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対話324 あなたには師匠がいますか?

2010.03.30.05:54




岩月 謙司 『女は男のどこを見ているか』


個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 人のウケをねらって、期待される人間になるとうするのではなく、自分が気に入った人の真似をしてみるのは、実は、自分らしく生きるための一つの重要な方法です。
 なぜ、師匠の真似をすると自分の個性が出てくるのでしょうか。
 ポイントは、自分の気に入った師匠というところです。気に入らない師匠の真似をしたのでは、自分の個性は発掘できません。気に入っている師匠というのは、自分の美学と似ている、ということです。似ているから惹かれるのです。同じ美意識を持っているのです。それゆえ、「自分の気に入った師匠」は、自分の美学を刺激してくれる人なのです。自分の美学というのは、自分の個性そのものです。自分の個性を刺激してくれるから、最後に個性が飛び出すのです。(p.168)


 うちの大学の性質上というべきかどうなのか、結構最近女性と接することが多い。それで色々と失敗したりなんだかんだあるわけで、ちょっとこういうときにどう振舞うべきなのか、どういう信条を持つべきなのかということが気になってしまって、でもそういうのって男の性だししょうがなくねっていうか、だからまあそんなこんなで本書を手に取ったわけです。我ながら言い訳がましいな。

 残念ながら本書の80%くらいは本題に関係ないただの自己啓発だったことは否めなくて、これってふつうにタイトル詐欺ではないかと僕は思うんだけど、ただ引用部分に関しては一つ思うことがあったのでそれを書いてみたい。

 師匠。今まで僕は何か専門的なことに関して、師匠と思える人を持ったことがない。特に技能的な事に関して。

 尊敬する人なら何人もいる。彼らは時に僕より年下だったりするし、同学年の仲間であったりするし、年上の社会人、はたまた実際には会ったことのない著者だったりもする。僕は彼らに影響を受けているし、彼らの存在は僕の世界観を形成するのに非常に大きな意味を持っている。そういう意味では、僕の個性形成の意味での師匠は大勢いるともいえる。

 ただ、何故か技能的な面での師匠というとあまりいない。これは何故だろうな、と自問する。守・破・離の思想が大事だと理屈ではわかっていながら自分のやり方を否定されることがいやというナイーブな理由からそれが由来しているのか、それとも僕がなんらかの技能を極めようと本当に思ったことがないからなのか。いくつも理由は考えられて、多分それの全てがその理由なのだと思う。一番大きいのは、なんらかの技能を極めようと本当に思ったことがない、というのがあるような気はするのだけど。

 では何故なんらかの技能を極めたい、と思ったことが僕にはあまりないのだろうか。
一つには、誰もやっていないことを自分の技能としてもっている、あるいは持ちたいということが考えられるだろう。たとえばイメージストリーミング。たとえばヴィパッサナー瞑想。たとえばフォトリーディング。たとえばマインドマップ。ここに挙げたものは後者にいくにつれ出来る人の数が増えていくと思うけど、でも絶対数から考えればこれらのスキルを身につけている人はあまりいないと今でも思うし、ましてや僕の属しているようなコミュニティにおいてはよりそうなのだろう。

 そしてそれは極めることからの逃避、とも受け取ることが一つには出来る。誰でも知っているような分野で、あるいは社会的な公認を得ているような分野で、トップを極めようとすることはなかなか難しいことだ。それに参加するためにはレースに参加することが必要だし、その際には師匠と呼ばれる人が絶対に必要になる。でも僕は多数の参加しているレースには今まであまり参入しようという気がなかった。大学にしてもそうだし(うちの大学を受ける人はやっぱりマイノリティなのだ、受験生の中では)、学ぼうと思っていることにしてもそう。多数の中にいるよりも、誰もいないブルーオーシャンに生息したい。それは確実に僕の一つの強い願望だ。ただ、最近この考えにもある種の変化が出てきたのだけど、それは今回の主題とはずれるのでまた違う機会に書くことにしよう。


 ただ、べつに僕は常にそういうスキマ産業を狙ってきた、というわけではないな、とここまで書いて思い出した。しょうもない例で申し訳ないが、僕が遊戯王カードにはまっていたときは結構本気で全国大会などを目指した瞬間もあったし(残念ながら地区予選の決勝で負けてしまったが)、あの時は授業中ですら遊戯王のデッキ構築などについて考えていた。しかしそのときも特に師匠と呼ぶべき人は特におらず、もっぱら書籍やネットの情報が主であり、あとは自分での実践を重視していたきらいがある。あのときに誰か師匠的な人がいたら僕の成長はより加速していたのだろうか?

 いずれにせよ、自分にとっての師匠探し、というのは今後の大きなテーマの一つになりそうだ、という予感がビビっとする。
 自分のやっていることに関連したこととしてはイメージストリーミングの創始者であるウェンガー博士などにも来年当たりお会いしに行く予定だけど、それ以外にも研究のこととか、読書のこととか、一回体系的に身につけてみたいな、と。

 しかし僕は読書メモにかこつけて自分の話ばっかりしてるな、と書いてからすごい思った。
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対話323 機械論には生気論を、生気論には機械論を

2010.03.29.20:05




伊勢田 哲治 『疑似科学と科学の哲学』


個人的読みやすさ:C
読書時間:2時間


 一つの論点としては、もちろん、ヒュームの議論を変形して流用することができるだろう。心理学や社会学は別に他の科学の分野の主張と矛盾することを言っているわけではない。信じるのと信じないのと、より大きな奇跡を受け入れるのはどちらか、と悩む必要はまったくない。芸術的な創造性とのアナロジーで超能力を擁護する議論も同じ理由で失敗する。創造性は他の分野の知見と矛盾しないので創造性というものがあると考える上で別に奇跡を信じる必要はない。文学や芸術学などはあまり科学とみなされていない(その理由としてはまさに再現性のない現象をあつかっている点が大きいだろう)が、少なくとも科学の知見と矛盾する力を想定しているわけではないので正統的な学問として受け入れられている。これに対し、他の化学と矛盾する主張をし、自らを科学とみなす超心理学は、再現性について文学はもとより心理学や社会学より厳しい基準を満たさなければ受け入れてもらえない運命にあるのは仕方ないだろう。(p.146)


 まずこの本を読んで一番良かったことを最初に書いておくと、ベイズ理論に出会ったことだ。
僕は今までベイズ理論が何を意味しているかよくわかっていなかったけれど、この本には非常にわかりやすい形でそれが解説されていて、それが今後僕の考え方の一つの骨子になるという予感が生まれた。
 今まで確率というとどうしても古典的なほうの確率を思い浮かべていたけども、こういった主観的要素の入ったものも理論に取り入れてよいということがわかったことはアカデミックの場だけではなく、日常生活を営む上でも自分にとってプラスになるのだろうなあと思う。

 疑似科学、というテーマは僕にとって一つの大きなホットトピックだ。
僕は「人の信じる力は何を起こすのか」ということに凄く興味をもっていて、たとえ科学で実証されないことであったとしても、社会的権威付けや思い込みでどこまで効果を出すことができるかを知りたいという欲求が強い。つまりそれはプラセボ効果を人はどこまで起こすことができるのか、という問題に繋がるのだけど、このプラセボ効果というのはものすごく強い形で、疑似科学とよばれているものに相関している。

 ”擬似”とよばれているものに対してでも信じることで、実際にそれが現実の現象として起きたら非常に面白いじゃないか!と僕は思う。そしてそういう立場を取っているからこそ、たとえばがちがちの機械論的科学論者とか、プラセボ的効果を受け入れない、あるいはプラセボ効果を単なるマイナスのファクターとしてしか受け取れない人に対してある種の反発心を抱くことがある。
 確かにそれは要素に還元したら取りこぼされるもの、だけど全体の複雑さの中ではそれが機能するかもしれないし、ましてや信じるという味付けが入った現象には還元主義では理解できないものが絶対に含まれているはずなのだ、と感じてしまう。

 一方、生気論を強く信じる人、特にスピリチュアリティに目覚めた人や宗教的バックボーンを強く持つ人に対しても、僕は反発心を感じてしまう。僕はただの天邪鬼なのだろうか?彼らの話を聴くと一つの世界観としては非常に強く理解できるし、世界観には社会的信仰やその権威がつきまとう。それが機能している場合彼らの「信じる力」は強化され、故に彼らの世界の中で起きる現象というものは必ずあるのだろうということは推測することが出来る。しかしそれは人類全体に還元できることでは決してない、とも同時に強く思う。このとき、僕の中の科学主義みたいなものが強く顔を出す。たとえば特に彼らに面と向かって科学主義を説いたりすることは野暮だしそもそも科学というものに対してのアンチテーゼとしてのスピリチュアリティだったりするので話すのは非常に億劫ということもあって別に議論などはしたりしないが、「ああ、ここは僕の世界ではないな」ということを感じながら後ずさりをすることはやはり僕に運命付けられたことなのだろう。

 このように、僕はがちがちの機械論者になることも出来ず、かといってがちがちの生気論者になることも出来ない。コウモリ的ポジションというか、やはり何か極端に触れるということが出来ないのかもしれない。ただ、やはり自分はなんだかんだ科学のほうに思考が寄っていて、その中で多少異端というか胡散臭いポジションをとるのが一番適しているのではないかなとは思う。科学のほうにはそれを受け入れる余地みたいなのを感じるのだけど、強い生気論を取る人たちのコミュニティにはそれだけの度量がない気がするからだ。別にそれは悪いことではなく、それが彼らの世界観の破壊に結びつくのであれば受け入れないのが普通だし、人は信じることで何かを生み出しているという側面は必ずあるわけだ。
 科学に立脚しない考えを持っている場合、普遍性という面ではマイナスのファクターを抱えてしまっているわけだから、閉じたコミュニティの中でその世界観を維持させようという目論みは非常に強く理解できる。生存競争を生き延びるためにはある種隔離された場所にとどまることも必要なのだ。たとえばそれはガラパゴス諸島の動植物のように?

 あと、ここでは生気論者をマイノリティみたいにちょっと描いてしまったけど、でも別に生気論者カテゴリーのそれぞれが一つ一つマイノリティというわけではない、ということも一応追記しておこう。科学コミュニティは部分部分では浸透しているわけだけど、人は多かれ少なかれ近代科学にそぐわないことをやっているわけで、人間がそう黒と白にはっきり分かれるわけでもないのは当たり前のファクト。

対話322 本は頭から尻まで全て読まなければならないのか

2010.03.29.10:31




岡崎 伸郎 『精神保健・医療・福祉の根本問題』

個人的読みやすさ:B
読書時間:20分


 1984年に起きた宇都宮病院事件をきっかけに、精神科病院の入院患者に対する非人道的な処遇の常態化が社会問題化し、国際社会からも非難されることになった。これを受けて国も重い腰を上げ、ライシャワー大使殺傷事件の影響下にあった1965年に改正されて以来の枠組みだった「精神衛生法」の大幅改正に着手した。その結果、1987年に「精神保健法」が誕生したのである。(p.31)


 対話というよりはインタビューに近い読書第3弾。僕の今回のリサーチのテーマはメンタルヘルスを取り巻く社会環境だったのだけど、対象が特にメンタルヘルスに関する一次医療(予防など)の範囲にいっていたので、二次医療や三次医療を特に濃く書いている本書では少し僕のほしい情報とは外れることが多かった、という印象。メンタルヘルスに関する法律だとか、そこ等辺のことをまとめて扱っている本はなかなかないので、そういう情報を俯瞰的に見たければこの本は非常に役に立つと思う。出版も2009年で2010年現在あまり色あせている感じがしないのも大きなポイント。

 ということで僕がこの本について語れることは非常に少なく、人によっては「それが読書といえるのか」と言われてしまいそうなところなんだけど、しかし一応その本に接したのだよ、ということを記録しておくことは僕にとって意味があることだと思うので書いておく。全ての本に対して平等に読み込まなければならない、というある種固定観念は読者を読書から引き離すことにも繋がると思うし、自分は今のスタンスに割と満足している。

 そう、読書と一言でまとめられている活動の中には様々な中身があるのだということを、まず僕らは認識しなければならないのだ。それは例えば愛という言葉に様々な意味と活動が内包されているように、読書という言葉も多義的なものなのだと思う。まあ愛をたとえに出したのはちょっとやりすぎというか自分でもこっぱずかしいのだけど、でも本質としてはそこまで外していないたとえだと思う。どうしても読書というと真剣に一から最後まで読まなくてはいけないと思ってしまうしそれはそれで素敵なこと(僕も基本的には普段そう読むことが多い)だと思うけど、でもそのルールを遵守することで手が止まってしまうくらいなら、そんなルールは壊されてしかるべきなのだ。

 この考えは今は悪名高い(?)フォトリーディングに関する本で僕が身につけたものだ。フォトリーディングに関してはその胡散臭さとか金ぼりすぎなんじゃないかとか色々と指摘があるところなんだけど、こういう読書に対する態度とかでは参考になることがとても多い。それに僕はフォトリーディングの効果をなんだかんだで信じているので、実際のところフォトリーディングをしてから読んだほうがそうでないときより速いし体感的にスムーズなのだ。ってまた話が逸れたけど。

 

対話321自己啓発書をいくつも読むことに意味はあるか?

2010.03.28.15:23




和田 秀樹 『お金とツキが転がり込む習慣術―「運のいい人」には理由がある』


個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 人と話をするときも、自分の取り柄や長所を小出しにする人は多いけども、最初にインパクトのある話から入ったほうがいい。自分の一番の売り物を、会う人すべてに必ず話していると、後々、誰かが食いついてくれるものだ。人と会ったら、最初に自慢話をすることでチャンスは大いに広がるのだ。(p.200)


 和田秀樹というと受験本の人、という印象がまず僕の中に来て、次にこの手の自己啓発的な内容のものがくる。最近は劇だとか映画だとかそこ等辺で活躍をしているという噂も聞くし結構良いらしいよという評判も聴くけど、生憎僕はまだまだタッチしていない。読書に比べこの映画とかの敷居の高さはどこから来ているのだろう。あ、いや、それはあくまで僕の中だけでの話だろうけど。

 和田秀樹の自己啓発系の本は今までも数冊読んだことがあるので、さらっと読んでこの本が今まで読んだ本と言っていることはたいして変わらないな、ということはすぐに気づいた。ただ言い方を変えただけ、文脈を少しいじくっただけ。個人的に参考になったのは引用の部分と、「プレゼンのときに10万円くらい胸に潜めておくと自信がもてるよ」と書いてあるところくらいで、後はすべてどこかで見たような文句ばかりであった。

 でもんじゃあこの本を読む価値はなかったんか?というと、決してそうだと言い切れないところに読書の面白さはあったりする。確かに僕はこの本の内容の90%以上は「知ってる」。自己啓発書にありがちなこととして、和田秀樹に限らず大体みんな言っていることは似通ってくるものなので、別に和田秀樹の今までの本を読んでいなくても大体こういう内容が書いてあるだろうな、ということは容易に察することが出来たし、実際にその通りだった。ある程度自己啓発書を読んでいると、目次だけで何がいいたいのかその大体がわかってしまう。本書も例外じゃなかった。

 しかし同じような内容を、少し違った切り口で、しかも時間の感覚を空けて読むということはそれの習慣化を促進・あるいは維持するという面においてそれなりに優れたパフォーマンスを発揮するというのも個人的経験からいって確かなのだ。
 体力維持装置じゃないけど、定期的に自己啓発書を読むと自分がどういう人間でありたいのか、再考する機会が与えられるように僕は思う。一回で読んでそれを常に規範とするだけの没頭力がある人は別にそんなの必要ないのかもしれないけど、生憎一つの本からそこまでの影響を受けるほど僕にその没頭力はないし、それは少し危険なことであると思う。
 一つの物事を捉えるとき、複数の情報源から当たるというのはその対象を立体化させることにも繋がるし、なにより文字そのままではなく体感的にそれを学習することの手助けをしてくれるように思えてならない。

 おそらく、多くの人間にとっては、自己啓発書に頼らなくても何か違う規範があり、それにのっとって生きているに違いない、と想像する。
 しかし例えば僕のような人間の場合、何か武道をやっているわけでもなく宗教を持っているわけでもなく、自分を鼓舞し続けるコミュニティにそこまでかかわり続けているわけでもない人間の場合(コミュニティに関しては最近獲得しつつあり、故に最近自己啓発書を読まないのかもしれないが)、この手の本を、定期的に読み続けるというのはそこまで悪くない戦略だと思う。
 勿論、「読書をしています」と言い張るときにその中身が自己啓発書ばっかりだったりすると白眼視されたりするのでそこは充分気をつける必要があるわけだけど。

 そういえば僕の部屋とか割と自己啓発書ばっかり並んでいるので人を招くときにちょっと恥ずかしいな、ということを思い出した春。一年前の今頃は自己啓発系の本ばかり読んでいたということを思い出す。

対話320 メンタルへルスは地域化される

2010.03.28.12:47




本橋 豊, 渡邉 直樹 『自殺は予防できる―ヘルスプロモーションとしての行動計画と心の健康づくり活動』


個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 健康教育とは知識や理解力を増加させることにより、個人に健康増進にかかわる能力を賦与することである。健康増進における擁護に健康リテラシー(health literacy)ということばがある。健康リテラシーとは、より良い健康のレベルを維持増進させるための知識や社会的な技能(スキル)のことを言い、健康リテラシーを高めることで必要な情報を理解し活用することができるようになる。(p.168)


 対話というよりはインタビューに近い読書第2弾。メンタルヘルスというものを考えているとなんだかんだ自殺とかに結びつくのだけど、この本は日本における自殺というものを把握する上でよく出来ていると思う。僕は今まであんまり自殺というトピックに興味はなくて、せいぜい高校生くらいの時に『完全自殺マニュアル』を興味本位で読んだ程度でしかかかわりがなかったのだけど、こうしてデータだとかその他の情報に向き合っていると、以前よりも自殺というトピックに対して親しみをもてるというか、当事者意識を持てるようになるから読書は面白い。実際の人間の会話でそれを受け取ったほうが刺激は数倍もあるだろうけど、生憎僕の周りの人間は楽天家ばかりなのでそういう人間とそこまでめぐり合わない、ということも今まで自殺というトピックに真剣に向き合ったことがない理由の一つなのかもしれない。

 さて、本書によれば、というか類書にはどこにでも書いてあるけど、現在メンタルヘルス医療というものは地域化、社会化されるというのが世界の流れのようだ。
 日本は結構メンタルヘルス世界の中では特殊というか、日本ほど精神病棟がにぎわっている国もないし、社会的に彼らを補助しようとする活動というかシステムが整っていない国も先進国ではないのではないかという感じなので、個人的にはこの点いまいち現実感が沸いてこない。
 ただ、とりあえずメンタルをやんだら病院へいって、どうしようもなくなったら精神病院にそのまま拘置する、という流れは多分改正されるべきなのだろう。なにせ精神病院への滞在日数の平均は、日本は世界各国で見てダントツ1位(300日ほど)で、2位の韓国とも200日以上差が空いてしまっている状態なのだから。

 自殺の大きな理由はなんだろう?それはやはり精神的な受け皿となっているものへのアクセスの難しさがこの国にあるのだなあと思う。宗教というシステムは例えば他の国においてはもっと普通のことというか、いや留学生に聞くと最近結構駄目だよっていう話も聴くけど、とりあえず比較して日本よりは自然に受け入れられていることだろうと推測する。アメリカとかテレビ宣教師とかいまだにやってるしね。
 だけど日本においての宗教の立場とかはかなり低いというか、白眼視されてしかるべきものみたいに扱われているので、宗教に逃げ込むことも難しい。かといって精神科とかは最近改善傾向にあるとはいえ以前としてハードルが高く、そこにハードルの高さを感じないにしてもメンタルヘルス的なリテラシーが欠如しているので、自分も周囲の人間もそれに気づかないということがよく起きてしまう。特に自殺者数がはじめて30000人を突破したときなんかは社会の不景気などによる中高年の自殺が大きく貢献したといわれているけど(ちなみにその年以来、自殺者数が30000人を切ったことはない)、そこにはメンタルヘルス的なリテラシーの欠如、つなわちメンタルヘルスが自分のものとして降りてきていないということが問題として挙げられるのではないだろうか。

 そしてその問題を改善するため、メンタルヘルスという概念が隔絶されたものではなく、地域化されるというのは非常に効果的なことである、と僕は思う。まず自分の物事と認識されるためにはそれを分業的に完全に切り離しては駄目なのだろうし、一人一人のタスクというか考えることは増えてしまうけども、やはり最低限の知識や態度というのはこれから全ての人が身につけていく必要があるのだろう。地域化は単純にアクセスしやすくなるというシステム的な側面だけではなく、僕らのメンタルヘルスに対する態度にも変化を及ぼすようになるに違いない。

 

対話319 「メンタルヘルス」というパラダイムの到来

2010.03.27.12:26




新福 尚隆, 浅井 邦彦 『世界の精神保健医療―現状理解と今後の展望』


個人的読みやすさ:B
読書時間:20分


 さらに「第2次全国精神保健計画(1998~2003年)が現在進行している。キーワードは、"健康増進(promotion)", "予防 (prevention)", "パートナーシップ (partnership)"の3つである。これを達成するための戦略の一つとして、一般住民の精神保健についての認識を工場させる努力を行なっている。(p.119)


 対話というよりはインタビューに近い読書第一弾。これを読んだのは今日ではなく、その日はメンタルヘルス関連の書籍を1日で6冊まとめ読み&重要要点をパワポにまとめるということを一日でやったので、隅から隅まできちんと目を通したというわけではない(本によってはかなり細かく読んだものもあるが)。

 それでも自分のほしい情報を抜き出すのには充分ということがわかったし、何より情報収集型の読書であれば1日6冊くらいはパワポでのまとめ含めて結構余裕でできる(真面目にやれば20冊くらいいけるはず)ということがわかって自信にもなった。量が大事ではないというけれど、量は自信を形成してくれるし、一つのトピックに対して複数のライトを当てることで浮かび上がってくるものも必ずある。ということで場末の加速学習ブログとしては皆様にも一日での多読をオススメしたい。


 本題。今僕がやっているメンタルヘルス、というものは間違いなく新しいパラダイムだ。

 様々な精神疾患を”精神的な病”として、それを予防できるという現代では広く散布しているこの考え方は、おそらく過去においてはまったく普通ではなかった。
 現在、メンタルヘルスというパラダイムの中では精神的な健康をより積極的に獲得していく、という考え方が土台にあるように思う。これは肉体的な健康においてもそうだ。今見た目に問題がないように見えても、人は健康増進のために食べ物に気を使ったり、運動を始めたりする。現代ではこれは普通の考え、というか素晴らしい行いのように思えるけど、多分過去においてはその通りではなかった。見た目に問題がなければおそらく健康増進のために余計なことをするということは現代ほど意識づけられてはいなかっただろうし(無意識的・伝承的に行なっていたかもしれないが)、こと精神においてはその傾向が強かったと思う。

 そもそも、精神保健の管轄は過去においては宗教だとか、そういう部分が補ってきたことなのだろう、と僕は考える。
 たとえば精神疾患は悪魔憑きだとかに解釈されてきた時代もあっただろし、それはよく取れば神の信託とされてきた時代もあったわけだ。精神疾患的なものがすなわち悪、とみなされていない時代というのは必ずあっただろうし、それはおそらく現代においても地域によってはまだ残っているのだと思う。
 いや、むしろ日本においてもまだある種の精神疾患(とみなされているもの)が崇められている部分は残っていると感じるけども。例えば躁とかね。

 宗教というパラダイムが消滅してきている現在、しかして精神疾患というのはその名が表すように”精神保健”の分野として扱われるようになった。
 つまるところ、肉体的に表れるものと同じ、病気。並列的な関係。
 事象としてみればよく考えたら結構違うけども、僕らは肉体的な病気と精神的な病気を同じ軸のものとして捉え始めた。それは宗教の縮小という趨勢を考えてみたときに仕方のないことであるし、肉体的な治療のフィールドを近代西洋医療がのっとったときからの宿命なのだろう。

 己のメンタルヘルス、それに気を使わなければならない時代の到来。
 それは可視化されていないから、現代の文脈にのっとって可視化されるように働きかける動きがあるし、それが現代化ということなのかもしれない。そう考えると、古典的な精神力動アプローチよりも目に見える形で成果のでる認知行動療法が力を持ち始めたのもある意味当たり前のようにも思えてくる。医療として捉えられるということは目に見える成果が求められてくるわけであるし、精神的な治療というパラダイムも、将来肉体的な治療というパラダイムとそこまで乖離したものとは見なされないとますます思われるようになるのだろう。

対話318 正しさと狂気の両軸を常に意識するということ

2010.03.27.05:04




池谷 裕二 『最新脳科学が教える 高校生の勉強法 東進ブックス』


個人的読みやすさ:A
読書時間:30分


 しかも重要なことは、転移の効果は学習のレベルが高くなればなるほど大きくなるということです。つまり、多くのことを記憶して使いこなされた脳ほど、さらに使える脳となるわけです。使えば使うほど故障がちになるコンピュータとは違って、脳は使えば使うほど性能が向上する不思議な学習装置なのです。(p.124)


 この本こそ確か僕の記念すべき池谷本第一作目であって、この本をもって僕が脳に興味を持ったといってもそこまで過言じゃない。いやごめん嘘、そこまでではないけど、でも彼の本を読んでいるか読んでいないかでは多分僕の人間に対するアプローチは、そして科学に対するアプローチは結構変わったのではないかと思える。

 この本を読んでみて思い返す。この当時、僕はこの本に書かれているような”正統な”勉強本と、ウェンガーの『頭脳の果て』のような”異常な”勉強本の両軸で勉強戦略について学習していた。個人的な意見を言わせてもらえばウェンガーの『頭脳の果て』は異常どころかどストレートに学習の真髄をついていると思うのだけど、まだまだメソッドとしては社会的に認知されているとは言いがたいし、それ以外の多くの能力開発本はこちらの気持ちをあおるだけあおってまるめてポイ!みたいな感じのものが多いので、この本のような”正統な”やり方が書かれている本を読んで自分の中心軸を常に修正し続けるということは存外大事なことなのだ。

 僕は加速学習とか人から見れば結構怪しい範囲に手を出しているし、夏には人生の先輩に連れられて東北まで超能力の学会に出席するわ秋には超心理学学会の講演を聴くわで、社会的には大分怪しい男と認識されているらしい。僕はまったくそう思っていなかったのだが、実際色々な人に聞いてみてもそうらしいし、この間うっかり陰口的なところで「宗教的な人だと思った」という発言まで聞いたので、そういう風に色づけされて見られていることはほぼ疑いのないことなのだろう。かっこわらい、って書きたいけどあんまり笑えないねこれ(笑)

 ただ僕自身は別にそこまで怪しくもないなあと思っていて、なぜなら今社会でなにが正統の考え方とされているのか、ということを認識できていると思っているからだ。真偽に関わらず、この正統なものが何か、という観念を全く持っていない人と会話することは経験があるのでわかるけど相当つらい。特に一回その東北の超能力研究学会みたいなやつの帰りのティーパーティで江川さんに陶酔していらっしゃるアラフォーな方にお会いして、その時は会話不成立に陥ってしまった。やっぱり僕はある程度正統な科学が何かを認識してくれている人が周りにいる環境でたまに突飛なことを言う程度のキャラが合っている。

 ということで結論として「やっぱりこの手の正統とされる学習法を押さえた上で、さらなるところとして邪道というか今のところ余り認知されていない/認められていないものに手を出すのがベターだよね」ということがいえるわけで、まあそうすると「じゃあ正統って厳密には何さ」とかそういう議論になっちゃいがちなんだけど、僕はそういうのめんどくさいので書くのはやめようと思います。あでゅー。

対話317 「行動する環境をつくること」に対価が支払われる時代

2010.03.26.22:46




島 悟, 佐藤 恵美 『ストレスマネジメント入門』


個人的読みやすさ:A
読書時間:15分


 早朝覚醒といわれる「朝早く目覚めるタイプ」の不眠がうつ病では特徴的です。そのほか、寝つきが悪い(入眠障害)、途中で目が覚める(中途覚醒)、眠った気がしない(熟眠障害)、などの睡眠障害も見られます。ときには過眠(いくら眠っても眠い)も見られがちです。(p.46)


 唐突だけど、僕が今関わっている団体について説明させていただこう。

 現在、僕はメンタルヘルスに関する任意医療団体a.lightの副代表、という立場をとらせていただいている(スタッフブログはこちら。まだあまり書き込まれていませんが)。きっかけは主宰の石井綾華@社会企業家を目指す女子大生のBLOGに僕の顔の広すぎる友人である神馬光滋の導きで出逢ったことから始まって、あれよあれよと彼女の行くインタビュー先に僕も出向し、気付けば団体の設立に携わらせていただいたというわけだ。

 この団体、1月に立ち上げられたばかりということもあり、まだ正規メンバーは6人、実質5人くらいで活動しているということもあり、まだまだ手探り状態。だけども何かを立ち上げるということは非常に刺激的なことで、実際僕も色々な面で勉強になっている。活動に興味がある人は僕にメールでもコメントでもtwitterでもなんでも連絡ください。色々と勉強になる空間になっていると思います。

 さて、ようやく本書の話題だけど、この本はそのa.lightの活動において大いに参考になるところがいっぱいあった。つまり、僕らの活動として、という意味において。
 僕らは普段メンタルヘルスに関する勉強会を開いたり交流会を開いたりしているわけだけど、その他に何をするかについてはまだ議論がきちんと進んでいなくて、実際今のところ土台となる知識を収集し共有することに邁進している。そのこと自体はきわめて大事なことだし、僕もまじめにやってきたつもりだけど、やはり団体の活動としては外に行かなくちゃな、というものがある。そこで本書のような「どうやってストレスマネジメントをするのか」の実践の部分を企画として立ち上げればよいのではないか、と本書を読んで思ったのだ。つまり、本書に書かれているような気軽に出来るストレスマネジメントをみんなで一緒にやろうよの会を立ち上げたら面白いのではないか?という発想である。

 「いやいや、そんなストレスマネジメントについてやってるところなんて腐るほどあるよ」という声もなるほどあるかもしれないが、しかしそれは社会人の世界やもう少し本格的なところ(と僕らが思ってしまうところ)の世界であって、一般学生だとか対象のストレスマネジメントのクラスなんて結構少ないのではないか?しかもこの手の本で一番の障害になるのが実践の部分である。これは僕の経験も伴っていうけど、本に書かれていることの9割くらいは「その通りだな」と思っても人間なかなか実行しない。僕だって結構な数の能力開発だとか加速学習だとか、あるいは生活改善の本を読んだけど、多分その9割は実行していない。そう、やはりボトルネックとなるのは実践の部分であり、いかにそこに足を踏み入れるか、そしてそれを継続させるかというところが問題になってくるのである。

 そこにある種ビジネスチャンスというか、僕らがやる意義と意味みたいなのが見えてくる。実践は実のところ一人でやるのは難しいことだ。特に今までの習慣に類する習慣がなかったら習得するのは至難の技であり、たとえ出来たとしても外部の目がない異常不安が残る。何か新しい習慣を定着させるためには、外部の力が必要なのである。

 だからうちのような団体がこういう本に書かれている”気軽に”出来るストレスマネジメントの方法をみんなで一緒にやるワークショップを開くような会にも意味がある。ストレスマネジメントの方法なんてもっとカジュアルになってしかるべしだし、きっとみんなもそれなりに自分の方法でなんとかしてきているのだろうけど、それでも色々な方法があるということを学んだり、どういうときにストレスを感じるのか自分の考えを整理・他人と共有する機会に接するのは悪いことではないはずだ。
 そして多分、メンタルヘルスという分野に限らず、そういうような流れが色々な舞台で表れているのだろうし、今後も加速していくのだと思われる。なんせかつての学習装置であった家庭なり教育なり会社なりが個人に与える影響が減少、もしくは流れが速くなったせいで追いつかない時代に今はなっているのであり、その取りこぼしや新しい習慣を埋める必要が出ているのだから。

対話316 教養のサイクルをどう構築していくべきか

2010.03.26.17:24




広島大学101冊の本委員会 『大学新入生に薦める101冊の本』


個人的読みやすさ:B
読書時間:40分


 本書の特徴は、「科学は討論の中から生まれるものである」と序文に述べているように、著者がまじえたさまざまな対話を軸として構成されているところにある。量子力学発見に至るまでの同僚たちとの議論やゼミナールの様子、発見後の理論の解釈をめぐるボーアやシュレディンガー、それにアインシュタインといった理論物理学の巨匠たちとの激烈な議論の応酬、まるでその場に参加しているような疑似体験が味わえる。実にシビレる。何か創造的なことをやろうと志す者でえあれば、きっとそう感じるに違いない。(引用者注:ハイゼンベルク 『部分と全体--私の生涯の医大な出会いと対話』に言及して)(p.108)


 好きな本を読んでいるとどうしてもジャンルだとか思想が偏りがちになることは否めないし、冊数だけ順調に稼いでいるような僕なんてその典型みたいなものである。やっぱりある段階では一度自分の読書の癖だとかを振り返り、もっと広い視野をもって本と向き合っていきたいなと思う。そういうときに、この手の本は大事になる。

 いや、それはもしかしたら大学に出てからのほうがより重要になるのかもしれない。この本は大学新入生に向けて、と書いてあるけど、それはつまり直接的には0知的な興味をより広くもって専攻を選んでね、ということだと僕は思う(まあこれは僕の大学がそういうシステムだから思うのであって、入学当初に決まってしまっているところも多いと聞くけど……)。でもそれは確かにその通りであるんだけど、むしろその視点は大学の専攻が決まったあとや、大学を卒業し社会に出たあとのほうがより効くのではないかとすら思うのだ。

 この思想は僕の「着想」に抱いている思いからきている。なにかをひらめく時というのはつまり、何か今までとは違うやり方で、既存のものと既存のもの同士を結びつけた瞬間だ。自分の土俵になにか別のものを持ち込んだり、相手の土俵に自分のものを持ち込んだり、そういう異文化交流の結果だ。だから多分僕らが海外旅行だとか異文化交流に楽しみを見出すのはそういうところにも理由があるのだと思うし、何かを創発するためには違うコンテクストに触れる必要があるのだと思う。

 だからある程度自分の興味関心以外にも積極的に窓口を開いておくということが何よりも大事で、そして自分にとってセントラルトピックではないものに触れる環境・システムをいかに構築するのかがとっても大事ということになる。僕はいくつかこの本を読んで「面白そうだなあ」と思って実際読もうと思った本は結構あるんだけど、それでも多分僕一人じゃ偏りが出てしまう。大学の教養科目はある程度この問題の解決に繋がっていると思うけど、もっと民間ベースというか学生ベースというか、草の根的な活動として教養の輪を広げる、そういう流れがあったほうがいいのだろうなと感じる。

 

対話315 僕と池谷裕二について思うこと

2010.03.25.13:58




池谷 裕二 『進化しすぎた脳』

個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間20分


 海馬からでるシータ波が記憶にいいとかってよくいわれるよね。もしそれが本当だったら、海馬に電極をさして、自分の海馬からシータ波を出す訓練をすれば、効率よく勉学に励むことができるかもしれない。もしくは、仮にシータ波をコントロールできなかったとしっても、自分の脳からシータ波が出ているか出ていないかの状態が分かれば、効率的な勉強時間を知ることができる。シータ波がたくさん出ている時間は勉強して、反対に、シータ波が出てなかったら、心おきなく遊ぶとかね。(p.350)


 僕と池谷裕二という人について。

 池谷裕二という人を簡単に説明すると、東大の淳教授で脳生理学、薬学を中心に研究している人である。彼は他の多くの研究者とは違い、著作活動や講演なども積極的に行なっていて、かなり若いにも関わらず(と僕がいうのもあれだが)今までに共著も含めれば10冊以上出している。これは彼の「なるべく研究成果などを社会に伝えていこう」というポリシーによるものらしい。この点についてはバランスを取ったり社会活動を科学者がすることに偏見もあるらしいので色々と大変らしいが。

 さて、僕が一番最初に彼の著作を読んだときのことを思い出してみよう。確か一番最初に読んだのは僕が高校生の時だ。それが1年生のときなのか2年生なのか、はたまた3年生まで引っ張ったかは憶えていない。とにかく最初に読んだ本は『最新脳科学が教える 高校生の勉強法』だったのは間違いなく、そして2冊目は『記憶力を強くする』だったのも疑いはない。あの頃は今よりも明らかに能力開発に興味を持っていて、それが興じすぎて本来の勉強がお粗末になるという割とよくある罠に陥っていた頃だった。

 ともかく、それらの本を読んで、僕は「脳の性質にのっとって戦略的に何かをやることは大切なのだろう」という思想を学んだ。そしてそれは勉強法だけにとどまらず、「人間というツールをいかにすればより効果的に使えるのか?」という興味にも繋がり、結果として僕に心理学を学ばせることに繋がった。いや、それまでも心理学にはものすごく興味を持っていたから別に池谷さんの本を読まなくても僕は普通に心理学を選んでいたと思うが、その場合もっと哲学的な方面だとか、社会心理学的な方面に傾倒していたように思う。彼の影響で大脳生理学的なことを学び考えることの大切さについて考えるようになったのは間違いない。

 また、高校生の間には『魔法の発音 カタカナ英語 』も読んだ。あの頃はICUに行こうとは寸分も思っておらず、特に英語を将来喋れるようになりたいとすら思っていなかったのに、池谷裕二というラベルを見ただけで思わず買ってしまった記憶がある。その僕が今こうして英語で勉強をしているのだからなかなかちょっと運命的で興味深い。

 そして僕は大学生になってからも、池谷裕二の出した出版物を定期的に読んでいった。多分1冊2冊くらい除いてほとんど全ての本を読んだと思う。そして今日、久しぶりに昔読んだ本でもまた読んで見るかなと思い本書を手にした。特に読むものが無い場合、池谷裕二の本を読んでおけば間違いないというのが僕の中で不文律と化していたから、この本をクリニックに持ってきたことに特に疑問はなかった(言い忘れましたが、今僕はクリニックで入院しています)。池谷裕二の本であれば僕が興奮して読むことができるということを僕は何よりも知っているのだから。

 しかしてこの本を通して読んでみたとき、気づいたのは、僕のなかの池谷裕二があまりにも大きくなっているということであった。何故なら、あまりにもこの本の内容が僕の中で血肉と化し過ぎていたからだ。

 今回は久しぶりの再読で、多分僕が忘れていることも多いのだろうと期待しながら読んだのにも関わらず、「これは僕が普段思っている内容と同じなのではないか」と思わせる感覚。これに僕は衝撃を受けた。何故なら僕は本を読むのは好きなのだけど、そのプロセスがすきなのであって、結果は別に重視していない。どれだけそこから内容を覚えていられるかなどは必要に迫られなければ考えないし、そこからなんとなく自分に影響が出てくればいいかな程度に考えている。だから当然というか、この本にどのような内容がかかれているかなんて読むまですっかり忘れていたし、だからこそこの本をもう一度読んでみようという気になったのだ。

 だけど、そこに書いてあったことはほとんど僕が日常の中でおもっていたことだった。つまり、僕は本当に意識せずして、池谷裕二の意見を、さも出所が自分のもののように考え、今まで自分の考えの基盤にしていたのだ。これに驚かずしかて何に驚くべきか、というとちょっと大げさだけど、まさか無意識的に読んだ内容がここまで残っているとは理屈ではわかっていても体感ではわかってなかったのでやっぱり軽く驚かざるを得ない。なんということか!

 別に人の意見を自分の意見として吸収することが悪いとかそういうベクトルの話をしたいんじゃない。ただ僕がそれに気づかなかったという衝撃を書きたいだけだ。何故なら僕は池谷裕二という人の書いた書物は大好きだが、そこまで考え方に影響を受けているとは思っていなかったし、読み終わった内容をここまで自分が覚えているということも予想していなかったのだから。

 もっとも、本書の後半部分――イオンチャンネルだとかそこらへんの領域――はおそらく一度目の読書ではあまりなじまなかったのだろう、そこには充分な新鮮さを感じることが出来た、というか今でもちょっと難しく感じる。そこに多少しり込みと壁を感じてしまっている僕はおそらく研究者の道には結局進まないような気がするけれども、いずれにせよ考えの基盤にだ脳生理学的な考えがあるのは悪くないことかなと思っている。なんだこのまとまりの無い文章。

対話314 段々と幻想に現実が侵食されていく狂気

2010.03.25.10:31




村上 春樹 『1Q84 BOOK 2』

個人的読みやすさ:B
読書時間:3時間


 (前略)銃は自動車と同じで、まったくの新品より程度の良い中古品の方がむしろ信頼できる」(p.72)


 あるいは、徐々に現実がほどけていってしまうという現象。

 ついにBook2に入り、いよいよ現実がほどけていってしまっている作中舞台。現実は糸でつむぎまくってつくった織物のようなもので、それは普段均衡を守っているけど、ある表紙にそれがほどけていってしまって、宙ぶらりんな状態になってしまったりすることがある。そしてそのほどけた一本の糸の上を綱渡りしていって、果たして僕らは落ちずにいられることが出来るだろうか?

 現実と幻想、これは僕の人生の中でもかなり大きいウェイトを占める問題だ。真実はいつも一つ、というのはある有名な少年探偵の言葉だけども、しかし例えば織物の形は一緒であれど紡いでいる糸は違うかもしれないし、紡いでいる糸は一緒でも形は違うということはあり得るだろう。

 僕が幻想というものの存在を強く感じ始めたのはイメージストリーミングというものをやり始めてから、というのが一番要因として大きい。イメージストリーミングは簡単にいってしまえば幻想を強化する一つのメソッドだ。幻想と現実の最も大きな違いはリアリティなのだけど、しかし幻想はメソッドによって強化することが出来てしまう。例えば寝入りのときに現実と見間違えるほどの幻想を見たことはないだろうか?あるいは現実と同じ精度の夢を見たことは?あまりにも強いリアリティを持った幻想というものは確かに存在する。ただ現実との区別をつけるためにそれが弱められているだけだ。

 1Q84は幻想の世界だ。最初はまったくもって現実の世界の様相を呈しているのに、いつの間にか幻想の世界に入りこんでしまっている。現実が壊されるのではなく、現実が幻想に引き継がれていってしまう。幻想は現実の対立軸にあるのではなく、その延長線上なのだ。だから途中まで気づかないし、気づいてしまったらもうそこは幻想の世界で、その一本の糸の上に読者たる僕は立たされている気分になる。果たしてそこで落ちずにいられるだろうか?

 幻想を人が嫌うのは(あるいは好むのは)、そのセーフティーネット性の脆弱さがあるのかもしれない。現実とみなされているもの、あるいは共同幻想は地盤としてはかなり堅い。色々な人の糸が絡みあって、そしてそれが地盤を形成している。そこで足を踏み外すことはあまりない。たまに一気にそれがほどけてしまうこともありうるのだけど。

 幻想は、特にそれが個人のものであればあるほど紡いでいる糸は少なく、そこではサーカス団のピエロのようにバランス感覚が求められる。幻想とサーカスというテーマが結びつき易いのは案外この辺にあるのかもしれない。幻想の上に立つことは不安定で、土台は不完全だ。しかし、自分しか踏み込むことの出来ない地盤が――たとえそれがどんなに細くても――もっているということは、その上でバランスを取っている人にとってはとても神聖なことなのだと思う。

 小説を読んだときとそうでない本を読んだときでは僕の感想の書き方は大きく変わっている。この文章はまったくパラフレージングされていないし、あっちこっち僕の思考はいったりきたりする。多分比喩も行き過ぎているし、糸という言葉に僕は意図の意味を込めすぎているのかもしれない。でももしかしたらそれが僕が小説を読む意味であるのかもしれないし、小説の素晴らしいところはその現実の延長線上的な性格にあるのだと思う。駄文御免。

対話313 三人称小説の魅力とは何か?

2010.03.24.18:09




村上 春樹 『1Q84 BOOK 1』

個人的読みやすさ:B
読書時間:3時間


 本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっていう項目があったら、あなたはしっかりそこにしるしをいれるのよ。天国に行くとしたら、あなたはハゲの天国にいく。地獄にいくとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった?わかったら、事実から目を背けるのはよしなさい。さあ、行きましょう。あなたはハゲの天国に直行するのよ、これから。(p.116-117)


↑笑った。青豆さんみたいにハゲが好きな人がもっと増えたら僕も安心してハゲることが出来る。

 村上春樹を読むのは久しぶりだ。というか、そもそも小説を読むこと自体がものすごい久しぶり、といったほうが正確だと思う。僕が最後に小説を読んだ記憶は『ディスコ探偵水曜日』で止まっていて、きっとそれからいくつかの小説を読んだはずなのだけど思い出せない。最近読んだ小説の中で明確な形で憶えているのは『ディスコ探偵水曜日』だけでそれが確実なだけなのだ。サウンドノベルまで含めてよいのなら『うみねこのなく頃に散 #2』が一番新しい記憶だけども。

 そこで久しぶりに村上春樹などを読むと、どうしても表題のようなことを意識せざるを得ない。つまり、1人小説なのか3人称小説なのか、という問題である。
 僕は個人的に1人称小説のほうをよく読むことが多い。僕が一番好きな小説家は今のところ舞城王太郎だけだし、彼の作品のほとんどが1人称だ。

 そんな僕にとって、3人称小説は多分どこかよそよそしさを感じてしまうところに多少の距離感を感じてしまっているのだろう。よそよそしさを感じているので距離感を感じるのは当たり前、というかまるで説明出来ていない気がするのだが、そう思うのだからしょうがない。別に3人称小説を読まないわけではないし、むしろ読んでいる本の中では3人称小説のほうが多いかもしれない。それにも関わらず、僕は1人称小説に惹かれつづけた。


 突然だけど、僕は小説家になりたいと思ったことがある。正直に言えば今でもそういう道をいくのは悪いことではないなと思っている。これはほとんどの人に言ったことはないけど、昔いくつか超短編の小説を書いてウェブにアップし、その限られたサイトの中ではそこそこの評価を受けていた。内容は割としょうもないものであったので割愛。変態系だったことだけは疑いがない。

 そしてそのときも僕は1人称小説を書いていた。正直それが小説なのかどうかも疑わしいくらい、僕はその主人公に成りきろうとした。その小説の主人公と僕を取り巻く環境は全然違うし、それは身体的条件であったり歴史であったり、ポリシーであったりするのかもしれない。だけど、意識を持っているという点で僕と彼らは共通し、それゆえに僕が違う身体的条件をまとい、歴史をまとい、ポリシーをまとうことで、僕は別人として存在することが許された。書き手としての1人称小説の面白いところはまさにそこにあるのであって、それは一つのペルソナをつくり、そのペルソナが生きることが出来る箱庭を用意してあげることに他ならないのだ。

 一方、僕は3人称小説を書くということにどうしてもそのときは意義が見出せなかった。それは多分小説を上記のように利用していたからだろうし、人によって小説の使い方、あり方というものは違うものだ。1回だけトリックのために3人称小説で書こうとして、途中で乗らずに諦めてしまった。3人称小説だとどういう文体にすればリアリティがでるのか?ということがまるで分からなかったし、出てくる一人一人にリアリティをつけてあげるだけのスキルは僕にはなかった。程なくして、僕は小説を書くことをやめてしまった。小説書きとしての僕はその夏の間存在していただけだった。


 さて、1Q84を受けての文章だったのに、随分と1Q84から遠ざかってしまった。だらだらと思わず書いてしまったけど、僕がこの本を受けて言いたかったのは一つ。それは「3人称小説はその全体に通じる文体の魅力そのものであり、それは1人称小説とはまったく違う」ということ。

 1人称小説を書いていたとき、僕はそこにリアリティを追及していた。リアリティというのは感情のリアリティだ。僕がその立場ならこう思うのではないか?ということをなるべく書こうと試みたし、1人称小説でそれがある程度で納得行けるレベルでかけたのは、そこの主体は1人だけだったからだ。僕の書いた1人称小説で主人公以外の他の誰も話すことはなかった。それは僕が恐れていたからだ。何を?その人が話す内容にリアリティを持たせられるかわからなかった、ということだ。僕は登場人物がただのコマのように現れてはいけないものだと思っていた。特に、現実では起こりえない喋り方をする女の子などは絶対に登場させたくないと思っていた。

 だけど、果たして「現実ではいないだろうキャラクタ」をつくることは果たして罪なのだろうか?と村上春樹を読んでいると思わずにはいられない。村上春樹の文章はまさに村上春樹。一回読んだらもう村上春樹だと思うし、もし村上春樹じゃないのだとしたらそれは良く出来たフォロワーなのだろう程度にしか思わない。それだけ彼の翻訳文体は個性的で、ある意味どの作品を読んでもその文体を見ただけで一種の関連性を感じてしまう。たとえ内容がまったく違うのだとしても、村上春樹の書くものは村上春樹らしい作品以外にありえないのだ。少なくとも彼がその文体のスタイルをまるっきり変えない限り。

 そしてそれこそが僕の認識のパラダイム転換である。彼が例えば1人称小説を書くことがあるだろうか?実際僕は彼の小説の全てを読んだわけではないので、もしかしたら今まで1人称小説もあったかもしれない。それでも僕が今まで読んで記憶に残っている作品のほとんどは3人称小説の体裁をとっていたし、それだからこそ村上春樹であった。村上春樹は物語の登場人物の口調のリアリティだとか、そういうものは眼中に入れていないのだ。いや、もっと正鵠を帰すのであれば、それは村上春樹の作り出した世界の上にのっとったリアリティなのであって、それは僕らの現実のリアリティとは違うのだ。

 これは気づいてしまえば当たり前にしか感じられないのだけど、まったくもって僕が見逃していたことでもある。
何故か僕はリアリティというものを考えたとき、この現実におけるリアリティのことを考えてしまっていた。そして考え直したとき、別にこの現実にそぐわない世界に乗っかったリアリティというものがあっても良いのではないかという気がした。たとえば村上春樹的な世界に村上春樹的なリアリティを持って、キャラクタが台詞を吐く。1人称小説だとそのキャラクタに主眼が置かれるけれども、3人称小説でより強調されるのはその全体の世界観なのだ。つまりそこに流れる文体だとか、全体の音楽性みたいなのが試されるのが3人称小説なのだろう。

 なかなか3人称小説は素晴らしい、というか1人称小説とはだいぶ性格が違うのだな、ということが今本当に実感できる。たとえば僕がなんらかの物語を今後つくるとして、それは1人称小説がふさわしいのだろうか、3人称小説がふさわしいのだろうか。これはなかなか面白い問題。

対話312 マジでつまらない本に遭遇したらどうすればよいのか

2010.03.24.17:12




収入倍増研究会 『年収300万円稼げる!サイドビジネスの法則』

個人的読みやすさ:A
読書時間:10分


平成15年度以降は無貯蓄層が2割を超えている状況なのです。(p.10)


 サイドビジネスに凄い興味があったわけではなく、病棟にあった本に適当に手を出しただけなのだけど。
しかしこの本を読んでみて思うのは、これから雇用の形態はどんどん変わっていくのだろうな、ということ。
僕自身、多分一つだけのことに取り掛かってそれだけのことをやるということはやらないだろうし、多分サイドビジネスのようなもののいくつかに手を出すかもしれない。そういう意味で、サイドビジネスという価値観がこれから広まるのかなという雰囲気はなんとなく本書からは伝わってきたともいえる。

 けども。
 けども今回は声を大にして言いたい。
 
 本書は本当につまらなく、何故この値段の部分に1200円と記載されているのか真剣にわからない。

 これはある意味僕にとっての敗北である。
 基本的に僕の読書スタンスは、その本の価値について考えたり判断したりすることはない。勿論それは最終的に心のどこかで行なわれることなのかもしれないけど、少なくとも僕は批評家的に本を読むということはあまりしない。

 そして僕はなるべくそこから「面白い」と感じられる部分を拾い出そうと努力する。努力する、という言い方に違和感があるのだとしたら、面白さに対してアンテナを張る、と言い換えてしまっても構わない。僕がしたいことは批評家気取りで文章を書くことではないし、結局は素晴らしい文面に遭遇したいだけなのだ。僕の中の何かをかき回す何か。僕の頭の中をゆさぶる何か。そういうものを求めているわけだし、かといっていたずらにそれらに神聖を持たせようとも思っていない。僕は素晴らしい文章、素晴らしい着想、素晴らしい情報にカジュアルにたくさん触れたいのだ。

 だから世間的につまらない、といわれている本でもそこになるべくの面白さを見出そうとする。つまり、僕の読書はそちらにベクトルが向いたある種の指向性を持った読書である。もしかしたら今後そういう読み方以外の読み方をするかもしれないし、実際高校生の頃は幾分分析的に読んでしまっていた気もする。それは悪いことではなかったと今でも思うし、多分その時期の問題なだけなのだろう。

 話を元に戻す。この本は凄くつまらない。何回太字にしても繰り返してもいいくらいにつまらない。 むしろ何故これを書籍という体裁でやってしまったのか僕には理解が出来ない。たまに書評を読んでいると「こういうものはブログでやればいい」と書かれているものを眼にして、そのたびに僕は「でも書籍にすることによる意味って絶対あると思うけどなあ」と思っていたが、この本は別。というかまず薄い。10分って書いたけどリアルに5分で読める。その程度の分量であれば本当にブログでよいのではないだろうか?多分ブログであれば僕は特に何を思うこともなかっただろう。

 いや、多分分量はそれほど関係ないのかもしれない。実際、この本より薄くていい本はいっぱいあるわけなのだから。内容が、本当に、本当に、薄すぎる。よく出版社はこれを通したものだ。この本についてはほとんど調べていないが、自費出版なのだろうか?それならわかる気もするが、正直クオリティは大学生がつくったもの以下だと思う。というか高校生でももっといいものが出来る気がする。中学のときに出版した女の子がクラスにいたけど、多分あのコのほうが圧倒的に色々な人の支持を受けるものを書いていただろう。

 日本は本当に簡単に本が出版出来すぎてしまう、ということがたまに問題にされることがある。僕が読んだものは、そうすることで本が過剰に出回り、結果として受け取り手が「つまらない」本に当たる可能性が上がり、本からやがては遠さがって行く、というような内容だった。それはそうかもしれない。けど、出版の敷居が低いことそのものには僕は別に悪感情を抱いていない。それだけ夢を抱き易く、閉ざされていないということを意味しているのだから、供給側としてはありがたいことに変わりはない。

 だけど、本当にしつこいんだけど、この本は僕の中で想定されていた最低基準すら満たしていない。多分僕が読みきった本の中では一番酷い。そもそも年収300万稼ぐ、というものに何故固執しているのかわからないし、そのせいで全体的な内容を薄くしてしまっている。100万、200万、300万向けのバイトなり働き方なりを分野別に提案しておけば幅広いニーズを満たせるのに、何故300万稼ぐために消去法で様々な選択肢を消していくのかわからない。

 そして結論も酷い。複数の選択肢を提示するのではなく、ただ一つの企業に結局は結論が行き着き、しかもインタビューをしているという現実的接触、ちょっと分野は違うけどこれは典型的な宗教勧誘本だな、と思った。いや本当に酷い。もう何回酷いって思ったかわからないほどに酷い。むしろここで紹介されている木下工務店にとっては悪評につながるのではないか。たとえば「この本はそもそも木下工務店を支持するという目的のために最初から図られてつくったのではないか」というように。

 本当に面白くなさそうだな、と思ったらその場で本を閉じること。これは本当に大事な決断だ。そのほうが時間の節約になるし、より有意義に人生を使うことが出来る。不運にもこの本があまりにも薄いので、そうしようかと迷っているうちに読み終わってしまったのが今回だけど、いやでも本当ないですこの冊子。「これなら俺でも書けるぜ」と思うことは大体が幻想なのだけど(実際に書くのは本当に大変だと思う)、でもこれなら取材も入れて本当に1週間以内に作れます。

対話311 アイディアは人にすぐ伝えるべきなのか?

2010.03.23.23:01




佐久 協 『高校生が感動した「論語」』

個人的読みやすさ:A
読書時間:40分


 道すがらせっかくためになる話を聴かせても、すぐにそれを別の人に話して聞かせる者がいるが、それでは自分が身につけるべき徳という宝物を道ばたに投げ捨てているのと同じだね。(陽貨第十七―十四)(p.79)


 高校生の頃、僕は漢文がそこまで好きではなかった。そこまで苦手科目ではなかった気もするのだけど、どうも訳文を見てもわかりづらい、そういう感触があったからかもしれない。

 この本は慶應高校で人気ナンバーワンだった教師が書いた「論語」に関する本だ。そこに書かれているのは非常にわかりやすい口語訳と原文で、よくありがちな堅苦しい日本語だったり、不自然だったりする日本語ではまるでない。むしろ、原文の中では対象のわかりにくい文章を作者が解釈し、それを現代のケースに置き換えて見事に説明してたりする。現代の人にわかりやすいように、というのが主眼だと思われるので、ある意味時代性がそこまで感じられない教訓集のように受け取ることも出来るのだけど、むしろそれが僕に「論語」への興味を抱かせてくれた。やっぱり導入はわくわくするものではなくては!

 この本はもはや孔子の名言集というような体裁になっているので、結構トピックが広くにわたっている。だからこそ書きたいことが結構出てきてしまうのだけど、一番考えさせられたのは引用に出した部分。つまり、「自分の体験をどこまで、そしてどのタイミングで他人とシェアするのが良いのか?」という問いだ。

 この問題を初めて考えたのは確か高校生の頃だったように思う。あの頃僕は常に「報告」することが正義だと信じていた。ウェンガー博士が言っているように、観察したものを描写することはそれに対する感受性をさらに高めてくれるのだし、人に話すと思っているからこそより多くのものが見える。そして自分の言葉にしてそれを流すことで、その考えを自分の血肉へと近づけていける。
 だけど同時に僕はその考えにも不安を持っていて、キッカケはある掲示板で僕の尊敬する――実際は会ったこともない人なのだが――が、「人に曖昧な時点での着想を話すとそれが自分の中から逃げてしまうのではないか」という文面を掲示場に放り投げていたのを見たとき。
 僕はてっきり自分の意見を表明することが正義でありそれが自分の中への定着に繋がると思っていたし、話すことが曖昧さのシェイプアップに繋がると思ってたので、これを見たときは自分はどういう態度を着想にとってすればいいのか結構悩んでしまった。


 あれからいつの間にか3年以上、もう3年以上経ってしまったわけだけど、今自分なりに出せる結論としては一つ。
 それは「自分に定着させたい着想ならしばらくは自分の中で寝かしたほうが良い」ということ。


 僕は昔から、ひらめきとか着想のことをある種の幽霊のようなものだと思っている。僕は除霊師であり、着想を成仏(外へ放出)させることで成仏したい着想が僕のところへ次々来て、晴れて僕は有能な除霊師になるというわけだ。僕と着想の間には確固たる信頼関係があるべきだし、あの世に導くことも出来ないヘボ除霊師だったら着想は寄り付かなくなる。着想業をやる場合、やはり定期的に、ある一定以上のリズムを持って、アイディアを昇華させて現実世界に着地させるべきなのだろう。

 だけど、例えば出てきた素晴らしいアイディアを、シャーマンキングよろしくオーバードライブさせたいとしたら?つまり、その着想を守護霊のようにしたり、その霊の力を借りたいなと思ったとき、それをそうそうに成仏させることが果たして正しいのか?という疑問がわいて来る。つまり、掲示板の先で僕の尊敬する人が言っていたことはそういうことなのだ。それを身体に定着させたいのだとしたら、一定以上そのアイディアを自分に憑依させなければならない。

 人に聞いた話をそのまま人に伝えることは、「その人がそう言っていた」という記憶は強化されるかもしれないけど、しかしそれは自分が主体ではない。人の話を聴いてそれを自分の言葉でメモをすることは今でも正しいと思っているしむしろ自分の身体にしみこませるためにするべきだと今でも思うけど、でもそれを人に伝えるか伝えないかでやはり違うのだ。たとえばワインのように、素晴らしい着想は一端仕入れたら少し寝かしたほうがいいのだとおもう。人のアイディアを自分のものにする方法には自分の言葉でもう一度噛み砕く他に、時間をかけてそれをじっくり身体に浸透させるというやり方があるのだから。

対話310 池田 光穂 『実践の医療人類学―中央アメリカ・ヘルスケアシステムにおける医療の地政学的展開』

2010.03.19.13:01




個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間20分


別の角度からいうと、世界保健機関以前には、病気の欠如態が健康であると理解されていたものが、病気の欠如態意外に健康があるという形で積極的に獲得されるべき属性として登場したのである。この健康概念の延長上にあるのが、近代医療批判としての「医療化」論である。(p.69)


 以前読んだ医療人類学の本よりも、さらに詳しい実体験に基づいて書かれた医療人類学の書籍。ここで取り上げられた国はホンジュラスなどの僕のあまりよくわからないところが中心だったのでその点で理解度が落ちたが(これは人類学系の本を読んでいるときによく起こる現象)、以前よりも俯瞰的に「医療人類学とは何か?」について考えることが出来た。

 特に刺激的だったのが、医療人類学を通して、現代僕らが受けている近代医療そのものを相対化することが出来る、という点であった。近代医療はもはや日本において生活に根ざしているので、むしろそれを受容しないことに非難があるくらいだし、実際に僕が薬を飲まなかったり病院に行かなかっただけで周りからは非難の目で見られたり新生物を見るような目で見られることもしばしばである。僕は病院が嫌いなのだ(とかいいつつ今治験のボランティアなどやっていますが)。

 筆者もそのような考えを持っていたようなのだけど、しかしながら実際に現地へ向かったときにもう一つの医療人類学の側面が顔を出さざるをえない直面にぶつかるという。つまり近代医療と現地の医療に対する考えの調和である。実際に近代医療が発達していないところでは状態が酷いということもままあるらしいのだけど、そういう場合でも近代医療をすんなりと受け入れる地域ばかりというわけではないらしいのだ。むしろよくわからないものとして疎まれたりすることもあるらしく、サルベージ人類学のように「押し付け」にならないようにどうやって近代医療を伝えるか、という点についても充分に考察の余地があるだろう。なにせせっかく苦労して現代的な簡易トイレを作っても、相変らず使われないということもあるそうなのだから。

 もっとも、現地の人々全員がそういう考えを持っているわけでもなく、時によってば近代医療というのは憧れの的であったり、その流れで現地の医療を否定するような人もぽつぽつ出始めているらしい。そういった動きは勿論地域の時性によって大分変わるのだろうけど、この医療という水の流れがどのように未来にルートをつくっていくのか、その動きには興味が湧いた。

 ちなみに、現代医療を受容できるのはその地域でやはり都市部の人のほうが多く、そういった場所のほうが理解度が高い。また、そこで育った子どもも現代的な医療を学びその後都市部のその地域に還元するので、実際は農村部などにきちんとした現代医療が流出するのはまだ時間がかかるといえそうである。

対話309 津田秀晴 『傷つきやすい人ほど営業は上手くなる』

2010.03.19.07:00




個人的読みやすさ:A
読書時間:30分


 トヨタ自動車の「カイゼン」は世界的にも有名なキーワードになっていますが、その思考を支えるのが、「なぜ?」を五回繰り返すっ習慣だといいます。
 なぜ? を繰り返していくと、問題点の本質にたどり着けるからです。
 ただし、営業職の場合は、精神的な負担がとても大きいので、「できなかった理由」よりも、「どうしてできたのか? 何をすればいいのか?」とプラスのイメージを具体的に描いていく方がいいでしょう。「なぜ?」も使い方を間違えると辛くなります。
 成功した要因を分析しておくメリットは、「その理由を自分でしっかり理解することで、得意のパターン(成功レシピ)が身に付くから」です。(p.190)


 ドーキンスに少し疲れたので手軽に読める本を読もうと思い久しぶりにビジネス書など。そういえばこのブログは最初ビジネス書読みから始まったのに、最近はあまりビジネス書を読むこともなくなったような気がする。飽和期かな?

 「ビジネス書はほとんど内容が同じで言い方を変えただけ」とはよく言われることだけど、この本は「営業」という点にこだわって書いているのでその点他の本とは差別化できている。amazonを見る限りあまり売れなかった本なのかな?とは思うけど、別にこの本がベストセラーの棚においてあっても僕は色々な意味で普通に納得するので、売れる本というのは内容もさることながらやはり売り方が大事なのだなあと思う。

 話が逸れた。本書は僕のような将来特に営業職一本で食べていく気の無い人間にとっても、メンタルの保ち方とか対人関係において参考になることが多い。引用部分は確かにその通りで、マイナスのことを何故何故問うよりも、ポジティブな方向で勝ちパターンを確立させたほうがよほど参考になるというのはごもっともな気がする。もっとも、今まで本能的にやっていたものを分析してしまったことでぎこちなくなってしまう、というメタ認知特有の問題点は出てしまう気がするけど、まあそこ等辺はご愛嬌というかいずれぶつかる道だから、ということで。

 そのほか、自分にとって足りないなと思ったところとしては、一つに絞った集中力とか、声を出し方(他のデータによると第一印象は声で40%くらいもってかれるらしい。怖い)、しつこいと思わせない交渉の仕方とか、アポはその場で取るだとか、実践したいことはその場で自分の言葉でメモを取るだとか、色々な点でなるほどなあと思わせる記述があり、ビジネス書も毛嫌いせずに読めば色々と自分にプラスになるのだなと実感。本書にしたがって、その中でも特に自分が活かしたいなと思ったものにはメモをつけて、これから自分なりに実践していけたらと思う。

対話308 リチャード・ドーキンス 『神は妄想である―宗教との決別』

2010.03.18.15:26




個人的読みやすさ:D
読書時間:4時間くらい


もし、大人になった彼らの自己が語る証言が信じられるなら、想像上の友達をもつ正常な子供のうちの、少なくとも一部はその存在を信じており、いくっつかの場合には、明確で真に迫った幻覚を見ている。私の思うに、子供時代のピンカー現象は、大人の有神論的な振興を理解するためのすぐれたモデルなのではないだろうか。(p.513)


 長い……とにかく長い……!久しぶりに500ページを超える科学エッセイを読むのには結構な体力を要するということがよくわかった。とはいえアメリカの本とかたいてい分厚いのが多いので、これでも大したことはない分量のほうなのかもしれない。アメリカ怖い。

 さて、本著ではもうものすごい勢いで有神論、特にキリスト教のような一神教を否定し、否定するだけではなくいかにそれが害悪であるかを力説している。正直日本ではそれほど宗教って目に見えるものではないし、むしろキリスト教の友人などはかなりの珍獣に値するので喜んで話を聞きにいってしまうくらいなのだけど、ことアメリカにおいてはそういうレベルではないらしい。

 確かに昼間からテレビ宣教師が色々いってたり、インテリジェンスデザイン論とかがものすごい勢いで跋扈しているような環境下のドーキンス(ドーキンスはアメリカ人じゃないけど)と、比較的のほほんとした日本では状況はだいぶ違うのだろう。ということで、むしろ僕はドーキンスにここまで書かせるくらいアメリカ・西洋社会はいまだ宗教的な社会が守られているのかー、というところに関心を持ったりした。確かにこの間アメリカ南部から遊びにきた高校生一団はみんなキリスト教徒だったような気がしないでもない。

 話はもう色々なところに広がっているので正直感想も収拾をつけづらいのだが、僕のかねてからの問題意識があった「どこまで文化相対論をとればよいのか」という問いに対して、ドーキンスが彼なりの回答を提出していたのが面白い。
 文化相対論とはつまり文化の多様性を認めるべきであるというポジションで、究極的には他人の文化にあれこれ構うのではない、という言説に繋がるものである。
 文化相対論は一見聞こえがいいぶん、極端な文化相対論下においては、僕らが考える”基本的人権”が剥奪されているような文化に対しても同じような言説を取らざるを得ないのだけど、ドーキンスはそれにたいして「世界中の選択肢を示したあとで、果たしてその人がその文化を選ぶかどうか」というところで判断するべきであるという。
 しかも彼は幼年期の宗教の押し付けはもはや犯罪的であるとこの本の中で繰り返し述べているので、実質判断力がついてきたとおもわれる時期に提出して反発しない程度の文化、ということになるのだろう。
 僕はシンプルに「その文化に属している人が悲劇を感じているのならば他の文化圏に逃れられるよという選択肢を与えてあげればよく、特にそうおもっていない場合はいいんじゃないかな」程度にしか考えていないが、この問題は人類学においても結構大きな問題ではあるなと感じる。

 また、神や宗教の役割として僕は社会システム論などのほかに「alternativeかつsuperiorな自己」の側面がある(簡単にいえば頭の中に自分より優れた人間がいたほうがいいでしょ、という意味)があるとおもっているのだけど、上記の引用のようにドーキンスが最後の最後でそれに対して触れていたのは良かった。

 ちなみに僕のポジションは「宗教を別にかばおうとはおもわないけど、儀式は人間に必要であって、宗教はその儀式の効果を加速させる役割があるな」という感じ。
 たとえば「自分より優れた自己」を生み出すのにシャーマニズムなどで取られる手法は役に立つし、宗教などで繰り返し生活に根ざす形で神をかたどることによって、それを生み出すことに貢献しているのは特に異論もないことであるとおもう。

 ただ、ドーキンスの述べたように、特にマジョリティとしての宗教が生み出す害悪もこれまた言うまでもないはずなので、現代においてはむしろ機能的に考えて、宗教というほかに同じような装置を作れないか、というような形で議論がシフトされるべきなのかな、とおもう。昨今のスピリチュアリティとか能力開発というのは宗教のオルタネイティブ的な役割がやっぱり強いとおもうのだ。

対話307 福島 章 『天才、生い立ちの病跡学(パトグラフィ)―甘えと不安の精神分析』

2010.03.18.14:56




個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間

 「偉大な音楽は、そのいわんとするところをじかに感じさせるだけのすぐれた想像的特質をもつべきだ」と信ずるコーリン・ウィルソンは、バッハを愛する一女性を「感情に身を任すことを恐れているからではないか」と否定的に診断した後、自身は「何もないのならバッハでも結構だが、ベートーヴェンやマーラーのほうが良い」と、はなはだ冷淡な態度を示している。安部公房氏は『他人の顔』の中で「音楽のよき鑑賞者ではないが、たぶんはよき利用者」と自認する主人公に、次のようにいわせる。

 思考を一時中断させようと思うときには刺激的なジャズ、跳躍なバネを与えたい時には思弁的なバルトーク、自在感を得たい時にはベートーヴェンの弦楽四十奏曲、一点に集中させたい時には螺旋運動的なモーツァルト、そしてバッハは、何よりも精神の均衡を必要とする時である。(p.122-123)


フロイトの精神力動的観点から見た芸術家、文芸家の精神分析を集めたもの。構成が面白く、前半パートが主にヨーロッパの作曲家、後半パートが日本の文筆家なのだが、文筆家のほうが平均的に見て長文(特に三島と夏目)であり、作者はよほどこの二人に関心があるのではないかと穿ってしまう。

 まあそれはともかくとして、普段僕はあまりフロイト的な分析本は読まないのでこれはこれで面白く読むことが出来た。
特に面白いなと感じたのは引用にも入れたような「その音楽を聴いたとき、どのような精神状態を得ることが出来るか」についてで、これが果たして科学的に本当にそんなことが言えるかは結構怪しい気がするけど、すくなくともラベリング効果でそういう効果を出すことは出来そうだ。こういう一種の信仰が流布すればまるで音楽をサプリか何かを取るように摂取する時代がくるかもしれない――ここまで書いたところで、よくかんがえたら「ヒーリング」だの「リラクゼーション」だの、そういう戦略はとっくのとうにとられていたことに気づいた。

 また、細かいところだけどそれぞれの文筆家の学者によって性格がかなり違うというのも、当然といえば当然かもしれないがなかなか面白い。筆者いわく、三島の学者はエキセントリックというか、ものすごいカオスな感じらしいのだけど、中原のような作家の場合は比較的温和で理性的(?)な方が多いのだという。その文章に、特に研究者になりたいと思わせるくらい惹かれている人間を集めてみれば、性格的に有意な勢いで差がでるのはこれまたある意味当然のことかもしれないけど、なかなか刺激的。

 精神分析的なところからちょっと離れてみると、各人物のバイオグラフィーが一面的ながらさらっとわかったのがよかったようにおもう。特に最近僕は文学からもクラシックからもちょっと離れつつあるので、また再び興味を抱かせてくれるには充分なくらいだった。とりあえず当面はバッハの色々な曲を聴き、そして川端の『眠れる美女』を読みたい。あと、ここでは分析されていなかtったけど、久しぶりに安部公房の小説をがっつり読んでみたいという気持ちにも駆られる。僕が安部公房のことを考えるなんて今思い返せば高校の時以来のことであって、あの時の僕は今日という日まで死んでいたのだろうか?

 まったく、この本はやや古いということもあって色々と懐かしい気持ちにさせてくれる。最近こそあまり読まなくなったとはいえ僕が心理学のことを学ぼうとした最初期はやはりフロイト的な文章を読んでいたし(あの頃からいまいちしっくりこなかったが)、文芸を一番読んでいたのも高校生の時である。Amazonを見る限りこの本は今に至るまで読み続けられてきた本というわけではなさそうだけど(実際僕が読んだ経緯は母が読んでいたものを貸してくれたからだ)、そういう本だからこそもしかしたら読者をタイム・スリップさせるような効果があるのかもしれないなとおもった。

対話306 池田 光穂 『医療と神々―医療人類学のすすめ』

2010.03.17.19:52




個人的読みやすさ:C
読書時間:50分


またニューギニアでの研究が指摘するように人間はかなりの低タンパク摂取に適応することができるので、世界的な標準から外れた食物摂取の<普遍的な>劣悪さを設定し、<理想的な>食事があると考えるのにも問題がある。


 来学期に開講される医療人類学というフレーズに興味を持ち、「んでは医療人類学ってなんじゃらほい」ということで全体的なことをなんとなく網羅しているのではないだろうか、というような本を読んだ。

 この本の構成はなかなか面白く、1部が医療に関する世界各地の神々、そして2部に医療人類学とはどんなものであるか?というのがやや専門色濃く概説されている。不幸なことに、僕自身にあまり神に関する知識がなかったので、あまりにも有名な神々以外は「そんなのもあるのか……」程度に軽くスルーしてしまわざるを得なかったのだが悲しかったけど、それでも医療に関する神々は一つの文化においてでも無数に存在していることがわかった。あるいは、昔はばらばらだったものを僕らが医療、と一まとめにくくってしまっているだけかもしれないけど。

 さて、上記の引用についてだけど、医療人類学の概説を読んでいて面白いなと思ったのはそれが食物の摂取などにも及んでいるということ。確かに僕らは公式的に正しい食物の取り方、というものをついつい信じ込んでしまうけど、多かれ少なかれ人によって違いはあるわけで、最終的には一人一人に違う食物のとり方、もっといえばそのときに一番適している食物をとるのが良い、ということになるのだろう(人間は数年すればほとんど肉体的には入れ替わってしまうわけだから)。んではそれをどうやって判断するのか?ということになるのだけど、究極的に考えて、これはやはり知覚・本能を磨くしかないのかなあという気がする。

対話305 茂木 健一郎 『脳と仮想』

2010.03.17.13:15




個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 一角獣や、麒麟のように、現実に対応するものがない仮想の生命力はそれなりに強い。現実とは別に、。そのような仮想の世界を構築しておけば良いからである。その一方で、現実と正面衝突する仮想の寿命は儚い。(p.44)


 その存在があまりにも有名な、一部には悪名高い、茂木氏の著作。確かこれで読むのは2冊目か3冊目なのだが、僕の場合これをエッセイ集として読めば特に気になることもなかった。

 彼がクオリアや仮想で説いているのは、人間の意識など定量化できないものを無視して話を進めようとするな!という近代科学に対する反発であり、彼のポジションはファンタジーというよりはアンチサイエンスに近く、その点では僕も似たような気持ちを持っているので割と同意。ただ、人の意識に迫るためには様々なアプローチがあるわけで、クオリアの重要性を認識することは大事だけども、それをもって科学的に物事を進めることは(茂木氏も了解済みだろうが)否定するべきことではないな、と読んでいて実感した。

 本文中では上記の引用部分に強い関心を持った。すなわち、どのような仮想が生きやすいのか?という疑問である。
僕はこのような感じの問題を考えたとき、思わず人が模範とする理想像について考えずにはいられない。

 おそらく、もっと前の時代には、あるいは地域によっては、現実とかけ離れた人物が理想像、規範像として挙げられていたように感じるのだ。例えば、尊敬する人は、敬愛する人はイエス・キリストであるといったように。イエスは一応存在した人間ではあるけれども、同時に宗教的な神秘性を深く背負い込んだモデルでもある。いつからかはわからないけど、人はこういう存在を自分の規範であると堂々といわなくなったんじゃないか。それはもしかしたら宗教否定が激しい日本において、というだけなのかもしれないけど。

 では代わりに何が理想像として台頭してきたかというと、坂本竜馬など「実在したしそのように伝記や資料には記されていた」とされる人物である。昨今、竜馬を扱った媒体はもう数え切れないほどで、僕の周りでも竜馬を崇拝視している人は少なくない。けれどもその構造を考えるならば、イエス・キリストと坂本竜馬にはかなりの共通点があるように思うのだ。ただ、前者は宗教というレッテルが差し込まれるのに際し、坂本竜馬への崇拝に対しては世間的な圧力が加わることはほとんどないように思う。両者とも現存していないという時点で仮想の存在。しかしその仮想の中にも、社会的戦略を考えたときに明確に違いが存在しているのだ。戦略として、現代ではさも坂本竜馬をモデルにしたほうが社会的に素晴らしい、というような規範みたいなのがあるのではないだろうか。まあ僕はキリシタンでも坂本竜馬ファンでもないのだが。

対話304 森下 伸也, 宮本 孝二, 君塚 大学 『パラドックスの社会学』

2010.03.16.23:07




個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間


 しかしながら複製技術は、芸術を享受する態度も大きく変化させた。「気がむけばいつでもどこでも楽しめる」という弛緩したこの感覚が、「この作品に接することができるのはいまこの瞬間だけだ」という緊張にみちた感覚にとってかわり、芸術作品をヒマつぶしのための消耗品や一種のアクセサリーと見る態度が、荘厳な宗教的儀式に立ち会うときのような厳粛な雰囲気にとってかわったのである。その結果、芸術作品からはかつての強烈な神秘性がうしなわれることになった。ベンヤミンはこうしった現象をアウラの消滅とよんだ。(p.201)


 最近ちょこちょこと社会学の本を読む機会が増えてきた。思えばそれほど敷居が高いはずのない社会学を何故今まで遠ざけていたのか(社会心理学という側面からは読んできてはいたが)よくわからないけど、この本はパラドクスという視点からまとめたという点で面白いアプローチである。内容も平易でほとんどよくわからない、ということはなかった。

 特に面白かったところが二点。一つは上記に引用されている箇所の部分で、物事の一期一会性というもの。色々なものが再生可能な現代においてはなかなかこれを確保することが難しくなってきているのは事実で、だからこそよくわからない一回性のセミナーとかに皆高いお金を払ったり、人との対話などをもうけてくれる場所に結構なお金を出すのかもしれない。過去においては再生可能にさせてくれるもの(たとえばCDやビデオなど)がものすごく価値を持っていたのだろうけど、現代の日本においてそれは逆転してしまっているのだろう。

 もう一つは自然科学と社会科学の違いについて。筆者によると、社会科学は予言をすることでそれ自体が破られてしまう、という性質を持っているらしい。それは人間を取り扱うからであり、つまり再現性が保障されない、ということである。
 自然科学の学者と社会科学の学者がいまいち仲良く見えないのは多分この点に対する価値観が大幅に違うからであると予想されるが、再現性の観点でいえば生命科学、特に人間の脳などを扱ったものは結構面白いポジションに立たされているのだろうなと思う。
 脳は可塑性を持っているから、確かに毎回同じ入力をすれば確実に同じ結果が、ということは出来ないし、環境のアフォーダンスを認識してしまったとしたらそれに対してのメタ視が働き、次回は違う行動を取れる確率が上がる。つまるところ、自分のパターンを対象化することで、自分とそれを切り離すことが出来るようになるわけである。
 その切り離しのパターンが、つまり自己へのメタ視の性質についてを研究するのは自然科学的でもあり社会科学的でもあり面白い領域だし、個人的にはそこの中間らへんのことを研究領域にしていきたい。っていつの間にか自分の話になっているが。

 パラドックスという言葉もなかなか興味深く、確かにまったく知識がない状態で望めばすべてこの本にあげられた事例はパラドックスに見えたのかもしれない。しかし本をちょこちょこ読んでひねくれはじめると素で「え、別にパラドクスじゃなくない?」と考えてしまう自分が存在するわけで、パラドクスではない正常な状態というのは絶対的なものではなく、ある程度社会的な常識に関係したものではないか、と思うに至るわけである。多分何を言っているのかよくわからないと思うが、これは自分でもよくわかっていないのだから仕方がない。

対話303 マルコ イアコボーニ 『ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』

2010.03.16.20:47




個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間半


 結論。人間は大学教授のことを考えるだけで賢くなり、サッカーフーリガンのことを考えるだけで阿呆になる!この研究をアプ・ディクステルホイスはこう要約している。「関連研究によってもはや明らかとなっているように、模倣は私たちを変えることができる。私たちは模倣によって緩慢にもなれば迅速にもなり、賢くもなれば愚かにもなり、数学が得意にもなれば不得意にもなる。」 (p.245)


 ミラーニューロンに関しては他の書籍でちらほら読んでいたのだけど、もうちょっと深く勉強したいなと思い本書を手に取った次第。結果大当たりで、むしろこのミラーニューロンという存在だけで神経科学を勉強するのには充分な理由を秘めているくらいこれは面白いものだと思う。

 引用のものなんて、いかに人間が環境に影響されるかの一つの証左のように思えてならない。以前他の本で「数学の問題を解いたあとと感傷的なドラマを観たあとでは論理的思考能力に差がでる」ということがなんらかの実験で確かめられていたという記述があったと記憶しているのだけど、上記の内容もまさにそれの類似例だろう。生まれか育ちか論争は結局「生まれも育ちも影響あるよね」ということで落ち着いた気がするが、このミラーニューロンの存在を充分に活かすことが出来れば育ちの部分のウェイトをさらに大きくすることも可能になるかもしれない。また、ミラーニューロンという観点から学習の面で見直しが起こるということも考えられる。例えば僕は以前モデル思考という、イメージストリーミングの一つの応用テクニックをチョコチョコやっていたのだが、あれはまさにこのミラーニューロンを最大限に駆使していた作業に違いない。

 #僕はこの夏、このまま順調にいけばアメリカに1年間ぐらい留学することになるのだと思うけど、もっと神経科学のことについて具体的に学びたい、という思いをさらに強くさせてくれた本。よくをいえばこの本ではUCLAの研究ばかり出てくるので(筆者がUCLA所属のため)、UCLAにいければよかったなとも思うが、大学院以降もし機会があれば、ということになるのかなあ。いずれにせよ楽しみだ。

対話302 メアリアン・ウルフ 『プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?』

2010.03.16.20:12




個人的読みやすさ:D
読書時間:2時間



 ディスレクシアの人々は数多くの分野で優れた才能に恵まれていることが多い――これはけっして偶然ではないように思う。脳の左側に生じた何らかの変化が他の領域、それも特に脳の右側の優位につながるとすれば、そうした変化を背負うことになった者も、文字を使わない社会でなら、振りな立場に立たされることはほとんどないはずだ。その才能の故に、立派な市民として活躍できると思われるからである――したがって、文字を使う社会においてはあディスレクシアという障害の原因になっている脳の左側の異常そのものが、同じ脳内の優位性を決定するという逆説が成り立つことになる。(ゲシュヴィント, p.297)


 読書好きの僕としては、脳と読書というテーマを見たら読まざるを得ないわけで、したがってこの本を手に取ったのもはなはだ必然以外のなにものでもないわけで。

 さて、では果たして本書の内容はどのようなものか、という話だが、僕の予想を少し外し言語心理学、あるいは心理言語学的な側面のやや強いものであった。内容構成としては人の文字を読む能力の発展とその脳の発展、各言語による違い(英語を読む場合と日本語を読む場合で使うニューロンの経路が違う!)、そしてディスレクシア――つまるところ識字障害の問題である。

 日本語と英語で使う回路が~らへんの内容もかなり面白かったが、やはりディスレクシア研究の部分が僕にとっては華であったかなというように思う。僕は自分自身が特に文章を読むことに苦労したことがなかったからなのか、あまり識字障害に対して関心が今まで薄かった。特に日本人での識字障害の数は他国に比べてものすごく低いとされているから(ソース忘れた)、あまり日常生活でそのようなことを感じる土台がなかったのかもしれない。

 しかしながら、ディスレクシアに関する内容を一歩一歩苦労しながら読みすすめてみるとこれがなかなか面白い。一説によればエジソンやらアインシュタインやらダヴィンチやらも識字障害の可能性があったとのことで、しかもディスレクシアを持っているものはかなりの割合でその他のことで才覚を発揮することが多いようなのである。具体的には彼らの右脳発達が影響しているのだと思うけど、実際にfMRIで検証してみて文字を読む際に明らかに差がでているのが面白い。

 勿論ディスレクシアといってもその発生過程には様々なルートがあるようだ、ということは充分に考えておかなくちゃならない。本書では確か3つくらいに分けられていて、先天的に、あるいは環境的・学習的に、ディスレクシアが生まれる可能性がある。ここらへん、左利き右利きのラテラリティ研究にも繋がるところがあるように感じられ、利き腕とディスレクシアの割合などを調べるのも一興な気がしないでもない。誰か調べているのだろうか。

 あと、人が文字を読むときに間違える発達過程(似た意味の単語と間違え、似たつづりの単語と間違え、最後に意味とつづりが似たものを間違える)は現在塾講師をしている僕からすると思い当たるふしが色々あり興味深かった。言語、というカテゴリーは今までそこまでかかわりがなく認知科学的なパラダイムのものの中でも一歩引いた視点にいたけど、もう少しこの辺を掘り進めるのは充分ありな気がしてくる。

対話301河野哲也 『暴走する脳科学』

2010.03.16.19:48




個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間


 したがって、環境のアフォーダンスを知覚することは、自分の意図を形成するに等しい。というのも、環境のアフォーダンスとは、前述のとおり、動物の振る舞いによって引き起こされ、再帰的に動物に影響を与えるような環境の特性のことを指しているからである。環境のアフォーダンスを知覚することは、自分の行為と環境との関係を知ることである。それによって、私たちは自分の意図を形成できるのである。(p.167)


暴走する脳科学への警鐘を扱った本かと思ったら特にそこまで特定のポジションの上に立ってという本ではなく、近年のこの分野がどのように発展してどのようなジャンルの学問が発生していっているのか、を概説的にまとめた本という印象が強い。その分、特に神経科学に最近関心を持っている僕にとってはありがたいところ。

 以前も書いたけど、神経科学の発展は間違いなく今後世のなかを少なからず変えてしまうと思う。その変わりゆく世のなかの中で、再び僕らは倫理とは、哲学とは、ということを再度考える必要が出てくる。たとえば麻薬を使ってはいけないというのは非常にわかりやすく、そのデメリットが大きいからなのだけど、では脳科学的技術を用いたエンハンスメントはどうか?医療目的ではない神経科学の人体への介入は本著のデータにも示されていた通りあまり好意的ではなかったが、しかし拡大解釈して考えるならばそれは試験前にコーヒーを飲んだりするとのあまり変わらないという見方もある。事実、というかむしろカフェインの摂取よりも人体に有害ではない方法だって今後編み出されるのは必死だし、人間が手軽なエンハンスメントを求めているのはアメリカの大学生が手軽な能力アップのためにスマートドラッグに手を出しているのが問題になっていることからなども見て取れるだろう。

 以前僕は自分の専攻を神経哲学にしようかな、ということを思っていた。少し時間がたつにつれ、うちの大学でこれをやるのはほぼ不可能ということ、ためしに読んでみた神経哲学の本が難しすぎて死んだなどの理由からこの考えは段々遠ざかっていったが、この本を読んでいると今再びそちらの方向へ歩むのも悪くないかなと思えてくる。なんにせよ、僕は認知科学のパラダイムに沿って今後勉強を続けていくことはほぼ間違いなく、その視点からしてこの本はその入門書にものすごく良いなということだけがいえるのである。

対話300 架神 恭介, 辰巳 一世 『完全教祖マニュアル』

2010.03.15.13:23




個人的読みやすさ:A
読書時間:1時間


 つまり、教団というのは本来、「個人の霊的体験」という本質を包む外殻だったのですが、この外郭が、本質である「個人の霊的体験」を押し出そうとし始めるわけです。すると、教団にがんじがらめにされて、「個人の霊的体験」が失われていきます。宗教活動が儀式化すると言い換えてもよいでしょう。現代日本では「スピリチュアルには関心があるけど宗教団体はイヤ」という人も多くいますが、それは彼らが「個人の霊的体験」を重視しているためかもしれません。(p.33)


 僕も毎週ジャンプ感想を読んでいるかがみさん(http://blue.ribbon.to/~cagami/)の新著。新著といっても発売から結構たってからの読書になってしまったけども、相変わらず面白さが爆発しながらも普通に勉強になるという、今までのマニュアル本シリーズの中でも上位の出来になっている本。

 日本で宗教を考えるということはなかなかエキセントリックなことだ。僕はちょっと前から「信じる」ということにものすごく関心があって、だからプラセボ効果とかを卒論のテーマにしようかしらと考えているわけなのだけど、宗教なんてまさに「信じる」ことを扱うテーマとしては絶対にはずせないテーマなわけで、これからも僕の人生の中に宗教というフレーズはぐいぐい食い込んでくるに違いない。

 いつの間に自分が宗教に関心を持ってしまったのかは定かじゃない。高校時代は宗教を信じている人の神経がよくわからなかったし、あのころは明らかに嘲笑の対象だったと思う。だけど、この本で論じられているように、宗教というのはシステムとして非常によく出来ているのだ。そして宗教というものがなぜ人間とものすごく身近に接しているのかも、人間が信じる動物である以上必然的な運命なのである。これは宗教観がうすい日本ではちょっと意識しづらいことなのかもしれないけど(本著によるとそれは明治政府時代の画策によるものらしい)、だからこそ一歩引いた視線で宗教を考えるということは重要なのである。一歩引かなければ客観的に見ることは出来ないのだし、何かを対象化するのはそれが必要な行為なのだから。

 繰り返すけど、宗教というのはシステムとしては非常によく出来ている。僕が最近メンタルヘルスのことを団体として考えるときにコミュニティというのがよく話題にあがるけど、コミュニティとしても非常に宗教はよく出来ているわけで、日本の精神科のベッド数だけが増加傾向にあるのも日本に宗教というコミュニティに属することへの抵抗感が強いという側面があるからではないのかというくらいである。だけど、宗教はシステムとしてよく出来ている、人間をコントロールするための媒介としてだけ見ることもまた一面的である。宗教はそれだけじゃなく、人間の思考をあるときは縛り、あるときは拡張させる。科学的史観が出てきてしまったせいで、それに反するものは真実ではないとされる時代になってしまったけども、果たしてそうだろうか?科学的な観点から真実にそむいてしまっていたとしても、その人の世界観がそれで統一されていたとき、やはりその人にとっての真実はその宗教の中にあり、それはそれでひとつの真実なのだと僕は思う。もちろん科学から極端に外れてしまっているものはその頑健性が低いわけで、いつ崩壊してもおかしくないという恐怖を抱えざるを得ない、ということには全力で同意するわけなのだけど(そしてだからこそ宗教というものは勧誘をすることでその世界観を拡張させるのだとも思うけど)。

 僕には今のところ特定の宗教はない。イメスト中に理解を超えるようなものすごい映像が見えたとしても、寝る前に現実とほとんど区別のない映像が見えたとしても、圧倒的な情報量が頭の中をものすごい勢いで駆け巡るという経験をもってしても、僕はそれを神秘体験とみなさず脳の中の一活動だと思えてしまうからだ。自分の理屈を信じることは難しく、自分を超える経験をもってしてもそれが理屈づけられているとき僕はそこに神秘性を見出すことは出来ない。
 だけどふと考える。やはり僕は自分なりの宗教体系を必要としているのだと。宗教体系というよりも世界観といってしまってもよいかもしれない。宗教を信じるということは自分の世界観の頑健性を低くしてしまうことにつながることは百も承知で、しかし何か特定の(特に科学みたいな味気ないものではなく、神や神話などの”魔法”のレトリックがかかった心をわくわくさせるような)ものを信じるということは時としてものすごい力を生み出すことにつながるのだから。

 僕には僕の理解を超えた方法で、自分なりの信じるべき世界観を見出すことが必要なのだと思う。

対話299 丹野 義彦 『認知行動アプローチと臨床心理学―イギリスに学んだこと』

2010.03.15.13:18




個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 イギリスとアメリカの臨床心理学は、どちらも科学的な志向が強いのであるが、違いもある。アメリカはプラグマティズム(実用論)的な発想が強いのに対して、イギリスは科学合理論な発想が強いのかもしれない。筆者がイギリスの臨床心理学に魅力を感じ、留学先にイギリスを選んだのは、こうしたメカニズム志向による。(p.78)


 再読。現在自分のかかわっている任意団体において「メンタルヘルスに関する社会制度の国際比較」について調べているのだが、イギリスと日本の臨床心理学を比べる上ではかなりこの本は有用であると思う。

 2回目なのでかなりの部分において高い理解度を維持しながら読むことができたのだが、その中でやはり日本の臨床心理学の「量的なアプローチ」の不足が強く描写されているなと感じる。

僕は大学院レベルでの臨床心理学に携わった経験はないし、時たま実際の臨床心理士や精神科医のかたがたにお話を聞くレベルでしかない。

 けども、本著で強く紹介されるような認知行動療法プログラムなど、こういうものが根付かない理由のひとつに、量的に成果を表すという態度が欠けているというのがあるのだろうなと思う。
 本著の中では日本に無駄にある心理系の学会の存在なども統一基準を妨げるひとつの一要因として挙げられていたので、もしかしたらここらへんを改善していけばやがては量的なアプローチをとる治療法が増えてくるのかもしれない。

対話298 井上 俊 『自己と他者の社会学』

2010.03.15.13:02




個人的読みやすさ:B
読書時間:20分


 この2つの軸、すなわち「私を変える」理由が手段的か表出的かという軸と、「変える」のが「主我」か「客我」かという軸の組み合わせによって、以下の4つの「私の考え方」の類型を構成できる。第一の類型は、自分の属性や外見等の「客我」を「手段的な理由」によって「変える場合」(偽装)。第二の類型は「客我」を「表出的な理由」によって「変える」場合(変身)。第三の類型は「主我」を「手段的な理由によって変える場合(修養)。第四の類型は「主我」を「表出的な理由」によって「変える場合」(翻身)である。(p.125)


 友人たちに速読講座を開くことになり、その際に自分で使用した本。やはり他人からの監視効果があったほうが読むスピードが早く、また引き出せる量も多くなる。読書を読むときに大事なのは「それをいかにアウトプットするのか?」と意識することなのだと思う。

 さて、本著の内容であるが、教科書的な一冊のためひとつひとつのトピックに対する深い言及はあまりされていなかった。とはいえ、トピックそれぞれは充分に面白く、特に前半部分で扱っているような「自我」「客我」の問題、演じることについて、意味について、物語についてなどは僕自身のメインテーマであり、特に今まで社会学を学んだことのなかった僕は「社会学ってここらへんの分野について扱う学問なのか!むちゃくちゃ面白いな!」と新鮮な体験をすることができた。たぶん僕が社会心理学や社会学に対してそこまで没頭することがなかったのは大学の授業の社会心理学でひどい点数を取ったことがひとつの理由になっている気がするのだが、そんなくだらない理由でここら辺を掘らないのももったいないなという気にさせてくれるだけでも本著を読む甲斐はあったといえる。

 後半以降は若干著者も無理やり書いてあるような気が否めず、僕はそこまでピンとくるものを感じなかったけども、前半部分は十二分に面白い。これを機に社会学的な側面からも上記のようなトピック(認識、期待、演技、感情、物語、意味)を考えていきたい。

対話297 向山 洋一 『子供を動かす法則 』

2010.03.15.12:51




個人的読みやすさ:A
読書時間:30分


 意見を聞きっぱなしでは、それぞれがバラバラした兵力であって、力にならないのである。「自分はどう考えるか」という司令官の判断をそこに加えなければならない。(p.122)


 実際の小学校の先生が著した、子供をいかにうまく動かすかについて。

 特に難しい言葉も出てこないけども、実際に子供でなくても「人を動かす力」に通じる何かをこの本から感じ取ることができたように思う。
 そもそも小学生と大人はそこまで違うのだろうか?確かに違いを挙げてみよと言われてすらすらと言葉は出てくると思う。僕から見ても小学生と大人はかなり性質的に異なるのではないかとつい思ってしまうし、見た目に表れてきている部分でも多くの差がある。

 だけど依然として、小学生と大人には多くの共通点があるし、根本的に「うれしさを感じるとき」「人に従うとき」のタイミングにはそこまでの変化はないのだと思う。この本で特に参考になったのはやはり「いかにして子供の尊敬を勝ち取るか」という点についてであり、それは劇の配役を決めるときや実際に練習をしていくときの指導という例でより顕著に僕の心に伝わった。そのままこれを大学生である僕が流用する、というのは少し難しいかもとも思えるけど、根底につながるエッセンスみたいなのは十分これからの人生で身に着けていきたいと思う。

 普通のビジネス書、自己啓発書に飽きた方にも是非。

対話296 池谷 裕二 『ゆらぐ脳』

2010.03.09.14:48




個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間半


 還元主義をとらないサイエンスの探求方法は「他のサイエンティストに理解してもらうこと」も含めて難しいのですけれど、分子生物学を離れた視点から眺めて実感することは「分子生物学は生命の原理について大変な理解をもたらしたけれど、サイエンスの『分かる』をステレオタイプにしてしまった弊害もあるのではないか」ということです。分子生物学が生命科学を席巻するまでは、「分かる」の定義や基準はもう少しやわらかいものだったのではないでしょうか。
 「分子が分からなければ、何も分かったことにならないのではないか」は、サイエンティストの思考能力の退化につながるところもあります。(p.226-227)


 池谷氏の他の本よりも、よりエッセイ的な要素が強く出ている本。直前に読んでいた『脳はなにかと言い訳をする』と表紙の感じも似ているし同じような内容構成なのかなと思ったらかなり違い、よい意味で発奮させられた。

 この本で取り扱われているのは脳内の現象である『ゆらぎ』だけではない。そのトピック自体はとても興奮させられるものだったし、実際それはこの本に全体的に通じているテーマだと思うけれども、池谷氏は現在科学の中で基本とされている考えのいくつかを「それだけでは視野が狭まるのではないだろうか」と問題提起をしていてそれが刺激的なのだ。

 たとえば科学において、「仮説をまず立てる」というのはきわめて一般的である。しがない学部生の僕であっても授業でそう習っているわけだし、実際実験をデザインするときにはこれをやらなければやってられない。しかし池谷氏はむしろ仮説を立てない方向にシフトしているという。社会科学的なことがメインな僕としてはこの方法を果たしてとることができるのかはよくわからないけれども、確かに「当然のこと」と共有している知は大きな推進力を生むと同時に見過ごしてしまっている部分をつくってしまうのだと思う。特にそれが脳のような、複雑で再現性が必ずしも毎回あるとはいえないものの場合。

 僕が個人的に読んでうれしかったのは、研究者としての素顔を見ることができたような気がしたことだ。今まで研究者が書いた本はそこそこ読んでいたけど、あんまり研究者の書いたエッセイを読んだことはなかったので、「この人たちはこういう歴史をもって、こういう考えをもって今研究者をやっているのだなあ」と思えたことは非常に意味深いことだった。

対話295 ジョナサン・D・モレノ 『マインド・ウォーズ 操作される脳』

2010.03.09.13:31




個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間半


 コロンビア大学の神経科学者がfMRIを用いて実験を行い、睡眠不足の状態で特に活性化するニューロン経路がいくつかあることを見いだし、訓練すればその経路を使えるようになるかもしれないと推論している。これなら薬を使わずにすみそうだ。(p.233)


 神経科学の発展が人体にどのような影響を及ぼしていくのかが、ぎゅっと詰まった濃い一冊。

 アメリカにはDARPAという国防高等研究計画局があって、ここが結構いろいろと怪しいことをやっているらしいということは以前からいろいろな経路で耳にしていた。DARPAはかなり深いところで神経科学の発展にかかわっていて、それはつまるところ神経科学の発展が次回の戦争のために使われるかもしれないということを示唆しているのかもしれないけど、単純に”未来の技術”としてみた場合、これほど魅力的でSFチックな分野はあまりないと僕は思う。

 神経科学の発展は、本著によると以前の超心理学(超能力の研究などを指す)よりも多彩に、パーソナリティ理論などよりも綿密に、人間の能力を有効活用することにつながるらしい。その手段や目的としてはさまざまな事柄が挙げられていて、たとえば上記の引用である「睡眠」についてもそうなのだけど、ある経路を使えるようにすればぐっと睡眠時間のコントロールを可能にすることが近くなってくる。

 一方、そういうことをしていると倫理観みたいなのも必然的に問われてくるわけだ。人間の能力を大幅に上げてしまったり、またそれがどういう結果をもたらすか予見できない以上、それは仕方のないことだけど、これはSTS(科学社会と技術)の新しく、そしてさらに大きなひとつのトピックになることは間違いない。

 僕個人の考えとしては遅かれ早かれ、神経科学の発展が世の中の全体像を、世界観を多かれ少なかれ変えてしまうのは時間の問題だと思っている。需要はどうしてもそこに存在するし、供給する体勢が整うまでにもそれほどの時間は必要ないだろう。なによりも、DARPAが絡んでいることからもわかるように、神経科学の発展はこれからの戦争・紛争において大きく必要とされるものである。歴史を振り返ったときに、戦争がテクノロジーを大幅に発展させたことを考えたら、神経科学は次世代においてもっとも発展する分野のひとつなのではないかと思わずにはいられないのだ。

 いいにしろ悪いにしろ、このようなテクノロジーの発展が私たちの世界観にどのような影響を及ぼすのか、今から少しどきどきしながら見守りたい。
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はらわたに秩序。

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