめに呟いていた時期があった。
それは明確に中学生の入学時期らへんだったことを覚えているので、単なる流行り病だったのかもしれない。
でもとにかく、あの時の自分にとっては非常にシリアスな出来事だったのだ。

 今の自分の立場から考えると、なぜそのような考えをとっていたのかまったく体感的には想像がつかない。
その原因推測などは別にいくらでも述べられるのだけど、僕がなぜあの頃死にたいと思っていたかなんて本当にどうでもいいことだし、別にそれは僕を体感レベルでゆすったりはしない。今さら。

 そういうとき、僕が考えるのは、あの時の自分という人格は確かに死にたがっていて、そして実際に死んでしまったのではないだろうか、ということだ。

 人間は、その人格レベルでは本当に良く死んでいるのではないかと思う。人格というと全体が一気に崩れるイメージを与えてしまいそうなのでもう少し正確にいうと、その死滅は細胞の死滅に良く似ているのではないだろうか?
 段階的にゆっくりゆっくりと死んでいき、数年後には別の細胞に入れ替わっている。
それは体感的にはあまりわからないことだけれど、しかし細胞レベルで見れば明確な違いなのだ。

 きっと僕が持っている人格の細胞も、少しずつ新陳代謝が働いて、あの頃とはとっかえひっかえ別人のようになってしまったのだろう。不要と判断された人格の細胞は徐々に消滅し、自分に都合がよいと思えた細胞に入れ替わっていく。

 人生というシステムの中でこれがこれから何回繰り返されていくのか、今の僕にはあまりピンと来ない。しかしとりあえず今思うことは、人格の細胞が消滅する際に、新しく生まれる人格の細胞は「そのとき最も自分に都合がよい」と思える細胞だということだ。
 きっと今の自分の強調されたオプティミストっぷりも、いろいろな思考プロセスを得て自分の中で重要と選択されたからこそ生みだされたものなのだろう。
 もしペシミズムが最適と判断されていたとしたら、多分僕の人格細胞はペシミズムが大部分を占めていたに違いない。
ペシミズムが自分にとって都合がよいということは往々にしてあるのだから。

 だからこそ、自分が何に都合のよさを感じているのか、その点をメタ認知するということは本当に大事なことになっていくのだと思う。
 人格の細胞はいずれ消滅するが、新たに生まれてくるその細胞には意思の力を持って方向付けをすることができる。
その仮説が合っているか僕にはわからないが、とりあえずそう思うことで自分を認識することの大切さをかみしめ、自分の成長に一定の方向付けを促していきたいなと強く思う。

対話324 あなたには師匠がいますか?

2010.03.30.05:54




岩月 謙司 『女は男のどこを見ているか』


個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 人のウケをねらって、期待される人間になるとうするのではなく、自分が気に入った人の真似をしてみるのは、実は、自分らしく生きるための一つの重要な方法です。
 なぜ、師匠の真似をすると自分の個性が出てくるのでしょうか。
 ポイントは、自分の気に入った師匠というところです。気に入らない師匠の真似をしたのでは、自分の個性は発掘できません。気に入っている師匠というのは、自分の美学と似ている、ということです。似ているから惹かれるのです。同じ美意識を持っているのです。それゆえ、「自分の気に入った師匠」は、自分の美学を刺激してくれる人なのです。自分の美学というのは、自分の個性そのものです。自分の個性を刺激してくれるから、最後に個性が飛び出すのです。(p.168)


 うちの大学の性質上というべきかどうなのか、結構最近女性と接することが多い。それで色々と失敗したりなんだかんだあるわけで、ちょっとこういうときにどう振舞うべきなのか、どういう信条を持つべきなのかということが気になってしまって、でもそういうのって男の性だししょうがなくねっていうか、だからまあそんなこんなで本書を手に取ったわけです。我ながら言い訳がましいな。

 残念ながら本書の80%くらいは本題に関係ないただの自己啓発だったことは否めなくて、これってふつうにタイトル詐欺ではないかと僕は思うんだけど、ただ引用部分に関しては一つ思うことがあったのでそれを書いてみたい。

 師匠。今まで僕は何か専門的なことに関して、師匠と思える人を持ったことがない。特に技能的な事に関して。

 尊敬する人なら何人もいる。彼らは時に僕より年下だったりするし、同学年の仲間であったりするし、年上の社会人、はたまた実際には会ったことのない著者だったりもする。僕は彼らに影響を受けているし、彼らの存在は僕の世界観を形成するのに非常に大きな意味を持っている。そういう意味では、僕の個性形成の意味での師匠は大勢いるともいえる。

 ただ、何故か技能的な面での師匠というとあまりいない。これは何故だろうな、と自問する。守・破・離の思想が大事だと理屈ではわかっていながら自分のやり方を否定されることがいやというナイーブな理由からそれが由来しているのか、それとも僕がなんらかの技能を極めようと本当に思ったことがないからなのか。いくつも理由は考えられて、多分それの全てがその理由なのだと思う。一番大きいのは、なんらかの技能を極めようと本当に思ったことがない、というのがあるような気はするのだけど。

 では何故なんらかの技能を極めたい、と思ったことが僕にはあまりないのだろうか。
一つには、誰もやっていないことを自分の技能としてもっている、あるいは持ちたいということが考えられるだろう。たとえばイメージストリーミング。たとえばヴィパッサナー瞑想。たとえばフォトリーディング。たとえばマインドマップ。ここに挙げたものは後者にいくにつれ出来る人の数が増えていくと思うけど、でも絶対数から考えればこれらのスキルを身につけている人はあまりいないと今でも思うし、ましてや僕の属しているようなコミュニティにおいてはよりそうなのだろう。

 そしてそれは極めることからの逃避、とも受け取ることが一つには出来る。誰でも知っているような分野で、あるいは社会的な公認を得ているような分野で、トップを極めようとすることはなかなか難しいことだ。それに参加するためにはレースに参加することが必要だし、その際には師匠と呼ばれる人が絶対に必要になる。でも僕は多数の参加しているレースには今まであまり参入しようという気がなかった。大学にしてもそうだし(うちの大学を受ける人はやっぱりマイノリティなのだ、受験生の中では)、学ぼうと思っていることにしてもそう。多数の中にいるよりも、誰もいないブルーオーシャンに生息したい。それは確実に僕の一つの強い願望だ。ただ、最近この考えにもある種の変化が出てきたのだけど、それは今回の主題とはずれるのでまた違う機会に書くことにしよう。


 ただ、べつに僕は常にそういうスキマ産業を狙ってきた、というわけではないな、とここまで書いて思い出した。しょうもない例で申し訳ないが、僕が遊戯王カードにはまっていたときは結構本気で全国大会などを目指した瞬間もあったし(残念ながら地区予選の決勝で負けてしまったが)、あの時は授業中ですら遊戯王のデッキ構築などについて考えていた。しかしそのときも特に師匠と呼ぶべき人は特におらず、もっぱら書籍やネットの情報が主であり、あとは自分での実践を重視していたきらいがある。あのときに誰か師匠的な人がいたら僕の成長はより加速していたのだろうか?

 いずれにせよ、自分にとっての師匠探し、というのは今後の大きなテーマの一つになりそうだ、という予感がビビっとする。
 自分のやっていることに関連したこととしてはイメージストリーミングの創始者であるウェンガー博士などにも来年当たりお会いしに行く予定だけど、それ以外にも研究のこととか、読書のこととか、一回体系的に身につけてみたいな、と。

 しかし僕は読書メモにかこつけて自分の話ばっかりしてるな、と書いてからすごい思った。
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はらわたに秩序。

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