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対話350 綾部 恒雄 (編集) 『文化人類学20の理論』 

2011.07.15.23:55



個人的読みやすさ:C
読書時間:1時間半


 ボアズはまた、人種論を批判する研究を行った。その代表は、移民とその子どもたちの頭蓋骨の大きさに関する研究であった。ボアズは、移民の子どもたちよりも、移住後十年以上経過してから生まれた子どもたちのほうが変化の度合いが大きいことを発見した。ボアズは、この変化は、アメリカという新しい環境の影響によって引き起こされたと考えた。そして、環境が変わると短期間で身体的な特徴も大きく変わることから、人種論が想定するような安易な人種決定論は誤りであると考えるようになった。(pp.59)

そして、文化相対主義の要点を以下のようにまとめている。
 第一に、人類史を俯瞰的に見て、進歩の現実は否定しえないものであるとしても、それは特定の分野に限られ、しかもそのなかでも場所によっては停滞したり、後退したりするということ。
 第二に、人類学が重荷研究対象とする工業改善の社会では、その細部を比較検討して、これらの社会を共通のy尺度にのせるような基準を見出すことなどできないということ。
 最後に、人類学者自身、ここの信仰体系や社会組織について知的、同義的な価値判断を下すことはできないと認めていること。なぜなら同義的判断基準そのものが、それをとりいれた社会の一側面だからです。(レヴィ・ストロース 2005年、180頁)(pp.68)

 現代思想としての構造主義に共通特長として挙げられるのは、①「言語論的転回」、②「近代的主体の解体」、③「進歩主義的歴史観への批判」である。(pp.74)

 文化相対主義は、いつどこでもだれにでも通用する客観的・普遍的・唯一的な真理があるとする西洋近代の普遍主義に異を唱えるものだった。構造主義は、そのような意味での文化相対主義に棹さしている。ただし、構造主義がたつ文化相対主義は対話自体を不可能にしてしまうような相対主義ではなく、永遠の妥当性をもつ普遍的な価値体系の存在を否定するという意味での反普遍主義である。それは、それ自体根拠のない事故の価値体系に普遍性があると思い込み、対話を拒否するような普遍主義に反対するのである。(pp.88)

19世紀中葉に確率されたマルクス主義は、「弁証法的唯物論」と「史的唯物論」の二つの領域を支柱としている。(pp.91)

 ところで、認識人類学が批判の対象としていた民族史記述、すなわち、現地の概念よりも人類学的概念を優先するような記述は、1949年のマードックの『社会構造』以来顕著になったということを明記しておかねばならない。マードックの開発した通文化的方法によって、世界大的な比較が可能になったが、それと共に、安易な比較が横行し、認識人類学が批判するような現地社会の概念を無視する動きも現れてきたのである。(pp.111)

従来の機能主義では、儀礼は形式的行動であり空疎で無意味だという否定的見解が多かったが、ターナー以後は、儀礼が人類学者の中心的な研究課題となり、一般にも儀礼や象徴への関心が高まって、聖と俗の議論が多様され、広い意味の宗教研究が活発化した。信仰や信念(belief)などの観念だけではなく、儀礼という実践(practice)が重視されて、世界各地の事例研究が蓄積された。(pp.129)

そこで、象徴が何を意味するのかを問うのではなく、象徴が意味するのはどのようにしてか、を問うことへ転換すべきだという。意味作用から経験の組織化のメカニズムへ、これがスペルベルの反記号論革命である。(pp.140)

「行為によって書かれたテクスト」というのは、必ずしも比喩ではない。というのは、先に説明したように、言語や文字ばかりでなく行為も、それが意味を運ぶかぎりにおいて象徴だからである。(pp.152)

震源は人類学だった。ただしギアツ自身は「人類学者」としてのアイデンティティを強く持ちながら、人類学者の中に進み行って人類学者に囲まれ生活することを意識的に避けてきた。大学では哲学と文学を中心に学び、大学院は、人類学・社会学・社会心理学・臨床心理学を結びつける一大社会科学を構想したハーバードの社会関係学大学院である。(pp.153)

現象学において根源的明証性をもたらすものは知覚であるが、知覚は後期フッサールとメルロ=ポンティによって身体と切り離せないことが明らかにされている。したがって人びとのありのままの自然的態度を理解しようとする現象学的人類学にとって、彼らの身体経験の理解は極めて重要である。(pp.172)

つまり早くから現象学を取り入れてきたのは医療人類学的研究に多い。(pp.172)

病気が生物学的適応とみられる例として、貧血傾向の原因である鎌状赤血球を多くもつ「病気」はマラリアを避ける適応として発祥するという報告(デュポス『健康という幻想』)は、病気が単に健康と対置できるものではないことを明示している。(pp.218)

以上のように従来のジェンダー概念は近代西洋フェミニズムの文脈に依存したものだということが明らかにされてきた。そして、生物学的な性差と文化的性差を文理して考えることで前者を不問に付してきた。(pp.244)

「文化とは、カルチュア・ショックによって可視的となる」というワグナーは、人類学者がフィールドワークを行い、まずカルチュア・ショックを受け、とまどいながらもそれをコントロールし、他者との相互作用のなかで他者の文化がこういうものである、と自分なりに規範化し理解を深化させてゆく継続過程としている。(pp.250)

こうした解放感のなかで、バリは「恋愛ワンダーランド」になる。バリの日本人妻たちを取材したジャーナリスト白河桃子によると、バリは「自分が女の子だっていう気分にさせてくれる」ところだという。(pp.290)

多様性の容認や異文化間の共生をすすめる議論は、その多くがリベラリズムを前提としてなされているが、批判的多文化主義は、まさにこのリベラルな前提に対して疑問を付している。(pp.307)

(1)リベラル多文化主義者は、複数の文化の共存と対話を賞賛推進する。しかし、対話のフォーラムが共生の場じたいが、だれによってどのように構成されるのか、だれが、どの立場から、どのような竜で、社会のメンバーシップの正当性や異文化を承認するのか、といった構造的な現実については問わない。したがって、支配的な文化の共通性や、社会の主流を成す構成員の優位性は、暗黙のうちに了承される。(pp.308)

シーガルとヤナギサコは、「四分野制」を維持することで不毛な共生をつづけるよりも、文化社会人類学は「クウィア・サイエンス」(queer science)として、不穏当な科学でありつづけるべきだと述べる。すなわち、通常科学としての安定した地位を求めるのではなく、人種やジェンダーの問題からブルジョア経済偏重主義までの広範囲にわたす、「人間に関する主流で支配的な考え方に対抗しようとする闘争を支え、深めてゆくための科学」としてあるべきだ、と提唱するのである。(pp.318)


 人類学で大学院に行く可能性が高くなったので、これは人類学関連の本を読まなければならないと思い、体系的にまとまっている本に手を出そうと思って読み始めたのが本書。
とりあえずこの本を読んで僕に社会科学的体力が不足している(あと哲学的体力も不足している)ということがよくわかったが、しかし全体的に今ホットなトピックについての大まかな輪郭が引けたような引けないような感覚にされたのでそこのところは大きかった。

 読んでみて、特に啓発されたのがギアツという人類学者。啓発というか、共感なのかもしれないが、彼の「人類学者でありながらそこに定住せず、むしろ自分と専攻を異なる人たちとの交流を重視する」というところに僕の理想を見たのである。
僕自身も人類学とか心理学よりも、異なる専攻の人のほうが周りに多いんだけど、今のところそれがすごい楽しいし刺激を受けることが多い。その分トレードオフとして失っているものも多々あるのだけど(例:専門知識)、しかし今起きているような出会いだとか対話だとかそういうものが将来的には生きてくるのかなとも思う。
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