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対話339 文系人間がアメリカの大学院に行くということ

2010.07.10.15:53



個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間


 また、ときどき、原稿の棒読みよりはもっとダイナミックな発表のほうがよいからといって、ポイントだけを書いたノートをもとにアドリブで発表する人がいる。これには私は大反対である。特に母語でない言語で話す場合は、どれだけのことを話すのにどれだけの時間がかかるかという検討がつきにくい。(pp.181)


 ↑基本的になんでもアドリブでこなすことがとても多い僕にとって、ものすごい勢いで自戒したくなってしまう文言。そうだよねー。

 僕も将来的に教授にでもいっちょなってみっか!と気軽に考えていた人間の一人であるので、このような本はも物凄く参考になる。専門は違うけど文系用のであるし、他の留学本が割と理系とビジネスばっかりの中、こういう本の存在はなかなか貴重である。ちなみに筆者の専門はアメリカ文化史とかであるらしい。

 この本を読むと、自分のキャリアプランについて否が応にも考えさせられる。
僕はそもそも今自分の専攻はなんなのかを4年にもなって考えている不届き者なわけなのだけど(やりたいテーマは決まっているけどアプローチがわからない)、もしその後アメリカに留学をするという選択肢を選んだしたらを考えた時の、具体的で現実的な側面がこの本から伝わってくる。アメリカ留学もなかなか色々大変なんだなあとなめてかかっていた僕は少し反省しました。。。

 とはいえ、この本からアメリカ留学する価値も伝わってくるのは事実。ポスドク問題とか、そういうことも踏まえて自分が研究者ルートにいくか否か、あるいは研究者にならないとしても将来やりたいことにこの時間の投資を生かすことが出来るか、そこらへんの方向から自分の将来を考えていきたいところ。
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対話338 対話と議論とおしゃべりに関する独り言

2010.07.09.15:48



個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 対話グループでは、どんなことに関しても決定を下したりはしない。この点が重要である。さもなければ、参加者が自由だと言えないだろう。人は何かを義務づけられていない、空白のスペースをもつ必要がある。または、いかなる結論も生まれず、何を言えとか言うなとか指示されないスペースを。それはオープンで自由な、空のスペースだ。(p.62-63)


* * * * * * * * * * *

 「対話」という概念に僕が遭遇したのはいつごろだろうか?あの時、僕は確実に「会話」という概念に遭難しかけていた。人と話すとき、それはディスカッションのような”有意義”なものであるか、さもなくばボケと突っ込みの世界のような”笑いをとれるもの”でなければならない――そういったような思い込みが、少なからずあったと思う。僕の会話のパターンにはその2種類しか用意されていなかったのだ。

 ”ダイアローグ”だとか”対話”だとか、そういった単語をちらほら聞き始めたのは去年からだと思う。それは愛すべき友人からだった。もともと、その友人はそのようなラベリングを吹聴する前に充分に”対話”好きであった。彼は人の意見を否定しない。それでいて別にどうでも良さそうに聞くのではなく、確かなアイコンタクトを持って傾聴する。元来「喋りたがり、相手の話をあまり聞かない」属性を保持していた僕にとって、そのような態度は非常に新鮮なものであった。何故聞くだけで良いのか?それに対して”改善”を加えなければならないのではないか?そのような強迫観念めいたものが僕の取っていたコミュニケーションには含まれていたのだと思う。

 去年から色々な人に出会い始めた僕は、しかしそのような態度では素晴らしい会話をすることは難しいなと感じていた。そこで、その友人の態度が――そしてその”対話”だとか”ダイアローグ”といった言葉が――頭にしみ込んできた。同時期に、ミームの死骸を待ちながらのHashさんにもお会いして、彼の「聴く」という姿勢に対しての考えも聞き、それは自分が持っていなかった会話スタイルだなとも思った。僕の会話スタイルは僕の小さい脳みそと同様、圧倒的に狭いものであるらしかった。

* * * * * * * * * * *

 その後、僕は「聴く」ということを、特に意識し始めて会話するようになる。自分の狭い価値観で相手の意見を判断するのではなく、どうしたらそれがさらに弾むのか、あるいは”相手から”躍進するようなパワーを引き出すのか?
 多分キャバ嬢とかはこういうのを自然と、あるいは理論的に身につけているのであろう。議論好きでなんでも文句行ってくるキャバ嬢とか、あんま人気なさそうだしね。

 ともかく、僕は「聴く」というスタイルを自分の中に早いうちに身につけるべきであった。その関係で、どういった態度が最も相手の話を聴くのに適しているのか?ということも読書を通じて学習していた。そのあとは色々な人に会い、会話の練習だ。その結果、僕がはたしてちゃんと「聴ける」人間になったかどうかはわからないけれども、しかし去年の今頃よりは多少なりとも成長していると信じたい。

 その経験を通じて何を得たか。それは「聴く」ということの大事さの実感であるとともに、”議論”ではない”対話”の重要性の実感である。おしゃべりではなく語り。議論ではなく語り。"Saying than Chatting, Syaing than discussing." そこのところの区別がいまいちついていなかった僕にとって、これは一つの会話スタイルの生誕であるといっても過言ではなかった。
 今年もこの夏、さまざまな人と出会う。その時、いかに上質の対話を繰り広げるか?
 本書によれば、対話とはつまるところ「意味の共有」に着眼が置かれている。さまざまな意味を自分の中に詰め込んでいきたい。人間とはどうしようもなく意味を求める動物であって、僕はその点に関して本当に貪欲になろうと決めたのだ。

対話337 「日本が大好きな私たち」はマイノリティに見せかけたマジョリティ

2010.07.08.20:40



個人的読みやすさ:B
読書時間;30分


それと歌詞が日本の歌の場合、前向きなメッセージソング的なものが多いから陽気なニューヨーカーたちには受けるんでです。アメリカの歌の歌詞は文学的なものが多いからでしょう。


↑これ、もし本当なら僕はアメリカに生まれるべきだったのかもしれない。残念ながらあまりアメリカの音楽に詳しくないためこれが真実はどうかはわからないのだけど。。。

 ネットを徘徊いしていると、外国人の反応を日本語に翻訳したブログによく出会う。よく出会うというか、僕がそういうものが好きなため積極的に探しにいく。それで外国人の反応を見て、あれやっぱ日本すごいじゃんとかこのアニメ面白いじゃんとか、そういう感想を抱くことになる。なんでアニメに関する外国人のフォーラムってあんなに面白いんだろうね?

 この本も多分、僕のような人間をターゲットにしているのだろう。すなわち、日本の良さを再発見したい人。あるいは、少し意地悪な見方をするのであれば、日本人というラベリングから自尊心を得たい人、としても間違いではないだろう。少なくとも僕は日本が褒められるとまるで自分が褒められたように感じてしまう男だ。

* * * * * * * * * * *

 良く言われることとして、日本人は日本が嫌いということがある。愛国心が他国に比べるとあまりなく、日本人は自分の国に興味がないそうだ。だからなのかわからないけど、日本のネット界ではその”マジョリティ”に対しての反発として、「日本ってやっぱすげえじゃん!誇りを持つべき!」という風潮がある(と僕は感じる)。その環境においては確実に「日本凄い」というのがマジョリティであり、ここで日本に対してケチをつけるとものすごい勢いでぼこぼこにされるのを僕は何度か見てきた。そして僕は思うわけだ。「日本人は本当に日本が嫌いなのか?」と。

 僕の取得出来るソースというのは主にネットか周りの人しかいないため、実際の日本人が総体的に日本をどう思っているのかはよくわからない。けれども、すくなくとも僕が観測する限り、少なくない人が「日本を卑下する人が多いけれど、私は日本が大好きである。日本には~という良いところがある。もっと誇りを持つべきだし、無理に外国に合わせたりする必要はないし、さらに言えば日本から積極的に出ていく必要もないのである」というようなことを言っているのを耳にする。その主張自体には賛成するのだけど、ここでの叩かれる対象としての”日本を卑下する存在”というのはどこで発生しているのだろうか?

* * * * * * * * * *

 日本を誇りに思うことは勝手だし、僕も誇りに思っている。実際、日本人であることってものすごく便利だと思うし、別に他の国に生まれたかったと思うことはない(文頭と矛盾)。ただ、この実際はマイノリティとは言えない集団が架空のマジョリティへの反発として成長していっている、という構図はちょっと歪なものがあるなあと思う。あと、これは話が少しずれるけどやっぱり日本が好きなら海外に一度は行ったほうがいいと僕は思います。

対話336 この戯言は実際の自然科学とは一切関係がございません

2010.07.07.18:04



個人的読みやすさ:D
読書時間:2時間


さらに、時が経つにつれ、ラカンの著作は、言葉遊びと断片化された統辞法をないまぜにすることで、ますます判じ物めいてきた。これは多くの聖典に共通する特性である。そしてこれらのテクストが、弟子たちによる敬虔なる教義解釈の基礎となっていくのだ。こう見てくると、つまるところ、われわれは新たな宗教を相手にしているのではないかと疑っていいようだ。(p.52)


 これは特に、自然科学めいたことを社会科学や人文学に導入しようかなと思っている人は読んだほうがいい本だなと思った。つまりそれはかつての僕みたいな人のことなのだけど、この本を読むことでますますもって自然科学にきっぱりと決別する(もともと振り向いてもらえてもいなかったが)きっかけを得ることが出来るようになったと思う。あ、別に自然科学系の勉強を軽視するという意味ではなくて、自分の研究には出来る限り取り入れないという意味においてね。

 この本の最初からやり玉に挙げられているのは僕が一時期はまった(といってもジジェクの本を通じて、だけど)ラカンであり、途中に言及のあるファイヤアーベントの思想にも一時期それなりにはまっていた僕にとって、この本を読むことはそれほど気持ちの良すぎるということではなかった。ただ、かつてから科学の重要性みたいなのはひしひしと感じていたし、典型的なポストモダン論者がいうような極端な相対主義(科学だって一つの宗教でしょ?)とは距離を置きたいと思っていたから、案外僕のもともとの思想はこの本から外れていた、ということでもないようだ。

 社会科学が自然科学的な方法論を取るべきか、みたいなことは多分社会科学をやっている人なら一度は考えると思う。人文学はその点比較的いさぎよさそうで、科学とかなにそれ食べれるの?的なポジションをキープしているというところが多そうだと思っていたけど、それでもやはり科学的概念をメタファーとして分かりづらく使ったりしているという風潮が確かに昨今ではあるのは間違いない。みんな自然科学にあこがれているし、それが現代の趨勢なのだと思う。その反発心としてのポストモダニズム的な相対主義の隆盛もここに原因が求められるだろう。

 僕はその趨勢からやはり一歩抜けたいなと思う。つまり自然科学完全シカトポジションを貫きたい、少なくとも自分の研究分野において。そもそもたとえば脳とかの研究において、はっきりとこれはこれこれでありしたがってこういう現象が起きるということは一般的に想像されているよりもずっと言えることが少ないそうだ。たとえば男女の脳りょうの太さの違いから来る性格特性の差異とか、テストステロンと男性性についての関係性だとかも、最近の研究ではかなり怪しいとされているとのことである。自然科学を自分の言っていることの権威づけとして用いてしまうのはやっぱり効果的ではなさそうだ。

 であれば僕のような自然科学者ではない人はどのように自然科学を自分の思想に生かすべきか?

 別に着想を得るために、自然科学をメタファーとして認識すること自体はまったくもって悪いことではない。しかしそれを他者にアウトプットするときに、自然科学的な用語を使ってしまったり、しかも誤用なんかしたりしてしまっていたりしたら、それは人間科学の発展を阻害する礎になるだけである。だからこそ、自分が用いる用語に自然科学的な言葉、あるいは自然科学に限らずとも他分野の言葉を使うときには神経質になる必要性があるのだろう。思想には自然科学的な性質とは違ったものがあるのだから、それをそのまま転用するのは危険すぎるのである。


対話335 ポストイットされた空間

2010.07.07.06:04




個人的読みやすさ:A
読書時間:20分


 人にはそれぞれ、時間密度の高い場所、高い時間帯があります。
 私の場合、それは朝のバスルームであり、タクシーの中であり、近所のスターバックスです。(p.176)


 最近、空間のデザインだとか、その空間が持つシンボル性についてものすごく興味関心意欲が高い。
たっかたかたかたかたかたかたかた高い興味関心意欲態度を空間のシンボル性に対して持っている僕は、自分の部屋でまともに学習することがいかに難しいことかということにちゃんと気付いている。

 僕の部屋の中で今まで行ってきたことを考えればよい。
僕は今までほとんど自分の部屋でまともなことをしてこなかった。
これはすなわち自分の部屋に対して「まともなことはしませんよ」というラベリングを貼っていたということになる。何年も、何時間何分何秒かけて、丁寧に丹念に「この部屋ではまとも以外のことをするのですよ」ということを自分の身体に刻みつけてきたのだ。
 そんな僕が、その怠惰の象徴である実家の自室に帰って一体何をすることがあるというのだろうか?答えは絵に描いた餅ならぬ、絵に描いた怠惰そのものである。多分僕の部屋には怠惰の象徴であるベルフェゴールが大量に住んでいるに違いない。嫌な世の中になったものです。

 反対に、自分が一番作業効率がいいのはどこか思い浮かべてみると、それは圧倒的にカフェである。なんだかちょっぴりおしゃれな横文字を使ってしまって少し申し訳ないのだけれど、事実一番効率が良いのだからしょうがない。
 今思えば昔昔、現在よりさらに尻が真っ青かつ顔面蒼白だった時代の僕は、カフェとかで高い金を払って勉強する人のことを信じられない人だと思っていた。正直軽蔑していたといっても過言ではないし、特にスタバなどバカ高い(当時基準)ところで勉強している人はどこの貴族階級のブルジョワジーたちなんだろうと思っていたりもした。怒れる庶民であった。

 今でもスタバが高いという指摘は持ち続けているわけなのであるが、僕のカフェに対する見識はしかしながら今になってすっかり変わってしまった。哀れな僕はついにおしゃれマジョリティに屈するという結末をたどり、しかし作業効率自体は上がっているので特に後悔はせず、ニュー速民っぷりの手のひら返しを披露しながらカフェに足しげく通っている。すでに僕にとって、カフェ=勉強をする場所というラベリングが貼られているのである。

 自分は今まで環境に対してどのようなラベリングを貼ってきたか?それは剥がせるものなのか?剥がすべきなのかそうではないのか?そこらへんのことを考えると、僕の世界には色々なものが貼りついていて、こびりついているのだなあと思う。多分貼ったことをずっと忘れてしまっているようなものは、ノリがすでにべっとりとくっついていて、今はがそうとしてもなかなかうまく剥がれず汚い痕が残ってしまったりすることもあるのだろう。人生にはイソプロピルアルコールによる塗装剥がしが必要。

改変を考え中

2010.07.07.03:18

春学期の精神的忙しさを原因ということにし、1か月以上放置してきたこのブログ。

せっかく再スタートをきろうと思ったので色々といじろうかなと思います。

正直何をいじるのか、そしてアメリカに行くまであと1カ月くらいしかない今、結局のところ更新は1カ月くらいしか続かないのではないかという懸念もありますが。

今色々と考えているところです。


こんなほとんど何もないようなブログにきていただいている人全員に感謝、感謝です。ありがとう。
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はらわたに秩序。

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