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対話334 生命とはなんぞやというお話

2010.05.19.10:38



リン マーギュリス, ドリオン セーガン 『生命とはなにか―バクテリアから惑星まで』


個人的読みやすさ:B
読書時間:40分


「生命とはなにか?」という問いに対する一つの正しい答は、「バクテリアだ」というものである。(p.104)


またお手軽に自分の書いたエッセイを張り付けるだけの簡単なお仕事がはじまるよー。


 一つの生物とはある一つの秩序体系であるというのが私の至った結論である。
その秩序体系にはいくつかの性質が存在している。その一つは動的平衡であるということ。
二つ目はそれぞれの生命という秩序体系はつながりを持っているということ。
そして最後に、その秩序体系は混沌へ、つまり死へ向かうということである。

このエッセイでは、これらの点が具体的にはどのようなことを指しているのかを説明し、それが私の生命観にどのように関係しているのかを示していく。

 まず一つ目のポイントとして、動的平衡という概念をあげた。
この概念を用いて私が言いたいのは、生命とは外向きには一見変化をしていない、あるいはその変化が非常にゆっくりしているように見えるけれども、内側では常にダイナミクスな変化を起こしていることである。

たとえばチリの生物学者フンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラは、生命のもっとも根本的な本質を代謝に求めている。彼らはそれを「オートポエイシス」と呼んでいる(マーギリュス&セーガン, 1998)。
また、コロンビア大学のシェーンハイマーも、「生物が生きているかぎり、栄養学的要求とは無関係に、生体高分子も低分子代謝物質もともに変化して止まない。生命とは代謝の持続的変化であり、この変化こそが生命の真の姿である」と述べている(マーギリュス&セーガン)。代謝についてはそれぞれの生命によってその多寡はあるけれども、基本的にすべての生物がそれを内側で行っているということに異論はないだろうと思う。

この考えに従うと、ウイルスはその定義上生物とみなすことが難しくなる。
ウイルスは自己増殖するという点で生物的としばしばみられる存在であるが、しかしウイルスに代謝は存在しない。
ウイルスは、栄養を摂取せず、呼吸もしない。二酸化炭素を出すことも老廃物を排泄することもない(福岡, 2007)。

ウイルスの内側は動的なものではなく、きわめて静的なものなのである。

 つまるところ、生命とウイルスなどの無機物を分けているのはその動的な性質である。それは一見、その生命が動きを伴っていないように見えたとしても、である。
たとえば顕微鏡の発達は、おそらく古来には静的なものであると考えられていた植物などが実際にはミクロレベルで非常に動的な存在であることを証明した。直接目撃できることができるレベルではもちろんのこと、人間が持つ目では直接捕捉することができないレベルにおいても動きというのは存在するのであり、それこそが生命の一つの条件なのである。

 そしてその流れというものは必ずある程度の秩序体系を持っていなければならない。なぜならそれぞれの生命というのは、他者と異なっているからこそ個として成り立っているのであり、その差異を作っているのがその秩序体系だからである。
 生命はダイナミクスをその内部に保有しながらも、全体としては安定性を伴っている。
内的な動き、すなわち代謝をするという性質と、この秩序が保持されるという性質を併せて、一つの生命の条件になるのである。

 二つ目の性質として、生命とは他の生命、すなわち別の秩序体系とつながりをもってそれぞれの秩序を構成しているということがあげられる。
そもそも生命とは本質的にそれ個別では生きていくことができない、非常に依存的な存在である。
生命とは太陽光の変換であり(マーギリュス&セーガン)、ほとんどの生命は太陽光がなければ今も生きていくことが出来ないし、空気中の酸素濃度がこれほど高くなければ現在現存する生物の多くは生きていくことができないだろう。
生命は適切な環境を必要としているのである。

しかしそれとは別に、生物は他の生命体もその生存のために必要としている。生物の食べるという行為は、生物が他者を必要するという一つの明らかな例に他ならない。生物は他の物質を自分の中に取り込むことで生きている。補食生物においてそれは明白なことであるし、多くの植物などの一見補食をする必要がない生命においても、死骸を含んだ土などからその栄養分を摂取している。

 この性質の特筆すべき点として、このつながりが非常に循環的、リサイクル的であるということがあるだろう。生命はみずからリサイクルし、生命の使う物質は、そのリサイクルされたものである(マーギリュス&セーガン)。生命は循環する。生命は何かという問いの一つの答えとして「バクテリア」ということが提言されているが(マーギリュス&セーガン)、これは生命のそもそもはバクテリアから始まり、今もわれわれの真核細胞がいくつかの異なった系統のバクテリアの集まりであるということを指し示している。

ダーヴィンの指摘したように、生命はひとつの共通した祖先から生まれたものであり、ゆえにだからこそ生命全体としての循環構造を持っているのかもしれない。生命という秩序体型は他の秩序体型を取り込み、またその生命は何かに取り込まれ、というサイクルをひたすらに繰り返すという性質を持っているのである。

 そして最後に、生命という秩序体系は最終的には崩れ、混沌へ向かうという性質を持っているということを述べておく。一つの秩序の終焉はすなわちカオスであり、それこそが死である。
 歴史上、死の存在しない生命は現状存在していないと考えられる。生命という秩序体系は死を迎えることによって発散されるのである。そしてそれは他の秩序体系に栄養素として取り込まれ、再び秩序体系を構成するものになる。生命は、この秩序体系にいる状態と、その秩序体系の大きなまとまりから外れた状態を交互に繰り返していく、ちかちかと点滅するランプのようなものなのかもしれない。

 生命というものは、こうして考察してみるに非常に興味深いものである。その一つ一つがあるまとまった秩序体系であるように見えながら、それはウイルスや鉱物などとは違った振る舞い方をしている。生命はその秩序を維持しながらも、一方で動的に振る舞い、また生命の循環システムを外れては存在することができない。そして無生物と異なり、最終的にその生命はその秩序体系を放棄し混沌状態に舞い戻り、また再び秩序体系に取り込まれていく。

 生物という秩序体系は無機物のような整然としたものでは決してなく、流動性を持ちながら、循環のなかでそれぞれが点滅するようにして存続している存在なのである。

引用文献
マーギュリス, リン&セーガン, ドリオン. (1998). 生命とはなにか. 東京:せりか書房.
福岡, 伸一. (2007). 生物と無生物のあいだ. 東京:講談社.




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対話333 この間の課題レポートをそのままうpしてみた

2010.05.08.14:29



内村 直之 『われら以外の人類 猿人からネアンデルタール人まで』


個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 「脳は大量のエネルギーを使う期間です。これが進化するのはよっぽどのこと」と、古人類学者レスリー・アイエロ(ロンドン大学)は主張しています。(p.166)


 現在履修している言語心理学の授業で出されたペーパーを書くために読んだ本で、先日無事に提出することが出来た。
今学期に履修しているクラスが割と僕的にハードだったのでここ数日はあっぷあっぷした日が続いていたが、こういう学習環境に浸れるということはもう神に感謝したいレベルで楽しいことだなと感じる。

さて、今日はそのペーパーをブログにあげてみようかなと思う。
これで僕の学生としてのレベルがうかがいしれてしまうわけなのだが、とりあえず分量が少ない理由として、一応ページ指定で2枚以内という指示が来ていたことを最初に言い訳として述べておこう。構成はブログ用に多少改変。

ネアンデルタール人と現代人の発話性の差異

 ネアンデルタール人は現代人である我々とは起源のことなる原人としてみなされている.
ネアンデルタール人はすでに30000万年前に滅びているということが定説的に言われており,その一つの理由としてネアンデルタール人が現代人のように発話が出来なかったということがあげられることもある.

 ネアンデルタール人が言語を持っていたか否かという質問に対して,私はネアンデルタール人が言語を持っていたと考える.
他の動物のコミュニケーションとは一線を画す大きな言語の特性として,本授業中に指摘のあったようなシンボルとしての意味があることがあげられるが,ネアンデルタール人はそれを持っていたのではないかというのが私の推論である.
その根拠を生物学的,また文化的側面の両方から挙げていきたい.

 まず一つに,生物学的な根拠から話をすすめる.
ネアンデルタール人が言語を持っているか否かということは研究において物議をかもしていたが,1983年のイスラエルのケバラ洞窟で発見されたネアンデルタール人の骨格が発見された.
これを調査したテルアビブ大学のアレンスバーグは1989年にネアンデルタール人の舌骨を調べて,ネアンデルタール人の話す機能は現代人と似ていたと記述している.
これ以前に研究が進められていたトゥルカナ・ボーイにおいて,マクラーノンがネアンデルタール人は話せないと結論させた要因である椎孔もその個体の化石では現代人と変わらないとされ,このことから生物学的にネアンデルタール人は話せたとする一つの要因を導き出すことが出来る(内村, 2005).

 また,ネアンデルタール人の脳の大きさはホモ・サピエンスより大きい.頭の大きさが違うため,たとえばホモ・サピエンスにおいて発話に大きく関わるブローカ野に当たるものがどの程度ネアンデルタール人に備わっていたかは確かではないし,また抽象概念を発話するのに重要な役割を果たしていると考えられる大脳新皮質においてもその大きさははっきしていない.
しかしいずれにせよ,脳のある程度の大きさは発話というコミュニケーションに影響を及ぼすことは充分に考えられ,このことからもネアンデルタール人が発話というコミュニケーションをとっていたのではないかと推測することが出来る.

 実際,人類学者でカリフォルニア大学バークレー校のディーコンは,神経学的にネアンデルタール人は現代人とほぼ変わらず,同等程度の伝達交換システムを持っていたことはほぼ疑い得ないと指摘している(内村).
 さらに, 2007年にCurrent Biologyに発表された論文では,ネアンデルタール人がこれまでに言語と関連づけられた唯一のヒト遺伝子を持っていたことが示されている.これは少なくともネアンデルタール人が言語を習得する遺伝的条件を備えていたことを意味する(Callaway).

 ただアンデルタール人がホモ・サピエンスと同じような声で発話していたとは考えにくい.
これはネアンデルタール人の顔面は前に突き出しており,口蓋が前後に長く喉頭はかなり高い位置にあったという推定が指し示している.

その結果,のどはかなり狭い形にはなっていたことは想像でき,仮にネアンデルタール人が現代に現存していたとしても,そこで言語を介してのホモ・サピエンスとの会話は難しかったかもしれない.
しかしその場合であっても,これはネアンデルタール人がシンボル性のある言語を持っていなかったことを意味しない.

 ネアンデルタール人の文化においては,その頃の我々の祖先と考えられるクロマニョン人と同じようにルヴァロワ技法というものを用いた石器製作の痕跡が認められる.
その石器製作においてはその過程でかなりの計画性が要求されるため,それを他の個体に伝達するためのコミュニケーション能力があったと考えることは無理のないことである.
そしてそのためには,単純なシグナルとしてのコミュニケーションでは難しく,より抽象的で高度なシンボルとしての性質をもった,言語という存在が必要不可欠になってくると考えられる.

 加えて,ネアンデルタール人は埋葬をしていたということがいくつかの証拠をもとに提唱されている.ホモ・サピエンスと違い,ネアンデルタール人がさまざまな副葬品とともに死者を葬ったという事例は明確には示されていない.たとえば1960年の調査では少なくとも8種類の花粉が成人男性骨格とともに見出され,コロンビア大学のソレッキはそれを儀礼的なものとみなしているが,花粉がたまたま紛れ込んだだけという可能性は排除することはできない.

しかし,亡骸をそのまま放置すれば骨は自然にバラバラになるのであるが,発見されたネアンデルタール人の遺体は整っているものも複数確認されている.これは遺体が痛む前に埋葬をしたことを指し示していると考えられるだろう.

 以上のように,ネアンデルタール人が言語を持っていたということを示す可能性は生物学的にも,文化的にも見出すことが出来る.
ネアンデルタール人が発話に充分な身体的機能を備えており,また文化的にも抽象概念のコミュニケーションが求められるような事例がいくつか見つかっているのである.

 もちろん,前述したようにネアンデルタール人の言語がホモ・サピエンスと同様の言語であったということは考えにくい.
しかしシンボル性を持った発話コミュニケーションをネアンデルタール人が持っていたことは充分に示唆されているのである.
 

引用文献
内村直之. (2005). われら以外の人類. Tokyo: 朝日新聞社.
Callaway, Ewen. (2008). Neanderthals speak out after 30,000 years. New Science. April 2008-04-15. < http://www.newscientist.com/article/dn13672>

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はらわたに秩序。

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