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対話332 鬱☆国家

2010.04.26.14:24




岡崎 伸郎 『メンタルヘルスはどこへ行くのか』

個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


さて、日本の大学教育に目を遣れば、その実態は実に心細くなる。約80の医科系大学や医学部がひしめいているものの本格的に児童精神医学の講座を持つ大学は皆無である。講義でさえ児童精神医学の時間数はお寒くなるほど少ないのである。医学部の精神医学教室の教官に児童精神医学の専門化がどれほど配置されているか。こうしった諸外国の現状を見ると、日本の医科系大学では児童精神医学を専攻する医師を養成する体制にないとさえ言える。(p.81)


 対話というよりはインタビューに近い読書第5弾。
例によってあるプレゼンテーションのために前日頑張って読んだ本の一つであり、全体的にわかりやすい内容であったのが印象的。

 昨日イギリス人たちとご飯とカラオケにいっていろいろと話す機会があったのだけど、彼らの社会と日本の社会は本当に全然違うのだなということを認識させられた。
”先進国””文化国”ということで繋がっているところももちろん多々あるけれども、だからこそ社会の性質として大きな違いがそこに横たわっていることを忘れないようにしたいなと思う。


 たとえば、このメンタルヘルスに関する社会的な認識にしてもそうだ。
僕の友人のイギリス人は少し前抑鬱を患っていて、イギリスで流行っている認知行動療法などにも結構お世話になっていたという。
鬱が多いというのは”先進国”でよく見られる特徴の一つだが、イギリスでは鬱を患うこと、認知行動療法を受けていることを他人に話すことに日本におけるほどの抵抗はないらしい。

 もちろん見ず知らずの人とかそこらへんの人に話すトピックではないのだろうけど、日本では相当親しくなってもその手の話題に触れることはタブー視されていることが少なくない。メンタルのことはどこか伏せておくべきこととして、自分の気持ちを引きこもらせていることがよくあるのが日本なのだと思う。

 社会的不安(Social Anxiety)も日本における非常に顕著な特徴の一つ、ということをその女の子は言っていた。
日本にずっといるとまるでそれがスタンダードのように感じてしまうけれども、ちょっと視点を変えてみればものすごく異常なことだった、ということはよくあることで、多分日本はそのガラパゴス的な性質がゆえにその割合が非常に大きいのだと思う。

 なんでもかんでも外国に追従しろ、と言いたいわけじゃない。
そういうわけじゃないけど、でも自国という存在を浮かび上がらせるのに住んでいる場所を変えてみる、というのはきっと多くの発見をもたらすのだろう。

 僕はこの秋にアメリカへ行き、大体1年間くらいそこで住むことになっている。そのことが僕の日本という国を見る目をどのように変容させるのか、そこに興味がある。
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対話331 物質の完全なる停止はその質量を無限大にする

2010.04.25.13:57




朝日新聞社 『仕事力 青版』

個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


自分を追い込むような勉学や仕事を続け、乗り越えてきた人は見るからに集中力が違い、問題や新しいアングルを発見する力が違いますその厳しさがあなたの仕事を面白くするはずです。(p.191)


 僕は、今まで余熱で生きていたような男だった。

 というのも、やはりそれは自分にとって楽で、無理のない生き方であったからだと思う。
今までなんだかんだ、そこまで大した努力もなく生きることが出来てしまっていたというのが一つの要因だ。
そう書くとちょっと偉そうに聞こえてしまうかもしれないのだけど、事実僕は何かに真剣に打ち込んだことはない。自分を追い込むようなレベルで、何かをしたことなんて経験にないのだ。まぁ、中学生の頃のカードゲームに関しては確かにのめりこんでいたともいえるけど、その時も別に自分を追い込むことはしていなかった。

 自分を追い込むことは多分、一つのギャンブルなのだと思う。
最近いろいろな団体の活動をしているせいでちょっと追い込まれることが増えてきたのだけど、そういうときにそれを痛烈に感じる。
ここを乗り越えたら多分大きなリターンがあるのだろう。
だけど失敗してしまったらもうそれでご破算。
ふつうのギャンブルとの違いは、すべてが運任せなのではなく、ある程度自分がコントロールできる(と思える)というところだろうか。

* * *

 余熱で生きていた僕がなんらかのリスクテイキングをして、自分を追い込むのも悪くないなと思ったのは友人からの影響だった。

 彼は僕なんかよりもはるかに凄い人で、でもそんな凄い人にも今まで自分を追い込むほどの努力と苦難が連続していた。
彼はつい昨年ほど一つの大きな苦難を乗り越えて、より大きな魅力を出すようになっていた。
余熱でもそこそこ生きることが出来た自分にとって、それは確かに衝撃だったのだろうと思う。
彼は別に余熱で生きることが出来るだけの能力は十分にあるのに、それでもなお自分を追い込む場に身を投じて、魅力を放っている。
自分もそういう場に身を置くことが出来たら、とそこから次第に思うようになっていった。

* * *

 僕の今やっていることがはたして本当にプラスに働く形での追い込めなのかはわからないし、それが自分の将来にどうつながるかもいまいち見えてはいない。
けれども、自分を追い込むというスキルはもっと開発しても良いと思うし、自分の体を壊すことを過度に恐れていたら長期的に失うものもきっとあるのだろう。
僕は心理学を学んでいる手前、オーバーワークをするということを非常に毛嫌いしてきた。そんな僕だからこそ、多少やりすぎるくらいのほうがもしかしたら丁度いいバランスを保てるようになるのかもしれない。

 精神と肉体のバランスを壊滅的なレベルで壊さない程度に、ちょっと自分を追い込むような環境に身を投じたい、と思う。少なくともこの年齢のうちは、ね。

幻想2 プレイバックする私の歴史と、登場する人間という存在

2010.04.25.11:36

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 イメストをしていると、懐かしい風景によく出会う。
たとえば、自分の過去によく通っていた場所。小学校の頃通っていたプールのにおい、肌の感覚。小学校、その図工室。もうほとんど忘れ去っていたような記憶がふとしたときによみがえって、イメストをするということは自分の歴史を振り返るようなものなのではないかとすら思ってしまう。

 自分の記憶にある風景というのは、つまり僕の中にある言語だ。出会いは自分の内部の言語を増やし、特に場所の記憶というのはその傾向が強い。頭の中に、思い出の中に場所の記憶はいつまでも残るし、ふとした拍子にそれは飛び出てきやすい。だからこそ僕は今世界旅行をしたいと思っていて、それは自分のボキャブラリーを増やすことにつながるからだ。なんのための?たぶんそれは自分を表現するための媒介をもっと鮮やかにするためなのだろう。特にここ数日、基本的に毎日2回くらいイメストをしているだけで過去への顕著になってきているのを感じ、これからももはや忘れ去ってしまった記憶をもう一度手の中に収めるために僕は妄想の中を旅しているのかもしれない。

 さて、毎日イメストをしていて起きた変化は過去の記憶の再生だけではない。なぜこの記事の一番最初に90年代アイドルを張り付けたかといえば、それを今日イメストの中で実際に見たからだ。まあ実際はこの人そのものが出てきたわけではなくて、もっとパンチの効いたパーマの、いかにも90年代(80年代?)アイドルみたいな人だったのだけど、検索してもそういう人が引っ掛からなかったのであきらめた。

 そんな風に、人がイメージの中に出てくるなんて今までの僕にはとても珍しいことだった。
自発的に生み出そうと思えば確かに人っぽいものを出すことはできたけど、それは景色に比べて精彩に欠けるものであったし、どこか二次元的であったように思う。

 それがここ最近、いやに変なリアリティを持って登場するようになってきた。なんとなくその肉感的な要素を強く感じすぎて、思わず描写するのをためらうくらいに。こうして考えてみると、人間を頭の中でイメージするということは風景に比べてひとつレベルの違うことなのかなということを思わせる。

幻想1 時計が木の実のようになっている

2010.04.24.13:28

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 これから読書感想文だけじゃなく、イメストとか夢の中で、自分が何を見てどう驚いたかということも記述して行こうと思う。

 イメスト、というのはちょこちょここのブログでも書いているけど、イメージストリーミングという「起きながら夢を見る技術」のことだ(ちょっとこの言い方だと語弊があるかもしれないけど)。
やり方は簡単で、一人で出来る。まずは目を閉じてリラックス。そうしたら目に見えるイメージを五感を用いて、現在形でちゃんとした声で話す。だれかがそこにいれば望ましいけど、レコーダーの前でやってもOK。とにかくだれかに伝えているという意識が大事らしい。

 イメージなんて出てこないよ、という人も今まで僕がやらせた中ではちょこちょこいたのだけど、別にイメージといっても現実と同じレベルのものまでは出す必要はまったくない。イメージがスムーズに進むと思ったのなら嘘の記述を用いても全然構わないし、基本的に上記の原則さえ守ればルールはない。ゆえに応用的なテクニックもいっぱいあったりして、僕の中では大絶賛、壮絶的に一押しのテクニックの一つなのである。お金もかからないしね。

images.jpeg


 さて、最近はイメストを一日最低1回(10分くらい)はやるようにしているのだけど、やっぱり継続的にやっているとなんとなくイメージが鮮明になってきたり、自分にとって意味深いもののように感じてくるから不思議だなと思う。
イメストにおいて、最後のほうに出てきたイメージであればあるほど自分にとって意味深いもの(無意識に最もコネクトしているもの)と説明されているけど、今日最後に見たイメージは「鯉」の中にあるたくさんの「時計の木の実」だった。

 僕が鯉を見る前に質問していたことは「今もっとも大切なことはなんだろう?」というもので、そこから鯉が出てきたのも面白いのだけど、その中に入ったらたくさんの時計の木の実があってとても面白かった。鯉……恋?と思うのは一つの邪推かもしれないし、そこからどうやって「時計の木の実」に繋がるのかはよくわからないけど、こういう現実でお目にするのが難しい抽象的なイメージを目撃すると今日一日がとても意味深いものに感じてくるから不思議。

対話330 何事も余白が必要で、真黒な紙には何も書き込めない

2010.04.24.13:15



松枝 史明 『実践的ライター入門』


個人的読みやすさ:B
読書時間:40分


読者の多くは共感したがっている。そういう人たちは、書かれたものを「そう、そう」とうなずきながら読んで、書かれてないことまで勝手に補完しながら、自分で納得していく。その余地を与えてくれるのが控え目な文章なのです。(p.206)


文章をもうちょっとまじめに書こうかしら、と思って読んでみたらびっくり。これは良い本。

 特に共感出来た、というか確かにその通りだと僕が思うのは引用部分にある個所だ。
僕はどうしても形容詞とかを多用してなんでも細かく喋りたがる傾向があるのだけど、本書の指摘にあるようにそれだと相手が参加する余地を狭めてしまう。
多少のトリッキーさを出すための表現などなら全然ありなのだろうけど、それを多用しすぎると観客のいないサーカスみたいな悲しい惨状になりがちなのでこれから文章を書くときはこの言葉を充分に胸に留めておきたい。

 また、このことは文章を書くことだけに限らず、日常の会話でも、ひいては学問における態度においてもいえるのかなという風に思う。
非常に私見ではあるが、もてる女の子ってのは往々にして喋りすぎない娘であることが多い。
僕はそこに”魔法”が入りこむ余地があると思っている。
喋らないからこそこちらは自由に想像を書き込む余地を残されるのであって、喋りすぎて真黒になったノートには何も書きこむことが出来ないのだろう。

 かといってまったく表現をしなさすぎるのもそれはそれで問題ではある。
僕らが他人に、そして文章に求めているのは「余白」なので「真っ白の紙」ではない。
真っ白の紙の前に立ったら何も書けない、ということはなんとなく想像的にはわかりやすいことで、やはり0から何かを生むより1にいろいろとつけたしていったほうが精神的にも楽なのだ。

対話329 愛情の欠如/女傑の情愛

2010.04.20.15:39




ハイブロー武蔵 『新・いますぐ本を書こう!』

個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


1.人に読んでもらう文章は”ラブレター”である。(p.185)


 正直なところをいうと、僕はあまり読み手というものを意識したことがなかった、駄目な文章書きである。

 このブログなんかはその良い例だろう。
最近ちょっとずつ見直すようにはしてきたけど、それまでは特に見直すことすらせず、だだーっと10分~20分で書きあげて投稿、ということを繰り返していた。

 一応それには理由もあって、基本的にこのブログは僕のアイディアをためる場所として活用しようというのが目的として大きい。
アイディアを出すことを最優先させて、文章の構成などを考えることは手間になるので自分の活動性を落とすのではないかと、ということを考えていたのである。

 この考えについて、別に僕は間違っているとは今でも思わないし、そんな書きっぱなしブログがあってもいいじゃないかと思う。
ただ、最近僕は文章を書く仕事に将来ちょっと関わっていきたいなという思いが芽生え、
またせっかくアイディアをためているのだからいつかそれを多くの人とシェアしたいな、という思いが強くなってきた。

 その時に他者が見ているということを忘れてしまった哀れな文章はどこに行きつけばいいのか?
手に触れてもらってゴミ箱に投げてくれるのならばまだマシだけども、
通常はそんなものだれも読みたいとは思わないし、他人への愛のない文章ほど読む気を失わせるものも果たしてないのである。

 ということで、僕がこの本を読んでまずまっさきに考えたのが読者への「愛」ということだった。
舞城王太郎によれば愛とは「祈り」なのであり、僕が他者に対して祈りをささげることは、もしかして今までは少なかったのかなとも思う。

それは別に文章に限らなくて、日常の至るところでという意味で。

 まあそんなことをぼんやり思ったからといって、やっぱり他者へ愛を充分に注ぎこむことはいきなりは難しくて、この記事も特に見返すことなくこのままポストしてしまう雰囲気が濃厚に漂ってはいる。
ただ、とりあえずその愛の欠落が自分にはあるのだなということがわかっただけでも、この本が読めてよかったなと思うのだ。

対話328 発散と収束の際の注意事項

2010.04.19.09:33




築山 節 『フリーズする脳―思考が止まる、言葉に詰まる』

個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 たとえば、いわゆる物書きの人が文章が書けなくなっている場合、お話をうかがってみると、生活があまりにも単純化されていることがあります。一つのお仕事に専念しようとするあまり、それ以外のことをする機会を極端になくし、ほとんど一日中パソコンや原稿用紙に向かっている。さまざまな脳機能をバランスよく使う機会をなくしてしまっているのです。(p.151)


 いざ、その物事に没入しようとして、そのほかのことを止めてしまうことがある。
受験勉強のような何かを記憶したりすることを至上命題にしている場合、これはそこまで悪い方法ではないかもしれない。
どこかに閉じこもるというのは自分に対して多かれ少なかれストレスをかけるが、そのストレスから逃れるために暗記能力は高まる可能性もあるし、なにより実質の勉強時間が増えるということは自信にもつながる。よくテレビとかでこもって勉強することの危険性みたいなのが喜劇的に説かれていたりするけど、その目的のためであればそこまで悪い選択肢ではないのだろう。

 ただ、たとえばその目的がもっとクリエイティブなものであったりした場合、どこかに閉じこもってそれだけを考える、ということはまったくもってお勧め出来るものではない。
アイディアを創出する際に最も大事なのは、言うまでもなく結び付きだ。そしてその結び付きは今までとは違うものであるのが好ましく、つまり今までに見えていなかった繋がりを発掘するのが優れたアイディアマンだということになる。

 アイディアという発散のプロセスにおいては、リラックス状態であるということやさまざまな分野に手を出しているということが何よりも重要視される。
どこかに閉じこもってそれだけに真剣に向き合う、というのは聞こえとしてはかっちょいいが、リラックスをするためには多くの場合逆効果だ。いろいろな場所に出かけたほうがリラックス出来ることは間違いなく、何かを創出する最初の段階から缶詰になって物事をこなそうとしていたのではまったくもって先が見えない。

 また、さまざまな分野に手を出しているということも、未知のつながり(=アイディア)を創出するためには非常に重要なことである。新しいアイディアというのは、たとえば自分の関心領域と生活習慣との結び付きなど、自分と密接に関係しているものの間に生まれることが多い。自分と触れている領域をいかに増やすか、いかに変えていくかというのがアイディアの創出に求められるのは間違いないことだと思う。

 ただ、ここまでは発散の話で、ある程度収束するモードに入ったら、缶詰になるのも悪いアイディアじゃないだろう。しかしその場合も空間のデザインなどには充分配慮する必要がある。自分のいる空間を言い訳に作業を止めてしまうのはきっと愚かなことだけど、空間のことをまったく考えないよりも、いかに自分にとって作業効率の良い空間をつくるか、ということを考えることは、缶詰にならざるをえなくなったときもきっと非常に重要なはずなのだから。

対話327 現代における教養とは何か

2010.04.19.00:21



山形 浩生 『新教養主義宣言』

個人的読みやすさ:C
読書時間:30分


 ……いかがですかなお殿様。なかなかいいエンディングだろう。もちろん人生はマカロニウェスタンではないんだけれど……いや、どうかな。ただ、そういうエンドマークのつけかただって、ひょっとしたらあるかもしれないんだよ。(p.112)


 新しい時代の教養とは何か、ということは結構個人的に大きな関心ごとの一つだ。
僕は一応教養学部に通う学生なのでそれはある意味当然のことなのだけど、
ネットやリアルではしばしば「教養の意味」みたいなのを問われることが多くて、
そのたびにいろいろと考えさせられている。

 人によっては「そんなのいらねーよバーカ」みたいな人もいるし、あるいは反対に「日本は専門ばかり育ててて、専門バカ集団しかいないじゃねーかターコ」みたいな人もいる。

 僕のスタンスはどちらかというと後者、というか、僕はいまいちプロフェッショナルになろうと思えない人間だ。
たとえば僕の一応の専攻である心理学にしても、僕が魅了されるのはむしろその学際性であって、ついついそちらの側面にばかり引きずられ、いろいろと中途半端になっているというのも否めない。
 理想としては一つの専門を持ったジェネラリストである、ってどっかの文章で前読んで深く納得したのだけど、
あんまりジェネラリストでいようとすると僕の場合専門がかけ消えそうになるので、バランスをとるためにもう少し何かを集中してやったほうがいいのかもしれない。ふむ。

 ではさて何が教養なのか?という僕としての回答なのだけど、この間取った授業で教授がいいことを言っていたのでそのままパクって載せてしまおう。

教養とは英語でいうとリベラルアーツであり、その人の知的な不自由に対して自由をもたらすもの。


 なるほど、というアイディアである。リベラル(自由)というのはつまり知的な不自由からの解放を示しているのか、と僕はその時結構ふつうに感動した。うまいこといいやがって!

 そう考えてみると、確かに教養を学ぶということはそういうことなのかなという気がしてくる。
その対象についての多くを知っているわけではなくとも、そのコンテクストくらいは共有できる。
その態度と、その態度を形成する上で必要になる知識みたいなものを教養と呼ぶのであろう。

対話326 私が死にたいと切望したとき

2010.04.17.08:16




浅野 弘毅, 岡崎 伸郎 『自殺と向き合う』


個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


「死にたい」は「生きたい」だ。アンビヴァレンスなどはない。概念の場を誤った誤認だ。後者を聴くには前者を聴かねばならない。(p.143)



 対話というよりはインタビューに近い読書第4弾。
僕が関わっている団体の勉強会の都合で、1日で6冊を読んでパワポにまとめた日があった。その時のうちの一冊。

 僕がその時読んだ本の中では比較的カジュアルという印象を抱いた。正確にいえばカジュアルな文章も含んでいる、といったほうが正しいか。
 もう本を読んだときから悠久の年月が流れ(てはいないが)、そろそろこの本に書かれていた特有の内容も思い出せなくなってきたので、ここはひとつ僕が死にたいと思っていたときのことをエッセイ的な感じで書いてみようと思う。


 まずはじめに、現在の僕が「死にたい」なんて思うことはまずない。
今でもそう口にすることはあるけれど、そういうときの自分の言葉にはパンチはまったく聞いていなくて、所詮適当に言っているだけである。最近はむしろそういうときですら「死にたい」なんて口にしないようになっていて、我ながら「死にたい死にたい」病からは完全に抜けてしまったなあとすら思う。

 そもそも僕はかなりのオプティミストだ。これは昔からその傾向が変わっていなくて、ある意味何も考えていないというだけなんじゃないかとすら思えてくる。
オプティミストであることをたまにしんどいと思うときもあるけれども基本的にその立場は崩したいとも思わないし、今更崩せるものでもなくなってきた。
 友人もオプティミストの友人としゃべっているときのほうがなんだかんだ話が合うことが多いしね。
もっとも、オプティミストが集まって会話をするとすさまじい空中戦になることもしばしばなのだけど。

 だけれど、そんな僕にも「死にたい」という言葉を当人なりにはまじめに呟いていた時期があった。
それは明確に中学生の入学時期らへんだったことを覚えているので、単なる流行り病だったのかもしれない。
でもとにかく、あの時の自分にとっては非常にシリアスな出来事だったのだ。

 今の自分の立場から考えると、なぜそのような考えをとっていたのかまったく体感的には想像がつかない。
その原因推測などは別にいくらでも述べられるのだけど、僕がなぜあの頃死にたいと思っていたかなんて本当にどうでもいいことだし、別にそれは僕を体感レベルでゆすったりはしない。今さら。

 そういうとき、僕が考えるのは、あの時の自分という人格は確かに死にたがっていて、そして実際に死んでしまったのではないだろうか、ということだ。

 人間は、その人格レベルでは本当に良く死んでいるのではないかと思う。人格というと全体が一気に崩れるイメージを与えてしまいそうなのでもう少し正確にいうと、その死滅は細胞の死滅に良く似ているのではないだろうか?
 段階的にゆっくりゆっくりと死んでいき、数年後には別の細胞に入れ替わっている。
それは体感的にはあまりわからないことだけれど、しかし細胞レベルで見れば明確な違いなのだ。

 きっと僕が持っている人格の細胞も、少しずつ新陳代謝が働いて、あの頃とはとっかえひっかえ別人のようになってしまったのだろう。不要と判断された人格の細胞は徐々に消滅し、自分に都合がよいと思えた細胞に入れ替わっていく。

 人生というシステムの中でこれがこれから何回繰り返されていくのか、今の僕にはあまりピンと来ない。しかしとりあえず今思うことは、人格の細胞が消滅する際に、新しく生まれる人格の細胞は「そのとき最も自分に都合がよい」と思える細胞だということだ。
 きっと今の自分の強調されたオプティミストっぷりも、いろいろな思考プロセスを得て自分の中で重要と選択されたからこそ生みだされたものなのだろう。
 もしペシミズムが最適と判断されていたとしたら、多分僕の人格細胞はペシミズムが大部分を占めていたに違いない。
ペシミズムが自分にとって都合がよいということは往々にしてあるのだから。

 だからこそ、自分が何に都合のよさを感じているのか、その点をメタ認知するということは本当に大事なことになっていくのだと思う。
 人格の細胞はいずれ消滅するが、新たに生まれてくるその細胞には意思の力を持って方向付けをすることができる。
その仮説が合っているか僕にはわからないが、とりあえずそう思うことで自分を認識することの大切さをかみしめ、自分の成長に一定の方向付けを促していきたいなと強く思う。

対話325 それに時間のかけた量が私という人格を形成する

2010.04.16.22:06




伊豫谷 登士翁 『グローバリゼーションとは何か―液状化する世界を読み解く』

個人的読みやすさ:C
読書時間:30分


しかも「われわれ」の範囲は、必ずしも、言語や習慣や宗教などの共通性によるものではありません。むしろ、境界の画定の過程で、共通の言語や共通の祖先などの神話が創りだされたのです。明示的であれ潜在的であれ、外からの恐怖によって生みだされた共通の敵に対して、集団意識が強化されてきたのです。こうした「われわれ」は、ネーション(国民)と呼ばれます。(p.67)


 ブログの更新も久方ぶりになる。
多少弁解気味にいうと、その間僕は暇していたというわけではない。
ある団体の代表になったり、春学期がついに始まったり、その授業が面白すぎたりと、我ながら(彼女ができないという点以外は)充実した日々を送っていた。

 で、その面白すぎる授業の一つが今回取った「グローバリゼーションと社会」というやつで、あんまり今までこういう国際関係的なものを取ってこなかった自分としてはいろいろと新鮮な着眼点が多くてそれだけでもすでに面白い。
加えて、その教授は今回の授業を持ってICUの授業を受け持たなくなり、完璧に上智の教授になるとのこと。
なのでそういう意味での特別感もある。
なんだか最近そういう教授の例ばかり見ているのだけど、はたしてうちの大学は大丈夫なのだろうか?


 さて、本書はその授業で用いられているものの一つである。
読み終わってみて、同時に配布されている別の英語で書かれた教科書と本書の読書スピードの違いが半端ないことに気づき、「ああやっぱり日本語で書かれた文章はいいなあなんだか今学期は英語のreadingばっかりだなあ」ということを思わずにはいられないが、それはまた別の話。
この本を読んで強く感じたのは、自己と他者の差別化、という観点の話に関して。

 引用部分にもあるけど、人は敵をつくるのが割と好きだ。
敵、という言い方がちょっときつすぎるようなら、自分とは別の存在、つまり他者を必要とすることが多い。そしてそれは自分という存在を規定するためのものでもある。

 国家という単位がうまく活性化しているのも、当たり前といえば当たり前なのだけど、他国というものがあるからである。
他国があるから自分の国のアイデンティティが生まれる。それがなかったら別に僕は日本に住んでいることに対して特に特別性を感じなかっただろうし、多分横浜に住んでいるということに少しの特別性も感じないだろう。これは大学に入って多くの外国人、横浜出身以外の人と会話することによって充分に実感することができた。

 しかし現在、国家だとか県だとか、そういう地域性での人を分割する威力が相対的に見て落ちてきているような気がする。
別にまったくそれがなくなったと主張するわけではないし、これからそれが消えうせるとも特に思わない。少なくとも僕が生きている間は僕は日本人であるということを強く意識しつづけ、横浜人であることをほんの少し意識し続けるだろう。別にそれは構わないし、自分にとっては些細なことだ。
 ただ、この”グローバル化”された世界の中では、それらの地域性の差異はより強調されるのと同時に、その社会的効力は落ちるだろう。

 では、何が代わりに強調されていくのか?

 それはもっとソフトウェアの部分、つまり思想だとか研究対象だとか趣味だとかなんとかかんとか、そういったところの共通のコンテクストだ。
 僕は横浜という土地がたとえば好きだし、今いる大学も好んでいる。日本という国もかなり気に入っていて、ちょっと自分はそれにフリーライドしている負い目すら感じる。

 でも、じゃあどういう仲間と気が合うかといえば、それは場所という空間による属性なのではなく、思想だとか研究対象だとか趣味だとか、今まで自分の時間を捧げてきたものに近しいものを感じる仲間なのだと思う。

 本書でも言及されていたように、”グローバル化”はテクノロジーの発達による空間の支配によってもたらされてきた。
だからこそ、空間の属性である地域性というものは完全に克服されることはまずないけれど、相対的には人を結び付けるうえで効力が落ちてきたのだろう。
 しかし”グローバル化”の時代においても、時間は空間ほど制圧されたものでは決してない。僕たちは空間に比べれば時間というものに、正しくいいように振り回されている。
 ゆえに時間を注ぎ込んだものというものに、より価値を感じる。
それを共有するということは空間性に比べてより確固としたつながりをもたらすのに違いない。

 近い将来、もしかしたら学習効率をものすごく高める何かが普及したりして、学習に対する時間というものが今よりも克服された時代がきたとしよう。
 そのとき「同じ知識、趣味、思想を持ってつながる」という意識は今よりも下がるのかもしれない。




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