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対話365 城 繁幸 『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか―アウトサイダーの時代 』

2011.08.22.22:00



読書時間:30分
個人的読みやすさ:A

「もう一つ、強く感じるのが、職場以外でのネットワークの弱さです。結婚も友人も、企業内で完結する人がとても多い。仕事以外での他人とのつながりが、特に30代以降の男性労働者には非常に希薄な気がします」
(p.154)


 ”輝かしい”ゆとり世代である自分たちの世代の特徴を一つ挙げるのだとしたら「繋がりたいという欲求」だろうか。「出会い系」という言葉を使うと急激に安っぽくなる、というかセクシャルな響きを持つようになってしまうが、しかしさまざまな人と会うことから生まれる威力(と限界)をよく知っている人が多いのがこの世代の一つの特徴といってもいいと思う。この世代、といっても僕の知っているのは都内ないしその周辺の社会人とか大学生とかの範囲内なのでそのほかの地域・属性についてはカヴァーしていないが、この辺で流行っているということは、システム的に発生しえないという場合を除いて徐々に他のところにも波及していくだろう。

 そういう社会になるにつれて求められていく力もどんどん変容していく。
具体的には
1)知らない人と2時間くらいカフェかどっかで話すこと(聞くことが)が出来る力およびコンテンツ
2)面白そうなコミュニティを探し当てる嗅覚
3)そのコミュニティが宗教くさかったりしたときの対処の仕方
4)表面上ではないコミュニケーションが出来る人と表面上のコミュニケーションにとどめるべき人とを区別する能力
5)この「出会い」の構図をメタ視されて嘲られたときの精神的防御呪文の張り方

といったところか?書き出してみると世代うんぬんとかじゃなくて普通に根本的な能力のような気もしてきたが、しかしこういった能力がさらに重要になって来るのではなかろうか。

では、次に求められる”平成的価値観”とは何だろう。それは一言でいえば多様性だ。
(p.11)

「働くことはいいことだ」は正しいのだが、「楽しい仕事なんてないんだ」「若いうちは苦労しろ」とくると、これは一種の洗脳に近い。
(p.13)

「もし明日解雇されたとしても、私には来週から別の投資ファンドで働ける自信がありますから。キャリアというのは、本来そういうものだと思いますよ」
(p.30)

 女性の活躍度は、その会社の社風の新しさを推し量るパラメーターだ。
(p.59)

 それなら、そういうポストについている50歳前後の人間が留学しろという話になる。が、そんな危篤な会社は過分にして知らない。
(p.82)

 一度、こんなことがあった。キャンプでのことだ。練習ゲームの合間に、彼に近づいてきた一人の選手から、コーチの支持を伝えられた。
「おい、おまえ。俺と交代だってよ」
 指示通り、フィールドを外れてヘルメットを脱いだ時本氏を、監督が注意した。
「なんで勝手に外れるんだ!?指示なんて出してないぞ!」
 要するに、騙されたのだ。だが、時本氏が驚いたのは、プレーするために平気でうそをつくチームメイトの執念だけではない。
「監督も誰も、そいつを引っ張り出そうとせえへん。それどころか、プレーしているのを見て『あいつ、なかなかいいな』なんて言い出すくらい。要するに、騙そうが何しようが、結果が良ければそれで良しなんですわ。ああ、これがホンマの実力主義かって」
(p.92)

「私の座右の銘は”公私混同”。仕事にせよ余暇にせよ、人生として楽しまないと、良い仕事なんてできませんからね」
(p.103)

「本来、仏教は社会と一体になって歩んできたものなんです。村のサロンであり公共スペースであり、学校でもあった。それがいつの間にか、小さくまとまってしまって……こんなにすばらしいコンテンツに溢れているのに、それが社会にまで届いていない。これは仏教にとってはもちろん、社会にとってもとても不幸なことだと思います」
(p.108)

 まずは企業が「若くていきのいい男の子」という価値観を捨て、多様な人材を受け入れること。移民に関する議論は、それからでも遅くないはずだ。それが出来ないという会社は、たとえ何兆円利益を上げようが、けして誇るべき優良企業などではないのだ。
(p.149)

 最近でこそ、私大の一部に”単位付き”のインターン制度が広がりつつありが、立命館がそれを開始したのは1992年。昭和が終わってまだ間もない頃に、既に次の方向性を打ち出していたことになる。
(p.167)

 ざっと見渡してみるに、現在の学生の意識はそこまでは追いついていない。本書に登場するアウトサイダーのように、20歳の頃から自分の進路を定め、それに向けた教育的投資を行うものもいるにはいるが、やはりまだまだ少数派だ。そういう意味では、大学の果たす役割はきわめて重大になる。従来のように「勉学にせよ就職にせよ、学生の自主性を尊重する」というスタイルはもう通用しない。
(p.172)

「最近の若者は……という人たちは、その程度の学生にしか相手にされていない、という言い方もできるでしょう」
(p.179-180)

 アウトサイダーたちと接していて、ふと浮かんだ疑問がある。自発的に正社員として働くことを拒否するニートやフリーターと呼ばれる人たち。そして、人生の大半を職場で過ごす一般的な日本人サラリーマン。しかし世界的に見れば、はたしてどちらがイレギュラーな存在なのか、ということだ。ニートという生き方は、ある意味、人間性に対してはもっとも良心的な存在なのかもしれない。
(p.191)

 はたして何時から、そして誰から、メディアは価値を決める権限を与えられたのか。少なくとも僕自身は与えた覚えはない。百歩譲って国民全員のコンセンサスのようなものが存在しているとしても、彼らは本当はそれに相応しい存在なのだろうか?
(p.198)

「アメリカの貴社なんかはある程度人材が流動化しているから、共通の物差しとしてジャーナリズムに忠誠心を抱いている。でも日本の大手メディアは全然違う。あえて言うなら就社意識。それを物差しに考え、動いている。そういう意味では、日本のメディアは世界一レベルが低い」
(p.200)

 さらに言えば、社民党は2003年の選挙で大敗した後、「交付金も仕事も減ったから」という”どこの経営者でも言いそうな理由”で、党職員の4割ほどをリストラした輝かしい前科がある。まさにIBM並み、経団連会長もびっくりの荒業だ。社会全体に対しては明確に否定したアプローチでもって、自分のところの効率化だけはちゃっかり推進しているわけだ。
(p.215)

「改革なんて馬鹿なことをしようとしたから、あんな可哀想な人たちが生まれたのです」
 それは断じて違う。改革をためらったがために、彼らは路上で死ぬことになったのだ。
(p.217)

おぼえておくといい。「改革反対!」「規制緩和阻止!」という論説を書いている人間は、40代にして2000万ものサラリーを、規制によって保証された特権階級であるということを。
(p.228)



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対話364 荒木 飛呂彦 『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』

2011.08.21.12:41



読書時間:30分
個人的読みやすさ:B


 また映画を作る時には撮りたいシーンを先に考えてから、そのシーンに合わせて物語やプロットを作っていくとも話してくれました。「ストーリー全体を元に演出していくのではなく、シーンが生きるようにストーリーを作っていく」のだと。
(p.47)


 『ジョジョの奇妙な冒険』のことを僕が大好きなのは言うまでもないが、その作者である荒木先生のことが大好きなのもこれまた言うまでもないことであろう。僕はあまりホラー映画をよく見るほうではないのだが(意訳:怖い)、荒木先生が書いたものならたとえホラー映画に関するものでも「まあ仕方ない、僕もついにホラー映画に手を出すときが来たのか……」という沈痛な面持ちで読むことも出来るのである。

 いくつかもう既に見たホラー映画の中で、僕が気に入っていたものが荒木先生もお勧めされていてこれが実にうれしい。具体的には『シックス・センス』と『アイデンティティー』なのだが、これらは両方とも最後にどんでん返しがあり、またその不思議な、というか不可思議な世界観はどこか開始直後から怪しげで、「これはなんなんだろう?」と思いつつも、結局その世界に引きずりこまれることになるので感覚としては夢に近い。夢にきれいな落ちがついたみたいな映画だなと思う。

 僕は普段あまり映画を一人で見ることが今のところないので、ここで紹介されている映画を見始めるのがいつになるかはわからないところだけど、紹介の中にあったうち、自分の感性にびびっと来たものに関しては年内くらいには観たいな。

対話363 ロバート ボスナック 『ドリームワーク』

2011.08.21.12:00



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


 サイバードリームワークのとても重要な点は、コミュニティを作るという側面です。オーストラリアのアボリジニーのある部族は、「朝のニュース」と呼ばれるしきたりで、目覚めるや否や自分たちの夢を互いに言い合います。そうすることで、部族、文化、共有されている宇宙に属しているという感覚が回復されるのです。
(p.155)


 最近、というか昔から人間が「イメージ」というものをどのように扱ってきたのか、どのようにみなしてきたのかということに非常に強い興味がある。

 昔から夢占いとかその類のものには興味があったのだけど、最大の要因としては高校生のときぐらいからうっかり手を出した「イメージ・ストリーミング」という手法に携わることになったからだろう。これは起きながら夢を見るテクニックのようなもので、心理学的にいえばユングの能動的想像法のようなものだと思っていただければあまり間違いではない(むしろかなりそのまんまともいえる)。これを足掛け大体5年くらい、やったりやってなかったりした過程で、イメージが持つ力だとか、それをどうやって意味づけしていくことでその人の歴史、ひいては人間の文化が形成されていくのかということを体感的に理解していくことが出来た。僕が「イメージ・ストリーミング」などの持つポテンシャルを十分に発揮できているかはさておいて、確かにイメージには人間の能力の根幹に関わる部分に強い影響を与える力があると思う。

 とはいえ、イメージを利用する手法は夢に限らず、いたるところで歴史上用いられてきたわけだけども、最近はその辺の影響力が弱まっているといえると思う。いや、より正確にいえばイメージ自体の能力を人びとが過小評価しているというより、イメージを用いた文化(イメージの持つ力をあがめる文化)が衰退していっているのかなと思う。夢占いやらは結局サブカルチャーの粋を出ない印象があるし、もはや人びとは夢やらイメージの「お告げ
」によって行動を規定したりは一般的にしない。

 しかしイメージの持つポテンシャル自体は衰退していないため、それを現代に適合させる形で生まれた手法、および環境コミュニティの如何によってはイメージは再び人間の中心文化に舞い戻る可能性があると僕は考える。というのは、夢は己の価値観に働きかけるものだ。人生に色づけをしたり、意味づけをしたり、前兆や道しるべをもたらす効果がある。加えて、イメージ能力自体は技能の習得や他者の理解にやりようによっては繋がるわけであり、今大事なのは職人芸的に限定的な場所で用いられているイメージを、さらに一般的に、よりわかりやすい形で、より使いやすくシンプルに広めていくことなのだと思う。特に「その当人にとって意味があると感じられたイメージ」を頼りに人生に意味を見出すというプロセスは、主観的な価値を見失いがち(だとされる)現代人にとって実は予想以上にマストな能力なのではないかと思う。

 イメージはどうしても主観的な世界を扱うため、それを扱う場合サブカル的なコミュニティだとか、ともすれば宗教的で排他的なコミュニティになりやすいなとは思うが、その辺のさじ加減を調整しながら現代に根付くイメージ文化というものを考え続けてみたい。

②emには「in」「into」の意味もあり、「embody」は(ある形体の中に)「統合する」,「組み入れる」「包含する」という意味も持つ。
 これらを、夢を扱うという文脈において理解するならば、夢の中に経ち現れてくる目に見えぬイメージを、体(方ちぃ)を具えたものにならしめる(具体化する)、つまりイメージに体(形)、を与える、という意味とともに、その夢の中に組み入れられる、夢の中に含まれるといった意味合いもあることを忘れてはならないだろう。夢の中に入り、現れてきたイメージのさまざまな側面に入り、そのイメージに体(形)を与えていくプロセスを、身体性を伴って体験することこそがドリームワークでは重要なのである。
(p.14)

夢主(dreamer;「私」とは異なる、夢を作り出している知られざる要因)は、追いかけられる自我と追いかける犬との両方を作り出したわけです。夢全部を生きるためには、夢を両方の観点から体験しなければなりません。
(p.33)

ユングの体験は落下の体験でした。彼はもう一つの世界に降りていったのです。彼が訪れた世界は、下の世界です。形式的には、意識が覚醒状態から入眠時状態へと落ちていくことに相当します。
(p37)

 最初に言ったように、想像力によるあらゆる作業の中心をなす要点とは、類似を見る能力です。観察しながらそれが何と類似しているか考えます。現在、最もよく使われる類似は、子ども時代に求められるもので、発達心理学と呼ばれています。
(p.46)

治療者は、自分の身体感覚を深く自覚している必要があります。というのも、体とエロス的なものとは密接に結びついているからです。(中略)患者と寝てはならないのは、それが、重大な錬金術的誤りを犯すことになるからで、それは不道徳よりもさらに悪いのです。それは個人的なものと原型的なものの混同です。
(p.57)

抵抗は、注意が離れる(distraction)ことによって顕わとなります。気が散る瞬間というのは、無意識的な要素が注意をひきつける時点であり、心的なエネルギーが覚醒している意識から漏れ出てしまいます。
(p.63)

自我は単なる客に過ぎません。
(p.94)

 ヤローム Yalom (1995, p.422)は「ある夢を調べていくと、グループでの心理療法は促進される」と主張しています。また、夢を用いることはグループの結束力を促し、自己開示を助長します。
(p.129)

 第3の世界があると、コルバンは、幻像(visionary)の伝統を持って主張しています。間(between)にある世界、中間、媒体(medium)の世界。それはイメージの世界であり、精神の世界よりは具体化(形を持っている、embodied)されており、肉体の世界ほどは物質的ではありません。それはサトルボディの世界と呼ばれるようになりました。
(p.131)

彼らはいいます、「カンガルーを見つけたいのなら、カンガルーよりもカンガルーらしくなくちゃだめなんだよ、そうでないとカンガルーは決して見つけられないよ」と。
(p.134)

 抗精神薬が重要でなくなるというのはありませんが、われわれが今直面している恐怖は精神病理学的な手法では解決できません。恐怖といううのは、世界によってすっかり脅かされていることへの直接的な反応でもあり、それはもっともなことです。このことは、心理療法が精神額的精神医学の劣ったオマケというイメージのもとから脱しうるということを意味しているのです。
(p.172)

 しかし私には、夢が中心であって解釈が偶発的なものである。私はイルマの夢を精神分析の創造神話(creation myth)と受け取りたい。
(p.199)

対話362 山下 晋司 (編集) 『文化人類学入門―古典と現代をつなぐ20のモデル』

2011.08.20.20:25



読書時間:1時間10分
個人的読みやすさ:B


 私はかつて次のように語ったことがある――「人類学者は社会の仕組みを説明するのではない。人々が自分の社会の仕組みを説明する仕方、人類学者はそれを説明するのである」と。
(p.160)


 上の言葉はかなり好きだ。今自分は人類学という学問に携わろうとしているわけなのだけど、心理学や哲学と違い、人類学は間違ったイメージを持たれる前にそもそも「それ何?」的な反応を返されることが多い。

 ある程度学問に通じている人には「ああ、あのアフリカの奥地とかいく学問でしょ?」的な反応を返されるのだが、実際の人類学は(最近は特に)そういった民俗誌的な研究に限らず、むしろそういう研究よりも都市の中の文化だとか、割と身近なものを対象にする研究をよく見かけるので、一概にそれを首肯するわけにもいかない。

 また、人類学と社会学というのはかなり区別がつけられないことが多く、しばしばその違いについて質問を受けたりする。逆に、自分自身も「なぜ自分はそこまで社会学に深い興味を持っていないことが多いのに、人類学にはあるのか?」ということを考えたりもする。そういう疑問に対して、上記の引用は一定の解を与えてくれている。

 そうしながら、「人類学が、『社会』という修飾語をつけて自分を呼ぶにせよ、そうでなく『文化』とするににせよ、人類学はつねに『全体的人間』を知ろうとねがっている」とレヴィ=ストロースは言う。
(p.6)

 このように人類学を再定義してみるとき、人類学の未来はどのようなものなのだろうか。日本の人類学の未来に向けた新たな研究と教育のパラダイムを構築していくうえで、以下の5点を指摘しておこう。
 第1は、現代社会のニーズに対応した研究領域の開発である。(以下略)
 第2は、人類学の教育についてである。すでに述べたように、卒業論文や収支。博士論文のテーマは、古典的・オーソドックスなものから現代的応用的なものへ推移し、同時に多様化してきている。しかし人類学の古典的研究と現代的課題のあいだにはしばしば大きな断絶がみとめられる。この2つを有機的に関連させ、どのようなカリキュラムを確立するかが急務である。(以下略)
 第3は、ディスプリン(専門分野)の複数化についてである。研究対象の複合化による研究の学際化は、今日、不可避である。(以下略)
 第4は、教育研究の国際連携についてである。人類学はそもそも国際的な学問である。にもかかわらずその実践は国別に異なっていて、真に地球的規模の人類学はまだ実現していない。(以下略)
 第5は、人類学の使い方・使われ方についてである。(以下略)
(p.8-9)

 スチュワードが文化相対主義と袂を分かつのはこの点である。文化の個性を認めるという限定のもとで、諸文化に共通のものを規則として捉えることは、文化の外にある要因レベルを想定しなければならないからである。
(p.31)

 しかし、こうした危うさを避けようとして、社会と文化の変化を一般説明理論なしに、個別記述のみ、あるいは記述についての理論で語ることだけを適切だとするのは、過度に人文主義的な後退である。
(p.37)

なぜなら「ネイティヴはどう考えるか」を別の仕方で真剣に考えたレヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)が『方法の問題』を序論とするサルトルの『弁証法的理性批判』(1960年)を痛烈に批判していることは周知のとりだからである。
(p.48)

 女性が母親であるというのは社会的発明であるとミードは考える。だから「男性は自分が男性であることを再び断言し、再び企画し、再び定義しなおさなければならない」。
(p.111)

 何がどのような順番で語られているかを切り口とした分析から、思考表現のスタイルに関しては、日本の「時系列」表現に対してアメリカでは「因果律」による叙述が強調されていること、また、教育によって高められるべき能力として、日本では「共感」が、アメリカでは「分析力」が強調されていることを見出した。
(p.123)

 日本の国語の教科書にも説明文と物語分が収録されているが、2つのジャンルの書き方の技法を教えることはなく、内容の読解に重点をおいた指導をする。(中略)アメリカの教師が、書くための技術を子どもに身につけさせることに苦心しているのに対して、日本の教師は、思ったままを書くこと、自由にイメージを膨らませることを推奨し、ものを書く児童の姿勢に共感的に寄り添い、励ましはするが、評価はせず、技術的な指導もしないことを渡辺は観察している。
(p.125)

 しかし、ハビトゥスは文化のなかの規範のような枠組みではない。ブルデューによればそれは二重の性格をもっている、。まずハビトゥスは知覚、思考や実践を持続的に生みだし、組織していく構造(構造化する構造)である。また同時にハビトゥスは、知覚、考えや実践そのものに制約と限界を与えていく構造(構造化された構造)でもある。つまり、ハビトゥスはある集団や階級に特有な過去の経験が、そこにいる行為者のなかに知覚、思考や行為の図式として沈殿したものである。
(p.150)

 古典は読み直さなければいけない。少なくとも2度は。1度目は、あらかじめ耳に入っていた知識をなぞるだけに終わるかもしれない。2度目には最初の時には気づけなかった新しいことが発見される。
(p.168)

 都市社会が共同体の規範や道徳を解体し、アナーキーな無秩序を生み出していくという二極モデルとは裏腹に、都市社会においては、ときに共同体の規範や道徳が再生・再創造され、都市生活をよりよいものへとつくりあげていくというルイスの視座は、非連続モデルに対して連続モデルと呼ぶことが出来る。この連続モデルによって、都市社会・農村社会を貫く人びとの生活世界や視野に入ってくるし、都市農村を縫合する国民国家の統制・干渉まで分析の対象にすることができるようになったのである。
(p.197)

 そのなかから生まれた実験が、自ら仕切り屋のような(超越的な)位置から降りて、人びとの声をその個々の生に寄り添って記述していくという、一見まとまりのない記述法であった。いまでは多声法として定式化されているこの手法を、「羅生門法」として手がけ実践したルイスの試みは、21世紀の民族誌記述の1つのモデルとしてますます重要性を帯びている。
(p.202)

 いっぽう、「アメリカ人類学の父」と呼ばれるボアズは、理性を強調したタイラーとは対照的に感性を重視して、異民族の習慣を内面から理解しようとした。
(p.211)

(ボアズを引用して)思想家として、今回の旅の最大の成果は『文化的な』人間とは単に相対的なものであって、人間の真の価値は『心の教育 Herzenbildung』にある、という思いが強くなったことであろう。
(p.211-212)

 ポストモダニズムに特徴的な考えの1つは「中心の不在 absent center」である。
(p.216)

 もっとも、こうした批判は新しいものではなく、以前からマルクス主義者によって指摘されていた。ただ、ポストモダニズムは、1960年代の市民権運動やベトナム戦争を学生時代に経験し、1980年代に研究者として成熟期を迎えたアメリカの前衛的人類学者に、新たな文脈で新たな批判のための枠組みを提供したのである。
(p.217)

すべての思考には前の時代と何らかの関連が認められ、新しいものの価値――可能性と限界――を見極めるためには、古いものを知らなければならないのだから。
(p.219)

そして自分が支持するのは、真理の唯一性を信じるが、それを所有することはできないとする第3の立場、啓蒙的合理主義もしくは合理主義的原理主義であると述べる。
(p.227)

 ターナーの言うコミュニタスの特性は、境界状態、部外者性、構造的劣性の3点である。これらに該当する人びとは、(1)社会構造の裂け目にいる、(2)周縁に位置する、(3)底辺を占める、という状態にあるう。総じて社会で劣位に置かれる人びとを担い手として、社会体系から外れた状況で表出する原理がコミュニタスである。
(p.247)

 現在のイニシエーションとしてはむしろ会社の入社式が機能を果たしており、前後に研修という試練の期間を持ち、禅の修業をさせたり、合宿所で肉体を鍛えて新たな知識を与えるなど社会人の自覚を持たせる上で一定の効果を挙げている。
(p.252)

 彼らはセンザンコウを通じて、この社会の基本原理を知るにいたる。彼らはこの世に隠されている曖昧な、したがって不気味なものを回避するのではなく、直視することでこの世界の虚構性に目覚める。しかし、それはこの世を否定することを意味するのではない。社会生活をより深い次元で理解し、実践することになるのである。(p.262)

 身体加工は当事者に「変態」を促す。そしてそれを見る人びとにも身体とは何か、社会とは何か、と自問させる。それは奇形の見世物として商品化するぎりぎりのところで踏みとどまって世界と対峙している。モダン・プリミティブ自身、自らの奇形の身体を見る。
(p.268)

対話361 舞城王太郎 『獣の樹』

2011.08.20.20:04



読書時間:2時間
個人的読みやすさ:C


 間違いは相手を白けさせる。
 言葉としてはきついが、これは真実だ。そして正しさは僕を興奮させる。信じさせる。信じられるということが興奮を呼ぶんだ。
 僕は楡が好きだ。
(p.431)


 正しさ、正義の定義とは何か?というのが一時期話題になったと思うが、この引用にある回答は僕を納得させる。信じさせる力。それはArts&ScienceでいうところのArtsのほうの力だなと思う。どのくらい信じるに足りうるものなのか?という作品作りというか、物語作りというか。

 自分を信じさせる力は他人を信じさせる力にも結局は通じるわけで、正しさというのはそういう観点から考えていくとスムーズにいくと思った次第。

 僕は思う。
 こういう持ち前のサーヴィス精神が人間を悪に引きずり込んだりするのだ。
(p.48)

 喜びは鳥になる。悲しみは石になる。悪は木になる。アイウィルテルユーヴェリーバァァァァッドシングアンダーザブランチィズオブマイン。おいで、ナルオトヒコ。
(p.130)

「人は猿よりも蝋燭に近いんやで」
 楡の心の一部は死んでいるんだ、と僕は思う。死んだのに腐らず、この『シロウ』のようにただ固まって、苦痛も何ももたらずにそこにある。
(p.177)

相変わらず楡は間違えているとはっきり思うのに、僕も楡も家族がいなくて仮の《家族》を持っていて、仮だからこそそれに重きを置きすぎているに違いない、だからって大きな間違いを犯させるわけにはいかない、とは思うんだけど、楡が大事にしてるんだから仕方ないとも思う。
(p.185)

 恐怖は何らかの執着を生むのだろうか?
 僕はまだあまり恐い思いをしたことがないので判らない。
(p.214)

……子どもばかりのボアダムズは新陳代謝が激しいのだ。ひょっとしたら『蠅の王』みたいなサヴァイヴァルになっているのかもしれない。
(p.391)

 こいつらは駄目だ。
 恥に衝き動かされてる人間はろくなことをしないもんだ。こいつらには楡を預けられない。
(p.402)

 右回りと左回りで物語が違うのだ。
(p.436)

 世界をちゃんと理解しようと思ったらまず疑わなあかんのやし、疑わな考えられんし、考えられんと信じられんやろ?まずは疑うことから始まるんや。だからほやで、疑うことが義務にも誓いもんでねえ?ちゃんと生きるためにさ。
(p.519)

 人間も結局自分の性に従って生きてるだけだ。自分に正直に、自分を偽りつつ、複雑で、難解で、でもそれを踏まえれば大まかには単純で、判りやすい性を。
(p.523)



対話360 ジェイソン フリード、デイヴィッド・ハイネマイヤー ハンソン 『小さなチーム、大きな仕事―37シグナルズ成功の法則』

2011.08.20.18:57



読書時間:30分
個人的読みやすさ:A


 ビジネスを始める人たちの中に新しいタイプのグループがある。彼らは、利益をあげながらも自分たちを企業家とは考えていない。自分の好きな条件で好きなことをやっているだけで収入を得ている。
(p.24)


 個人的にかなり良い本だったと思う。というのも、僕は周りにいわゆる「企業家」になろうという人が多くて。その影響を大いに受けているのだけど、僕のやりたいことはどちらかというとアカデミズムに属することで、ではその中間領域をどうやって自分の人生に適合させるか?ということに常々問題意識(というほどでもないけど)を抱えていた。企業家も学者もどちらもある程度ワンマンシップが発揮されるという点では共通点があるなとは思っていたけど、社会的な認知も社会的な売り出し方もかなり違う。そう思っていた僕にとって、上記の引用は一つの解を与えてくれたように思う。

 要は企業家と考えるから大げさなのだ。企業家は企業さえ起こせば誰でもなれるものではあるが、しかしその言葉から他のイメージが常に付きまとう。自分で何かことをなしたいと思っていたとしても、その他の企業家という言葉が持つイメージに自分がそぐわない、合わないから自分の人生の可能性から除外する。

 多かれ少なかれ自分にもそういう現象が起きていたなということを感じていた僕にとって、企業するという(あるいは自分自身で職を生み出すという)ことについてもっと気軽な気持ちを持てたのはなかなか良かったことなのだろう。もちろん自分の持っているコンテンツ次第というのは前提だけれど、言葉のイメージだとかに自分の進路の幅を狭められていた、と感じさせる一冊。

 この「現実」とはひどく気の滅入る場所のように聞こえる。新しいアイディア、みなれぬアプローチ、変わったコンセプトが必ず敗北する場所だ。勝利するには、みんながやっているようにするしかない。たとえそれが欠陥だらけで非効率的にみえても。
(p.14)

 そのうえ完璧なタイミングは決して到来しない。いつも若すぎたり、年寄りすぎたり、忙しかったり、金がなかったり、その他いろいろだったりする。完璧なタイミングのことばかり考えていても、それは絶対にやってこない。
(p.33)

 ソフトウェア会社は普段、本を書くことなど考えない。バンドは普通、収録の過程を映像で撮ろうとは考えない
自動車会社は普通、炭を売ろうなどと考えない。おそらく、売れるかもしれない何かをあなたも作っているだろう。
(p.66)

あなたはひとりきりモードに入らなければならない。ひとりだけの長い一続きの時間にこそ生産性は最も高くなる。タスクを行き来して集中力を移していかなくともよければ、多くの仕事を終えることができるのだ。
(p.77)

 創造性は睡眠をとっていないと最初に失うものの一つである。
(p.89)

 小さな決断をするということは、大きな計画を立てたり、大きなアイディアを考えたりできないというのではない。大きなことを達成する最善の道は一度に一つの小さな決断をすることだと信じるということなのだ。大きくて遠いゴールと壮大な実行計画の問題は、モチベーションを殺してしまうということだ。それはあなたを失敗に導く。
(p.95)

 だとすると、かわりに何をしたらいいのだろうか?競合相手を打ち負かすには、なにごとも相手よりも「少なく」しかないのだ。簡単な問題を解決して、競合相手には危険で難しくて扱いにくい問題を残す。ひとつ上を行くかわりに、ひとつ下回るようにしてみよう。やりすぎるかわりに、やっていることが空いて以下となるようにしてみよう。
(p.104)

 あなたがいつも忘れているなら、それは重要ではないというサインだ。本当に重要なものは消えてしまったりしない。
(p.117)

こうした初期の無名の状態は、跡に顕微鏡の監視下にいるような状況に比べると楽なものだ。今こそ恥をかくことを心配せずにリスクをとれるときなのだ。
(p.120)

 顧客をつくるということは、彼らが興味を持ってくれるということであって、人々の注意を買うのではない。これは非常に大きな利点だ。
(p.122)

ワビサビについての本の著者、レナード・コーレンはこう言う。
「本質だけになるまで切り落とす。だが詩を取り除いてはいけない。余分なもののない、清潔な状態を保つが、不毛にしてはいけない」
「詩を残す」とはいい言い回しだ。簡潔にすぎると魂が抜け出てしまい、ロボットのようになってしまう。
(p.128)

ドラッグの売人は、抜け目のないビジネスマンだ。彼らは、自分の商品がすばらしいことを知っているので、先に少量を無料で提供する。あとで初期投資以上のものが(現金で)戻ってくるとわかっているのだ。
(p.132)

 文章力がある人はそれ以上のものを持っている。文章がはっきりしているということは、考え方がはっきりしているということである。文章家は、コミュニケーションのコツもわかっている。ものごとを他人に理解しやすいようにする。
(p.149)

 覚えておくべきことは、ポジティブな意見よりネガティブな意見の方がうるさく情熱的であることだ。
(p.161)

 即席でつくった文化は人工的だ。ミッション・ステートメント、宣言、ルールからなるビッグ・バンみたいなものだ。わざとらしくて、醜く、見せかけだけだ。即席の文化は絵の具のようなもので、本物の文化は緑青のようなものだ。
(p.163)

 人を子供扱いすれば、子供のような仕事しかしない。
(p.167)

ただ一人の間違いから規則を作らないことだ。規則とは何度でもあり得る状況を想定して作るものだ。
(p.170)

対話359 田口 ランディ 『コンセント』

2011.08.19.21:33



読書時間:2時間
個人的読みやすさ:B


「うーん、なんていうかなあ。あれも一種のシャーマンかもしれないわね。すごく理知的で制御された現代風のシャーマン。シャーマンって語源はシベリアのツングース族が『興奮状態にある人』をサマンと呼んだかららしいの。でもね、興奮状態になって忘我の状態で仕事したのは大昔の話で、最近のシャーマンはもっと冷静で知的なの。そういや山岸君って、ちょっと朝倉さんと似てるかも」
(pp.197)


 巫女だとかシャーマンだとか魔女だとか、そういう現代では割と葬られてしまった感のあるファンタジーサイドの住民は今どこでどう暮らしているのだろう?と考えてみて、まず真っ先に思いつくのは「人里はなれたところで静かに少数で暮らしている」ということだ。

 これは割と正しい認識だろう。実際にシャーマンは現代社会と隔絶されたところにいる。いや、完璧に生活そのものから現代社会と呼ばれる要素を切り離しているかどうかは知らないが、それでも自然がより豊かなところ、自分が地球とコネクトしやすい環境で生きているのは間違いないだろう。シャーマンは敏感であるがゆえに、あわただしくて騒々しい都会のような環境ではきっと生きていくことはできない。その人自身は生きていけるかもしれないが、シャーマンとしての属性、人格は都会ではきっと発揮することができない。にぎやかさが彼らの感受性を奪ってしまうかもしれないし、なにより自然がなさすぎてきっと大いなるものから切り離されてしまう感覚に陥だろう。僕は別にシャーマンでもなんでもないのでその辺の詳しいことはよくわかんないけど。

 そしてこれはシャーマンに限らず、その他(僕らにとっての)ファンタジーサイドの住民に割合共通している性質であるだろうなと思う。こういうファンタジーサイドの住民を、便宜上1)古典的ファンタジーサイドの住民と名づけることにしよう。

 それとは一線を画すのが2)現代的ファンタジーサイドの住民だ。引用はこの本の主人公が現代的ファンタジーサイドの住民なのではないかという作中人物の話なのだけど、僕はこの現代的ファンタジーサイドの住民に非常に興味がある。古くは(別にまだ古くないか?)アメリカなどでネオ・シャーマニズムだとかその辺の用語で説明されていた彼ら。週末のワークショップだとかでシャーマンを疑似体験してみたり、コミュニティを形作ってみたり。

 神秘的な要素というのは理屈はどうであれ、多くの人間になんらかの影響を及ぼすのはもはや確定的だと僕は思う。ただ、最近は科学の力が強くなったりしているから、たとえば最近では「疑似科学」を布教している指導者として、新しいファンタジーサイドの住民が登場してきている。もちろん、占い師は昔からファンタジーサイドの人間だ。僕らはまだまだ以前としてファンタジーサイドと接触を繰り返しながら、サイエンスサイドと往復運動をするように(時には重複するように)生活を繰り返しているのだろう。

 人は死んだ瞬間からもの言わぬ存在になる。もの言わぬ存在は自分を映す鏡。兄のことを考えるたびに、私は自分のことを、自分の過去を、自分の人生を思い知る。抜け落ちてしまった記憶を思い出さなければならなくなった。
(pp.35)

「どんどんお線香を焚いてください。線香ってのはね、昔から死体の臭い消しのために焚かれていたんですよ」
(pp.36)

ねじ込まれた新聞はなかなか抜けない。抜き取っていると配達の少年の苛立ちが伝わってくる。少年の憎悪が新聞の束を通して漏れている。(いけない。こんなものにシンクロしていてはいけない)
(pp.49)

欲望の餌食になってやる。支配されてことは支配することと同じだから。
(pp.67)

驚いた、私はすでに国貞に依存している。恐ろしい。だから人との関係は危険なんだ。
(pp.85)

「いやだ。傷つくのは俺の権利だ」
(pp.119)

人間の心を覗こうとする人たちには独特の癖がある。人を思い通りにできるという傲慢さを、モノワカリの良さで隠した偽善的な雰囲気。
(pp.133)

説明しているとだんだん落ち着いてくる。どんなことも言語化すると陳腐になる。その陳腐さが救いなのかもしれない。
(pp.162)

「そうだ。人間の心は異物を吸収し、消費することによってエネルギーを得ているんだ。肉体のシステムと心のシステムは相似形だ。あらゆる異物を取り込み、それによって発電する。異物とはつまり外的刺激だ。人間が感じる五感はすべて異物なんだ」
(pp.207)

「シャーマンたちはね、神に出会う人間は必ず禊を経験すると言うの」
(pp.235)

「不思議だよね。死んだ人間に関わる人々はなぜか優しい。それに比べて、生きている人間に関する人は、歪んでいるよね。」
(pp.241)

「最近はなんでもかんでもトラウマで説明できると思ってる奴が多いけど、それは一般人のOSで精神が動いてる場合だ。ウィンドウズで動いてる精神はトラウマで解説できるが、マックで動いてる精神にトラウマは応用できなかったりする。そして、最近、確実に新しいOSで動く奴が増えてるんだ。そいつらはすごく感度がいい。新しい処理能力をもっている。だが、このOSにはまだマニュアルがない。使えるアプリケーションもないんだ。だから故障していると思われたり、不良品扱いされる。発展途上だからだ。試作品なのかもしれない。」
(pp.250)

「もう治った。なんだか風邪をひいてから調子がよくなった。身体の大掃除したみたいな気分なんだ」
(pp.258)

 毎日が発見の連続だもの。面白くって笑いが止まらない。
(pp.317)
 
 ああ、そうか。憑依人格によって振動を変換するのは、きっと彼女の自我がこの変換作業に絶えられないからなのかもしれない。だから別人格を借りているのだ。そうやって、この凄まじい地のエネルギーを変換して人々のプラグに流し込んでいるのかもしれない。
(pp.324)
 
 感謝とはこれほどの快感だったのか。
(pp.326)
 
 「よく覚えておきなさい。大切なのは場所です。場所を探してそこに行けばいいのです。正しい場所に立てば人は必ず正しい行いをするのです」
(pp.328)
 
 自我がひ弱な「コンセント」は狂人にされていく。ちょっと自我の強い「コンセント」は私みたいに取り繕いながら苦労して生活していく。どちらにしても社会に適応するのに苦労する。変人扱いだ。
(pp.334)


 
 

対話358 鯨岡 峻 『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』

2011.08.19.21:07



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:B


 言語聴覚士のこれまでの仕事の中には、記号的な意味のやりとりのコミュニケーションが関心の中心だったために、「人にとって音が聴こえるとはどういう経験なのか」というような問いは、あまりに抽象的な問いだったのでしょう。しかし、S.K.さんがこのエピソードから切り開いたのは、まさにその問いでした、私自身は、このエピソードを聴いたときに、ただちにその問いが念頭に浮かび、少々大げさですが、「これは<聴こえることの現象学>にまで行き着くことになるな」という直感があったくらいです。たった1枚のファックスが、一人の研究者はもちろん、言語聴覚士の世界まで大きく変えるだけのインパクトをもちうること、そしてそのような経験に出会えたり、立ち会えたりできること、そこにエピソード記述を中心にした研究の一つの進むべき道があるように思います。
(p.220)


 自分が学問に携わることで何をしたいのか?という疑問を煮詰めていくと、「人々の認識を変えたい」というところに行き着くと最近思う。ここでいう「人々」の中にはもちろん僕も含まれていて、というか基本的には僕が主体であり、そのほかの「人々」はどちらかというと僕と似た要素を持った他人という要素が強い。自分の心を震わせ、その感動を自分とどこか似たところのある他人に伝えたい、という欲求。それはオセロで一気に色をひっくり返す感覚に似ている。自分の今までの認識がくるっとひっくり返るあの瞬間が好きだからこそ、そういう目標を掲げることに快感を覚えるのだろう。

 別に認識を変えるといってもそこまで大それていなくていい。小規模なパラダイム・シフトを小規模な範囲で起こす。とりあえずスタート地点はそこでいい。できればまあ一個くらいは大きなパラダイム・シフトを見出したいものだし(なにより大勢の人の認識が変わるくらいの着想が浮かべばまず僕自身が驚いて喜ぶのは間違いないのだから)、1回じゃなくて何回もそういうものが見出せればさらに素敵だと思うけど、とりあえず1ゲームに1回くらいは黒い駒を白く反転させたり、白い駒を黒く反転させて、両方の目ん玉を白黒したりさせたりできたら人生はきっと素敵だ。

そして、そうした日々の記録や実践報告を読み返してみると、かかわる相手が何をした、何を言った、自分が何をした、等々の行動の事実しかわからず、相手はどのように思ってその場を生きてきたのか、自分はそこで相手の思いをどのように掴んだのか、またどのような思いでかかわっていたのかというような、生の断面に息づくものがすべてそぎ落とされ、相手がまるでひとりの人間ではないかのような、何かそっけなく、砂を噛むような思いに駆られるのを禁じえません。
(p.6)

ただ、一般化された評定や判定やテストの手続きで捉えられる人物像と、日々かかわる中でかかわり手に捉えられる人物像のあいだにしばしば大きな乖離があること、しかも現場はそれを専門家に向かっていえないという苦しさがあること、つまり、同じ人にかかわっていながら、専門家の判断が上、日々かかわっている自分たちの評価や判断は下というような暗黙の力関係が現場を支配していること、しかも自分が感覚的に掴んでいるものをうまく言葉に表現していけないこと、こうしたことに現場担当者はしばしば悩むということなのです。
(p.9-10)

(4)エピソード記述は体験の「意味」へと向かい、新たな問いを立ち上げ、他者と「意味」を共有することへと向かう
(p.11)

 これまでの議論を少し整理すれば、何も感じない(感じてはならない)東名な観察者の目にあくまで対象として捉えられるもの、測定可能で再現可能なものだけを議論しようとする「客観主義=実証主義の立場」と、事象の「あるがまま」を可能な限り忠実にとらえようというときに必要になる「客観的な見方」とを混同しないことが大事になってきます。つまり、客観主義の立場を否定するということは、決して恣意的であってよいという意味での主観主義を肯定することではありません。
(p.22)

 これはエピソードが拾えないと嘆く学生を前に、「エピソードは何かの感動や違和感など、自分の心が揺さぶられたときに生まれることが多いから、まずそういう経験をしたときに、試みに一つ描いてみるといいですね」と私が話したのを聞いて、それを20歳代前半の大学院生が実行してみたというものです。
(p.34)

 心理臨床系、精神医学系の学会誌では、さすがに事例研究が中心に編まれていますが、しかしその事例の扱い方は、事例そのものに密着して「その事例そのものに語らしめる」というような扱い、つまり、事例そのものに価値があるという扱いであるよりは、むしろ既存の臨床理論を検証し補強する目的のためにその事例が引き合いに出されているにというすぎないというような扱い方です。つまり、この事例はこの理論によって説明がつくというように、事例よりも理論に価値があるといわんばかりの扱いなのです。
(p.39)

 そのことを踏まえると、個別具体(書き手の主観のあるがまま)を大切にするとはいえ、エピソード記述はあくでも相手の主観内容についての間主観的な把握に重きを置くものであって、相手の様子に触発されて生れた書き手の主観的イメージの記述であってはなりません。
(p.43)

「これでいいのだ」と安易に自分の価値観や判断に安住するのではなく、自分にこう見えているのは自分がこういう価値観やこういう枠組みをもっているからだと相対的に考え、その価値観や枠組みを含めて、「こう捉えていいのか、別の捉えようはないのか」という問いが立てられなければなりません。
(p.97)

間主観的に把握されたものの確信度が何らかのかたちでエピソード記述の中に表現されるなら、読み手はさらにその場のアクチュアリティに迫ることができるでしょう。
(p.104)

 こうしたインタビューや面接のやり方は、「半構造化」という形容をつけられることがしばしばです。つまり、おおよそは聞きたいことを整理しておくけれども、その聞き方や聞く順番は、インタビューや面接の状況に合わせて柔軟に変えていくというやり方です。
(p.119)

「質的」研究が意味するところのものは、客観―主観という二項対立の構図から脱却し、現場における自分自身の座というもの、そして現前する関係性そのものを捉えるということである。
(p.154)

 ところで、保育の場に出かけるとき、関わり手である自分がここからそこを見るときの目、つまり「大人の目」ばかりでなく、子どもに自分を重ね、子どもの側から物を見ようとするときに、「子どもの目」になることがしばしばあります。そしてさらに、自分が今「大人の目」で事態を見ていること、あるいは「子どもの目」になって事態を見ていることを意識するもう一人の自分がいます。これも「脱自的主体」なのですが、この表現は保育の世界では少し仰々しいので、私はこれまでこれを「第三の目」と呼んできました。
(p.160)

 これまで何度も述べてきたように、エピソードを拾う作業はきわめて地味な営みで、検挙さと忍耐と根気が必要になります。そのような地味なエピソードを集積していく中で、当初は注目していなかったエピソードが急に面白いエピソードに転換するところが、関与観察研究のある意味での醍醐味かもしれません。
(p.172)

ポストモダンの研究者たちのいささか格好のよすぎる「<家族>は死んだ」という言説や、「家庭が子どもを育てることの幻想」などという観念論的な机上の空論がすっかり色褪せるほど、子どものちょっとしたつぶやきは大人の心を穿ちます。
(p.235)

希夫:「配偶者は介護したらあかんねん、(非常に座った目で、しっかりした口調。)」
私:「役割を変えな……分けなあかんねんな?」
希夫:「そうそう。だから、配偶者はあくまで配偶者。介護したらあかんねん。」
(p.242)

 自然科学の客観主義は「value free」であるといわれ、それゆえ人間科学も value free でならなければならないとして、観察の場においても無関与的、傍観者的でなければならないとされてきました。しかし、本書のこれまでの議論を踏まえれば、少なくとも人間科学は value free ではなく、value bound であるというところから出発せざるを得ません。
(p.258)

対話357 山下 晋司 (編集), 船曳 建夫 (編集) 『文化人類学キーワード』

2011.08.19.20:53



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


フレーザーは類似の原理に基づくものを「類感呪術」、接触の原理に基づくものを「感染呪術」と呼んだ。
(p.115)


 僕が人類学をちゃんと学ぼうと思ったのはアメリカに行ってから、つまり去年の9月以降の話になるのだけど、そこで扱われたこの概念が非常に印象的だった。日本語だとなんだかお堅いイメージが生まれてしまうのが難点だが、英語だと前者が"sympathetic magic," 後者が"contact magic"となり俄然魔法っぽい。多分「呪術」という言葉になんとなく民族的なオーラを感じてしまっていたのだけど、magicとされることでもっと僕にとって身近な「魔法」という言葉で脳内翻訳されたのがよかったのだろう。人類学的にいえばこれを「魔法」と訳してしまうのは誤りだそうだが、しかし幼少の頃よりゲームなどを通じて「魔法」という言葉に通じてきた僕にとってはそれが一番よかったのだ。なにより、その概念が遠く離れたよくわからん部族の中で扱われていると認識せず、自分たちの身近にある現象なのだと認識する上で。

 前述の「類感呪術」も「感染呪術」も、原理的には僕らの日常でいたるところで使われている。「これはこれに似ているから効果が出るに違いない」と思うのは前者で、最近でいうとホメオパシーみたいな”疑似”科学はまさにこの典型だと思う。「感染呪術」は教祖が触ったものはなんかすごい!みたいなノリの概念なんだけど、こんな特殊とみなされる例を引き合いに出すこともなく、つまりこれらの概念は疑似科学とか宗教的な意味合い以上に(あるいは以前に)僕らの生活には密着していることは明らかで、そのことに関して当時の僕は「なんか未開の部族とかむっちゃ自分たちと違うルールにのっとって生きているように見えたのに、意外に自分たちも大して変わらない理の上で考えて影響を受けているのだなあ」と感動したのだ。これが僕が人類学を専攻にしようかと思った第一の理由ぱっぱらぱっぱっぱ。

しかし文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局なにを意味するのか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。
(p.9)

この両者の主張の統合を試みたのがE.サーヴィスとM.サーリンズである。彼らは一般進化と特殊進化が相互補完的なものであると考え、「バンド社会→部族社会→首長制社会→国家社会→産業社会」という社会文化的統合の発展図式を提出した。この図式は今日では広く受け入れられている。
(p.13)

 解釈人類学的なアプローチには、文化をいわば「作品」とみなして理解しようとするところがあり、その理解を定着するものとしての民族史自体をまた「作品」とみなすところがある。
(p.27)

 G.フォスターらによれば、医療人類学の起源は4方向にたどられる。
第1は形質人類学であり、比較解剖学や遺伝学を含むような人間の身体に対する生物人類学的関心である。第2は民族医学であり、文化により異なる病気や治療の知識・技術・実践に対する民族誌的関心である。病気観や治療行為にかかわる宗教や世界観、また儀礼や省庁が中心になる点で象徴人類学的である。第3は文化精神医学ないし文化とパーソナリティ論であり、これは20世紀前半の精神医学と人類学の学際研究の系譜を引き、強い心理学的モーメンタムを持つ。第4は第2次大戦後に始まる国際公衆衛生への人類学の関与である。国際医療協力により途上国へ近代医学を導入する上で、地域固有の医療知識や実践を知る人類学の有効性が認められたという。この面での医療人類学はきわめて直接的な応用学としての性格を持つ。
(p.34-35)

何を食べてはならないか、何を食べないかは、自らがどんな文化・社会集団に属しているかを示すための、最強のラベルの一つと言える。
(p.81)

 聖と俗――時間のリズムを生み出しているのは聖と俗の振り子運動であり、空間もまた聖と俗のいくつかの組み合わせからできている
(p.102)

ハレ=聖、ケ=俗という理解ではなく、ケシネ(日常食)、ケカチ(飢饉)といった民族語彙にみえるようにケは日常を支える食の力であり、より根源的には稲を生長させる霊力をさす。このケの枯れる状態がケ枯レ、ケガレであり、ハレの祭りはこれを回復する手立てである。すなわち、ハレとケという静態的二元論ではなく、ケ→ケガレ→ハレ→ケ…という循環を考えるのである。
(p.103)

類似は確かに存在する、がそれを呪術実践の根拠と考えるのはナンセンスだとフレーザーの呪術論の最も的確な批判者L.ヴィトゲンシュタインはそう論じる。彼によると呪術の実践を特徴づけるのは、それが誤った理論によって根拠づけられていることではなく、そもそも根拠の問いそのものが排除されているという点なのだ。
(p.115)

アニミズム的思考においては、人間は身体と霊魂からなるととらえられる。
(p.118)

 男性の地位が分裂し、その権威や管理権が重層する母系社会の仕組みは、父系社会にくらべ構造的に弱いとみなされてきた。それでは、母系社会の実験は女性の手中にあるのか。答えはノーである。(中略)つまり、地位のうえで男尊女卑のイデオロギーが確立されている。
(p.143)

そしてニマンギがそうであるように、加入の時には新たなメンバーに少なくともある程度は秘密を明かさざるを得ないという論理的必然もあって、加入式自体が秘密の知識の核となっている秘密結社は非常に広くみられる。
(p.171)

 創造された伝統は、今日、国民文化の創出や地域おこしに用いられたり、観光開発に利用されたりする。それゆえ、伝統文化を太古から連綿として続いてきたとする本源主義 (essentialism) 的な文化の捉え方は事実として間違っている。同時にまた、「伝統」か「近代」かという二者択一的な問題の立て方も誤っている。伝統は今日、新たに作り出され、消費され、意識的に操作されるものとして存在しているのである。
(p.191)

つまり、「伝統文化」を無批判に美化するような語り口は、一見バリを持ち上げているようでいながら、実はバリを「本源的な世界」へと閉じ込めてしまう一種の「オリエンタリズム」にほかならないのである。
(p.199)

 しかし、いわゆる原理主義の活動家の多くは、伝統的なムスリム知識人ではなく、むしろ近代的高等教育機関の出身者であり、その意味では「近代主義者」という側面ももっている。それは、ひと時代前にはナショナリストや社会主義者などを生み出した社会階層である。
(p.205)

 ファンダメンタリズムを、反動的復古主義として切り捨てるよりも、むしろ、行きづまりが指摘されている「近代」を乗り越えようとする試みの一つとみる視点が必要であろう。
(p.205)

 

対話356 尾見 康博, 伊藤 哲司 『心理学におけるフィールド研究の現場』

2011.08.18.00:05



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


いずれにしても、狭い空間に閉じ込められているかのような圧迫感、閉塞感を感じていた(私を含めて)少なからぬ心理学者にとって、このフィールドワークの風は、まさに時宜を得ためぐみの雨ならぬ風であった。(p.4)

では誰がもっとも圧迫感を感じていたのかといえば、それは、発達心理学、社会心理学、教育心理学といった、実験と臨床のハザマにある分野の研究者(の一部)だったのである。(p.5)

いいたかったことは、近年の心理学では、「客観性」を保持するために、質問紙調査が最大限に利用(悪用?)されてきたということである。そして、実験でなければ質問紙、みたいな二者択一の選択肢を常に突きつけられて、いずれかの方法にあわせて、テーマや研究計画が選ばれるという事態が生じるようになった(詳しくはサトウ・渡邉・尾身, 2000参照)。(p.5)

 ところで、近年、欧米では「フィールドワーク」とりも「エスノグラフィー」が現場調査の報告書およびその調査のプロセスそのものをさす言葉として使用される傾向が強いという(佐藤, 2000)。「目で見て、耳で聞く」、つまり調査するための技法としてでなく、それを報告書としてまとめ上げる、つまり「書く」までのプロセス全体を包含する技法として、「エスノグラフィー」という呼称がふさわしいというのである。(p.7)

エスノグラフィーには2つある。①いわゆる民族誌と②マイクロ・エスノグラフィーである。前者は文化人類学に根ざす「異文化記述」の伝統をもったエスノグラフィーである。後者は、人々の行動や相互行動について、文脈の影響も考慮に入れつつ読み解いていくという意味でのエスノグラフィーであり、「マイクロ」という言葉を用いることでその対象がマクロな社会構造ではなく、マイクロな行為レベルであることを示している。(p.21)

 研究者は、心理学の蓄積された知識について勉強しているから、母親たちに見えない治験があると思いがちだが、母親たちも蓄積された知識をたくさん持っている。しかし伝える術、残す術、記録する術がない。研究者の仕事は、母親に代わって、記録したり伝えたりするだけのことかもしれない。(p.44)

そのときに思ったのは、「なんで俺、他人の考えた測定方法のためにこんなにがんばって答えてるんだろ?」「その点はオレじゃなくて愛着の概念を考えたボウルビー(Bowlby, J.)に聞いてくれ」。こんなことを思うのは、自分のではなく人の借りもので研究していたからにほかならない。そして他人の研究の正しさを懸命に主張することはむなしく、どうせ文句(正確には批判的なコメント)をいわれるのならば、人の理論ではなく、自分ので言われたいと強く思った。(p.70)

現象から自分が切りとった部分ととりこぼした部分を意識し、現場や近接領域における自分の研究の位置について敏感であるようにしたい。(p.76)

 現場にでるのはとにかくおもしろい。(p.96)



 心理学はとかく息苦しい。これは心理学を専攻している人の少なくない割合が感じていることだと思う。特に臨床と実験がまとめられているような学部ではそれが顕著なのではないか?いや単純に僕の大学だけに起きている現象なのかもしれないが、基本的に心理学では臨床と実験は仲が良くない(というか実験の人が臨床を嫌っている気がする)。CBT(認知行動療法)など、いわゆる「科学的に」認められた療法に関しては実験の人たちもそれなりに敬意を持っているように感じるが、それ以外のちょっとオカルティックともとれるような手法をいまだに採用し続ける日本の臨床心理の人たちに対する偏見が実験を中心にしている人たちには渦巻いているのだと思う。

 実験と一口にいってもいろいろある。実験手法が生物寄りの人たちは(完全に僕の偏見だけど)まだ臨床をそこまで嫌悪しているという感覚はない。というか多分あんまり眼中にない。逆に、日本の臨床心理学を軽蔑して攻撃を加えるような学問領域の人は、社会心理学とかの人が多い気がする。つまり文系と理系の中間地点。統計が中心的な武器であるがゆえに理系の世界の中ではやや見下されるように感じ、ゆえに自分よりも科学的でない学問を叩く。いじめの構造はこんなところにもある。

 僕はそういう息苦しさがいやで、自分の専攻を心理学から文化人類学に変えた。正確には心理人類学と呼ばれるような範囲を志そうということを決めた。まだあまり人類学的手法を用いて研究をしたことはないが、たぶん人類学のほうが僕はやっていて楽しい。そういう確信がある。もともと現場主義的な性格が自分にはあるし、いろいろな分野をごった煮にしている感覚というのも自分に合ってる。そして何より文化人類学は、ごった煮であるからこそ心理学よりも全然息苦しくない。心理学が自然科学と社会科学の中間点に位置しているのであれば、人類学は社会科学と人文学の中間点に位置していて、色々なところに大らかなのだ(少なくとも心理学に比べれば)。

 かくして僕は心理学から文化人類学に移動したわけだが、しかし本書のように、心理学の中でもフィールドワーク的手法を用いるというケースがだんだんと増えてきているとのこと。まあ当たり前のことである。多分僕のように心理学で一般的に認められている手法に疑問を持っている学生やら教授は多い。しかも文化人類学というのはどっかアフリカの奥地にいってフィールドワークするというイメージが強いし、実際心理学的要素を認めている人類学はアメリカでは顕著だけども他の国ではそうでもないらしい。

 僕はたまたまアメリカに留学したので、僕みたいな心理学難民にはこういう人類学という受け皿があるのかと感動したものだが、それがないここでは心理学の中でフィールドワーク研究という受け皿を広げていかなくてはいけない。学問の垣根はないというのは一つの理想論だけども、しかしそれが持っている影響力だとか事の利便性は確かにあって、心理学の中でフィールドワークが力を持つのはまだまだ先のことになるだろう。それでも、本書の執筆者たちのような認識を持っている心理学者が増えているというのは一つの朗報だなと思う。

対話355 パウロ コエーリョ 『アルケミスト―夢を旅した少年』

2011.08.17.22:46



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C

誰もみな、他人がどのような人生を送るべきか、明確な考えを持っているのに、自分の人生については、何も考えを持っていないようだった。(pp.21)

「世界最大のうそって何ですか?」と、すっかり驚いて、少年は聞いた。
「それはこうじゃ、人は人生のある時点で、自分に起こってくることをコントロールできなくなり、宿命によって人生を支配されてしまうということだ。それが世界最大のうそじゃよ」(pp.24)

「いつもそうなんだよ」と老人が言った。「それは幸運の原則と呼ばれているものだよ。誰でも初めてカードをする時は、ほとんど確実に勝つものだ。初心者のつきだ」(pp.36)

『では、たった一つだけ教えてあげよう』とその世界で一番賢い男は言った。『幸福の秘密とは、世界のすべてのすばらしさを味わい、しかもスプーンの油のことを忘れないことだよ』」(pp.40)

「前兆に答えなければならないからです」(pp.62)

「そんなことはない。世界中が認めようとしなかった王様を最初に認めたのは、羊飼いたちだったからね。だから、王様が羊飼いに話しかけても驚かないよ」(pp.82)

「人は誰でも、その人その人の学び方がある」と少年は独り言を言った。「彼のやり方は僕と同じではなく、僕のやり方は彼のやり方と同じではない。でも僕たちは二人とも、自分の運命の研究しているのだ。だからそのことで僕は彼を尊敬している」(pp.99-100)

「どうやって未来を推測するのかだって?それは現在現れている前兆をもとに見るのだ。秘密は現在に、ここにある。もしおまえが、現在にとく注意していれば、おまえは現在をもっと良くすることができる。そして、お前が現在を良くしさえすれば、将来起こってくることも良くなるのだ。未来のことなど忘れてしまいなさい。」(pp.122)

「勇気こそ、大いなる言葉を理解するために最も重要な資質なのだ」(pp.132)

「おまえが自分の内にすばらしい宝物を持っていて、そのことを他人に話したとしても、めったに信じてもらえないものなのだよ」(pp.158)

「恐怖に負けてはいけないよ」と錬金術師は不思議にやさしい声で言った。「恐怖に負けてしまうと、おまえは心に話しかけることができなくなってしまうからね」(pp.168)


 最近、運命について考えることが多い。

 昔は運命という言葉を毛嫌いしていた、というか意味のない言葉だなとずっと思っていた。
「運命によってすべてが決まっている」とか「運命は変えられる」とかそんなの運命をどう定義するかの問題なだけだし、なぜそんな言葉にことさら重要な意味を持たせる必要があるのだろう?というのが僕の疑問だった。

 そもそも運命という言葉を連呼する人は胡散臭いし嘘くさい。それは場末の占い師的なイメージでもあるし、テレビで華々しくご活躍されていらっしゃる方々の影響でもあるかもしれないし、人間の処理能力で運命とかいう広大なものを理解することは、ラプラスの魔でもあるまいし無理なのではないかという比較的現実的な批判精神でもあった。

 そんな僕がなぜまた運命という言葉に魅了されてきたのか?それはこの言葉を使うのが、存外「楽しいから」であるということに尽きる。

 運命という言葉は人生の彩りだ。言葉の綾であり彩だ。自分の人生におきたいくつかの出来事に意味を与え、それをベースにして人生に色を付ける。その色に合わない事象はどんどん認識されることが少なくなり、いつしか実際の出来事としても起きなくなってくる。自らの運命を自覚するということはいくつもある絵具のうち、メインの色を決めるということであって、決めて塗りたくった後にはそれに合う色しか選ばないようになる。

 運命というのはただ享受するべき受動的なものではなく、そのメインの配色をどうやって彩っていくか、どのような形のオブジェを描いていくかという能動的なものなのだと思う。それだからこそ、そこに楽しさを感じる余地があるのだろう。まったく何も描かれていないキャンバスを見たときにも感動するが、ある程度塗られた色から着想を得ようとすることはそれとは別の大きな快感なのであり、それこそが人間に「運命」という言葉を紡がせるエンジンになっているに違いない。


対話354 舞城 王太郎 『NECK』

2011.08.17.21:36



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


「小賢しいって言うんです、そういう頭の良さって。薄くて浅いことを浅はかって言うんです。モモちゃんは自分の状況の居心地の良さの中で気楽な格言をひねりだしてるだけで、人生の大きなうねりの中ではすぐに意味のなくなるチラシの煽り文句みたいなものに過ぎません。ぺらっぺらで反吐が出そう。」(pp.17)


 最初この一文を読んだとき、名指しで批判されているような気分になったことを思い出す。この本を最初に読んだのはたしか1年ほど前のことであって、その時は付箋を持っていなかったから印象に残った言葉を記録に残すことはしなかった。にも関わらず、僕はちゃんとこの言葉を覚えていて、それでもツイッター上でぺらぺらの言葉を懲りることなく吐きだし続けている。なぜだろう?

 一時期、自分のペンネームを「ペラ」にしようと思った時期があった。ペラペラよく喋るという意味と、薄っぺらいのダブルミーニング。小さい頃からとにかくよく喋る子供だったらしいし、実際喋れば喋るほど、自分のある部分の価値が薄くなっていくのを体感的に把握していたからこれはぴったりの名前だと思った。僕はネガティブなことを自分で名乗ることで自分の売りにして他人からの批判をごまかす、というテクニックを知っている程度には小賢しかった。

 一時期、『めだかボックス』に出てくる球磨川というキャラに憧れた。この球磨川というキャラクタは台詞のすべてに「」がついていて、まったく本性で話さないようなキャラクタだった。僕は表面的で聞こえが良くて、しかもそういうことを自覚しながらやっているキャラクタに最大限に共感した。なぜかはあまり今まで言語化はしてこなかったが、おそらくそちらのほうが精神的な意味での防御力が担保されるからなのだろうと今は思う。とにかく、僕は「自覚的である」ということを自分の持つ最大限の防御呪文にすることで、たびたびマイナスに見られることのある自分の要素を保存し続けることに成功した。

 そういったマイナスの保存戦略というのは、しかし自分以上のマイナス要素を持った人に遭遇したときに方向転換を迫られることになる。つまり、自分以上に表面的なことをペラペラと喋っている人に会ったときに、果たしてこれで自分は良いのだろうかということを考えさせられるわけだ。
 また、その薄っぺらい言葉が他人に影響を与えてしまったことを自覚することも方向転換することを促す。
僕は基本的に自分のやったことについて後悔はしないしましてや罪悪感を覚えることはほとんどないが(覚えるくらいならやらなければいいのだ)、それでもこのままの方針でい続けるのは何か違うのではないかと思ったりすることはある。何より、心から生まれた言葉を放っていなければ、自分の中にあるメインストーリーを歩むことはできないのではないかという疑念がそれを加速させる。メインストーリーというのは自分の運命に乗っ取った生き方であり、前兆に従って生きるという生き方であって、それと表面的な言葉を紡ぐことは必ずしも相性が良くないのではないかと思ってしまったのだ。

 ツイッター上で薄っぺらい言葉を現在もなお吐き続けていることからもわかるように、別に薄っぺらい言葉を封印して沈黙を守るという方針を僕はまだ取っていないし、これからも取る確率は今のところ低いと思う。ただ、自分の言葉の薄っぺらさを自覚してそれを喧伝することで他者にそれを認めさせることまではアリだとしても(アリなのかよ)、それをいいことに自分が好きではない類の薄っぺらい言葉を隙間に挟ませることはやめるようにしようと思う。
 「薄っぺらい言葉」とくくられた言葉の中にもいろいろな種類がある。曲がりながらも自分の細胞から生まれた言葉と、咀嚼もしていないような借り物の言葉。自分の言葉の情けなさを自覚してそれを守りながらも、後者の言葉はなるべくこれからは封印していきたいなと思う次第。しかしこの小説のことまったく書いてねーなこの文章。

対話353 田口 ランディ 『できればムカつかずに生きたい』

2011.08.17.21:27




読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C


酒臭い息をさせて、目ですごむような男のスタイルを、今の子たちがわかるはずもない。けれども、彼らがそのような生き様を選択するのは、それなりの人生があったのだと思う。 (pp.53-54).

父の愛情は私の愛情とは言語が違うのだ、もらっていてもわかるはずもなかった。(pp.66)

ドラマを見守っていた私は思った。サイコドラマには筋書きがない。頼りになるのはそこに参加する一人ひとりの即興。(pp.76-77)

でも、イメージ、メタファー、親和、物語、そして自分以外の誰かの力を借りて、非現実の世界で死や殺人や恐怖と向き合い、そしてそれを乗り越える想像力を、私たちはもっている。(pp.79-80)

子供の母親への熱烈な愛情は、母親の想像を越えている。母性愛は子供が母を思う気持ちには絶対にかなわない。(pp.98)

いじめの本質とは関係のあくなき固執なのだ。(pp.108)

シーツの存在を熱望する人間ほど、シーツを持つ人々にとって都合がいいのである。なぜなら、熱望する人間がいれば、なぜ自分がシーツを持っているかについて考えなくてすむからだ。(pp.111)

どんな行動にも「リスク」は生じる。それが大前提だと思うことが自律的に生きるための第一歩だった。そして私はどちらかと言えば「手堅くリスク回避」する方である。大胆だけど慎重なのだ。(pp.121)

これはもうご多分にもれず、この世界の心と身体に関することの基本は「呼吸」である。ハイいらっしゃい、ではまずは呼吸ね、と言われる。どこへ行っても、誰にあっても絶対に「呼吸」なのである。(pp.135)

これまた、私のつたない経験から感じることなのだけど、自分にセンタリングして生きている人たちというのは、確かに物事や他人にこだわらない。こだわらないけど、人間的で泣いたり笑ったり、怒ったり悲しんだりしながら、だけどすぐごろんと自分に立ち返ってニコニコしている。すごく魅力的だ。逆に「私は達観しているので何物にも同時ないよ」という風情の人は、のっぺらぼうでチャーミングじゃない。(pp.141)

「やって来るものを受け止めながら手放していけばいいんだよ。どんなものでも自分にやって来るものはプレゼントだ。受け止めて手放せばいい。そうしていくと、受け止めた衝撃で流れが起こって自然にあるべき方に流れていく。」(pp.142)

もし「わかって」しまったら、私は閉じてしまうから。(pp.151)

それにしても、失うということは、なんと凄いことだろう。(pp.169)
 
「私たちアイヌは神と魂の存在を信じていたからね。すべての生き物に魂があり神が宿っている。それを信じること、一点の疑いも持たず信じること。それが力なんだよ」と彼女は言った。(pp.179)

「私たちは屋久島という自然に癒されに来ます。でも、屋久島を癒そうとしてここに来る人はたぶんいないでしょう。」(pp.192)

私たちがふだん無関心という言葉で呼んでいるのは《関心がないというスタイル》としての自己主張のことなのだよ。「関心がない」と言いながら、実はそれは「関心がないということで示す、ある種の主張」となっている場合が多い。(pp.208-209)

私はもうあっけにとられて、そして何度も力説してしまった。「みんなは、大人の世代にはない力をもってる。それは感応する力だ。豊かな時代に生まれた世代にのみ与えられるすごい能力だ。森羅万象に自分の心を共鳴させることのできる能力です」(pp.262)

父性とは、その無尽蔵に秩序を与えて切る力だ、と彼は言う。なるほどと思う。≪これ以上はダメ。悪いものは悪い。ここから先は許さない」そういう断罪する力であり、ルールであり、秩序をもって事に当たるのは父性らしい。(pp.269)

でも人は変化する。新しいものを求め続けるなら永遠の孤独な旅人になるしかない。(pp.285)

修行というのは、「自分を傷めつける退屈な行為」というイメージがつきまとうけど、実はそんな事はなくて「意外性を発見するための非日常的な行為」なのではないかと思うのだ。(pp.293-294)

「子供たちは、もっと自由に世界を偏執していいのだ」
と平井さんは言う。自分の頭で世界を偏執している。自分も他人から偏執されている。そう思えば、人の言うことなど気にならない、と平井さんは断言するのだ。(pp.301)

悲惨をリアルに受け止めてしまったら、人は発狂するしかないだろう。だから彼女たちは、器を捨てて、別の価値観、世界観に自分をゆだねるのだ。もしかしたら、神や宗教は、そのように人を解放する装置なのかもしれない。(pp.312)


僕が田口ランディに手を出したのはつい最近で、ここでは感想文を書いていないけど最初に読んだのはある友達が勧めてくれた『コンセント』だった。ものすごい個人的な感覚を大切にして本を書く人だなと思うので、性差やバックグランドの違いがある分強い共感を覚えるという類の本では個人的にはなかったけども、おそろしいほどに僕の興味・方針と一致している彼女の手を出している分野だとか、人とのつながりだとか、一つのモデルにしたいと思わせる人だなというのが今のところの印象。年代が一緒であればぜひとも仲間になりたいなと思った。仲間というかソウルメイトというか。ちょっと彼女と僕の年代は離れすぎているのでそういう関係になるのは難しいかなとは思うけども。

 彼女のエッセイを読んでいるととにかく僕は安心する。
それは多分自分の選ぼうとしている生き方があまり豊富にそのためのロールモデルを用意していないからであり、自信と勇気はそれなりにあるつもりだけどでもやはりどうしても不安で、そして田口ランディという人はそのロールモデル足りえると僕が思ってしまうからであろう。
 特に僕には自分と同じような興味分野を持っている人の中でロールモデルを見つけたことはこれまでなかった。自分が今までものすごく影響を受けた人はベンチャーの人だったり、他分野の研究者だったりしたから、より具体的に自分の望む生き方を示してくれる人の存在は貴重で、そう思える人の文章に出会えたことに感謝したい。

対話352 舞城王太郎 『イキルキス』

2011.08.06.14:55



読書時間:2時間
個人的読みやすさ:C


 それが自称であろうとも霊感に支えられた確信を持っていようともいかにもこいつは名探偵らしいかもなと僕が思ったにせよ、とにかく自分に役割を振ったわけで、役割というものはなかなか強く自分を縛ってくれる。(pp.14)

「創世記では最初の一週間とされているけど、実際には六日間で世界は出来上がったんだ。一日目に光と闇が、二日目に天が、三日目に大地と海と植物が、四日目に太陽と月と星が、五日目に魚と鳥が、そして六日目に動物と人間が生まれ、七日目、最後に神はただ休んだんだ。七は聖なる数字で六はそれに一つ足りない不完全な数字とされることもあるが、六で全ては終わっているんだ。それに六は完全数だ。福島、完全数って意味を知ってるか?」(pp.15)

 何でもじっと見てると好きになる。(pp.30)

「何やってそれー。もー。」
「嘘や」
「ああ?」
「俺も、好きな子いるう」
「誰」
「八木」
「はいはい」
「ホントやって」
「いいから」
「……とこのようにして俺の生まれて初めての告白は流されていくのでありました」
「アハハ。私も福島のこと好きや」
「愛しているよ」
「ふふふ」
「ホントや。死なんといてほしい」
「………」(pp.50)

 希望は何にでも見出せるのだ。(pp.54)

あれ?違う?何か言葉にしようとしても難しい……のは全部真似、なんちゃっての範囲を出ないからだろうが、中学生の感情なんて、恋愛を含めてそんなモンだ。でも嘘じゃない。偽モンじゃない。ウチらの本物は、こういうふうに演技的な感じに表れるのだ。たぶん自分にばっかり興味持って自分のことばっかり見て考えてるからだろう。(pp.81)

でも、僕が言いたいのは、家族力を合わせて頑張ろうとか、弱いものもそれなりに人生を楽しめるとか、これから人生を生きていくため、生き続けるためにちゃんと強くなっていかなきゃいけないとかじゃなくて、やっぱり、今僕らは、弱いように見えても、これってつまり、強いってことじゃないかってことです。(pp.211)

人生の本当は、嘘や偽物もひっくるめて飲み込んでしまって全部合わせたものなのだ。(pp.215)

僕がなんかうっかりコンビニのマネージャーとかになってバイトを雇うときには、応募してきた奴が高校中退でこれまでいろいろ問題を起こしたことがあったくらいじゃ切らないぜっていうパオパオパ。(pp.218)


 僕が舞城を愛していることはこのブログでもたびたび書いていてそろそろ狂信者からさらにもう一段階くらいレベルアップするんじゃないかと最近思っている。なんだろう、聖信者とかかな。聖って自分で名乗った瞬間に狂っていう言葉が持つ狂気を軽々と飛び越えるから言葉って面白い。

 ところで、最近その人が最も影響を受けたという本を読むことの面白さを実感している。
その人がなぜそういう人間性で、なぜそういう志向を持っているのかというのは、その人が何から影響を強く受けているかを知ることである程度を知ることができる。別にすべての人が本からものすごい強い影響を受けているわけではない。だけどそれを差し引いても、本が人にもたらす影響は強い。確率的に、その人が血肉に感じているようなものを尋ねるとき、本をその対象に挙げる人は割合多いというのが経験則だ。

 舞城は僕にとってまさにそのような本。
つまり、僕がもっとも影響を受けていて、これを読まれることで自分の手札の少なくとも一部が相手にわかってしまうような本。人生、どこでそういう本にぶつかるかは人それぞれであると思うけど、僕にとってはそれは高校生の時であり、そして多感とされるこのくらいの時期にそういう本に出会う人は少なくないだろう。楽しむということ以上の意味をそこに見出すことができた人は、なにはともあれ、非常に幸せなことだと思う。

対話351 立花 隆 『青春漂流』

2011.08.05.14:23



読書時間:50分
個人的読みやすさ:B


「(略)若いときは、大きな決断も、意外にあっさり下せるものなんですよ」(pp.31)

学校の先生になるのと、サルの先生になるのと、どちらがよいか考えてみい。学校の先生はなんぼでもおるが、猿の先生はおらん。おらんから第一人者じゃ、なんてこともいったですね。(pp.67)

「(略)全部生き餌じゃなきゃなりませんから、まず見つけるのに苦労します。比較的安易に手に入る生き餌は不要になったペットの犬や猫なんです。これを鷹にやる前に、金槌で頭をブチ割るんです。沓沢さんとこでは昔からそれをやってるもんで、それ専用の大きな岩が庭先に置いてあって、犬猫の血がしみつき、いつも犬猫の頭を置く場所が金槌で何度も叩かれて凹んでいるくらいです。そりゃ気色が悪い作業ですよ。頭をガンとやると、目玉がビュッと飛び出すんです。もともと動物が好きですから、これは何ともつらい仕事でしたね。」(pp.169)

「そのときウサギがギャーッ、ギャーッと悲鳴を上げたんですね。ウサギというのは、普段は全く音をたてることがないんですが、死ぬときだけ、すさまじい断末魔の悲鳴をあげるんです、それで、それを聞いたとたん、ああついに、オレのカブ号が獲物をとったんだと思って、もう立っていられないくらいの感動に襲われました」(pp.169-170)


 鷹狩に関する話は全体的に文章的ブラクラ感が高くて焦ったが(こんなところに貼ってごめんね)、全体的に自分が普段ほぼ100パーセント接することのないような職業の人たち、しかも自分で道を切り開いた(開かざるを得なかった)人たちへのインタビュー集なので得られるものは多かった。

 こういう本を読むと、自分自身がこれから先どういう人生を歩んでいくべきか?ということに一つの疑問を投げかけざるを得ない。僕は今のところ教授になりたいと思っていて、それはそれでかなりリスキーな人生ではあるんだけど、しかしそれでも社会的地位があって、色々と保障されている世界だ(職さえ得れば)。それを目指すことに特にそこまでの疑問は本書を読んでみたところでないけれども、しかしそれ以外の可能性は果たしてないといえば多分それは嘘になる。教授を目指すことは良いこととして、しかしセカンドオプションの可能性を閉ざして生きることは良いことではないはずなのだ。

 自分がなぜ教授になりたいか、というのを社会的保障とかそういうのを外して考えてみればある程度の要素に切り分けることができて、それをでは他の方法ではできないのかと言われればおそらく別の方法でもなんらかの形でできることではあると思う。教授になったらなったで失うものも多いだろう。まだまだ僕が正式な職を得るまで、幸運なことにいくらかばかりの時間が残されているので、その間にどういう道に進んでいくのかをはっきりさせるように行動していきたいなと思う。
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