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対話375 池上 彰 『伝える力』

2011.09.17.20:51




読書時間:20分
個人的読みやすさ:A


何かを調べるときには、「学ぼう」「知ろう」という姿勢にとどまらずに、まったく知らない人に説明するにはどうしたらよいかということまで意識すると、理解が格段に深まります。理解が深まると、人にわかりやすく、正確に話すことができるようになります。
(p.22)


 「誰か」の視点を意識してなって物事を見るということは万能のスキルであり、ある意味学習の本性でもある。

 以前、僕には「外国人になりきったつもりで街を歩いてみる」という習慣があったんだけど、これをしたときに見える街の斬新さは非常に面白い。
 受け取れる情報量が格段に高まるし、そこでは何か変な意味づけが発生したりもする。

 上記の引用にあるような、何かを発信する際に自分が受信する側になりきってみるというのも非常に有効であるだろう。
僕は残念ながらあんまり今のところ自分の書いたブログをちゃんと見なおすという習慣がないんだけど、これもたとえば渋谷らへんにたむろしてそうなギャルの気持ちになりきって文章を見なおしてみれば、その読解難易度の下落は凄まじいものになるだろう。まあギャルの気持ちになりきったらそもそもこんな文章は1行目から読まなそうだけど。

 
 叱るのは、あくまでも「一対一」を原則とすべきです。
(p.84)

 その際には、私の実感としては、キーボードで打ち込んでいくよりは、鉛筆やペンを使って手で書き写していくほうがより勉強になるような気がします。
(p.108)

 自分で書いた文章を客観的に見るためには、音読してみることも効果的です。
(p.129)

 Aの視点は、○△鉄道会社にあります。○△鉄道会社を守護にするということは、○△鉄道会社が言いたいことを伝えていることになります。○△鉄道会社の主張を代弁しているとも言えます。これでは、視聴者の心に響きません。
(p.155)

 話し下手、プレゼンテーション下手なビジネスパーソンは、落語を聞いて見るのも、一つの方法でしょう。
(p.194)

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対話364 荒木 飛呂彦 『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

2011.08.21.12:41



読書時間:30分
個人的読みやすさ:B


 また映画を作る時には撮りたいシーンを先に考えてから、そのシーンに合わせて物語やプロットを作っていくとも話してくれました。「ストーリー全体を元に演出していくのではなく、シーンが生きるようにストーリーを作っていく」のだと。
(p.47)


 『ジョジョの奇妙な冒険』のことを僕が大好きなのは言うまでもないが、その作者である荒木先生のことが大好きなのもこれまた言うまでもないことであろう。僕はあまりホラー映画をよく見るほうではないのだが(意訳:怖い)、荒木先生が書いたものならたとえホラー映画に関するものでも「まあ仕方ない、僕もついにホラー映画に手を出すときが来たのか……」という沈痛な面持ちで読むことも出来るのである。

 いくつかもう既に見たホラー映画の中で、僕が気に入っていたものが荒木先生もお勧めされていてこれが実にうれしい。具体的には『シックス・センス』と『アイデンティティー』なのだが、これらは両方とも最後にどんでん返しがあり、またその不思議な、というか不可思議な世界観はどこか開始直後から怪しげで、「これはなんなんだろう?」と思いつつも、結局その世界に引きずりこまれることになるので感覚としては夢に近い。夢にきれいな落ちがついたみたいな映画だなと思う。

 僕は普段あまり映画を一人で見ることが今のところないので、ここで紹介されている映画を見始めるのがいつになるかはわからないところだけど、紹介の中にあったうち、自分の感性にびびっと来たものに関しては年内くらいには観たいな。

対話345 池内 了 『疑似科学入門』

2011.06.18.16:48




個人的読みやすさ:A
読書時間:30分

 第一種疑似科学とは、人間の心のゆらぎにつけ込む「まやかしの術」である。「科学」と名付けるのはおこがましいのだが、心理学の大正と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう。これは、占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系に三分類できる。(わざわざ「疑似」宗教としたのは、後に述べるように宗教の名を借りた詐術であるためだ。)いずれも、人間の精神領域に関わるだけに、いったん嵌ると抜け出すのが難しく、治療も困難という共通点がある。また、引き込もうとする側は人間心理の盲点をつく手法に長けており、被害者は意識しないまま(被害と思わず)深入りしてしまうことも共通している。(pp.3)


疑似科学は僕も関心の強い分野の一つである。
一つである、というか実際のところ表彰としての現れ方に差異あれど、その辺は大体自分内部ではつながっている。
すなわち、人間の信じる心が生み出す現象に僕は興味がある。
それは一時期嵌まっていた『うみねこ』の主題でもあるし、実際心理学や諸学問においても「プラシーボ効果」などといったラベリングでおなじみだと思う。

 だからこそ、僕はその点に対してはより深く考察を行いたいし、さまざまなデータを集めたいと常日頃から思っている。
特に信じる心というのは密接に文化にかかわっている。本書の引用部分の指摘にあるような占いだとか宗教だとかは、それらが人生レベルに影響を及ぼすと言われても案外すんなり理解できるものであろう。
そのようにして、人間の信じる心に関係するものが人生に及ぼす効果は――言うまでもなくー―絶大なのだ。
すなわちそれは人生の意味づけということであり、意味づけというのは物語を編むということになるのだから。

 プラシーボ効果のようなわかりやすく肉体に影響の出るものでなくても、そのような思想体系が人生に及ぼす影響を病のように捉えたり、完全に排除するものとして捉えるというのは僕個人は横暴だと思っている。もちろん、科学の信頼性は保証されるべきであり、それを危うくさせるような活動は攻撃されてしかるべしであろう。安易に科学という名前を語るような、本書で指摘されてるところの(引用はしていないが)第二種疑似科学がそれに当たる。
それは単純に科学に対してまわりまわって悪影響を与えるので、僕の立場としても悪といっても差し支えない。
もちろん、科学の信頼性を利用することでその信じる心が増幅され、その結果その当人の人生観に大きな影響を及ぼしていたとしても、科学という名前を使ってしまった時点で科学と対面せざるを得なくなり、それを批判する科学を肯定するにしろ否定するにしろ、結末はビタースイートなものになってしまうに決まっている。
ビタースイートというよりも、おそらくはもっと苦々しい何かだ。

 しかしながら筆者の言うところの第一種疑似科学は、それが科学という名前を名乗っていない限り明確に区別されるべきであると思う。
というのは、それは思想であり人生観なわけで、それが例えば金銭的に周囲に多大な迷惑をかけるなどの社会的悪影響が認められていない限り、科学で封鎖するべきものではないはずだからだ。
その一点を超えたとき、科学的態度が宗教性を帯びてしまうのだと思う。
別に僕は科学=宗教という論には与しないことは念のため断わっておくけども。

 この辺に、もっと科学と人文(アート)が健在意識下において明確に区別されるべき理由がある。
人文というのはすなわち、科学から解き放たれた価値観の世界であるべきなのだ。
そこでの基準は科学と違う。
どちらがどう魅力的なのか、というまさしくアートの世界なのである。
そこに科学的態度を持ち込むことは、なるほど確かに科学的態度それ自体が一つの魅力になるというのは十分に理解できることではあるが、しかしそれはそのほかの美的センス、価値観を淘汰するには至らないし、それを積極的に狙うことは科学の高潔さを下げることにもつながるだろう。

 科学哲学、特にファイヤアーベントらへんから始まるポストモダンの議論とかはこのあたりの思索を深めるのに最適である。
僕もよく考えたらファイヤアーベントちゃんと全部読んだことなかったし、すきを見て読んでいきたいなと思う。

対話342 谷川 流 『涼宮ハルヒの驚愕 初回限定版』

2011.06.03.12:54




個人的読みやすさ:B
読書時間(全て含め):2時間

「さあ、どうする?お前の選択を聞かせてくれ。涼宮ハルヒの命をこの場で消すか、それともあんたの親愛なる佐々木を新しい神とするか。さあ、どっちなんだ?」
 安い脅しだった。おまけに何てベタな演出なんだ。(pp.183・後)


 4年ぶりのハルヒ。僕はものすごいハルヒが好きというわけではないのだけど(消失は好きだが)、なんかもう世相的に読まなければならないような感じがしたというか、本屋で別の本を買うときについつい目の前に置かれていたこれを手にとってしまったというか、なんにせよハルヒが持っている力はドでかいものがあるなあとしみじみと感じた。ハルヒ新刊!とか言われたらそりゃ今までのシリーズ読んでいる人だったら読まないと意味不明だよね、みたいな。

 この本の語り手であるキョンの語り口を読んでいるといつも思うのが、自意識過剰さと自己(あるいは所属しているコミュニティ)に対する陶酔感がいつも付きまとっているなあということだ。別に決して悪い意味ではなく。なんというか、多分それが「世界系」と括られる物語の構成要素なのだろう。

 キョンの、というかハルヒシリーズの世界系小説における位置づけとして面白いのは、キョンの自意識過剰さは決して自分の自己陶酔感に対してまでは及んでいないことだ。いや自意識過剰さを一つの特徴として挙げたけど、別になんでもメタ認知メタ認知するような小説では最初からないのかもしれない。だからこそ、内省的な語りが多いこの物語がその袋小路に陥らず、物語は滑走していくことが出来るというかなんというか。陶酔感が物語を加速させていくということを端的に表している作品だなと感じた。 

対話337 「日本が大好きな私たち」はマイノリティに見せかけたマジョリティ

2010.07.08.20:40



個人的読みやすさ:B
読書時間;30分


それと歌詞が日本の歌の場合、前向きなメッセージソング的なものが多いから陽気なニューヨーカーたちには受けるんでです。アメリカの歌の歌詞は文学的なものが多いからでしょう。


↑これ、もし本当なら僕はアメリカに生まれるべきだったのかもしれない。残念ながらあまりアメリカの音楽に詳しくないためこれが真実はどうかはわからないのだけど。。。

 ネットを徘徊いしていると、外国人の反応を日本語に翻訳したブログによく出会う。よく出会うというか、僕がそういうものが好きなため積極的に探しにいく。それで外国人の反応を見て、あれやっぱ日本すごいじゃんとかこのアニメ面白いじゃんとか、そういう感想を抱くことになる。なんでアニメに関する外国人のフォーラムってあんなに面白いんだろうね?

 この本も多分、僕のような人間をターゲットにしているのだろう。すなわち、日本の良さを再発見したい人。あるいは、少し意地悪な見方をするのであれば、日本人というラベリングから自尊心を得たい人、としても間違いではないだろう。少なくとも僕は日本が褒められるとまるで自分が褒められたように感じてしまう男だ。

* * * * * * * * * * *

 良く言われることとして、日本人は日本が嫌いということがある。愛国心が他国に比べるとあまりなく、日本人は自分の国に興味がないそうだ。だからなのかわからないけど、日本のネット界ではその”マジョリティ”に対しての反発として、「日本ってやっぱすげえじゃん!誇りを持つべき!」という風潮がある(と僕は感じる)。その環境においては確実に「日本凄い」というのがマジョリティであり、ここで日本に対してケチをつけるとものすごい勢いでぼこぼこにされるのを僕は何度か見てきた。そして僕は思うわけだ。「日本人は本当に日本が嫌いなのか?」と。

 僕の取得出来るソースというのは主にネットか周りの人しかいないため、実際の日本人が総体的に日本をどう思っているのかはよくわからない。けれども、すくなくとも僕が観測する限り、少なくない人が「日本を卑下する人が多いけれど、私は日本が大好きである。日本には~という良いところがある。もっと誇りを持つべきだし、無理に外国に合わせたりする必要はないし、さらに言えば日本から積極的に出ていく必要もないのである」というようなことを言っているのを耳にする。その主張自体には賛成するのだけど、ここでの叩かれる対象としての”日本を卑下する存在”というのはどこで発生しているのだろうか?

* * * * * * * * * *

 日本を誇りに思うことは勝手だし、僕も誇りに思っている。実際、日本人であることってものすごく便利だと思うし、別に他の国に生まれたかったと思うことはない(文頭と矛盾)。ただ、この実際はマイノリティとは言えない集団が架空のマジョリティへの反発として成長していっている、という構図はちょっと歪なものがあるなあと思う。あと、これは話が少しずれるけどやっぱり日本が好きなら海外に一度は行ったほうがいいと僕は思います。
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はらわたに秩序。

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