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対話349 住原 則也、芹沢 知広、 箭内 匡 『異文化の学びかた・描きかた―なぜ、どのように研究するのか』

2011.06.22.06:41



個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間

 かくして、現代の地域固有文化の研究の多くが、かつてのように固有性そのものの特徴を捉えようとするよりも、むしろ、固有の文化を遵守しようとする行動を「抗議表現」[ロバートソン 1997:97]や「レジスタンス」[Sahlins 1999:410]の集団として扱い、「伝統文化」といえども、外界に向けて見せつけるための、操作対象としての「創られた文化」と見なす傾向を帯びてきている。(中略)もはや、ある地域の固有の文化現象を研究する場合ですら、その地域の内部事情だけを閉鎖的に見るのみでは、内部者の、グローバルに開かれた心の内面世界を見過ごすことになる。(pp.9)

そこで、サーリンスの言葉を借りれば、非西洋社会は、近代化に反対しているというよりむしろ「近代を土着化」[Sahlins 1999:410]しようとしている。つまり、近代性を土着の良き伝統的システムのなかにうまく組み入れ、共存かをはかろうとしていることになる。(pp.11)

グローバル化は、それら中間者による「権威ある解釈」から個人を解放したことで、個々人は無解釈(メディア自身の解釈は別にして)の情報に直接接し、独自の世界観を形成するようになった。(pp.15)

日本人の享受している経済的な豊かさは、異文化と関わろうとするハングリー精神やチャレンジ精神の育成にはマイナスに働いてこなかっただろうか。(pp.19)

 進化論は、生物進化論と社会進化論に分けることができる。前者のほうは、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)によって広く知られる生体の進化のことであり、後者のほうは、ハーバート・スペンサー(1820-1903)などの論者を中心として、社会が進化してゆくという考えである。(pp.29)

第一に、「素直な目」などというものは存在しない。(pp.55)

つまり、インターネット文書の情報は、なるべく、出版物の研究文献による情報でフォローアップしたうえで用いる、ということである。(pp.90)

 いつまで文献を集め続けるのか?もちろん、論文を書き終える最後の瞬間までである。(pp.110)

(前略)現地人といえども「知っていても語ることのできない」領域があったり、現地人にも「見えざる」領域がある。「異文化を理解する」とは、そのような「領域」を探るということであった。(pp.121-122)

 また逆に、変に歓心を買おうとする必要はない。かつて、アフリカの村に出かけた、ヨーロッパ人のキリスト教宣教師が、村人の農作業などに便利だろう、と鉄の斧をプレゼントしたところ、それをもらえなかった人々のねたみが発生し、平和な人間関係に大きな歪みを生じさせた例もある。(pp.141-142)

同様にイギリスの社会学者アンソニー・ギデンスもまた、人間社会の研究とは、おしなべて行為者自身の解釈を、調査者が再解釈する作業であると言い、これを「二重の解釈学」(double hermeneutics)と呼んでいる[Giddens 1982:11-14; 1984:284]。(p.148)

食物を例にとれば、現代の日本の食文化では、トマトなど野菜のサラダを朝食に食べることに何ら不思議を感じていない。それに野菜サラダは西洋食の影響である、と思っている。ところが、アメリカ人などに聴けば、朝食に野菜サラダ、とりわけ、トマトなどを食べるのは「気持ち悪い」ことだという。(pp.158)

(前略)皮肉にも、ホームレスに対する行政や警察の扱いそのものが、ますます彼らをほーむれすらしくさせてしまっているという、一般的な常識を覆すような現実だった。(pp.159)

 文化人類学の場合、その実践自体がそのまま「普遍」と「個別」の往復運動である。世界のさまざまな民族の生活を仔細に記述することと同時に、人類全体についても論じる。(pp.190)

私たちは、歌人が和漢の名歌にちなんだ「本歌取り」をして歌を詠むように、先人の研究を踏まえた文章をつくる必要がある。(pp.204)

最近話題になったある哲学の教科書では、自身が議論をするときに意識的に接続表現を多用することと、論理的な文章を読むときに接続関係を考えながら読むことの二点があげられている[野矢 1997:1-3]。(pp.211)


大学の指導教官より「これはマストです」と指定されたために読むことになった本。読み終えてみて、確かに僕のような門外漢でも人類学のリサーチについての大まかな雰囲気がある程度掴むことが出来たので良い本なのだと思う。

 特に論文の書き方について、「これは本歌取りなのである」としたところに感銘を受けた。別に論文に限らず、人生ってかなりの部分本歌取りの要素が強いのだと思う。
創造性というのは完全に独立したところから発生する」だなんてナイーブなことを今更思っている人はあんまりいないだろうけど、それでも「自分が創造性を発揮するために押さえておくべき基本地形がなんなのか?」について把握していないというのは振り返ってみると多々ある。

 だからこそ、まずやるべきは鬼のようにその分野に関する書物を読む、ないしは物事を体験するということなのだ。その前に自分で考えてみるとか、そういうのは多分そこまで重要じゃない。まず量。大量にそのフィールドに使ってみる。考えるのはそのあと。考えることだけでは、もはや当たり前のことではあるけど、創造性は発揮できない。むしろ、考えることというのは創造性とはかなり違う位置にあるのではないかとすら最近思う。創造性とは閃きであり、そしてその閃きは膨大な経験から生みだされる。

 もちろん、創造性を促進させるような一定の形式というのは存在しているけども、その場合でも大半の場合頭の中でこねくり回すのではなく、たとえばブレーンストーミングのように紙とぺンを使ったり、あるいはイメージストリーミングのように映像と発声を用いたりしている。

「本歌取り」をするためにまず土台を固め、そこから生まれる閃きをツールで促進させる。恐らく一般的な「考える」という作業は、そこでは最後の微調整くらいでしか効果を発揮しない。
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対話348 Adam Ruben "Surviving Your Stupid, Stupid Decision to Go to Grad School"

2011.06.21.06:00



個人的読みやすさ:A
読書時間:3時間


 基本的にここで引用する言葉は全て付箋をつけたところから来ているのだけど、この本を読んでいた時は生憎付箋を持っていなかったため特に引用はなし。とはいえ、この本にはユーモアの効いた色々な文言が並べてあって、ところどころぷぷっとくるようなフレーズがちりばめられている。英語もそこまで難しくないし、本書自体も長くないため(とか言いつつ読み終わるのに3時間くらいかかったが)かなりお勧め。特に大学院に行こうとしている人や、今実際に大学院に行っている人にとっては充分なリアリティを持って読むことが出来ると思う。

 この本の筆者の専攻はいわゆる理系分野であって、僕は普通に文系の院に行こうとしているから若干話が違うところもあるけれども、それでもこの本の9割くらいは(誇張されているだろうとはいえ)なかなか将来のことを考えさせられる。

 特に、大学院に行くことで得られるライフスタイルについて。
僕の留学していたところはアメリカの中では都会といえど、結構な田舎にあるところだった。なので勉強をするという意味ではかなり良かったのだけど、そこで感じたのは東京にいることの素敵さ。僕が人に会って話をするのが好きというのもあるけど、色々な人がいてそれでいてアクセスが地理的にも心理的にも容易というのはことのほか大きい。ちょっと過度な一般化をしてしまうと、都会に近い人のほうが”会いやすい”印象を受ける。

 留学は1年だけだったのであの隔離された空間でも別に大丈夫だったけど、博士号取得のために留学するとなると平均で大体7年くらいかかるので、人格形成の意味でも地理条件はかなり重要な事柄だ。自分がどういう人間になりたいのか、というのはアカデミアとの付き合いももちろんなんだけど、外部との接触をいかに自分の生活に組み込むかというのにも関わってくる。それらを総合的に、統合的に判断して進路を決めていきたいなと思う。

対話347 東 浩紀 (編), 北田 暁大 (編) 『思想地図〈vol.1〉特集・日本』

2011.06.20.20:04




個人的読みやすさ:C
読書時間:2時間超


 なぜ「少数者」が問題になったのかと言えば、それは彼らの存在自体が、「総中流社会、豊かで安定した日本社会」という大衆的なナショナリズムの自画像への、アンチテーゼになり得たからである。(pp.109)

日韓は、ナショナリズムや民族主義について、最も良質な知識人同士の間でさえ、直接的な意見交換ができる段階にはいまだない。その状態で、それ以外の人々に和解を求めることなど、無理な相談である。ナショナリズム以外に対話すべき、たがいに知るべきことが、まだ多すぎるのである。(pp.115)

 言い換えれば、日本人が従来から続けてきた西洋人の視線を介した自己認証という図式が通用しない事態が、おそらく史上はじめて訪れたのだ。(pp.123)

まとめると、(a)音楽とマンガ・アニメの記号論的な差異(キャラクターに対応する存在者が音楽には見出しにくい)、(b)対象のパブリシティに必ずしも依存しない素材の選択戦略、の二点で、オタク系文化とDJ文化のデータベース消費は異なるかたちをとる。(pp.156)

つまり、より重要なのは、ある要素がいったいどこに由来するのかという文化的所有権に関わる問題ではなく、むしろ個々の要素を取捨選択するように働きかけ、特定のやり方で情報を処理しようとする文化的様式にまつわる問題なのである。(pp.188)

(中国の)80後の文学は、作家周辺の情報をあまりにも深く組み込んでいる。彼らの文学の下部構造は、「作家」と「作品」を分割するどころか、その両者を曖昧に溶かしこんでしまっているのだ。したがって、作品を読むことは、大なり小なり作者も同時に読むことを意味してしまう。(pp.189)

 大陸ではそれは作家のアイドル化として、台湾ではウェブの書き手の存在感を誇張することとして現れる。それに対して、日本のACG文化では、もっぱら架空のキャラクターを立ち上げ、さまざまに変換しようとする文化的計算が根付く一方、作者についてはそこまで大きなコミュニケーション上の重要性が与えられていない。(pp.203)

(日本人でナショナリズムの高い人々に関して)だけど、これが正しいのかどうか少々疑わしい前提で、いくつかのデータを見てみても、自分を経済的な強者だと思っている層に多い。(pp.262)

結局、この功利主義にある意味対抗できるのは、合理性を超越するものとして見なされている「宗教性」であろう。我々は具体的な「信仰」を失ったといっても、このような場面で再び「宗教性」を召喚してしまうのである。(pp.304)

要するに、あまりにも進んだエンハンスメントは、これまで人間には責任がない「運命」として需要されてきたもの(病気、障害、体質などの不条理)を、単に克服すべき「ノイズ」として処理しかねない。(pp.309)

 ではもう一つ、現代的な「宗教性」が見られる領域として、「セラピー文化」を取り上げてみたい。社会学者の小池靖は、現代に竜駐する臨床心理学(カウンセリング)を重んじる風潮や癒しの実践などをまとめて「セラピー文化」と名付け、それにいわば代替的な宗教性を見出して分析しているが、この「セラピー文化」では、カウンセリングに典型的なように、社会に「再結合すること」が重要視される傾向がある。別言すれば、「セラピー文化」には社会変革よりも、自分が変わって社会に合わせることを重んじるような保守性があり、それはしばしば指摘、批判されている。(中略)ただし、小池も指摘しているように、「セラピー文化」も単なる現状追認の営みではない。セラピー文化には、「弱い自己」を受け入れつつ、現行の価値(つまり自分を弱者たらしめている「不当」な価値観)を相対化し、変革する力の兆しを見せる側面もあるのだ。(pp.312)

このような「まつろわぬものの声」を聴き続けること、自らの「宗教性」をノイズとして処理せずある意味「飼い慣らす」こと。このような実践がこれからのわれわれの「スピリチュアリティ」の進展および維持の最低条件ではないだろうか。(pp.313)


 本書は日本に関連した、という制約はあるものの、比較的幅広い思想やらデータやらを取り扱っているのでなかなか全部に言及するということは出来ない。ということで、このブログでは特にこの本で原稿を書いている人の専攻に多い「社会学」と僕のやろうとしている学問である「人類学」の、僕が思う違いについてでも書こうかなと思う。

 まず前提として、「人類学」は「社会学」に非常によく似ている学問だと取り扱われることが多い。
似ているも糞も、そもそも「人類学」って何さ?アフリカ行くの?みたいな反応のほうがどちらかというと多いんだけど、うちの大学でも社会学と人類学は一つのデパートメントとしてまとめられているし、まあ公式的にはそういう認識が多いのだということにしておく。うちの大学に限らずとも、たとえば社会学よりな人類学をやっている大学院とかも僕がざっと見た感じ多いので、似ている学問だと取り扱われること自体は別にそこまで間違っていることではない。事実、社会学と人類学の一部は、少なくともクロスオーバーしている。

 だけど、人類学専攻の僕としてはそこまで社会学の分野に親和性は感じていない。
今まで僕が取った社会学の授業なんてたかがしれているし、社会学に関する書籍もそこまで多くは読んでいないというのもある。僕が人類学専攻といっても、実際は心理学にかなり近い分野をやっているというのもある。しかしそれよりも、多分僕がちょっと自分の専攻とするにはイデオロギッシュすぎるというか、ある思想を持ってそこから世の中を切り取ったり、それを時に他人の思想と戦わせるという社会学(というか思想全般)でよく見られると思われるそのアクティビティ自体にそこまでの魅力を感じていないのだ。

 そしてそれこそが、人類学を専攻する人と社会学を専攻する人との一つの大きな違いなのではないかとも思う。
人類学は基本的に相対主義である。というより、一時期の自文化至上主義の反省という意味合いがこの学問では強いので、必然的に文化相対主義的にならなければならない。究極的には不可能と言えど、人類学者はなるべくバイアス、つまるところ思想、を取り外して現象を観ようとする。ここに人類学が現象学的思想と相性の良い理由がある。

 僕の知る限り、社会学は、特にそれが持つ思想性は、それとは間逆である。多分だけど、社会学において相対主義というのはそこまで重んじられたものではない。それどころか、むしろ忌避されるべきものなのではないかと思う。それは意味合いとして哲学において相対主義が叩かれるのとはまた違うのだろうけど、ともかく。社会学は例外があることは認めつつも、しかし一つの見方を持つことで大勢を把握することを目的としている学問なのだろう。まさに、社会というマクロを見ている学問。

 大して、人類学は一般化も結構普通にしているとはいえ、基本的には人間を見る学問であることから、比較的マイノリティに目を向けやすい学問であると言える。どっちが良いとかではない。ただ、僕の個人的な趣向としては人類学のほうがマッチしていると現状では思うし、多分それはこれからもなかなか変わらないのではないかな、とはぼんやり思う。このへん、僕のバックグラウンドが心理学にあることとも関連するのかもしれない。心理学は(というと広すぎるが)、科学であることを指向するがゆえにそこまで強い思想性を持たない。精神分析などになるとまた話は変わってくるけれども、しかし精神分析は心理学の中では基本的に異端扱いされているのでここでは省略する。多分僕は事象そのものを、なるべく生に近い形でみたいなと思っているのだろう。おそらくここに心理学から人類学に転向した一つの理由もある。

 人類学は、その扱う範囲や質的な性格を共有しているという意味で、社会学とある程度似た部分を持っている。けれども、社会学とはかなり違う学問的性質を持っているのであり、その性質それこそが、一つの大きな差異を生みだしているのであるなと思う。

 ちなみに余談にはなるけれども、人類学の持つ俗離れ感が理由なのか、社会学と心理学がかなりの人気学問なのに比べ人類学の人気はあまりない。これは日本だけで見られる現象なのではなく、実際に僕がアメリカにいた時も心理学と社会学の授業はすぐに埋まってしまうのに比べ、人類学は余裕でどれでも取ることが出来たので割と広く見られる現象なのではないかと思う。事実、僕もなんだかんだで人類学を専攻にしたけれどもそれまでは人類学を専攻するということはまったく考えていなかった。これは人類学の扱うトピック(と主に考えられていること)が、一般的にはなじみのないものをよく扱っているということに起因しているのかもしれない。人類学の場合、トピック自体は比較的どうとてもなるので、むしろ喧伝すべきはそこではなくて、参与観察とインタビューという研究手法の魅力のような気もする。

対話346 潮木 守一 『世界の大学危機―新しい大学像を求めて』

2011.06.19.17:13




個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間半


(ドイツの大学に関して)
専門大学の前身が技師学校だった、学習年限が短い、内容が実用的だといった説明をすると、日本ではよく「それは二流大学なのではないか」と考える人がいる。しかし、卒業後の月収(フルタイム勤労者の税引き前)を比較すると(2001年データ)、総合大学卒業者の平均値が4763ユーロであるのに対して、専門大学卒業者は4334ユーロで、ほとんど差はない。つまり、この二つはタイプの差であって、どちらが上でどちらが下という関係ではない。(pp,86)

日本では個人の背景を紹介するのに、ほとんどの場合、どこの大学を卒業したかを挙げる。しかし、ドイツではどの大学を卒業したか、大学名を挙げることはほとんどない。それはだれでも、どこの大学に入ろうと思ったら、入れただろうし、それ以上に、人によっては、学部教育を終えるまでに、二つ、三つの大学を移動したというケースもあるからである、。そうなれば、卒業した大学名は、あまり意味を持たない。(pp.89)

 この問題は、大学が抱えている卓越性と高等教育の普及という、二つの対立する要件を、どう調整するかという問題に行き着く。(中略)こうした流れのなかで、最近ではドイツでも、いかにして優れた拠点大学を作り出すかが、政策課題として登場しはじめた。
2004年になってから、「エリート・キャンパス」の構築が連邦レベルで議論されている。(pp,95)


(フランスの大学に関して)
(フランスのエリートが行く鉱山技師学校に言及して)現代では、卒業生は鉱山技師ではなく、大部分が産業界、官界に就職している。毎年の入学者は100名程度にすぎず、その入学試験は厳しい。(カルロス・)ゴーンは、そこでの教育を、こう回想している。「フランスの教育は、”虚栄的な知を誇り””考察のための考察を行い””どちらがより観念的であるかを競い合う”ようなところがあった。”競争”と”選抜”と”知性の価値を重んじる”という発想に基づいており、ティームワークやコミュニケーションはまったく軽視されていた。知的体操に秀でていることが大切で、そこで習ったことが、何かの役に立つわけではなかった。」(pp.127)

ここで説明しておかなければならない点は、高等師範学校の学生になると、国家公務員の身分が与えられ、給与が支給されるということである。ただし、これは高等師範学校だけのことでなく、グランゼコールの学生はすべて国家公務員であり、給与が支給される。ここが大学性とグランゼコールの学生との、明確な相違点である。(pp.130)


(アメリカの大学に関して)
アメリカの大地のもとで試みられた実験のなかでも、もっとも成功した実験が、大学院の設立とされている。アメリカ最初の大学院は、1876年に創設されたジョンズ・ホプキンス大学であるが、その当時世界中を見回しても、どこにも「大学院」という名の組織は存在しなかった。(pp.144)

 ここでわれわれが注目しなければならないことは、その当時の大学院に対する社会の理解のしかたである。「学者のための閑職」。これこそ、当時の人々が大学院に対して抱いていたイメージであった。(pp,146)

19世紀のアメリカには、学問的な関心を満足させるカレッジは、ほとんどなかった。そこで多少なりとも学問に関心hのある若者は、ヨーロッパ、なかでもドイツに留学した。彼らはいずれもアメリカの退屈なカレッジ教育の被害者であった。(pp.152)

こうした状況のなかで、ギムナジウム相当の中等教育機関と見なし、その卒業証書である学士号をアビトゥーア相当のものとして扱うことに決定したのである。(中略)当然のことながら、こうした海外の動向は、アメリカ大学協会にインパクトを与えた。(pp,165)

ちなみに高校卒業者の平均年収は26795ドルである。高卒者を100とすれば、学部卒業者は1.9倍、修士卒業者は2.4倍、博士学位取得者は3.2倍、専門職学位取得者は3.8倍となる。(pp.176)

(学生1人当たり資産運用収入・寄付金に関して)ハーヴァードの場合は学生一人当たり約五百万強、これに対してオックスフォード、ケンブリッジは大体三十万円から四十万円、慶應は21万円である。しかし慶應は日本の私立大学のなかでは、運用収入が多い方で、私立大学平均では2万円程度にしかならない。(pp,180)


日本からはなかなか実態の見えにくいヨーロッパの大学についてざっとした歴史とその構成を知ることができたのも非常に有益だったけども、アメリカの大学院の持つパワーを見せつけられたのも大きい。
事実、僕は大学院がアメリカで生まれたということも知らなかった。
あと最後の引用でもした圧倒的な経済的格差。
ハーヴァードのやばさがランキングとかいうあいまいなものじゃなくてリアルな数字で見られて戦慄……!!

やっぱりアメリカの大学院は総合的にいろいろ魅力的だなあと思いつつ、いまだ何も手をつけていない受験勉強にプールに入るまえに足のつま先をちょんちょんと水につけるかつけるまいかの行動を発狂した白クマのように繰り返している僕がいるのです。現実!




対話345 池内 了 『疑似科学入門』

2011.06.18.16:48




個人的読みやすさ:A
読書時間:30分

 第一種疑似科学とは、人間の心のゆらぎにつけ込む「まやかしの術」である。「科学」と名付けるのはおこがましいのだが、心理学の大正と捉えれば疑似「科学」と呼んでも構わないだろう。これは、占い系、超能力・超科学系、「疑似」宗教系に三分類できる。(わざわざ「疑似」宗教としたのは、後に述べるように宗教の名を借りた詐術であるためだ。)いずれも、人間の精神領域に関わるだけに、いったん嵌ると抜け出すのが難しく、治療も困難という共通点がある。また、引き込もうとする側は人間心理の盲点をつく手法に長けており、被害者は意識しないまま(被害と思わず)深入りしてしまうことも共通している。(pp.3)


疑似科学は僕も関心の強い分野の一つである。
一つである、というか実際のところ表彰としての現れ方に差異あれど、その辺は大体自分内部ではつながっている。
すなわち、人間の信じる心が生み出す現象に僕は興味がある。
それは一時期嵌まっていた『うみねこ』の主題でもあるし、実際心理学や諸学問においても「プラシーボ効果」などといったラベリングでおなじみだと思う。

 だからこそ、僕はその点に対してはより深く考察を行いたいし、さまざまなデータを集めたいと常日頃から思っている。
特に信じる心というのは密接に文化にかかわっている。本書の引用部分の指摘にあるような占いだとか宗教だとかは、それらが人生レベルに影響を及ぼすと言われても案外すんなり理解できるものであろう。
そのようにして、人間の信じる心に関係するものが人生に及ぼす効果は――言うまでもなくー―絶大なのだ。
すなわちそれは人生の意味づけということであり、意味づけというのは物語を編むということになるのだから。

 プラシーボ効果のようなわかりやすく肉体に影響の出るものでなくても、そのような思想体系が人生に及ぼす影響を病のように捉えたり、完全に排除するものとして捉えるというのは僕個人は横暴だと思っている。もちろん、科学の信頼性は保証されるべきであり、それを危うくさせるような活動は攻撃されてしかるべしであろう。安易に科学という名前を語るような、本書で指摘されてるところの(引用はしていないが)第二種疑似科学がそれに当たる。
それは単純に科学に対してまわりまわって悪影響を与えるので、僕の立場としても悪といっても差し支えない。
もちろん、科学の信頼性を利用することでその信じる心が増幅され、その結果その当人の人生観に大きな影響を及ぼしていたとしても、科学という名前を使ってしまった時点で科学と対面せざるを得なくなり、それを批判する科学を肯定するにしろ否定するにしろ、結末はビタースイートなものになってしまうに決まっている。
ビタースイートというよりも、おそらくはもっと苦々しい何かだ。

 しかしながら筆者の言うところの第一種疑似科学は、それが科学という名前を名乗っていない限り明確に区別されるべきであると思う。
というのは、それは思想であり人生観なわけで、それが例えば金銭的に周囲に多大な迷惑をかけるなどの社会的悪影響が認められていない限り、科学で封鎖するべきものではないはずだからだ。
その一点を超えたとき、科学的態度が宗教性を帯びてしまうのだと思う。
別に僕は科学=宗教という論には与しないことは念のため断わっておくけども。

 この辺に、もっと科学と人文(アート)が健在意識下において明確に区別されるべき理由がある。
人文というのはすなわち、科学から解き放たれた価値観の世界であるべきなのだ。
そこでの基準は科学と違う。
どちらがどう魅力的なのか、というまさしくアートの世界なのである。
そこに科学的態度を持ち込むことは、なるほど確かに科学的態度それ自体が一つの魅力になるというのは十分に理解できることではあるが、しかしそれはそのほかの美的センス、価値観を淘汰するには至らないし、それを積極的に狙うことは科学の高潔さを下げることにもつながるだろう。

 科学哲学、特にファイヤアーベントらへんから始まるポストモダンの議論とかはこのあたりの思索を深めるのに最適である。
僕もよく考えたらファイヤアーベントちゃんと全部読んだことなかったし、すきを見て読んでいきたいなと思う。

対話344 佐藤 俊樹 『不平等社会日本―さよなら総中流』

2011.06.17.16:12




個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間半

そのブルーカラーからの上昇ルートが、「昭和ヒトケタ」の終わりから「団塊の世代」にかけて次第に閉塞している。特にそれはB雇上に顕著にみられ、自営業という「一国一条の主」となるルートがほぼ完全に閉ざされた。また、図3.5でみたように、B雇下出身者においてもW雇上への移動が減り、40歳職ではW雇下、つまり事務職・販売職に滞留している。(pp.82)

要するに、非W雇上出身者がW雇上につく率は、「明治のしっぽ」と「大正世代」の間で大きくふえ、それ以降もゆるやかにふえている。(pp.90)

貴族というと「代々続いて……」というイメージがあるが、それは幻想にすぎない。イギリスだけでなく、大革命以前のフランスでも貴族階級にはかなり出入りがあった。(pp.94)

そういう意味で、現在の日本が経験している閉塞は、10年単位ではなく、50年単位で考える必要がある地殻変動なのである。企業や学校など、選抜システムの根幹をなしてきたさまざまな制度において、従来のやり方が根本的に通用しなくなっているのも不思議ではない。社会のなかで豊かさが持つ意味が、根本的にかわってしまったのだ。(pp.103)

W雇上の二世たちはそういう危険をはらんでいる。いうまでもなく、すべての二世たちがそうだというわけではない。親や周囲とぶつかりながら、自分の未知を選んできた人も少なくない。だが、全体としてみれば、そういう危険をはるかに多く抱え込んでいる。「団塊の世代」というのは、そのW雇上が主流派を占めるよになった、最初の世代なのである。(pp.110)

つまり、機会の平等が守られているかどうかは「後から」しかわからないのだ。(pp.168)


 社会学の本領発揮というか、膨大なデータをもとに展開される世代論だ。世代の傾向に対しての人間の心理というのは非常に面白いのでそれについてここでだらだらと書いてもいいのだけど、それはちょっとこういう本じゃなくてもっと気軽な世代論関係の本を読んでいるときにでもまわそう。

 代わりにこの本を読んで思ったことというのは、僕はなんだかんだ自分という存在をスタンダードのように考えてしまっている分、世の中でスタンダードと思っていることに自分をあてはめてしまいがちだなあということである。
む、これだとちょっとずれるというか、わかりにくいかもしれない。
僕が言いたいのは、時代によって当たり前のことながら文脈が違っていて、僕はその文脈の中でうんうんスタンダードがどうとかというものを日々認知しているわけなのだけども、そこの文脈を取り払って(あるいは比較して考えてみたら世界はよりカオスであるという当たり前すぎる発見なのだ。

 この当たり前すぎる発見だけども、結構日常では意識する機会が僕でなくてもあまりないと思う。
理由は簡単。
そちらのほうが気持ちいいというか、シンプルだからである。
シンプルは常に正義に近いポジションに立っているのである。

 つまり人間は本質的に自分の属している世界を文脈化して、そこからいかに差異化ないしは同異化するかを図っているわけであって、人間の創造性だとかそういうこねくり回した人生で大切そうな何かも文脈に依存した形でしか出現しないということだ。
つまり固定された環境というのが必要なのである。
固定された環境とはこの場合、年代だ。
自分たちの属しているところに関して、意識しない限り人はなかなかメタ認知をしない。
つまりその場所を固定化している。
その固定化されたキャンバスの上にどう絵を描くかということに神経を注いでいる。

 この本で書かれているような世代間の違いを見ることは、自分の属しているキャンバスがほかのキャンバスと比べてどのような違いがあるかを認識するのに絶好の役割を果たす。
別に日常24時間ずっとその違いを意識しておく必要はないけれども、自分の属されているコミュニティがどのような性質をマジョリティ的な意見として持っているのかを認識することはなかなか面白い知的体験だと思うし、同時にそのキャンバスで使える絵具の色がふえることにも最終的にはつながると思う。

うん?つながるのかな?

対話343山口 昌男 『文化人類学への招待』

2011.06.16.16:04




個人的読みやすさ:C
読書時間:2時間


人類学にはいつもそういう傾向がありますが、象徴的二元論にはちょっとピンとこないところがあります。どこか抽象的なところがあって、日常生活のあれこれを説明するのには役に立たないから、おとぎ話みたいなものだということをこの間申し上げました。そのかわり、目に見えない人間の深層構造に光を当てるのに有効である。人類学には絶えずそういうおとぎ話的なところがあるが、そのために、かえって、ふつう眼前にない、我々を深いところで操っている文化の匿れた動機を説明するのに有効なのです。(pp.81)

「もの」という言葉について、建築家の原広司さんが二年か三年前に強調して私たちの共感をよんだことがあります。われわれが現在まわりに見ている「もの」は、われわれにとって密接なつながりを失ってしまった、いわゆる事物の物にすぎない。しかし、かつて「もの」という言葉は、「ものの怪」という言葉などにもあるように、本来精神的な意味をたっぷりと含んだ言葉であって、ある土地のいろいろな事物と密接につながった、全体の中の一つとしての「もの」であった。(中略)ですから、女が交換されるとか簡単に言ってしまうと非常に憤慨する向きもあるけれども、かえってこのほうが交換される人や物が威厳を与えられているということがわかってくると思います。(pp.104)


 大学5年目にして今更専攻を心理学から人類学に変えたのは良いものの、僕のやろうとしている範囲がかなり心理的な側面が強いということもあり、では王道的な文化人類学の本とは何ぞや?とふと思ってみた僕の目の前にあった本がこれである。
いわく、人類学は扱うテーマが非常に多岐に渡っているとのことで、そういう意味での入門書とははたしてなんなのか?というのは非常に微妙なところではあると前置きをしつつも、しかしこの本でなんとなくどんな雰囲気なのかを一部感じることは十分にできると思う良い本。

去年までの自分がそうであったように、人類学という学問についてまったくよく知らないという人がおそらく日本では大半だと思う。というか日本に限らず、割と世界各国でそんな感じな気もするし、特に人文系・社会科学系の学部がない大学などでは関わる機会はほぼないだろうから、それで知らないというのも無理からぬ話である。
そもそも人類学は役に立たない。いや僕的にはものすごい役に立っているけども、たとえば経済状況とかに直結するような学問では(特殊なケースをのぞいて)あまりないと思う。
だからどうしても集まるのは好事家的な人ばっかりになるし、必然的にマイナーなアカデミックコミュニティの中でもさらにマイナーなポジションに位置したりすることになる。

 僕としてもそんなマイノリティ性が好きだから人類学に魅了されたというところは少なからずあるので別にそれに対してそこまでの危機感みたいなのはないのだけど、せっかくなので人類学がほかの学問とどう違うのか、どう特殊なのかについては触れておきたい。
まあ触れておきたいといっても最初に引用した箇所で大体の説明はすでに済んでしまっている。
すなわち、少なくとも現代における文化人類学の位置づけは西洋的二元論に対するカウンターであり、ありのままをなるべく記述するというある種現象論的な性格を持つということなのである。

 それが何を意味しているかといえば、人類学の、狭義の意味での、非科学性である。ここでは別に狭義の意味でのとかそういう保険をかけなくていいのかもしれない。事実、社会科学にカテゴリされながらも、少なくないケース上で人類学は人文学と扱われる。量的な方法を使わない人類学が社会科学にカテゴリされているのは、ひとえにそれが社会科学に対してのアンチとして機能しているからであり、それを分離させることが社会科学に対して不利益になる可能性をはらんでいるからなのではないかと思う。

 この辺に関してはまったくそれに類する書物を読んだこともないし、知人と意見を交わしたこともないので完全なる僕の妄想になるわけだけども、でもそれほどはずしてはいないだろう。というのは、たとえば哲学における現象学というのはある種アンチ哲学として機能している(していた)わけである。
現象学というのは非常に繊細なフィールドだと僕は認識していて、大げさに言ってしまえばあれは思考するということに対する反抗というか、身体性を置いてけぼりにしたことに対する反発であるのかなと僕は今のところ捉えている。思考するというのがおそらくはそれまでの哲学のざっくりとした印象)現在でもそういう印象だと思うが)だったわけなのに、現象学はそれに対して異議を唱えた。だからどちらかというとちょっと別カテゴリに入れられそうな思想、と受け取られてもおかしくない要素を含んでいて、しかしながらそれでもなおアンチとしての機能を哲学の内部にとどまることで発揮しているのである。

 社会科学における人類学も似たようなものなのではないかと思う。実際、現象学的人類学という言葉もどうやらあるようだし、両者の親和性は僕がちょっとだけつまみ食いしてみた印象としてはなかなか高い。ただでさえ言及されない人類学という分野の中で現象学とのつながりをたとえば授業内で学生に指摘する教授がどの程度いるのか、という話はまた別の話になってくるし、人類学にはそのほかの側面もある。
僕は少しその点についてこだわりすぎなのかもしれない。

 いずれにせよ、人類学は質というアカデミック的に不安定とみなされがちなものを扱いながら、今までと違う入射角で物事を見ることに取り組む学問である。
ゆえに、研究者自身が感じる驚きというか、その何かはかなりライブリーなものなのではないかと特にフィールドワークという名目での経験がない僕も勝手に期待している。
少なくともこの1年間はこの学問になるたけ全力で取り組むことにしているわけだし、その時に感じるものの質をできる限り下げないような接し方をしたいなと思う。

対話342 谷川 流 『涼宮ハルヒの驚愕 初回限定版』

2011.06.03.12:54




個人的読みやすさ:B
読書時間(全て含め):2時間

「さあ、どうする?お前の選択を聞かせてくれ。涼宮ハルヒの命をこの場で消すか、それともあんたの親愛なる佐々木を新しい神とするか。さあ、どっちなんだ?」
 安い脅しだった。おまけに何てベタな演出なんだ。(pp.183・後)


 4年ぶりのハルヒ。僕はものすごいハルヒが好きというわけではないのだけど(消失は好きだが)、なんかもう世相的に読まなければならないような感じがしたというか、本屋で別の本を買うときについつい目の前に置かれていたこれを手にとってしまったというか、なんにせよハルヒが持っている力はドでかいものがあるなあとしみじみと感じた。ハルヒ新刊!とか言われたらそりゃ今までのシリーズ読んでいる人だったら読まないと意味不明だよね、みたいな。

 この本の語り手であるキョンの語り口を読んでいるといつも思うのが、自意識過剰さと自己(あるいは所属しているコミュニティ)に対する陶酔感がいつも付きまとっているなあということだ。別に決して悪い意味ではなく。なんというか、多分それが「世界系」と括られる物語の構成要素なのだろう。

 キョンの、というかハルヒシリーズの世界系小説における位置づけとして面白いのは、キョンの自意識過剰さは決して自分の自己陶酔感に対してまでは及んでいないことだ。いや自意識過剰さを一つの特徴として挙げたけど、別になんでもメタ認知メタ認知するような小説では最初からないのかもしれない。だからこそ、内省的な語りが多いこの物語がその袋小路に陥らず、物語は滑走していくことが出来るというかなんというか。陶酔感が物語を加速させていくということを端的に表している作品だなと感じた。 

対話341 酒井 健 『シュルレアリスム―終わりなき革命』

2011.06.03.12:21



個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間


非順応主義の二つの面、それは、眼前の現実を気にかけず、そこから離れていくという面と、この現実を否定し改めていくという面である。(pp.7)

シュルレアリスムも新たなものをめざした。そのめざすべき新たなものについて、ブルトンが用意していた答えはいつも同じだった。近代社会のなかで分離しているものを接合するというのがそれである。(pp.36)

口頭での表出ならば、つまり叫びやひとりごとならば、意識が介入してくる余地は少なくなる。しかし文字を綴り出すと、たとえそれが落書きであっても、意識は介入し始める。書き言葉は意識の王国なのだ。(pp.61)

ブルトンはこのような外面的な現実から離れたときに現れる格別な雰囲気を「超現実」(surrealite)と呼んだ。人や物の外観に囚われない「放心」の状態で遭遇できる驚異的な気配を「超現実」と呼んだ。(pp.85)

「無限」だとか「永遠普遍」などという超越的な発想とは無縁のところにいた大方の中世の吟遊詩人は、自ら歌った詩歌を書き残すという必要性を感じなかった。文字を知らなかったからだというのは近代人の傲慢な理由付けだろう。彼らにとって、神話はその場で消えていけばよかったのである。それでこそ、神話であったのだ。神々しい語りであったのである。「神話の不在は神話の喪であり真実である」というバタイユの発言が指し示しているのもも(文中ママ)このような姿勢だろう。(pp.205)

ブルトンはけっしてキリスト教の再興を願っているわけではなく、また民衆の思考を鈍らせようと思っているわけでもない。かつて原始キリスト教や中世のキリスト教にも見られた神秘的な宗教体験の力に期待しているのだ。(pp.187)

彼らにとってオーラとは、この外界の事物や現象の放つ力が人間の内面の欲望を刺激して生じる現象にほかならない。双方の「あいだ」に生じる何ものかなのである。近さ、遠さという物的な距離感がなくなる出来事なのだ。そしてその衝撃性、輝き、雰囲気が、同じ複製写真を前にしてさえ、一回ごとに異なって生じるのである。オーラは一回きりであり、かつ、違う表情で反復されうるのである。(pp.206)

『そして芸術家もまた同様に、今まであれほど欲していた個性というものを捨て去り出すのです。こうして芸術家は突如、宝の鍵を手に入れるのですが、しかしその宝は彼の所有物にはなりません。どんな巧妙な手をつくしても、それを自分のものにすることは、彼にはできないでしょう。というのも、この宝は集団の宝にほかならないからです。』(pp.222)

ブルトンが言う神話とは、神々しいほどに衝撃性を放つ無意識的欲望の表現のことだ。(p.225)


僕は昔からシュルレアリスムというカテゴリーに区分されたアートが好きなのだけど、この本を読んで絵画として表出されるアートとしてのシュルレアリスムだけではなく、その裏側にある精神性のほうでも同調しているのだということに気付いた。

特にこの本を読んで思うことは、僕がやっている能力開発の一つの手法であるイメージストリーミングとシュルレアリスムの近接性についてである。まあもともと両者とも精神分析に端を発しているのだから当たり前といえば至極当たり前のことでもあるのだけど、精神分析が精神医療を、シュルレアリスムが精神性の表現を、そしてイメストが問題解決を軸にしているところに差異があるというのはとても面白い発見。逆にいえば精神分析の基本的な技法というのは、多少マイナーチェンジを加えながらも決して精神医療にとどまるだけではないということを伝える証左でもあるのかもしれない。さらに言ってしまえば、精神医療、表現、そして問題解決というように別々にカテゴライズされているような物事でも本質的には一つの繋がりがあるのだということを示しているのだろう。

イメストという技法をある程度身に付けたと思っている僕としては、加えてイメストという技法がシュルレアリスムの再興につながるのではないかと勝手に感じている。というのはシュルレアリスムの代表的な技法である「児童筆記」というのは本文中でも一部指摘されているように所詮は言語にとらわれたものなのである。イメストももちろん発話をするため最終的には言語というアウトプットに頼ることになるのだけども、最初にまず脳内で起こる現象ありきでそれを記述するという方法をとっているため、より現象と記述が近い自動筆記よりも効果的に現象を表現できるのではないかと思っている。シュルレアリスムが隆盛していた時はレコーダーのようなものが存在しなかったため、音声収録というのは技術的に難しいというのは理解できるけども(そういった素材が揃っている現代ではシュルレアリスム的にそのへんはどう考えられているのだろう?)。

対話340 西尾 維新 『花物語』

2011.06.02.09:21



個人的読みやすさ:B
読書時間:2時間


 「その誰かって奴はお前じゃねえんだ。ごちゃごちゃと色んな奴の都合を考えちまって、いつからお前はそんなに賢くなったんだよ」 (pp.231)



日本に帰ってきて久しぶりに日本語の本を読むことが出来て感涙。感涙したので再び読書レビュー、というか読んで思ったことのどくしょかんそうぶんでも書こうかなと思う。まず帰ってきて一番最初に読んだ本がこれということに自分に対して突っ込みを入れたいところではあるけども。

神原の一人称小説を読むと、普段のアララギ君の一人称小説よりもさらに色濃くこれは青春小説というか、高校生の物語なのだなあということを強く意識させられる。アララギ君はパフォーマンス精神旺盛なので比較的舞台化された世界をこちらが客席に座って見ているという感覚に近いのだけど、こちらは舞台袖で役者を見ているという心境。
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