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対話391 藤井 直敬 『ソーシャルブレインズ入門――って何だろう』

2011.09.28.00:07



読書時間:1時間10分
個人的読みやすさ:B


 ただ、これまでの僕たちの研究で、何となく分かってきたのは、ネットワーク要素間の関係というものは、脳内ネットワーク内の要素である各脳領野間に観察される、ある瞬間の関係構造そのものを指すというよりも、むしろ、その構造が時間の経過に合わせて変化するところに意味があるのではないかということです。
 なぜなら、関係構造が変わるということは、行動のルールが変わるということだからです。当然ながらルールの変更はわたしたちの行動に大きく影響を及ぼします。そのような関係構造の変化に対応して行動を選択する適応行動のしくみを知ることが、ソーシャルブレインズ研究ですから、おそらくこの方向性は間違っていないと思います。
(p.186)


 最近「集団のダイナミクス」が熱いと常々感じていたが、脳内の研究においてもそれは同様のようだ。筆者はここにはこのような機能があるというような従来のモジュール仮説的な立場には完全には立たず、すなわちそれは従来のような研究のやり方ではそれを計ることはできないということを必然的に意味してくる。「ではその常に変動する関係構造の変化をどう捉えていくか?」という大きな難問に対し筆者が脳機能学者の立場からECoG電極という具体的な一つの解を示しているのも好感が持てるし(この手のことを叫んでいる人は従来のやりかたを批判するだけで具体的な解決策を明示できないというケースが多々ある)、こういう流れこそがこれからの研究の中で主流とまでは言わずとも一つの大きな流れのうちの一つになってくるのかなと思わされる。

 僕自身、コミュニティ心理学で扱われるような(ところでコミュニティ心理学の動きはどちらかというと鎮静化、というかやや縮小化に向かっているような雰囲気を感じるのだけど実際のところはどうなのだろう?)動的な場における個人間の相互作用には非常に興味を持っている。今のところそのアプローチの方法についての知識が僕個人には乏しいというのが実情ではあるが、将来そちらの方面にも研究でタッチできたらいいなと願う。

 また、認知知覚機能の時間的前後関係を揺さぶるような事例も、いくつか心理物理実験で示されています。たとえば、右手、左手、の順番に誰かに触られたとして、普通、その順番を間違えることはありませんよね。ところが、自分の腕を交差させて、そのときに同じようなことをされると、触られた順番を逆に感じることがあると、順天堂大学の北澤茂氏が報告しています。
(p.23-24)

 そこで重要な考え方が、モジュール仮説という考えです。これは、ブロードマンによって定義された脳領野を一つの機能単位、つまり一つの機能モジュールとしてとらえ、そのモジュールの持つ働きを個別に理解するアイディアです。
(p.29)

 一つ断っておきますが、社会的ゾンビは、ある種の社会的機能障害を持つ特定の疾患患者さんを指しているわけではありません。たとえば自閉症やアスペルガー症候群とされる人たちは、発達機能障害を持っていますが、そのあらわれ方も人によってさまざまで、社会的ゾンビのように「空気」だけが読めずに、それ以外はまったく健常というのとは異なります。
(p.46)

 いずれにしても、わたしたちはじつは、自分たちで考えている以上に行動の選択しは少ない環境に生きているということを覚えていてください。そして、そのことには、おそらく意味があるのです。
(p.51)

 創造性については、多くの人々が議論しています。しかし、その他のあらゆる脳機能と同じく、創造性についても社会的なコミュニケーションの重要性が強調されることはあまりありません。
(p.54)

 とするならば、もしかしたら顔の認知機能は、さらに細分化され、目と顔の二つに分かれているのかもしれません。じつは、それは本当のようです。実際に人の目の動きだけが分からないという患者さんが存在するのです。この患者さんは、脳の側頭葉の一部が脳梗塞などで選択的に破壊され、それ以降、他人の目の動きが分からなくなってしまったのです。
(p.66)

 そのような状態を「病識がない」と言いますが、高次脳機能障害ではこの病識のなさが特徴と言っても」いいかもしれません。
(p.70)

つまり、扁桃体損傷患者の恐怖認知異常は、これまで言われてきたような単純な恐怖表現が理解できないという認知機能の異常ではなく、むしろ他者の目に対する注意の欠如のような理由で説明できるかもしれません。なぜなら、扁桃体損傷患者に、明示的に相手の目を見て恐怖表現の有無を判断してもらうようにお願いしたところ、その判断成績は大きく向上し、健常者の成績と変わらなくなったからです。
(p.78)

 いずれにせよ、リゾラッティらのミラーニューロンに関する定性的な記述は、同業の科学者たちからの突込みどころが満載の結果でした。
(p.87)

 誤解されがちなので、繰り返しますが、僕はサルで見つかったミラーニューロンの存在を疑っているわけではありませんから、まずそこはご理解ください。
(p.94)

 これまで繰り返してきた通り、僕はモジュール仮説という、脳の特定の部位に特定の機能を当てはめる考えに懐疑的です。むしろ、高次機能のほとんどが、複数の脳領域がつながるネットワークの中で、柔軟かつ動的に実現されているという考え方をとっています。
(p.95)

それでは、そのような自他境界が曖昧な脳が、自己と他者を区別するために利用しているもっとも重要な要素は何でしょうか。それは、身体感覚と視覚刺激のタイミングがマッチしているかどうかという同期情報です。
(p.102)

 ちなみに、ヒトとチンパンジーの脳の重さは、ヒトが4倍近いのですが、脳への血液量は2倍にしかなっていません。ヒトの脳内エネルギー環境はチンパンジーのそれとくらべてはるかに厳しいのです。
(p.129)

 この実験の中止に際して看守役から、実験を継続するようにとの強い抗議があったことは、看守役が陥っていた心境がきわめて異常な状態であったことを示しています。
(p.154)

 ECoG電極で記録される信号は皮質脳波と呼ばれています。これは、単一神経細胞活動を記録してきた電気生理学者にはあまり評判のよくない方法です。なぜなら、神経細胞活動こそ脳機能の基本であると考える人たちからみると、局所電位はその信号の源が明らかでないので、気持ちが悪いのです。
(p.175)

 それではここでもう一度、ECoG電極の特徴を」まとめてみましょう。
1 長期間安定して神経活動が記録できる
2 脳に電極をささないので、比較的脳へのダメージが少ない
3 脳の広範囲から同時に記録できる
4 非常にたくさんの情報が記録信号に含まれている
5 ヒトにも使われている技術である
(p.178)

(前略)ECoGを使うことで信号の安定性を確保したということは、もうコーヒーメーカーは消えないということを意味します。
(p.181)

 ただ、これまでの僕たちの研究で、何となく分かってきたのは、ネットワーク要素間の関係というものは、脳内ネットワーク内の要素である各脳領野間に観察される、ある瞬間の関係構造そのものを指すというよりも、むしろ、その構造が時間の経過に合わせて変化するところに意味があるのではないかということです。
 なぜなら、関係構造が変わるということは、行動のルールが変わるということだからです。当然ながらルールの変更はわたしたちの行動に大きく影響を及ぼします。そのような関係構造の変化に対応して行動を選択する適応行動のしくみを知ることが、ソーシャルブレインズ研究ですから、おそらくこの方向性は間違っていないと思います。
(p.186)

 そんな様子を見るにつけ、僕は人の喜びや幸せは、個人の中にあるのではなく、むしろ他者との関係性の中にあるのではないかと思うのです。
(p.198)

もし、胎児としてお母さんの体内にいるときに受けていた無条件の存在肯定を生存の前提条件として常に期待しているのなら、乳児期以降の他者とのコミュニケーションにおいてもその欲求が引き継がれていくことは、十分に考えられます。
(p.206)

もし、そんなリスクを持った他者が、みなさんにリスペクトを示してくれたとしたらどうでしょうか。おそらく、二人の間に存在する社会的な緊張感は低下し、その人に対して割かなければならない認知コストは大きく減るのではないかと思います。これは、脳にとっては望ましい状況です。
(p.210)

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対話390 内田 樹 『寝ながら学べる構造主義』

2011.09.27.23:54



読書時間:1時間20分
個人的読みやすさ:B


「エスニック・アイデンティティ」というものを私たちはあたかも「宿命的刻印」のようなものとして重々しく語ります。しかし、多くの場合、それは選択(というより、組織的な「排除」)の結果に過ぎません。ある祖先ただ一人が選ばれ、、それ以外のすべての祖先を忘れ去り、消滅させたときにのみ、父祖から私へ「一直線」に継承された「エスニック・アイデンティティ」の幻想が成り立つのです。
(p.84)


 自分という人間を組み立てるとき、それは非常に部分的であり選択的であるなあということは常々思ってきた。それは個人がそれを意図して行なっているときもあるし、意図して行なっていないときもある。逆に、権力構造や慣習にしたがってそれが組み込まれていることもある。ともあれ、それが抽出的であるということに特に異論はないだろう。引用されているようなエスニック性のような、もはや当然に扱われて見た目にも表れるようなものですらそうなのだ。というより、見た目はそれを構成するための一要素――それはまた非常に大きい要素ではあるが――に過ぎないのだから。

 その幻想について、別に僕は悪いとは微塵も思わない。そもそも僕は根本思想において、人間における幻想というのは最大限許容されるべきであると思っているし、人の幻想をいたずらに破壊していこうとすることは非生産的なことだとすら思っている。が、ニーチェやフーコーに流れる系譜学的思想、すなわちそこにどのような幻想が組み込まれているかを理解した上で読み解くというスキルは同時に、幻想を扱う人間存在だからこそ習得するべきスキルなのだなということも同時に非常に強く感じている。人間を学問するということは幻想といかに向き合うかということであり、そのかかった霧の色を脱色していくという過程なのだろう。

 入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。
(p.11)

「私たちはつねにつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらした、もっとも重要な「切り口」だからなのです。
(p.19)

 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
(p.25)

 ヘーゲルもマルクスも、この自己自身からの乖離=鳥瞰的視座へのテイク・オフは、単なる観想(一人アームチェアに坐って沈思黙考すること)ではなく、生産=労働に身を投じることによって、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成されると考えました。
(p.31)

 私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に目を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。
(p.39)

 ニーチェはもともと古典文献学者としてスタートした研究者です。古典文献学という学問はその研究者に特殊な心構えを要求します。それは、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」ないといけない、ということです。
(p.42)

 ここに倒錯的な畜群道徳が誕生します。
なぜ「倒錯的」かと言いますと、畜群においては、ある行為が道徳的であるか否かについての判断は、その行為に内在する価値によってでも、その行為が当人にもたらす利益によってでもなく、単に「他の人と同じかどうか」を基準に決されるからです。
(p.52-53)

 ご覧の通り、ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていません。
 どうやあそれは具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出そうとする意志のことのように思われます。
(p.55)

 何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。この点に関しては、ニーチェに全面的に賛成です。
(p.58)

 言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲上の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。
(p.67)

 英語にはもちろん「肩」ということばがあり、「凝る」ということばもあります。しかし英語話者は「私はこわばった肩を持つ」という言い方をしません、。日本人が「肩を凝る」のとだいたい同じ身体的な痛みを彼らは「背中が痛む」 I have a pain on the back. と言うのです。
(p.69)

 私が確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず間違いありません。
(p.73)

 フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点――出来事の零度――にまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カッコに入れて」
、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。
(p.86)

 私たちの常識とは逆のことをフーコーはここで書いています。狂人は「別世界」からの「客人」であるときには共同体に歓待され、「この世界の市民」に数えいれられると同時に、共同体から排除されたのです。つまり、狂人の排除は「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「なんであるかが分かった」からなのです。
(p.90-91)

 それから二百年後のアメリカでは、「場所塞ぎ」であることは社会的威信どころか自己管理能力の欠如の記号とされています。現代のアメリカ紳士は必死になってダイエットに励み、シックな服装をし、控え目なコロンをつけて、できるだけ「目立たず」「場所塞ぎにならない」ことをめざしています。それはごく単純には、住民一人当たりの国土面積が開拓時代とは比較にならないくらい狭隘になったせいです。
(p.95)

 政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。
(p.103)

 ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。
(p.104)

 現に、フーコーの著作はいまでは全世界の社会科学・人文科学の研究者の必読文献であり、それを「勉強する」ことはほとんど制度的な義務となっています。(中略)これこそ「権力=知」の生み出す「標準化の圧力」でなくて何でしょう。この逆説をフーコー自身はおそらく痛切に予知していたはずです。
(p.111)

 エクリチュールとスティルは違います。スティルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です。
(p.120)

 例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志とかかわりなしに突然「現状公的的でありながら愚痴っぽい」ことばを吐き出し始めます。(中略)そして、そのことばづかいは、その人の生き方全体をひそかに統御しているのです。
(p.122)

 サルトルの「参加する主体」は、与えられた情況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことです。
(p.143)

 日本語の「鼻濁音」もそうですね。『夜霧よ今夜もありがとう』で石原裕次郎はきれいな鼻濁音で「ぎ」の音を発声していますが、カラオケで歌っている若い人たちのほとんどはこの音を出すことができません。
(p.152)

 さて、レヴィ=ストロースの大胆なところは、二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の「異なった状態」を表現することができるというこの音韻論(とコンピュータの両方に通じる)発想法を人間社会のすべての制度に当てはめてみることができないのか、と考えたところにあります。レヴィ=ストロースが集中的な検討を加え、みごとな成功を収めたのは、親族制度の分析です。
(p.154)

 世界中のすべての言語音が2ビットで表現できるように、世界中どこでも親族の基本構造は2ビットで表現できる、これがレヴィ=ストロースの仮説です。
(p.156)

 さて、この「原初的不調和」に苦しむ幼児が、ある日、鏡を未定空地に、そこに映りこんでいる像が「私」であることを直感するという転機が訪れます。(中略)視覚的なイメージとしての「私」に子どもがはじめて遭遇する経験、それが鏡像段階です。
(p.170-171)

 あらゆる「自分についての物語」がそうであるように、被分析者の語りは、断片的な真実を含んではいますが、本質的には「作り話」に他なりません。
(p.174)

 意外に思われるかも知れませんが、精神分析的対話は、被分析者が「ほんとうに体験したこと」や「ほんとうに考えていること」を探り当てるためになされているのではありません。(中略)被分析者が語っているのは「空語」です。全力を尽くして、被分析者は自分について語っているつもりで、むなしく「誰かについて」語っているのです。「その誰かは、被分析者が、それこそ自分だと思い込んでしまうほど、彼自身に似ている」だけなのです。
 しかしそれでよいのです。どれほど「漸近線」な接近に過ぎなかろうとも、「自我」について語ることによって、被分析者と分析家のあいだで創作され、承認された「物語」の中での「私」という登場人物はどんどんリアリティを増してゆくからです。
(p.179)

 フロイトのヒステリー患者たちが語った過去の性的トラウマのいくぶんかは偽りの記憶でした。しかし、「偽りの記憶」を思い出すことで症状が消滅すれば、分析は成功なのです。
(p.181)

 分析家と被分析者のやりとりは、(一つ一つの音符の集積がやがて主題をもった旋律をなしてゆくように)、一つの物語世界を構築してゆきます。
(p.183)

 私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は、「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。
(p.184-185)

アナログな世界にデジタルな切れ目を切れること、それは言語学的に言えば「記号による世界の分節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」です。
(p.188)

 彼らの仕事は、この世には理解も共感も絶した「鬼」がいて、世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習することです。それを学び知ったときはじめて、「子ども」はエディプスを通過して「大人」になるからです。
(p.191)

 ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。
(p.195)

そして「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往復運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。
(p.197-198)

対話389 小室 淑恵 『今や多数派“ワケあり社員”が戦力化するすごい仕組み 』

2011.09.27.23:33



読書時間:10分
個人的読みやすさ:A


 メンタル不調を引き起こす大きな要因は「職場の人間関係」にではなく、「能力不足・パフォーマンスの低下」にあった――。
(p.26)


 これは興味深いデータ。実際、能力が高い人は多少の対人関係的な問題をなんとかするオーラがあるというか役割的に許されるということがあるということは経験的には理解できることである。能力がないことの一番の問題は対人関係的なところに価値を見出すしかそこに行く価値がなくなることであり、つまりそれに対して依存するということであり、複数の対人関係という複雑系の極地みたいなものは依存するには非常に不安定なものであるからにして、それが不幸な結末をたどることになるというのは非常に想像にたやすいであろう。

 僕はあまりその方面は(も)明るくないが、昨今、いろいろなワークスタイルが提案されて実際に実行されているらしく、その人材を活かすという点において、どのようなソリューションが見つかるのかにはいつもアンテナを張っていたいと思う。この間知人から聞いた「一人で全ての作業を行なう」企業とかはワークスタイルとしてはなかなか面白いなあと思ったそういえば。

これまで日本は、仕事を細分化し属人化してこそ生産性の上昇につながるという発想できていましたが(原文ママ)、これは「欠員がでない」ことが前提です。実際には休む社員がいますし、引き継ぎに時間を要し、慣れない仕事を振られた人ほどミスを犯しやすくなります。
(p.12)

それは、労働生産性を向上させるカギは、社員のモチベーションや情報量・知識・ネットワーク等にあると考えるからです。
(p.30)

 ですから、現在の管理職世代が、後進たちを「家庭背景は自分たちと変わらないはずだ」という思い込みからマネジメントしているとしたら、非常に危険なのです。
(p.53)

"3歳児神話"に根拠がないことは、とっくに知られているのですが。
(p.56)

【H7-2】夫が家事・育児に関心の高い夫婦ほど子どもを望む率が高い
子どもがいない夫婦 夫が家事をしている→子どもがほしい 65.8%
          夫が家事をしていない→子どもがほしい 14.8%

 社内に集中ルームを設置したり、私語を禁止する時間帯を設けるなど、定時以降に仕事を持ちこさない工夫をしている企業も話題になっています。
(p.102)

 たとえば、「今はスキルを身につけることが、自分にとってベストな状態である。だからワーク9でライフ1がいい」という社員もいるでしょう。人生には様々なステージがあり、誰にでも、シフトチェンジの必要に迫られる時期が訪れます。その時々の社員の多様なワークスタイルを受け入れられる環境づくりを醸成していく、。それが、ダイバーシティを推進する目的ではないかと思います。
(p.152)

対話388 中村 雄二郎 『術語集―気になることば』

2011.09.27.23:22



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


 哲学は従来考えられてきたような普遍的な知ではなく、ギリシア―ヨーロッパに生まれ、展開された、一つのきわめて特殊な知の形態にすぎないのではないか。しかもさらに、虚妄な前提の上に成り立っているのではないか、と。このような問い直しは、いずれも現代の知の最前線にある三人の人たち(M・フーコー、G・ドゥルーズ、J・デリダ)によってなされたのである。
(p.196-197)


 哲学についてあーだーこーだ言うのは絡んでくる人が率直に言ってめんどくさい人が多いという偏見を僕の中で非常に積極的に構築しているためにあまり好きではない。好きではないのだが、しかしこの一文は僕の中でそれまで「なぜ(現象学以前の)哲学というものはここまで偏屈になれるのだろうかというかなんでこんなに偉そうなのだろうか、というかなんでこんなに宗教的情熱をむき出しにしているのだろうか」というもはや感情レベルでの反応が渦巻いていたかについての一つの回答を出してくれている。まさしく、僕が<哲学>という言葉一般から導き出している違和感は「これは一つのきわめて特殊な知の形態なのではないか」ということに尽きるのだ。特に西洋世界をベースにした。

 現象学はアンチ哲学と呼ばれるようなポジションで、特にこの辺は東洋思想に理解が深い人が多いので別ものとして区別されるべきであるというのは最近わかってきたことであるが、そうではない。特に東洋思想らへんにあまり興味がなさそうな哲学者に対する僕の猜疑心の半端なさが異常なのはこの辺の違和感から来ているのだなということがわかっただけでも一つの大きな発見だった。上に述べられている名前だけは有名な三人の思想家(哲学者?)の著作はまだまだ全然読んではいないのだが、それを指摘しているだけでも精神的にはずいぶん仲良くなれそうだなと勝手に思ったため、ここら辺も時間の合間を縫い縫いしながら読み進めていきたいと思う。

またニーチェが、あえてソクラテスを極端な理論的人間として捉え、その知のあり方を否定して、みずからの<歓ばしき知>を提出したのは、知の領域においても人間の根源的な生と自由とを体現する遊びと演劇をとりもどそうとしたからであった。
(p.9)

そして、いまや私たちは、狂気や異常を自分の外側の人々にではなく、自分たち自身の内側に見つめるべきだろう。というのは、狂気とはほかならぬ人間の根源的自然として誰のうちにもあるものであり、異常とは日常的な規範あるいは秩序を破って現われる根元的自然の怪異な姿だからである。
(p.25)

 この例の選び方は少々お座なりのきらいがあるけれど、エロスの全体的で豊かな他形性の喪失が単に性器的なものへの性の局所化をもたらすという指摘は、現在エロスの問題を考える場合の重要なポイントをよく突いている。
(p.28)

 そこで仮面は、素顔の目を蔽い顔をかくすことによって、私たち人間を意識から解放しつつ、身体の他の部分の自由な表現を助ける。
(p.37)

≪素顔は真実に、仮面は<偽り>ないし<絵空事>により近い、と考えるのは、特定の文化的限定を受けた、一つの特殊な偏見以外のものではない。≫(坂部恵『仮面の解釈学』)
(p.40)

というより、≪消費される物になるためには、物は記号にならなくてはならない。≫(ボードリヤール, J 『物の体系』)
(p.45)

はじめにその〈劇場国家〉論の要点を述べておけば、西欧の国家や社会がもっぱら現実的=政治的な支配や権力から捉えられることが多かったのに対して、ギアーツが儀礼的=象徴的な側面を重視して、まったく別なモデルを提出していることである。
(p.57)

 かつて弁証法が科学的と考えられたのも、喩えるものと喩えられるものとがおなじ実在のレヴェルである換喩的な性格によるところが大きかったはずである。換喩的表現のリアリズムが科学的だと思われがちなように。そして、特徴的な部分によってイメージ的全体化を行う換喩法の有効性と弱点は、そのまま弁証法の有効性と弱点になっている。つまり、換喩法も弁証法もいわば目にみえる現実世界の事物を介してのイメージ的全体化の方法である。
(p.69)

 この構造論的方法を私たちは、弁証法との対比で次のように捉えることができる。すなわち、弁証法が主として現実界にかかわる、結合軸(統合関係、隣接関係)に沿ってのイメージ的主体化の方法であり、換喩的な言語の論理であるとすれば、それに対して構造論のほうは、主として象徴界(シンボルの次元)にかかわる、選択軸(連合関係、範列関係)に沿ってのイメージ分節化の方法であり、隠喩的な言語の論理である、と。
(p.70)

惰性化されたまなざしのもとでは、未開人よりも狂人、狂人よりも子供といった具合に、身近なもののほうがはるかに捉えがたいのである。
(p.77)

 かつての日本で子供が神に近いと見なされていたということは、子供がただ純真だとか無垢だとかいうのではなしに――荒ぶる神でもあるものとして――同時に荒々しく残酷であること、つまり根元的自然をも体現していることを意味している。
(p.79)

 たしかに現象学的に見ると、現在それらの点で好んで差異が強調されているように見える。けれども一歩立ち入って考えてみると、そのような差異というのは価値の豊かな多様化をもたらす本来の意味での差異ではなくて、価値の貧しい単一化にもとづく、そのなかでも差異にすぎないことがわかる、。いいかえれば、それは差異ではなくて同一性にもとづいたものなのである。
(p.90)

 このようなわけで、元型としての〈グレート・マザー〉をとおして、包み込むという母性原理が示される。そこにあるのは、すべてのものに対する絶対的な平等性である。これに対して、父性原理の特性を示すものはなにかといえば、それは断ち切ること、分割することであろう。
(p.95)

 また、神話は単に迷信的なものでも、克服すべき遅れた知でもない。それは科学の知にも似た認知的な性格をもちながら、同時に表現的でもある。神話の知はすぐれて体系的であるとともにイメージ的なのだ。
(p.104)

 というのも、ターナーのいうコミュニタス(communitas)とは、制度化された日常のコミュニティから自由、かつそれに対立する、非日常的で感性的な共同体のことであり、さらにその典型的なものとして、通過儀礼、<千年王国>運動、僧院、カウンター・カルチャーなどが考えられているからである(『象徴と社会』1974年)。
(p.130)

≪いわば、アルレッキーノは、人間と人間を超えたもの、日常と非日常、此岸と彼岸の中間に、すなわちすべてのものがたえず生成する地点に立っている境界石柱であり、その神話性においてヘルメスと対応する充分の性格を備えていたのである。≫(山口昌男『道化の民俗学』1975)
(p.133)

 また、私はパトス的行動をパフォーマンスとして捉えることによって、科学の知に代わる新しい選択肢として〈演劇的知〉というものを提出することができた(拙書『言葉・人間・ドラマ』1981年)。これは、コスモロジー、シンボリズムおよびパフォーマンスを主要な構成原理とするもので、普遍主義、分析性、客観主義からなる近代科学の機械論モデルに対する演劇モデルにもとづいた知である。そしてこの演劇的知は、〈パトスの知〉とも〈臨床の知〉とも言いかえられるのである。
(p.155)

もともとパラダイムというのはクーンの現実の科学研究上の経験からいろいろな意味をこめて提出された術語であってみれば、半ば日常用語のもつあいまいさ=多義性をもっているのは当然である。したがって、それを強いて一義化することは近代科学の知に囚われた考え方だと言うべきだろう。
(p.160)

木村敏氏(『自己・あいだ・時間』1981年)が明らかにしたように、メランコリー(うつ病)者においては、とりかえしのつかないことが苦にされて、その体験はもはや手遅れで回復不可能な<あとの祭り>つまり〈ポスト・フェストゥム〉という時間形態を取る。それに対して、分裂病者においては、運命への予感に敏感なため、その体験は未来の先どりをあせる先走りによって代表される〈前夜祭〉的な、つまり〈アンテ・フェストゥム〉の時間形態をとる、ということができる。
(p.168)

 そこに見られるのは、狩猟民的な認知特性、世界へのやさしい無関心であり、所有もなければ貯蔵されることもない。しかしながら、次に農耕社会に入ると、人類はものを計量し、測定し、配分し、貯蔵するようになる。そしてそこに見られる人間像は〈強迫症親和者〉である。というのはこの場合、完璧さへの追及が強められるからである。
(p.169)

 その理由として考えられるのは、なによりも、近代医学が中川米造氏(「二十一世紀の医療を担うために――医者の五つの顔」1983年)の言う、科学者の医学、技術者の医学になったことであろう。中川氏は述べている。これまでの医者んは四つの顔があった。魔法医、学者(知識の伝承者)、科学者、技術者の四つがそれである。これらのうち魔法医というのはアフリカやインドの文字通りの魔法医のことだけでなく、患者に対して権威的かつ神秘的に演ずる医者一般の一面をも指している。
(p.182)

けれども、I・イリイチ(『脱病院化社会』1976年)も言うように、近代医学は、痛みを技術の問題に変えてしまい、その際、受苦からその固有の人間的意味を奪ったのである。
(p.185)

 このように〈科学の知〉が操作の知であることに対して、〈パトスの知〉は環境や世界がわれわれに示すものをいわば読みとり、意味づける方向で成り立っている。
(p.188)

 けれども私としては、同じくレトリックを再評価するに際して、もう少しちがったところに重点を置きたい。それは、簡単にいうならば、論理主義的な狭い意味での〈哲学の知〉に対して、感性、イメージ、想像力などを大きくとり入れた〈レトリックの知〉の存在をはっきり認めることである。
(p.194)

 さて、ここで注目されるのは、フーコー、ドゥルーズ、デリダという三者による、哲学の知の批判が、いずれもプラトン主義のイデア説を、その源流とし見なしていることである。また、概念的真理のかわりに、出来事としての言説(フーコー)、差異を含む模像(ドゥルーズ)、文字言語の戯れ(デリダ)という言語的なものが重視されていることである。
(p.199)

対話387 中島 義道 『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』

2011.09.27.23:05



読書時間:50分
個人的読みやすさ:A


みな、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、〈対話〉を拒否する社会をつくりたいのである。それも「思いやり」や「優しさ」という美名のもとに。
(p.144)


 自分の思想と合わない人の本を読むのは凄い面白い体験だなと中島義道を読むと強く感じさせる。確か僕が最初に中島義道の著作を読んだのは大学2年の頃で、あの頃は今ほど彼の言う意見が自分の思想と異なっているとは感じなかった(性格に問題があるおっさんだなとは思ったが)。あれから一応3年近くたち、僕も自分の立場を明確にしつつあるということなのだろう。

 僕は人間の抱く共通幻想とかを積極的に維持したい(必要に応じては壊す必要があるが無理して壊す必要はない)とかなり強く考えているため、基本的に彼の思想は合わないというかそもそも意識したことすらなかったので、読んでいて「そんな変な人もいるのか」という衝撃を受けた。より正確にいうと、最近中島義道を愛している後輩と一度口論じみた会話になったのだが、この本を読んで彼の言わんとしていることがわかってきて、それで「あんな変な人はこういう本に同調するのか」という衝撃を受けた。

 非常に異なる思想、しかも普段意識していないところからのボディーブローみたいなものなので、とりあえず衝撃を受けたのには間違いがない。しかしやや冷静になって考えてみると、「こんなのコミュ障が自分が世界に合っていないからって駄々こねているだけなのではないか」とかいうまったくつまらない大人じみた感想が頭から沸いてくるというのも事実である。それだけ、僕がいわゆるマジョリティ側の思想に積極的に加担していることの証左でもあるのだが。

 ともあれ、『うみねこのなく頃に』でベアトリーチェの思想に共感してしまったような僕のような人間にとっては、戦人からの青き真実の一撃を受けるに等しい衝撃を受けるのは間違いがないので一度くらいは読んでみてもばちはあたらないと思う。読んでよかった。

 日本の若者たちは、全員に向かって言われるコゴトには不感症になっている。だが、自分個人に向けて言われたことは骨身に染みる。
(p.18)

 したがって、――容易に想像できるように――おおざっぱに言って、学生たちは学力(偏差値?)が低くなるほど言葉への信頼を失っている。
(p.33)

「美化」のためにデカデカと板を立て、膨大な垂れ幕を掛けることが私にはどうしてもわからないのだ。
(p.58)

 日本にいる外国人は『しゃべる機械』として利用されていると思うことがしばしばです。外国人の持っている個性や考えは無視されてします。
(p.68)

ヨーロッパ人は大変に「おせっかい」だ。それも、こちらの気持ちや事情を考慮してというより、自分の価値観を一方的に押しつけようとすることが非常に強い。
(p.84)

 井上の指摘を待つまでもなく、この国の人々は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて執念深く互いの差異を確認しながら展開していく〈対話〉をひどく嫌い、表出された言葉の内実より言葉を投げ合う全体の雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解し合う「会話」を大層好むのである。
(p.105)

 言葉の表面的意味、仕草の表面的意味ではない、もっと「深い」ものを求めるという大義名分のもとに、人々はそこに表出された言葉や身振りを軽視するのだ。何かを語ると「そうは言っても、じつは……」という台詞が飽きるほどわれわれの周りうごめいている。
(p.114)

すなわち、真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと、これこそ「対話」なのだ。
(p.122)

<対話>は各個人が抱く意見の「小さな差異」を確認しながらゆっくりと忍耐強く進む。
(p.129)

これほどまでに「優しさ」が叫ばれている空気の中で、弱い人間は「優しさ」によって殺されていく。
(p.161)

〈対話〉は対立から生まれる。したがって、対立を圧殺することは〈対話〉を圧殺することである。
(p.166)

 この国のあらゆる会合では、だれからも不平不満が出ないこと、というよりだれにも不平不満を言わせない状態にもってゆくことが最高の目標とされている。
(p.172)

 私にはヘドが出そうなほどいやなセリフがある。それは「ただ頭を下げるだけでなんでもないことじゃないか。一度ごめんなさいと言えば済むことじゃないか」とじゅんじゅんと教え諭すグレツな奴らのコトバである。
(p.179)

 言いかえれば、だれも彼もが自分はじつは「和風個人主義」を望んでいるのに、「洋風個人主義」を望んでいる振りをする。自分はじつは日本的風土に合った「会話」を望んでいるのに、〈対話〉を望んでいる振りをするのだ。
(p.197)

だが、私はここで西洋的対話と日本的対話のどちらが優れているか、という比較判定をしようとしているのではない。ただ、われわれ日本人の肌身に浸透している言語行為には数々の美徳もあるが、人々を沈黙させ(「お上」から、多数派から)与えられた状況を需要させる機能を備えている、と言いたいだけなのだ。そして、言葉の「裏」を詮索する日本的態度をもう少し減じて言葉の「表」の意味を尊重する欧米的態度をもう少し増やしてはどうか、と提案しているだけなのである。
(p.201)

 何度でも言うが、私は祖国を現在の欧米の一国のように変革したいわけでは毛頭ない(絶対ならないから安心なのであるが。)私は、言葉を、〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自立しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。
(p.203)

対話386 トム・ピーターズ 『トム・ピーターズのサラリーマン大逆襲作戦〈1〉ブランド人になれ!』

2011.09.27.22:51



読書時間:40分
個人的読みやすさ:A


 大人になろう!政治から超然としているふり、権力には興味がないふりをするのはやめよう。偉業を成し遂げた人で、政治から超然としている人、ぼんやりしていて権力の満ち潮、引き潮に気づかなかった人はひとりもいない。
(p.231)


 政治に興味がないといい続けて早10数年、いや正確にいうと政治に興味がないというより政治学に興味がなくて大学でも一度もとらずにすでに4年が経過したというほうが正確なのだが、なるほど、こう自分の問題に適応させると、政治とやらはもっと探求したほうがいいなという気分にさせてくれる。これは今まで人文系か生命科学系ばっかり取ってきた僕にはなかった視点だ。実際、大学教授になるにせよそこには政治的な問題が大きく絡んでくるのはほぼ間違いなく、というか大学教授にならなくても大体組織に関係していればそこには権力が存在するものなのである。先日友人からH大学の医学部における権力闘争の激しさの生トークを聞いて衝撃を受けたが、あそこまでいかずとも、あらゆる組織には政治的な満ち引きは存在しているはずで、それすら知らずに海に両足を突っ込むのは非常にリスキーだというのはおそらくその通りなのだろう。

 また、筆者はこのようにも言っている。

 これまでは、夢見ることを話してきた。これから話すことは、たっぷりと汗をかかなくちゃいけないことだ。すなわち、実行である。
 別名、政治ともいう。政治は「ものごとを実現する技術」とか「可能性の模索術」とか言われる。考えてみれば、まさに人生そのものではないか。
(p.97)


 政治という言葉は(少なくとも筆者にとって)、すなわち現実主義的な観点を持って、行動を行なうということを指している。特に僕は理想を語りすぎて現実が前に進まないきらいがあるので、抜けている視点はそういうところにあるのだろうという風に思う。もう長かった大学生活もそろそろ終わりを告げる頃になってしまったが(早いものである)、最終学期くらいはまず政治学というものに触れ、そして自分にとっての政治がなんなのか考える礎にしたい。

 自分で自分を時代遅れにしなければ、誰かにそうされるだけだ。
(p.33)

 言葉遊びをはじめよう。どういうことが自分らしくて、どういうことが自分らしくないか。
(p.39)

 なあ、自分をブランドにする旅は、冒険なんだから、多いに顰蹙を買おう。轟々たる非難を浴びよう。
(p.91)

 本日の予定表をもう一度じっくりながめてみよう。その中に、すごくないものがあれば、選択肢は次の二つしかない。(1)それをすごいものに変える。(2)予定を白紙に戻す。
(p.107)

 同志を求めてさすらおう。「ぜひ一度、お会いしたい」というのを口癖にしよう。
(p.110)

 標準が二つあってはならない。
 鬼神のごとき1点集中。
 ブランドを目指すとき、なによりも避けなければならないのが精力の分散だ。
(p.118)

 どんなに華やかな仕事でも、腑抜けの客を相手にすることほど、この世につまらぬ仕事はない。
(p.124)

 ブランド人になろうと思うなら、ゆめ忘れてはいけないこと――
・コミュニティー
(p.134)

 いまは、おかしな時代だ。この点については、みなさん全員がうなずくだろう。だから、みなさんもおかしくならなければ、時代についていけない。自分がどこまでおかしくなれるかは、付き合っている人のおかしさで決まる。
(p.141)

 そして私は、みなさんにそうなってほしいと切に願っている。私たちはみな、知らない人に会ったとき、ほとんどデザインで「自己紹介」しているからだ。
(p.145)

 デザインに目を開こう。デザイン雑誌をぱらぱらめくってみよう。デザイナーの目で、ウェブサイトをあちこち散歩してみよう(ウェブサイトはデザインの勝負である)。気がついたことを目もしてみよう(私はそれを8年間続けている。デザイン意識を高めるために)。
(p.147)

 きびしく自分を問い詰めてみよう。自分は信頼を発散しているか。自分の言葉には信頼の香りがするか、自分の身体から信頼は匂いたつか。
(p.169)

 冗談はやめたほうがいい。
(p.180)

大統領の一般教書演説を注意して聞いてみよう。歴史を変えた人物やいま話題の人を、うまく引き合いにだしているのがわかるだろう。これを真似しない手はない。誰の名前を出したら、誰のエピソードを織り込んだら、光彩が加わるか、考えてみよう。
(p.181)

 仕事に倦怠感をおぼえるようなら、名刺ホルダーからいちばん頭のおかしいヤツを探し出し、電話をかけ、昼食に誘ってみよう。マンネリから脱するために、頭のおかしい人から知恵を借りるのだ。
(p.198)

 あなたが個室をもっているなら、そのドアを取り外そう。
(p.203)

 志を果たすには、後ろ楯が必要だ。自分という企業の〈相談役と取締役〉が必要だ。だから(1)その現実から目をそらさず、(2)そういう人を探し出し、(3)その人との関係をはぐくみ、(4)その人を利用し、(5)自分を利用してくれとお願いしよう。
 ありがたいことに、私の経験からいうと、お偉方の中にはかならず何人かの「裏切り者」がいる。あなたが彼っらを必要としているように、彼らもあなたを必要としている。
(p.212)

 現場の人たちと常に接触している人は、ライバルに大きく差をつける。
(p.213)

 ブランド人の必須栄養素、それは、熱処理されていない情報である。
(p.214)

 信頼できる人を見つけたら、あなたの仮想現実のチーム(あるいは現実のチーム)に加えよう。
(p.217)

 満身創痍である。人生というゲームを堂々と戦い抜こうと思えば、あちこちに傷を負うことは避けられない。ときには深手を負って悶絶する。
(p.224)

人生のサーカスを恐れない。
(p.225)

 人の心を変えるには、不退転の決意が必要である。権力闘争にひるまない強靭な精神が必要である。自分がやることは、かならず世のため人のためになると、固く信じていなければならない。気が狂っていると思われるほど……。
(p.230)

 ブランド人になるために絶対に欠かせないもの、それは、どんな犠牲を払っても成長しようという強い意志であり、精神の自由と矜持だけは命がけで守ることである。
(p.247)

対話385 マックス ウェーバー 『職業としての学問』

2011.09.27.22:33



読書時間:30分
個人的読みやすさ:C


わたくしの考えでは、もしだれかきわめて宗教的感受性の強い人のために、かれがいま神もなく預言者もいない時代に生活するべく運命づけられているという根本の事実を、これらの教団上の預言者のような代用物を与えることによって覆いかくしたとしても、それはかれの内的欲求にとって何の役にも立たないだろう。むしろ、その宗教的感情の誠実さのゆえに、かれはこうした代用物による隠蔽を拒否するにちがいない。
(p.67)


 かつてその性質がゆえに職を得ていた人が、現代においてはその職がなくなったおかげで適職がなく、その逆もあったりするのだろうなということをぼんやりと考えている。

 宗教的感受性、というのもその性質のうちの一つになりえるかもしれない。
そもそも宗教的感受性自体は誰にでも発現しうるし、多かれ少なかれ(気づいているにせよ気づいていないにせよ)人々は皆持っているものなのだとは思うけど、そういう人たちが持っている「性質」のようなもの、は現代では様々なパッケージングをされて隅に追いやられている。おそらく、あまりにもその感性から生まれる主観的現象が個人的すぎるというか、普遍性を持っていないものとして解釈できる道具(たとえば心理学における無意識という概念)があまりに人口に膾炙しすぎているのが背景にあるのだろう。現代はあらゆることが個人の問題として処理することが可能な時代になっている。

 とはいえ、最近言われはじめているように、何かが起きたときにそれを個人の問題として捉え、そう処理するというのが果たして正しいのか?という疑問は残る。今僕は大学でコミュニティ心理学という授業を取っているのだけど、この心理学の一派の考え方によると、「今までの心理学は個人に全てを押し付けてきたが、実際はその人のその性質の発現はその人を取り巻く環境との相互作用によって生まれるのであり、そのエコシステムを含めて考えるべきである」ということである。

 壮大に話がすり替わってきた、というかどこに向かっているのか、書いている僕もよくわからない文章になってきたが、とにかく宗教的感受性が例えば「神経症」だとか「精神病」だとかいった個人の問題として片付けられてきた近代から、それを取り巻くコンテクストを含めた分析へと段階は進み、そうすることによってまたそれらの捉え方が変わり、ひいては社会システムが変わって今怪しいとされる職とかへの実践者および部外者それぞれの認識も変革していくのかもしれない。我ながらなんにもまとまっていない文章だが、そこには何か、社会の持つ価値観が変革する要素が見えてならなくて、長生きするのが少し楽しみに勝手になっている。

いやしくも学問を自分の天職と考える青年は、かれの使命が一種の二重性をもつことを知っているべきである。というのは、かれは学者としての資格ばかりではなく、教師としての資格を持つべきだからである。
(p.18)

ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う計算問題になってしまったかのように考える。ちょうど「工場で」なにかを製造するときのように、学問というものは、もはや「全心」を傾ける必要はなく、たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまったかのようにかれらは考えるのである。
(p.23)

近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんいちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。(中略)
 さて、お集まりの諸君!学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。
(p.27)

 預言者や扇動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、預言者や扇動かとしてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。
(p.50)

すなわち、各人がその拠りどころとする究極の立場のいかんに応じて、一方は悪魔となり、他方は神となる。そして、各人はそのいずれがかれにとっての神であり、そのいずれがかれにとっての悪魔であるかを決しなければならない。(中略)かの倫理的に節度ある生活態度に内在した偉大な合理主義は、あらゆる宗教的予言に共通の産物であるが、この合理主義は、かつては「唯一不可欠の神」のためにこうした多神教をその王位から斥けたのであった。
(p.57)

かつての多くの神々は、その魔力を失って非人格的な力となりながら、しかもその墓から立ちあらわれて、われわれの生活への賜杯をもとめてふたたび永遠の争いをはじめている。ところが、現代の人々にとって、とくに現代のヤンガー・ジェネレーションにとって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えるということである。
(p.57-58)

もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。
(p.63)

わたくしの考えでは、もしだれかきわめて宗教的感受性の強い人のために、かれがいま神もなく預言者もいない時代に生活するべく運命づけられているという根本の事実を、これらの教団上の預言者のような代用物を与えることによって覆いかくしたとしても、それはかれの内的欲求にとって何の役にも立たないだろう。むしろ、その宗教的感情の誠実さのゆえに、かれはこうした代用物による隠蔽を拒否するにちがいない。
(p.67)

ところで、すべての神学が――したがってたとえばインド教のそれもが――有するものは、世界はなんらかの意味をもっているにちがいない、という前提であり、したがって、すべての神学にとっての問題は、それが合理的に納得されるためにはこの意味はいかに解釈されるべきか、ということである。
(p.68)

かくてまた、神学にとっての問題は、これらの端的に承認されるべき諸前提は、ひとつの全体的世界像のなかでどのようにして異議あるものと解されうるであろうか、ということである。ところで、あたかもこの前提こそが神学にとって「学問」であることの彼岸にあるものなのである。それは、普通いう意味の「知識」ではなくて「所有」である。
(p.69)

このような「知性の犠牲」の達人となる能力は、既成宗教の信仰をもつ人々の決定的な特徴である。
(p.70)

ウェーバーの表現様式はけっして明快でも率直でもない。むしろ不必要なほど入りくんでおり、強調が多く、比喩が多く、くり返しが多い。これは話し手が非常に感情の強い人であることを物語るものだろう。
(p.83)

青年たちの心は日々の仕事を捨てて先走りした。かれらは現実のかわりに理想を、事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、専門家のかわりに全人を、教師のかわりに指導者を欲した。ウェーバーがこの講演をおこなったさい、その当の相手はこのような青年たちだったのである。ウェーバーは青年たちに向かって「日々の仕事に帰れ」と叱咤した。
(p.91)

対話384 戸田山 和久 『科学哲学の冒険』

2011.09.27.20:07



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:D

つまり、われわれはどういうわけだか帰納をするようにできているんだから、そのことをみとめることからはじめましょうということだ。(中略)「ヒュームの呪い」はヒュームじしんによって解かれていたのである。
(p.266-267)


 どうしても帰納をしてしまう、というところに人間の一つの重大な性質がある。
帰納とはつまり「おとといもAが起こった。今日もAが起こった。明日もAが起こるだろう」みたいな考え方のことを簡単に言えば指しているわけだけど、この考え方はあらゆる日常的思考の源になっていると見なすべきだろう。

 僕の関心領域の一つであるプラシーボ効果(思い込み効果)は帰納の元に発動し、そしてそれを実際に現実化するという点で非常に面白い。つまり、少なくとも精神に関わることおよび肉体における変化について帰納的に考える場合、その背景には人間の持つ「信じた事象が肉体的変化など実態を伴って起こされる」という性質があると言える。帰納法が私たちの思考法から離れないのは、それが身体/心という非常に身近なところで、「信じる」という力技を持って発動するからであり、これが帰納法の拡大使用に繋がっているということが出来るのである。

本書で紹介することになる他の哲学的立場は、科学という謎を、哲学で理解できる範囲に切りつめているように思えてならない。
(p.13)

つまり「正しい」には強いけど「新しい」には弱い推論が演繹だと言えるだろう。
(p.49)

直接に観察できないものを指す理論語を導入しても、科学が経験から遊離してしまわないのはなぜか。論理立証主義者の答えは、対応規則を通じて理論文はすべて観察文に翻訳できるから、というものだった。
(p.66)

それについて言うとね、むしろ、疑似科学に問題があるとしたら、それは、疑似科学は多くの場合間違うことができないというところにあるんじゃないかなあ。
(p.81)

帰納にはヒュームの問題の他に、もう一つの難問がある。それが、グル―のパラドクスだ。グル―のパラドクスの本質は、投射可能な術後と投射不可能な術後の間にどのようにしたら線を引けるかという問題である。
(p.91)

そうだよね。その「関わりのあるなし」つまりレバレンスの基準を明確にすることにヘンぺルの四条件は失敗したというわけ。
(p.107)

ふふふ。テツオくんが、もしプロの哲学者になったら、哲学の常識を覆すことの方がおもしろくなると思うよ。
(p.140)

カントは、物自体という形で、認識から独立した世界の存在そのものはみとめていたんだけど、それは一切知りえない、構造や秩序を欠いたもので、世界の構造とか秩序――たとえば因果とかは、認識主観の能力が構成して世界に押しつけるものだと考えていた。だから、認識から独立した世界はみとめるけど、認識から独立した世界の秩序はみとめない。これも独立性テーゼをほとんど否定しているも同然だから、観念論だよね。
(p.142)

・社会構成主義は、世界の秩序は科学者集団の社会的活動によって世界の側に押しつけられるものだと考える。(中略)この考え方は、科学的事実を見いだすためには科学者集団による社会的プロセスが必要だということから、一足飛びに、その事実の存在そのものが社会的プロセスの産物であると結論してしまうという点で、飛躍している。
(p.148)

操作主義にしても道具主義にしても、観察不可能なものについての科学的主張を解釈し直して、その種の主張は、字面とは違ったことを本当は意味しているんだと言うわけで、ここに無理があるよね。
(p.154)

・ファン・フラーセンに代表される反実在論者は、世界に正確に対応した真なる理論を見いだすことが科学の目的だとは考えていない。反実在論の立場に立てば、そのような目的を果たすことはできないことになるからだ。むしろ反実在論は、できるだけ多くの観察可能な真理を帰結するような理論を構成して「現象を救う」ことが科学の目的であると考えている。
(p.160-161)

・対象実在論によって、悲観的帰納法に抵抗することができる。エーテルのように、結局はないことが分かって理論がラディカルに間違っていたことが判明したケースというのは、たいていの場合、操作できない対象の存在を過程する理論だったからである。
(p.212)

帰納が信頼できることを擁護するという仕事を、私たちはつい、科学をはじめる前にあらかじめすませておかなきゃいけないことだと思っちゃうけど、そんなことはできなくて、科学の中で科学を使ってやるべきことだ……。
(p.263)

対話383 加藤 恵津子 『「自分探し」の移民たち―カナダ・バンクーバー、さまよう日本の若者』

2011.09.27.19:55



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:B


 一方、「○○語を話せる人とコミュニケートしよう」とはじめから決めてかかっていると、その言語を話せる人全員が、自分にとって出会ったり話したりする意味や価値があるかのように見えがちです。実際には、彼らの中には、コミュニケートするとこちらの身が危ない人々もたくさんいるにもかかわらず。そしてより危険なことに、現地人の間で愛想を尽かされ、誰に対しても対等な位置に立てない人々ほど、「○○語を話せる人とコミュニケートしたい」人々に近寄って行きます。他に何の取り柄がなくても、生まれた時からその言語を話しているというだけで、自分が無条件に優位に立てるからです。
(p.168)


 1年程度留学をした身としてはこれは痛いほどにわかる。
自分自身、まず英語を話したいなーと思って留学しにいったので、割と積極的に色々な人に話しかけにいった。
その中で、特に日本人同好会みたいなところに来る外国人は日本好きが多く、文化や話題もある程度共有しているので非常に話しやすい。必然的に、そこに来る人との絡みは増えることになる。

 ただ、ある程度そういうグループにいると、なんとなくその現地の人たちがどのような評価を彼らにしているのかがなんとなく見えてくるようになる。だからといって別にその人たちが駄目とかそういうわけではなく、そもそも英語もろくに喋れないような状態でいった僕こそアメリカにおいてカーストの最下層にいたことは疑いない事実なので他人のことを言っている場合でもないのだが、それを差し置いてもやや「変わった」人、また「アジア人、日本人女性だから」という理由でハンティングしにきているようなアメリカ人をちらほら見かけ、幾分うんざりしたりし、また同様に、似たような視点を持っている自分自身に気づかされ、やや嫌気が差したりしたわけなのである。

 話題が合う、つまり文化が合うということはコミュニケーションにおいて必須条件なのでそういう戦略が悪いとは微塵も思わないし、次に海外に行くときもおそらく同じ方法を取るとは思うが、しかし全員ではないけども何人かは「こいつが日本にいたら絶対に話さねえわ……」という人が当たり前にいるわけで、そういう人たちと英語が喋れるというメリットだけをもって交流するのにはやや難色を示したい次第である。

 さらに言えば、日本はカナダにとって「女性一時滞在者専門」の供給国である。「学生」を供給する上位国では、韓国も中国も欧米諸国も、男女ほぼ同数を送り込んでくるのに対し、日本からの渡航者では常に、女性が男性の2倍以上である。
(p.25)

それではなぜカナダを選んだかというと、圧倒的多数が、他の英語圏との間で「消去法」をしているのである。
(p.37)

 トロントを選ぶ若者にもう一つ特等的なのは、「ヨーロッパ」「ニューヨーク」「文化」「芸術」への志向である。そしてここでも、カナダやトロントそのものに惹かれるというよりも、他の国、他の都市とイメージが似ているから、トロントが選ばれるのである。
(p.41)

 こうして見るとバンクーバーは、その自然の豊かさや健康的な生活にあこがれる人、その中で思い切り勉強や仕事をしてみたいという人を引き付ける半面、トロントその他の街に比べ、その街に強い執着や関心を持たない、日本とは劇的に異なる環境を味わいたいとは思わない、そして比較的、英語力に自信のない一時滞在者を引き付けやすいようである。
(p.42)

 だが逆に、日本にいる時、働くことはなぜあんなにも難しく、ストレスに満ちたものだったのだろうか。一つには自分が、「暗黙の了解」をふくめて社会のさまざまな仕組みを熟知しており、そこにからめ取られていたからではないだろうか。
(p.53)

 つまり、海外生活に「偶然」を求めないことです。「偶然」を求めれば、あなたの化のう性は数億にも分裂して霧散してしまいます。そうではなく、海外に渡る前にこそ、自分の中でもっとも輝く部分を見つけてください。他人の体験談を渡り歩くのは止め、苦しくても自分の中の声に耳をすませてください。
(p.66)

 そもそも「英語が上達しない」と思ってしまうのは、「何をするのに充分な英語か」があいまいだからです。
(p.103)

独身・単身で、まず楽しみのために短期滞在や一時滞在をし、その延長としてカナダで暮らそうとする日本人の若者は、これら多くの移民候補者とは、スタートラインからして異なるのである。
(p.109)

 「日本から逃げる」のは悪いことではありません。逃げたいような環境にいるのに、そこから出ずに不幸な人生を続けるのは正しい生き方とは言えません。
(p.122)

 これは一個人のストーリーだが、薬物が簡単に手に入るBC州の事情、そして薬物の誘惑は、他の日本時に知事滞在者にとっても同じである。「やりたいことが見つからない」または「やることがない」日本人の若者にとっては、薬物は、もてあました空虚な時間を埋める刺激物に簡単になりうる。ましてその人が何かから「逃げてきた」、何かを「忘れたい」のであれば、薬物の誘惑はさらに大きいだろう。
(p.125)

 これはカナダ人のティーンエイジャーの間にもあり、上述の晴海さんも、カナダの高校生はなぜみんなクスリをやるのかという問いに対し「ピア・プレッシャー」と即答している。だがカナダ人の場合、これが働くのは高校「まで」なのである。
(p.128)

 事実、2008年6月にバンクーバー日本国総領事館で開かれた「留学生メンタルヘルス・セミナー」では、日本人留学生に関わる学校・事業関係者70人ほどを前に、3人の日系の医療専門家が報告やアドバイスを行ったが、ここでカナダ人の聴衆の1人から、「最初から精神的に問題のある留学生があまりに多い。日本政府はスクリーニング(選別をしないのか」との声が上がったほどである。
(p.132)

日本人女性の国際結婚の多さはしばしば「ガイジン崇拝」の現れであるかのように語られるが、少なくともカナダ人の場合、第一の理由とおして挙げねばならないのは、若い日本人男性の絶対数不足である。
(p.136)

言い換えれば、社会の中でどれほど周縁にいる現地人にとっても、一時滞在者は、言語能力、市民的ステイタス、そして時にジェンダーにおいて、ほぼ100%自分の優位性を保証してくれる相手なのである。
(p.139)

加藤 彼は自分とつりあっていると思いますか?教育、家族背景、友だちの顔ぶれ、精神年齢とかの面で。
宏美 「カナダにいる私」とはつりあっていると思う。
加藤 具体的にはどういう状況のことですか?
宏美 言葉[ができない]、外国人であること、あと基本的に権利がない。
加藤 どういう権利がないのですか?
宏美 日本であれば当然、働ける。好きなところで働いたり、好きな長さだけ勉強したり、選挙権もある。こっちでは保険[BC州医療保険のことか]もない。
(p.142)

ここで皮肉なのは、日本社会の結婚規範(「何歳までに結婚しなければならない」)に反感を持ち、海外に出てきたはずの女性が、現地人男性が相手となると、一変して結婚志向、専業主婦志向になることである。
(p.149)

 総じて言えば、海外で「結婚未満」に陥る人々には、「結婚によってすべてを変えなければ」「そのためには同居し、子どもを産まねば」という発想があるようである。日本にいても同じような行動を取る人もいるだろうが、同時に、日本にいればそのようなことはしない人が、海外に来て、価値の低下、キャリアプランの行き詰まり、ロマンスと見まがう機会などに行き当たるうちに、いつの間にか自分の人生の目的を追うことを放棄し、社会の周辺にいる現地人との関係にすべてを賭けているケースも多いと思われる。
(p.151)

コモン・ローは、日本における「事実婚」「同棲」「内縁」の後ろめたいイメージとはまったく異なり、少なくとも12ヶ月間継続して事実上の婚姻関係を持って暮らしたカップルが、州政府に申請できる、夫婦と同格の法的関係である。
(p.154)

 カナダ政府は2008年3月の時点で、親権に関する620件以上の国際誘拐を扱っていたが、うち日本との間のケースは29件で、国別の未解決事件数においては最多である。このことからカナダ政府は日本政府に、ハーグ条約への批准を強く求めており、日本政府もこの要請を受け入れる方向にある。
(p.160)

 なお、他の主要な民族集団に比べ、今日にいたるまで日系移民の「人数が足りない」最大の理由は、「呼び寄せ移民」をしないことだろう。
(p.184)

 また、たとえ関心を持つ場合でも、移民は一時滞在者の目には「異質な日本人」として映るようである。
(p.197)

 こうして多くの一時滞在者は、「コミュニティ」に入ることなく、それはつまり「日系人」としての自覚を持つことなく、カナダで個人的な模索を続ける。永住権を取ろうと取るまいと、彼ら・彼女らは「日系人」ではなく「日本人」なのであり、「コミュニティ」の一員ではなく「個人」なのである。
(p.200)

 一方女性には、基本的に、男性に護られるべき「ユニークで美しい日本」を体現する役割が期待されていたと考えられる。
(p.206)

 こうして西洋化が女性にも及んでいく中、「英語」も「女性」と強い連想を帯びるようになっていく。その最大の理由は「女子への英語教育」の興隆であり、これには二つのルートがある。宣教師たちによるミッション系女学校と、津田梅子の英学塾である。
(p.207)

(ちなみに私の勤める大学は、受験の段階からして男子が女子に比べ目立って少ない。なぜかと思うか、ある日乗り合わせたタクシーの運転手さんに聞いてみると、「そりゃおたくの大学は、英語ってイメージがありますから」。実際には当学では、英語教育プログラムはカリキュラムのごく一部にすぎず、しかも「英語で」調査や発表のスキルを学ぶためのものなのだが、若い男性が「男のコケン」のためにそこまで英語を避けねばならないとしたら、なんと気の毒なことか)。
(p.210)

長時間労働、滅私奉公といった「男並み」の労働者に女がなることを目指すのではなく、男が「女並み」になることを目指すべきという、社会学者・上野千鶴子による一連の議論があるが、素子さんの辞職と海外渡航は、まさに「我慢して男並みになる」ことへの拒否と、「女並み」の最大活用といえる。
(p.219)

 だが全体的に女性インタビュイーたちは、仕事上の限界や、親や世間の「目」の息苦しさ、結婚へのプレッシャーへの息苦しさについて多く語るとしても、人生のパートナー(候補)としての日本人男性への不満を語る人は、思いのほか少ない。(中略)よってもし、国際恋愛・結婚に強い関心を寄せる女性がいるとしたら、それは「日本人男子を避けたい」からというよりも、「今は日本を出たい。それには恋愛や結婚が近道(または唯一の道)」と考えているからと想像される。
 上の議論がそう的外れではないことを示してくれるのが、『mr partner』(ミスター・パートナー、1988年創刊)という女性雑誌である。
(p.220-221)

 しかし実際、日本人女性が海外で多くの現地人男性から「愛されている」か、あるいは「うわべだけでない好意的な対応」をされているかは疑問である。同時に、日本人女性のすべてが、交際相手の欧米人男性を「うわべだけでなく」「愛している」かも疑問である。
(p.223)

「日本=女性」のイメージを、近代以降の欧米でもっとも浸透させたもう一つの主要原因は、歌劇『蝶々夫人』(1904年、ミラノ・スカラ座で初演)だろう。芸者とアメリカ海軍士官という、明らかな「無力者と有力者」の組み合わせ、そして女性は心身を捧げた上、棄てられても不平を言うどころか自殺してくれる、というプロットが、当時の欧米で好まれたことはもちろん、今日に至るまで上演が途絶えたことはないというのは示唆的である(この歌劇の欧米での人気は日本にとって「名誉」であるらしく、NHKの「ニューイヤー・オペラコンサート」では、毎年必ずこの歌劇からのアリアが演目に載る)。(中略)この歌劇の生成自体、まさに「欧と米」で、想像上の日本人女性が男性たちの間でリレーされ、性交の末に「殺されて」いった結果といえる。
(p.225)

だが、ここでいう「やさしさ」とは何か。たとえば女性のために男性がドアを開けるといった、ある程度のしつけを受けた男性が皆、条件反射的な行為は「やさしさ」だろうか。カフェや図書館で「日本人?英語を勉強しているの?」と、女性にだけ話しかける人は「やさしい」だろうか。初対面で「家に来ないか」と女性だけが言われ、性行為に誘われることは、「やさしくされる」ことだろうか。
(p.229)

だが憲法で男女平等が謳われ、どちらにも同じ内容の権利と自由が保障されている日本を、上に描写した社会と同列に「男性中心主義」とすることには、違和感がある。
 代わりに有効と思われるのが、「家父長制」である。
(p.235)

女性はヨコに行きやすいけど、タテに行きづらい。男はタテに行く機会はあるけど、ヨコは……あんまり行けない、脱落になる。
(p.239)

興味深いことに、日本で深夜労働に辟易した慎一さんが、その「日本的な、男らしい」働き方を武器に、カナダ移民への道を獲得したのである。そして本人も、カナダで残業することを苦にはしていない。なぜなら日本では人々は「モノを買うために働いてる」けれど、「こっちの人は余暇を楽しむために、自分の生活を楽しむために働く」、つまり二つの社会のでは「働く」意味が根本的に違うと思うからである。
(p.244)

韓国や中国はまた、国民一人ひとりが抱くナショナリズムの強さでも日本を上回るとよく言われるが、留学も移民もしない日本人男性は、自分の生まれた国土に執着するという意味で、これらの国の男性たちよりはるかにな諸なりスティックだといえる。
(p.246)

近代になると、目標達成のために懸命に働く産業労働が入ってきたけど、それでも日本人自身は、欧米人が感じるほど労働が苦役ではない。自分たちのことをワーカホリックなどとは思ってもいないでしょう」と言う。
(p.264)

 もう一つ、日本に生まれ育った者が「シティズン(シップ)」概念を理解しにくい背景には、何を持って「一人前」とするかにおいて、日本では政治活動よりも経済活動が重視されることもあるかもしれない。
(p.288)

あるいは同じ北米人でも、アメリカ人のセルフ=エスティームの平均値は、カナダ人のそれより高い――あるカナダの心理学者によれば「危険なほど高い」――から、アメリカ心理学を基準として「セルフ=エスティームが低い」人々を問題視するのは、それこそ問題だろう。
(p.303)

対話382 日向 あき子 『イメージを読みとる』

2011.09.18.22:19



読書時間:1時間20分
個人的読みやすさ:B

 彼ら原始人はごくわずかな例外(人間像)をのぞき、ただひたすらに動物だけを描いた。ギリシア時代以後の美術で描かれる対象の中心となる人間は、ほとんど描かれていない。もう一つは、彼らもまた太陽、空、雲、雨、山、木にかこまれているのに、こうした環境もまったく絵には描いていない。
(p.48)


 これは非常に面白い指摘だ。さっきせっかく色々書いたのにうまくセーブが出来ていなくて全部吹き飛んだのでざっくり書くが、これが示唆するところはすなわち「過去において人間はファンタジーではなかった」ということである。あるいは「過去において絵に描かれるものはファンタジーのみであった」と言い換えることもできよう。

 その当時において、動物というのは実りである。というより狩らなければ自動的に自分が死ぬことになるので、懇願するものである。すなわちファンタジー。

 また、たまに描かれる人間が例外なく普通の人間でなく、何かの動物と融合したような姿をしているのはすぐさまシャーマンの存在を喚起させるが、これもファンタジーだ。ファンタジーを視覚化させることによって、その存在に対する羨望を脳裏に焼き付ける。ファンタジーを絵画で示すことにより皆で共有し、それが一つの世界観になる。

 こうして考えてみると、「普通」の人間が絵画に描かれるようになった経緯は興味深いところ。それは人間の階級化(=ファンタジー化)を指し示しているのかもしれない。加えて、現代では容易に自分の似顔絵を描いてもらうことが出来るようになったが、そのこともファンタジーというものを軸に考察してみると面白い現象としてとらえることが出来るようになるかもしれない。

 ただし、ひと口に原始的といっても、さまざまな様相があるわけで、タイラー以後の文化人類学はそれをいくつかの段階に分けている。主なものをあげると、呪術的段階、アニミズムの段階、トーテミズムの段階、シャーマニズムの段階である。
(p.15)

「多分天才なら宇宙までいかなくてもわかるだろうが、普通の人間の場合、これは実際に行ってみた者でないとわからない感覚だ。それを言葉にするのはむつかしい」といいながら、彼らが語るその宇宙観は、インドの聖典『リグ・ヴェーダ』が語る宇宙観に大変近いのである。
(p.20)

ただし宇宙に行った物理学者、エンジニア、パイロット、その他の科学者で、「無神論になって帰ってきた者は一人も」いなかった。ほとんど全員がその逆であり、また彼らが語る神秘体験は、私がいう宗教以前のカミ的心性にたいへん近いことがわかるのである。
(p.21)

 主な食料であるこれらの動物は、人間のはげし飢えと熱望の対象であった。動感にみちた動物たちの絵は、彼らを狩り、追い込み、倒す呪術的願望で描かれたのだ。
 これらを多数派第一のタイプとすれば、それに対して数は少ないが、静止した状態で描かれた肉付きのよい脂ぎった動物たちもいる。この第二のタイプは孕んだ動物図であり、第一のタイプとは異なった願望をあらわす絵と考えてよい。
(p.49)
 
 ただし人間像といっても、正確には人間の顔をもつ人間ではない。実は鹿や鳥に仮装した人間であり、次ページにみるような人間とも動物ともつかない姿で描かれているのである。
(p.60)

インドは哲学の国、宗教の国だが、理念的、中傷的といっても、どちらかといえば宗教のなかに哲学も生活もとけこみ、くみこまれているのである。その理念も哲学も、大衆生活の末端まで行きわたるような太古以来のカミ的具体的な思考に基づいており、観念的なヨーロッパ系の哲学との大幅な差異もそこにある。
(p.109)

 唐突かもしれないが、共存者・蛇のメタファーにかわるのは、子どもたちの愛好するロボットとかパソコン、あるいは光、電波によって象徴されるなにかだと思うが、どうだろう。
(p.137)

それは「巧いという以上のものだった。日本や古代ギリシャの演劇を想いださせながら、完全に現代的だった。ヤンコが仮面をもってやってきたとき、われわれ全員がそこにいたが、みんなすぐさま、仮面をつけた。そのとき奇妙なことが起った。仮面はたちまち衣装を要求しただけでなく、狂気すれすれの身振り、あるきわめて明確で劇場的な身振りを要求したのである。(ゴーズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス』中原祐介訳、リブロポート社、1982年)。 

 したがってシャーマニズムは単なる憑依ではない。それはなにかにとりつかれた憑依状態を克服し、エクスタシーのなかで原因となる病理、欠如をとりのぞくのである。その全過程がシャーマニズムである。
(p.173)

 日本密教の大成者である空海に、「雑密・純密」というキーワードがある。これにならい、古代以来のシャーマニズムは雑密、タントリズムはより純化された純密と呼ぶのも不可能ではない。根本的な相違は、前者が古代の村落共同体を背景にしているのに対し、後者は古代都市化時代のエリートや上流階級の悩みに対応して再編成されていった点にある。
(p.174)

 タントリズム出現の一原因には、口寄せ、いんちき予言といったことのみに終始するようになったシャーマンへの反撃、および太古シャーマニズムへの復帰という面もある。だが、シャーマンの堕落にはそれなりの社会的な必然もないわけではなかった。
(p.176)

 その儀式も、シャーマニズムをはるかにこえてこみいっている。またシャーマニズムにおけるような、村をあげての祭祀といったオープンネスはない。
(p.185)

 シャーマニズム=仮面に比べると、タントリズムの視覚表現はまことに豊富だ。
(p.195)

 一つの例外として、アウトサイダー的な性をともなう密教「立川流」がある。これは中央の僧職を追われたすぐれた僧が各地を放浪したのち、立川において開かれたもので、オーソドックス筋からは左道、邪道の扱いをされてはいる。
(p.202)

 シャーマン儀式や祭りは共同体的、集団的であり、部落をあげてのオープンネスがあった。それに対し、どちらかというと密教=マンダラは個のレベル、個の密室的な悟りと救済の要素が強い。
(p.210)

対話381 藤岡 喜愛 『イメージと人間―精神人類学の視野』

2011.09.18.17:02



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


インクプロットに対して、成人型は解釈的であり、幼児型では知覚的であり、同時に自由連想的でもある。
(p.35)


 上記の引用はインクの染みから何を連想するかという臨床心理的には比較的有名な例のあれの話なのだけど、この解釈と知覚(連想)という対比は何が大人と子供を分別しているかを考える上で面白い。

 すなわち収束と拡散。解釈は分析でありそれは言語化であり、そのイメージを殺して冷蔵保存するということである。逆に知覚はそこから解釈に移らない限り、得られたそのものは生気を得続ける。イメージは殺されることもなく庭のもとで遊び続けて、最終的には庭も越えて自分でも回収出来ないところに遊びに行ってしまうかもしれない。

 人間はイメージの動物である。イメージを他の動物が持っているかは僕にはわからないが、恐らく人間と同じレベルで持っている動物はいないだろう。人間の本性は、実のところその頭の中を、そして身体を流れるイメージそのものだ。それを統制するためにイメージに寄生している人間の表層=意識は解釈を与えたり、分析をしようとしたりする。本体たる混沌としたイメージ自身は言語によって調教され、時として絞め殺されることもあるだろう。

 天真爛漫な人を見るとどこか「人間的」な感じがするけれども、あれはその人がイメージの持つ自由さを体現しているからかもしれない。人間のエネルギーはイメージから成り、恐らくその本体はそこにある。意識は脇役であるべきであり、それが前に出張ったときにこそ悲劇が起きるのだろう。

 
 文化の独自性に対応したヒトとなりの、その独自性を捉えるほどに、投影法が敏感で精密だとは認めがたい。要するに、文化人類学者の期待にかかわらず、投影法の感度は鈍いのであった。
(p.46)

 この例は、中心的イメージとは、たとえば何であり得るかを端的にしめしている。それは、彼女の無理をあえてかなえてくれた母親の姿、それを当然として甘えている自己の姿である。こうしたイメージは、当時に蓄えられたまま意識にはのぼらなかった。しかも彼女のイメージ界の全体の運動は、この中心的イメージに合致するように運動していた。そうして現実において恋人に去られるという破局に直面した。
(p.91)

 いいかえれば、FとHとの対応の仕方は常に"アソビ”を含んでいる、このアソビこそは精神と生命を存続させる本質的な性質であると私は考えている。
(p.111)

 ハーローは、オヤから隔離して育てるということが、どんなに大きなもんを赤ん坊から奪ったことになっているのかを、痛感するようになる。檻の中で育てられたメスザルや、人形をあてがわれて育ったメスザルは、成長しても、正常な性行為の姿勢をするものが一頭もなかった。オスに近づこうともしないし、毛づくろいをしたりしてオスの注意をひくことや、仲間としての親密さを示す行為もしないのである。
(p.132)

 これまで、イメージはヒトの行動を指導すると述べてきた。人は刺激に対して反応するだけではない。大きい見通しのもとに、時には気高い目標をさえ持って、自分が行なう個々の多くの行動を、統制してゆく。
(p.140)

 コクマルガラスのメスの順位は、メスが体が小さく力も弱いということもあって、群れ全体の中で下位に甘んじなければならない。(中略)ところがめあいの季節になって、下位にあったメスの一羽が最上位のオスにみそめられてつがいになった。それから24時間とたたないうちに、彼女が大統領夫人であって、だれももう白い眼で見てはならぬということが、群れの全員に伝わった。
(p.164)

 ゴリラやチンパンジーの社会では、ニホンザルのジュピターのような強烈なパーソナリティーはむしろ影をひそめるらしい。
(p.174)

 本章のはじめにのべたように、「ヒトとなり」がすなわちイメージの世界そのものである、とするなら、ヒトとなりの進化はただちにイメージ界の進化でもある。
(p.179)

 これまで述べてきたように、イメージは、個人がそれぞれの能力に応じて自分でつくるものである。それにみおかかわらず、イメージの融通性が、イメージの収斂を可能にする。また、あることについてのイメージには、つねに個人的独自性と外界模倣性の二面性がある。この二面性は、私たちが生物として、本来もっている、あそび(latitute)」のあらわれである。
(p.191)

 平衡店移動のきっかけになったイメージはあるにしても、悟りや回心は、イメージそのものではない。だからこそ、人をして、教えて悟りにはいたし得ないのである。教えうることは、せいぜい、きっかけになったイメージについての情報を教えうることにとどまるのである。
(p.219)

対話380 岩田 健太郎 『「患者様」が医療を壊す』

2011.09.18.16:46



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:A


 日本ではジェネラリストがある専門性を持ち、スペシャリストがジェネラリストに転じる、という交流が比較的多く、両者は相対的には分断されてはいません。日本はジェネラリストとスペシャリストが良い環境で共存するのに(欧米に比べて)実はとてもよい環境にあるのではと僕はひそかに思っているのですが、多くの方は賛成してくれないでしょうね。
(p.134)


 批判的精神がそうさせるのか、どうしても日本と海外を語る時は日本の駄目なところをつくことが多いし、僕を含め多くの読者もそれを望んでいるのだろうと思う。

 それはそれで健全なことだ。
第一自分の国のことを礼賛することばかりしているような人間はバランス感覚的にちょっとまずいし、「進歩人」の多い著者にそのような人を見つけ出すのは難しいだろう。
いい感じのバランス感覚なくして自分の国を褒めるということは時として難しい。そしてそれはおそらく、それなりに高度なことだ。

 しかしこの本はそれを可能にさせている。
つまり、いい感じのバランス感覚で自分の国を褒めている。
別に本書は日本賛美の本というわけではまったくないのだけど、完全無欠のようだと思わせたアメリカの医療などの問題点を経験にしたがって示し、現行の日本のシステムの良い点を挙げている。
 特に医療でも学問でも欧米一辺倒と認識してしまっている僕にとって、このようにうまいやり方で自国の良い点を見出されると納得するより他ない。

 その他、こういった医療関係の本を読めば読むほど、医療というのはもともと魔術に近い性質を帯びているのだなあという思いが確信に変わってくる。そしてそれはネガティブなニュアンスではなく、むしろポジティブな意味合いにおいて。

 態度は良いが誠実さも真摯さも(相対的に)今ひとつのアメリカの医者。確かに態度はもう一つだが、文字通り命がけで患者に尽くす日本の医者。どっちの医者像が理想なんだろう。
(p.12)

ある事象が「絶対に正しい」ということは「絶対に」ないのです。あるとすれば、「正しい場合」があるだけなのです。
(p.16)

でも、ぼくは基本的に言葉はコミュニケーションの道具に過ぎないと思っているので、そのときのコミュニケーションが円滑に進むようなやり方が一番だと思います。
(p.23)

昔は良かった、昔に還れという言説はたいてい間違っていますし、またやろうとしても、うまくいかないものです。
(p.47)

ああいやだ。本音ばかりの会話なんて、雰囲気悪くなるばかりです。
(p.58)

 この大人の態度は多くのアメリカ人(や典型的なアメリカの世界観にどっぷり浸かった日本人)にはやや苦手だと思います。あちらの世界を正当としつつ、別の世界もやはり正当、というのは苦手なのですね。
(p.65)

 これは、日本がドイツから医療を輸入したためドイツ観念論みたいなものが基盤にあり、考え方としては演繹法的なアプローチが好まれたからだ、という説があります。イギリスとかアメリカの「理屈はいいから治ればいいじゃん」みたいな気楽な(というと言い過ぎか)帰納法は低く見られたのかもしれません。
(p.93)

 しかし、科学の場合は反論できなくてはいけないというわけです。
(p.109)

6. EBMはインターネットのもたらす大量の情報に依存する。
(p.112)

 このようにジェネラリストとスペシャリストの関係はゆがんだ形の片思いの構造になりがちです。要するに、ジェネラリストはスペシャリストの言動に常に目を光らせており、スペシャリストはそのようなジェネラリストの存在に気がつきもしないのです。
(p.129)

 気落ちさせてはパフォーマンスが落ちる、という一方で、パフォーマンスが悪ければ気落ちしようがなんだろうがドロップアウトさせればいいのだ、という二枚舌。僕はこの瞬間から「欧米の」医学教育専門家を信用しなくなりました。
(p.143)

 対立構造は不可避であり、普遍であり、未来永劫そのまんまであると「決めつけなければ」意外なソリューションが見つかることも多いのです。
(p.172)

 僕は、
「たばこを吸うような奴は他人の健康に悪影響を与えているひどい奴だ」
 と言っている医者が、
「今週は当直2回やったからもう入りたくない?ふざけるな、俺たちの若い頃は……」
 と若手医師に不健康な業務を強いているのを見ると、なんだかなあ、という気分になります。その若手医師の家族の精神的苦痛とかを考えれば、この医者はかなり他人に迷惑をかけているのです。
(p.186)

 今は「渋滞学」という学問があるそうですが、あれも車間距離をある程度開けつづければ渋滞は起きないんだそうですね。
(p.199)

対話379 佐藤 優 『はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学』

2011.09.18.08:03



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C

つまり、圧倒的大多数のヨーロッパやアメリカのキリスト教徒は文化プロテスタント主義者です。これは一種の無関心主義ですが、一つの文化と一体化しているため、こういうことでも外形的な進行は十分成り立ってしまうのです。
(p.164-165)


 文化と宗教というのは思ったよりも不可分なものだなというように最近思う。というのは、宗教という形式に「文化」として従うだけで生まれる信仰心というのは恐らく存在する。それは僕らがイメージするような積極的かつ盲目的な信仰心なのではなく、もっと消極的な、しかし確実にその人に根付いたようなタイプの信仰心なのだ。

 どの程度他国に「熱心な」宗教者がいるのかはわからない。
もしかしたらそれは日本人よりも多いのだろう。
しかしいわゆる先進国と呼ばれている国、またそうでない国(僕の経験から言えば例えばリトアニアとか)の若者たちにおける文化宗教主義者はかなりの数にのぼり、マジョリティを形成しているのではないだろうか。

 文化宗教主義者は状態として安定し、故に早かれ遅かれ大多数になる。
なにせ文化宗教主義者こそ、宗教に対する批判にも耐えるだけの柔軟性を持ち、その上宗教の「使える」要素を掠め取っているのだから。

 この問題を根本的に解決したのがシュライエルマッハーでした。彼は、初期の著作『宗教論』(1799)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821-22, 第二版1830)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義したのです。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいることになりました。神を「見えない世界」にうまく隠すことに成功したと言ってもいいかもしれません。これで、神の居場所の問題は見事に解決したわけです。
(p.13)

 ここで面白いのは、シュライエルマッハーが道徳というものをきわめて拡張的、あるいは侵略的なものとしてとらえているところです。道徳といのは、人間が正しいと思うことにしたがって自然界を克服していく、外へ外へと拡張していくという考え方です。そうすると、人間は自らの限界を知ることができなくなってしまう。道徳の中には自己神格化の危険があるからです。
(p.38)

 大学卒業程度の学力をもって人が読んでおくべき本は、文科系・理科系関係なく、少なめに見積もって150冊くらいあるとして――たとえばマックス・ウェーバー『職業としての学問』、アインシュタインの『相対性理論』、デカルトの『方法序説』などです――、そのうちナショナリズム関係の必読書がいま紹介した『創造の共同体』と『民族とナショナリズム』です。
(p.64)

その他、カウンセリング(臨床心理学)なども牧会学には入っています。そのため、牧会学に関わる補助学は心理学です。実践神学を専攻する人は必ず心理学の基礎的な知識をもっている(という建前になっています)。
(p.87)

 ところで、シュライエルマッハーやヘーゲルよりはすこし前の時代になりますが、カントは当時の基準で言えば、なかなかのハンサムと言えます。彼は生涯独身を通しました。どうしてかというと、カントには女性のスポンサーが複数いたからです。結婚するとスポンサーの数が減るので、あちこちの女性スポンサーの家に行って面白い話ばかりしていた。カントは真面目だというのは大嘘で、彼の論考の中には女のストッキングはやはり黒のほうが興奮するとか、そんな話が出てくる。
(p.98)

ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのような、ルネサンス型のすべてに通暁した人間、教養人になるということは基本において不可能です。その認識からスタートしないといけないわけです。
(p.113)

 学問というのは、だらだらと書かれていることの本質を、ギュッと縮めて提示することです。
(p.122)

 ちなみに英国国教会(アングリカンチャーチ)――日本でいうと立教大学の系統です――では、ブドウ酒とパンの両方を出します。ブドウ酒は信者も司祭・牧師も飲むため、大きな盃に入っている。ところが実態変質説を取っているため、残すことはできません。大きな盃をはじから皆で飲んでいくわけですが、最後に残った分は、牧師が飲み干さないといけない。信者が今日は100人くらい来ると思って、力士が飲むような盃の中にいれておくと、人数を読み間違った場合、牧師はフラフラになってしまいます。
(p.135)

 復習しましょう。神学には弁証学と論争学がありました。他の宗教に大してキリスト教が正しいと証明するのが弁証学で、キリスト教内の論戦が論争学です。弁証学と論争学では論争学のほうが激しくなる傾向があり、論争学は必ず内ゲバ的な様相を示すことになります。
(p.179)

 ところがバルトはそう考えません。中世や古代の人もそう考えなかった。ヘンな人、性格に偏りがある人に典型を見るわけです。平均的な人というのは偉人伝になりません。
(p.192)

バルトの面白い点は、キリスト教にとって誘惑になりそうな思想にはものすごく厳しいということです。ナチズムとか実存主義とか、あるいは文化プロテスタンティズムもそうですが、「あっ、これはキリスト教と融合してしまうな」と直観したものを手厳しく批判する。他方で、共産主義とかフォイエルバッハの無神論のような、キリスト教に敵対的なドクトリンには寛容です。
(p.228-229)

 以上をまとめると、宗教とは決断ではないということです。われわれは常に、あれかこれかという選択肢を前に決断を強いられます。しかし、その決断が正しいという根拠はどこにもありません。だからこそ、宗教には揺らぎというか、不安定さが必要なのだと私は思います。宗教とは実存的ではなく、脱実存的なものです。そして、本質的にわれわれのちっぽけな決断を壊すものです。
(p.229)

 真理は具体的であるので、「見えない世界」がどのように私たちの現実に影響を与えているかという問題について、左巻では取り扱った。
(p.257)

対話378 キリアコス・C. マルキデス 『メッセンジャー―ストロヴォロスの賢者への道 』

2011.09.17.22:14




読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


「では、悪魔は天使よりずっと人間的なんですね」と私は言った。
「もちろん。天使が人間の姿をとることはめったに見ることがない。彼らはほとんどの場合、力として、システムとして存在する。悪魔は人間の姿を取る」
(p.242)


 この比喩は面白い。天使を単純に「幸福」、悪魔を「不幸」と捉えたとき、確かにそういう性質があるかなという気にさせてくれる。

 どういうことか。
つまり、人が幸福にある時、それは個人によってなされたのではなく、その人を取り巻く全体の環境、いわば生態が良いレベルにあるからなのである。
人間という個人は実のところ、周囲に隔絶されて存在しているわけではまったくなく、その人の取り巻く環境を含めたうえでの「一個人」だというのはもはや色々な人が言っていることなので僕の中でも常識化してきてしまった感があるが、つまり自分を真に良い状態に導くのはその全体性なのだ。

 1人の他者によってなされる幸福というのは、多くの場合最初は天使に見えたとしても、いとも簡単に悪魔となり得る。全体のバランスが崩れている状態で1人の人間に頼ることは単なる依存であり、それは悪魔に付け入られる隙でもある。同時に、たとえ天使のような人が自分の元を訪れたとしても、自分が依存することによってその人を「悪魔化」させる結果へと導くだろう。

 もちろんシステムとして悪(もはやその場合手がつけられない)、という逆のこともあり得るが、しかし「何が幸福か?」を考えたとき、そのシステムという全体性をなくして幸福を得るというのは非常に難しい。よって、個人という単一のものに頼るのではなく、システムをどう改善するかというところに話を持っていかないと何事もうまく進まない。
 その過程として人に頼ることはもちろん是とするべきだが、結局は自分というシステム全てに働きかける必要があるという目的を見失ったとき、天使だと思っていた他者すらも悪魔と化させるような、そんな力が働いてしまうに違いない。

「スピリチュアルな道を行く者にとって名声とは罠なんだ!」と、彼は名声に潜む危険性について警告をするように言うのであった。
(p.26)

「私が理解できないのは、セラピストが、なぜ自分のものでない、聖霊から与えられた生命のエーテルと引き替えにお金がもらえるかということだ。無料で与えられているものは、無料で奉仕すべきなのだ」
(p.42)

 根源に帰るというエレメンタルの傾向が、カルマの法則を可能としている。
(p.66)

「憎しみや嫉妬のエレメンタルが蛇のように見えるのは、私たちの文化背景ではそのような連想をするからだ。蛇や他の動物には固有の邪悪な性質はない。エレメンタルの姿は、その人の持つ言語や、その人がどこから来た人かによって異なる」
(p.71)

「では、左手に美しいオレンジを持っているのをイメージしてみなさい。できるだけ完璧な形で頼むよ。右手でちょっとひっかいて、匂いをかいでみて。オレンジの香りがするかね。手の中にしっかりと持って、なるべく現実に近いものをイメージするように。これで、物質世界に誕生するかも知れないエーテル体のオレンジのモデルをつくり上げた。次のレッスンまで毎日、一、二回、数分かけて、マインドを使って何か物質をつくってみるように。集中してやるんだよ。そして、できるだけ完璧なものに仕上げるように。でも、ちょっと警告していこう。言うことを全然きかない犬のエレメンタルをつくってしまった弟子が一人いたが、そのような間違いをしないように」
(p.78)

 良い意図を持った無神論者のほうが熱狂的な信者よりもスピリチュアルな問題を議論しやすい、と言ったことが前にあった。
(p.83)

「他人のカルマを受けるのは、それを望んだ時だけだ」とタスカロスは繰り返して言った。
(p.112)

「サイキック界の鍵となる特徴は、どの原始も自分の光を発しているということだ。太陽とか人工的な光源から光が来る三次元とは違う」
(p.148)

ユダは裏切り者ではなかった。分別のつかない愛弟子だったのだ。
(p.167)

注意しなさい。本当の祈りは言葉ではない。言葉だけでは意味がないのだ。役に立つための行動と、そのための準備が重要なのだ。真理の探求者として毎晩、数分間、自己分析をするのも、本質的には祈りなのではないだろうか。しかし、自己分析はマゾヒスト的な傾向や罪悪感があったりしてはいけない。真理の探求者が、罪悪感を持ったり、自分は罪深いと思った瞬間、彼は他人を助けるような状態ではなくなる。
(p.254)

 私たちが以前出会った時に説明したことがあるが、物質界、サイキック界とノエティック界で、私たちは相対的な現実を経験する。これらのさまざまな現実は、私たちに理解を可能とする感覚を与えてくれるのと同時に、究極の現実では存在しない悪の感覚も与えてくれる。悪の印象は、感情と想念の世界でしか存在しない」
(p.300)

対話377 佐藤 優 『はじめての宗教論 右巻~見えない世界の逆襲』

2011.09.17.21:51




読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C


 われわれが「見える世界」を重視するのは、この時代のありかたに、すなわち”モダン的なもの”に制約されているからだと言いました。われわれ近代人は、「見える世界」しか現実と思わないという流行の中に巻き込まれてしまった。そのことを象徴する例が商品経済です。商品経済は必ず貨幣を生み出します。われわれはすべてを貨幣、つまりカネに換算するような社会に生きています。
(p.15)


 目に見えないものは昔から目に見えるものを媒介にして顕現させてきたわけなんだけど、じゃあなんで今は目に見えるものから目に見えない世界を発動させる力が弱まっているのか?という問いの答えの一つに「ファンタジーのゲーム化」があると思う。

 目に見えないものが目に見えるものを媒介にしてその存在を色濃くする、というのは絵画とか仮面とか、そういうものを見てくれればわかると思うんだけど、その時絵画やら仮面が持っている役割はその媒介だ。決してその本体ではなく、その後ろ側にある存在の示唆。しかしファンタジーのゲーム化は、それらが媒介としてではなく本体として動くことを可能にし、しかもそれを映像的に、また音声的に表現出来てしまう。

 ゲームというものの持つ属性も目に見えない世界にとっては難敵となる。
なぜならゲームという存在は神聖とはまったく別物、むしろ真逆といってもいい。

 目に見えない存在や世界は、かつてそれを示唆するだけであった<媒介者>が技術力の向上などにより<本体>とすり変わることによって、そしてその<本体>が持つ非神聖さによって、その存在を虚ろにしてしまったのだろう。

 とはいえないがしろにされてきた<見えない世界>のほうも最近は復権を成し遂げつつあろうとしているという実感もあり、それについて考察を進める上で色々と参考になる本。


 共観福音書とは別に、もう一つ、ヨハネによる福音書というのがあります。これはロゴス・キリスト論という独自の哲学的表彰のもとで書かれている。ロゴスというのは、「つりあい」とか「言葉」を意味します。このロゴスが具体的な形をとるようになる、つまり神が抽象的な存在にとどまらず、具体的な形をとるという考え方がロゴス・キリスト論です。
(p.75)

だからこそ「一冊だけ聖書を買うならば、どれがいいでしょうか」という質問を受けたら、私は迷わずに「新共同役聖書を買うといいです」と答えます。
(p.83)

 もう一つ、十全霊感説というものもあります。逐語霊感説を少し緩めた言説です。この言説を信奉する人々は、聖書の著者は十分な霊感を受けて、著者の個性を反映させてテキストを書いたが、そこには神の意志が働いていると考えます。
(p.87)

 すこし話が逸れますが、<神は光と闇を分け>というところも重要です。地は混沌としていた。混沌としているものを二つに分けることを、ダイコトミー(dichotomy, 二分法)といいますが、このダイコトミーが西洋的な考え方の基本にあります。
(p.94)

 では、キリスト教と霊魂不滅説はなぜなじまないのか。それは、キリスト教では身体の復活を信じるからです。
(p.100)

イエス・キリスト自身は自分をキリスト教とは全く考えておらず、自分は真実のユダヤ教徒と考えていたわけです。
(p.125)

 ところがその後の無政府主義とかマルクス主義的共産主義は、初期キリスト教のような限られた範囲の、お互いに顔が見えるような中間団体でしか成立しない共産主義的な原理を、国家全体どころか世界全体に拡大できると勘違いした。それで地獄絵ができてしまった。
(p.127)

 これに対してキリストは名字ではなく「油を注がれた者」という意味。古代イスラエルでは王が即位するとき頭に油を注がれる儀式があることから、王を象徴する言葉です。
(p.177)

 神を父と表彰することを、トマス・アクィナスが段件的にとらえていなかったというマクグラスの指標はとても重要です。<人間の父親について考えることが神について考える助けになる>というのが、類比の考え方なのです。、父親という言葉を用いながら、現実に存在する父親を超えていくところに類比の特徴があります。類比はその本質において超越的なのです。言い換えるならば、常識的思考で考える場合、類比には必ず「破れ」があります。日常的思考の限界に挑むことが、類比的思考の意義なのです。
(p.183)

 ところがカトリックは違う。カトリックも類比の手法を使います。質的に全く異なるものについて語るときは類比の手法――あるいは象徴と言ってもいい――しか考えないからです。ただし、カトリックの場合は、前に述べた「存在の類比」です。カトリックはなぜ、性転換手術を認めないのか。それはどうしてかというと、性同一性障害があると主張したとしても、神がその人をそのように創ったのだから、その自然の秩序を動かしてはいけないと考えるからです。
(p.189)

 これは砂時計のようなものです。砂が上から下へ流れていくように、神の意思は上から下への一つの運動をとおしてしか伝わらない。そして砂時計のくびれた部分にいるのがイエス・キリストだということになる。神と人間の間のすべてのことはイエス・キリストを通してのみ行われる。これがプロテスタント神学の考え方です。
(p.190)

 では、なぜドイツという国ではこういった哲学者が輩出したのか、哲学はなぜドイツで発展したのかというと、ライプニッツの存在が大きいわけです。
(p.215)

 別の言い方でいうと、21世紀の現代に適応した公理系が求められています。(中略)科学をやっている人は現在、あまり公理系を立てませんが、何らかの作業仮説は立てるでしょう。つまり、現下必要なのは、新たなる認識のフレームです。人間が生きていくうえでの思考のフレーム。あるいは命のフレームと言ってもいいでしょう。
(p.247)

対話376 舞城 王太郎 『スクールアタック・シンドローム』

2011.09.17.21:17




読書時間:2時間
個人的読みやすさ:B


 たぶん人は頑張りすぎると、普通の友達と遊ぶくらいでは息を抜けなくなるのだ。トトロみたいなのとドカーンと遊ばないと。
(p.136)


 この小説を読むのは二度目で、一度目は正確には忘れたが高校生の頃だったかと思う。もしかしたら大学生の最初のほうだったかもしれないが、そこらへんの記憶は曖昧。非常に痛烈に覚えているのは、この本の中に収録されている『ソマリア、サッチ・ア・スイートハート』という短編で、これに僕は衝撃を覚えたのだ。自分の力でどうしようもない感じというか、今流行りの言葉でいうと(もう流行ってないかも)NTR体験にも近いものがここには込められていて、しかももっとグロテスクでおぞましい感じ。この辺から僕の性癖は狂ってきたのかもしれない……舞城め……

 久しぶりにこの小説を読み返してみて、しかし『ソマリア、サッチ・ア・スイートハート』を最初に読んだときのような衝撃が再生されなかったのは少し残念だった。多分僕の中であの感覚は血肉化してしまったのだろう。さながら男たちがロマンを込めて日々酒場で語った、あの幻想を閉じ込めた小屋に足を踏み入れてしまったかのように。あれ、あの小屋の名前はなんだったっけ?いやそもそもその話が出てきた映画はなんだった?そしてそれを紹介していた本の名前は?僕は忘れていることが多すぎる。

 恐らくそれは悪いことではないだろう。『ソマリア』の中のエッセンスは僕の中に幾分根付き、それゆえに再読時には衝撃は少なくなっていた。代わりに以前よりも冷静に小説を読むことが出来るようになっていたし、同時にその他に収録されている話を以前よりも情感豊かに受け取ることが出来た。年を取ったからかどうなのかはわからないけど、あの時受け取れなかったものを今受け取ることが出来るようになっているということは素直にうれしいものだ。

 ところで上記引用にある「トトロみたいなのとドカーンと遊ばないと」というのは表現的に面白いし、現象的にも面白い。
幻想を提供しているという意味で、非常に疲れて摩耗した人が宗教とかに走り始めるのを少し想起させる。

 つまり、そもそも防衛とは過剰に行われて自然なものなのだ。
(p.22)

「俺は《マタギ》だって」
 と井上は言って部屋を出ていく。
 分かってない。
 この世には《手負いの熊》ばかりがいて、《マタギ》など存在しないのだ。
(p.24)

「何考えてるんだよあんた!もう早く病院行ってこいよ!」
何考えてるって……別に何も考えてないんだよ。わかんないかな。
(p.28)

暴力は伝染する。それを伝えるのはムードやトーン、つまり空気の色や温度と風の調子だ。でももう一つ暴力を伝達する方法がある。それは一発殴られたら一発殴り返す復讐の原理が人間性に歪められるがゆえの拡散だ。
(p.32-33)

「そもそも全てが無意味だよ。俺のお父さんは頭がおかしい」と崇史が言うので、俺は「でもこいつらみたいにクソじゃない」と言い、それから付け加える。「まあたぶん別のタイプのクソなんだ」。
(p.55)

「俺は責任をとるのがせいぜいなんであって、本人のかわりに反省はできねえよ。反省は本人の仕事だ」
(p.60)

 崇史は《父親コスプレ》をするなと言う。《親父イメクラ》はいらないと言う。《親父モード》に入るなと言う。
 これはつまり、口ばっかりで物を言うなということだ。
 役割で物を言うなってことだ。
 本気で思ってることを言えってことだ。
 そうだ、言ってることを本気で思えってことだ。
(p.74)

* * * * * * * * * *

「ふり」も演技も、長い時間をかけてやってれば、だんだん本物に近くなる。次第に「ふり」なんだかマジなんだか判んなくなる。
(p.98)

「もっと勉強しなくちゃなあ」と僕が言うとりえは言う。「ゆっくりでいいんだよ。これ以上勉強したら、人生じゃなくなっちゃうもん」
(p.125)

「犬くんも猫ちゃんも、満腹になるとゴロゴロして太ります。満腹にならないと、食べ物を探しうろうろしますよね、それがまたちゃんと運動になるんです。動物は、やっぱり食べ物を捜し歩いて運動するようにできているんですよ。」
(p.145)

* * * * * * * * * *

 何も判らない年齢の子供の身に起こる近親相姦は子供を嫌悪感罪悪感に苛ませながらも家族のほかに頼る世界はなくてどこか観念させてしまうが、淳一は変態過ぎたので杣里亜は諦めずに必死で逃げた。
(p.162)

「別にぶち殺してないよ。ちょっと殺しちゃっただけだよ」
(p.202)

 友達って不思議だ。友達になると思った瞬間に、もうある程度ちゃんとした友達なのだ。
 つまり友情も愛情も、大部分は振る舞いとか作法なのだ。
(p.211)

淳一の好き放題はもうエロってレベルじゃなかった。「アニマルやな~」と俺はおどけてみせたけど杣里亜も智春も笑わなかったし、冗談にするには飛距離が足りなかった。
(p.212)

 友達って、どこかが良くてなるもんでもないのだ。
(p.246)

対話375 池上 彰 『伝える力』

2011.09.17.20:51




読書時間:20分
個人的読みやすさ:A


何かを調べるときには、「学ぼう」「知ろう」という姿勢にとどまらずに、まったく知らない人に説明するにはどうしたらよいかということまで意識すると、理解が格段に深まります。理解が深まると、人にわかりやすく、正確に話すことができるようになります。
(p.22)


 「誰か」の視点を意識してなって物事を見るということは万能のスキルであり、ある意味学習の本性でもある。

 以前、僕には「外国人になりきったつもりで街を歩いてみる」という習慣があったんだけど、これをしたときに見える街の斬新さは非常に面白い。
 受け取れる情報量が格段に高まるし、そこでは何か変な意味づけが発生したりもする。

 上記の引用にあるような、何かを発信する際に自分が受信する側になりきってみるというのも非常に有効であるだろう。
僕は残念ながらあんまり今のところ自分の書いたブログをちゃんと見なおすという習慣がないんだけど、これもたとえば渋谷らへんにたむろしてそうなギャルの気持ちになりきって文章を見なおしてみれば、その読解難易度の下落は凄まじいものになるだろう。まあギャルの気持ちになりきったらそもそもこんな文章は1行目から読まなそうだけど。

 
 叱るのは、あくまでも「一対一」を原則とすべきです。
(p.84)

 その際には、私の実感としては、キーボードで打ち込んでいくよりは、鉛筆やペンを使って手で書き写していくほうがより勉強になるような気がします。
(p.108)

 自分で書いた文章を客観的に見るためには、音読してみることも効果的です。
(p.129)

 Aの視点は、○△鉄道会社にあります。○△鉄道会社を守護にするということは、○△鉄道会社が言いたいことを伝えていることになります。○△鉄道会社の主張を代弁しているとも言えます。これでは、視聴者の心に響きません。
(p.155)

 話し下手、プレゼンテーション下手なビジネスパーソンは、落語を聞いて見るのも、一つの方法でしょう。
(p.194)

対話374 西尾 維新 『囮物語』

2011.09.17.20:08




読書時間:2時間
個人的読みやすさ:A


人を好きになるのに理由はいらない――ってのも、一瞬だけ納得しそうになる聞こえのいい言葉だけれど、そんなわけないでしょ。さっきも言ったけど、どんな理由でもいいから、理由はいるよ、たとえ後付けでも。たとえそれが、自分にしかわからない、誰にも納得してもらえない理由でも」
(p.179)



 今更の『囮物語』レビュー、という感が満々に漂っているので、いくら『囮物語』レベルの人気作品であっても、内容とはほとんど関係ない自己満足の読書感想文を僕がこの辺境のブログの地で書き散らしたとしても誰からも文句は言われないだろう。そもそも、僕は基本的にここでの読書感想文では、その本から触発されたことを書き散らしているだけなのだ。
 ということで、『囮物語』の内容には特に触れず、上記の引用について思ったことを。

 理由付け。それはかなりの部分、意味付けと言い換えることが出来る言葉。
上記の引用はかなり的を射ている表現だなあと思う。意外にも、というか、少なくとも僕の経験ベースでは、何か端的な理由があって何かを始めるとか、あるいは何かを変えるということはなかったりする。

 心理学ではよく言われることだけど、人間の「記憶」というものは必ずしも過去の再生を意味しない。
どちらかというとそこで行なわれるのは「過去」の再創造だ。
新しく創るのだから、ところどころ「正確」ではないところがあるし、そこに付与された感情だとかもその時のコンテクストとかで変わってくる。記憶の再生、特にエピソード記憶の再生は存外クリエイティブな作業なのであり、ある種「物語」を作り出す作業にそれは似ている。

 つまり、今明確な理由を持って何かをしているのだとしても、それはその後に作られたストーリーに則って動いているのであり、初動はそこまで関係なかったりするわけなのだ。
そういう意味で理由は、意味づけは、物語は、非常に後付け的に人生に張り付けられている。

 では何故理由がその後必要になってくるのか?というところへ次に思考が移動する。
最初明確な理由がなく始まったものでも、上記の引用のように「明確な理由」をしばしば必要とする。それは他者から求められる状況が多いというのもあるし、自分自身が求めるということもある。

 理由とは「固定化」させるものだ。偶発的に生まれたもの――たとえば恋心――を固定化させるために、理由が、意味が、物語が、言葉がという魔法が必要なのだろう。それを欠いたものはよりイメージだとかフィーリング、直観に近くなる。こうしたものは言葉という固形物に比べ、より流体的であり移ろいやすい。明確に言葉で表わされる理由というのは自分自身を縛るために、それに固執するために必要なことだ。

 と、ここまで書いたところで逆の考えも同時に生まれてくる。
つまり、理由という言葉を用いることで、固執化を逃れるという考え方である。

 これは上に書いたことと相反するが、しかし同時にそういうこともあり得るという気もしてくる。
じゃあどっちやねん、っていう話になるんだけど、言葉に(つまり理由に)落としていないものと言うのは不定形というか、今一実態がつかめておらず、故にそれから離れることが出来ないという現象がある。

 ストレス対策の一つの方法として「何故それが嫌いなのか」をノートに書かせて、それを対象化することにより心の平静を得たり原因を解決したりという方法があると思う。僕が言いたいのはそのことである。
 なので、好きな理由を述べさせることによってよくわからない存在であったそれを対象化させ陳腐化させるという方法も同じくあり得る。

 んじゃーここで月火ちゃんが狙っているのはどっちなの?と考えてみると多分前者あるいはどちらでもないのだろうけど、理由を考えたり意味づけを狙ってみたりして「言語化」させたほうがその場合良いのか悪いのか、そもそも「言語化」させることの効力とは何なのだろう?あ、ちなみにこの小説は超面白いので今まで物語シリーズ読んだことない人も試しに読んでみると良いと思うよ。ぐだぐだの感想文で御免申しあげます。

「被害者って楽でいいもんねえ。みんな同情して、やさしくしてくれるもん。被害者軽視なんて言葉もあるけれど、あれも『加害者も被害者だ』って言ってるだけだもんねえ」
(p.35)

『事件』になって、それを『解決』するというのは、大切なひとつの『ぎしき』のようなものなのだと言います。
(p.44)

「困ったときに謝ってすませてしまうのは、とてもよくないことなんだよ――ごめんですめば警察はいらないといいうあの言い回しの意味は、みんなが思っているよりもずっと深い」
(p.57)

「被害者なんていねーんだよ。この世にいるのは加害者だけだ――どいつもこいつも、とんだ勘違い野郎ばっかりだぜ」
(p.60)

「そ、そんなの見つけられるわけないじゃない……、つまり何もわからないってことじゃない」
「まあ、そういう言い方もできるな」
 そういう言い方しかできません。
 日本語の表現の幅はそこまで広くはないです。
(p.100)

「いやいや、本当にわかっていないのは、自分が子供だっていうことではなく、子供っていう存在が、世間からどれくらいいかがわしい目で見られているのか、わかっていないということなんだ」
「……………」
(p.132)

「よかったの。たまたま可愛くて」
(p.150)

「な、なんのことかね……」
 動揺のあまり語尾がおかしくなってしまいました。
 古典の推理小説の犯人みたいです。
 意外と場にはそぐっているとも言えますが……
「しょ、証拠でもあるのかね……」
(p.165)

「………………」
 ええ。
 茫然自失としていても始まりませんね。
 では、これから撫子が悲鳴を上げます。
 ご清聴ください。
 せーのっ。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
(p.183)

「人間に自主性なんかあるか!ちゃんと面倒を見て世話をしろ!」
(p.204)

「周りの連中が信じられないくらい当たり前のことだろうが、そんなことでいちいち傷ついてるんじゃねえ!繊細過ぎるだろ、ああん!?」
(p.210)

「可愛いだけのガキなんぞ――我が身が可愛いだけのガキなんぞ、見捨ててやればよいのじゃよ。博愛主義もいい加減にしろ」
(p.249)

 確かに憑き物なら、落としどころもあったかもしれないけどね。
(p.256)

「本末は最初から転倒してるよ」
(p.270)

 気が変わり。気が変になりました。
(p.271)

「もしも違う形で出会っていれば――撫子と戦場ヶ原さんは、友達になれたかもしれないね」
「いやそれはない」
 即答で否定されました。
 歩み寄りの余地なく。
「悪いけど私はあなたのような可愛いガキが、昔の自分より嫌いなのよ、千石撫子さん」
(p.278)

対話373 田嶌 誠一 『イメージ体験の心理学』

2011.09.17.19:40




読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:B


 特徴的なことは、いわゆる「解釈」はほとんど与えないということである。イメージ中の体験それ自体を、もっとも主要な治癒原因と考えるのである。
(p.50)


 人間の持つ「イメージする能力」および「イメージする技法」について、今まで読んだ本の中で最も平易かつ体系的にまとまった本。僕は以前からイメージストリーミングという能力開発法とイメージ療法の同一性について指摘してきたが、なんてことはない、この本が創刊されたその年にすでにそれは指摘されていたことだった。

 この本は非常にバランスがよい。
イメージする技法にはどのような種類があるのかがきちんとまとまっているし、基本はイメージを心理療法として使う場面を紹介しながらも、後半ではこれが「健常」者相手にも使え、恐らく能力開発に使えうるということも示唆している。しかもイメージ関係の本にありがちな右脳信仰みたいなところにも警鐘を鳴らしており、誰かにイメージを扱うということについての大体の概要が書いてある本を勧めるときはこの本がよいだろう。正直、この本の著者である田嶌先生のいる九州大学への院進学を考え始めるほどである。

 もともとイメージに関しては僕はイメージストリーミングと名付けられた能力開発法から入り、割とそれに馴染んでいるということもあってそれなりの知識やら洞察やらはあるはずだったのだが、特に上記の引用で示したような「イメージは解釈するまでもなく、それを顕すだけで意味があり効果がある」との指摘は非常に腑に落ち印象的である。

 古典的な、いや恐らくは現代でもなされているであろう「相手に夢の内容などのイメージを記述させ、それを分析者が解釈する」といった方法は、患者が物語をつくるのを助けるという意味で有用性はあると思いつつも、それがあらぬ方向へ行ってしまう時も必ずあるはずだと僕は思う。「自分の納得出来る物語」を生成することが心理治療においては重要になってくるが、あまりにも恣意的で外し過ぎた解釈は逆に害になり得るだろう。

 しかし、ただ単にイメージを記述するだけで効果が出るというのであれば、もはや治療者に求められることはその分析ではなく、イメージを表現させるのを手助けする観察者としての立場である。これは様々な点で非常に優れている。何よりも患者は治療者に依存する必要性が相対的に落ちるというのがポイントだ。

 また、能力開発を目的にするにしろ、その心理状態が大きくパフォーマンスに影響を及ぼすのは間違いなく、そういう意味で応用的なイメージテクニックを用いずとも、基本的なイメージストリーミング(目をつぶって現れたイメージを描写する)で全体のパフォーマンスが上がるのにも説明がつく。心理療法的効果以外にも能力向上に寄与している要素は他にもいくつかあるだろうが、僕はこの点を今一明文化出来ていなかったのでこれは一つの発見であった。

 有名なのは、イギリスの心理学者リチャードソンの分類である。彼はイメージを記憶心像(記憶イメージ)、想像心像(想像イメージ)、残像、直感像に分類している。
(p.19)

 イメージは時にもっと劇的な変化を引き起こすこともある。かつて、私たちに心身相関という現象をあざやかに示してくれたのは、催眠や暗示の領域の研究である。とりわけ有名なのは、九州大学心理内科で池見酉次郎らが1963年に行なった実験である。
(p.34)

 しかし、だからといって私たちは単純な右脳信仰に陥らないように気をつけなければいけない。おそらく、重要なのは両者の共同関係と統合であり、イメージを体験することが担っているのは体験の全体性の回復であると考えられるからである。
(p.38)

 以上のようなイメージ内容の展開を見れば、結局、彼が対人恐怖を克服するためには、「父殺し」「母殺し」という精神内界のドラマを経る必要があったということになる。
(p.56)

 イメージの心理療法的利用のスペクトラム (Singer, J, L,. 1974より引用)
(p.65)

 彼の方法は、患者に水晶球を凝視してもらうというもので、非常に容易にイメージが水晶球の中に現われ、視野いっぱいになる人もいるという。
(p.67)

 しかし、ユングはこの方法が分析の手段としては、無意識の「ガス抜き」をして成熟を早めるという点で、夢分析よりも優れていると考えてはいたが、夢分析ほどには使わなかった。というのは、そういう優れた点がある反面、イメージの中にすさまじいものが出現し、無意識の力に圧倒される危険性があると考えたのである。
(p.73)

 つまり、重要なのは、イメージの底にある、イメージがそこから生じる母体となっている基本的な過程であり、それと自分自身との関わり方である。換言すれば、その基本的過程とイメージとの間の風通しがよくなること、そうなるような関わり方を本人自身ができるようになることが重要なのである。
(p.115-116)

 つまり、夢と昼間のイメージとは相互に影響を与え合っているという面がある。
(p.120)

 これに対して、戦術のような見解では、夢の中では昼間の経験を消化して、イメージ界の新たなまとまりを形成しようとしているのであるから、夢の中に昼間の経験のイメージがたくさん登場することは必然であり、しかもそのことに本質的重要性があるということになる。
(p.134)

 先に、壺の中ではフリー・イメージにくらべより深いものが出現しやすいと述べたが、これは興味深い重要な現象と思われるので、もう少し考えて見よう。この現象は、壺というイメージが持つ(例えば「母性的なもの」といった)象徴的な意味に触発されたという面もあろうが、それだけでは説明しがたいものであり、他にもいくつかの要因が作用しているものと考えられる。
 その一つとして、壺がいわばイメージにおける「枠」になっている、とでもいいうる面がある。
(p.157)

 例えば、精神科医の神田橋條治は、精神分析病者に「拒否能力」が乏しいことを指摘している。つまり、精神分析病者は自分のこころに(治療者を含めて)他者が踏みこんでもうまく拒否できず、その結果、混乱してしまうというものである。
(p.161)

 ひとつには、○○症などと診断された病気の人だけではなく、とくに病気とはいえない「健康」者にも、精神健康を高めるためにも役立つ。
(p.174)

 そして、イメージはからだの声を聞けるようになるための媒介として活用するのがよい。
(p.185)

 ここで興味深いのは、黒岩選手を育てた前島孝のイメージ・トレーニング法では、成功イメージを浮かべようとしても浮かばないで、逆に失敗するイメージが浮かぶ場合、それを無理に成功イメージにすり替えるのではなくて、その場面を受け入れるようにするのがよいとしていることである。
(p.194)

対話372 渋沢 龍彦 『黒魔術の手帖』

2011.09.17.17:07




読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C


 タロックを用いるひとが、それぞれ独自な解釈を引き出せばよいのである。こんなことをいうと、いかにもあやふやな無責任な説明のようだが、だいたい魔術というものは、どんな種類の技巧呪術であれ、決して一定した理論によってことごとく合理的に説明し切れるものではない。魔術を用いる人間がつねに問題なのだ。
(p.78)


 まず、引用のページ番号は渋澤竜彦全集2におけるものであり、リンク先に示した文庫版のものではないのであらかじめ。

 サイエンスとアーツ、その両方の名前を冠した大学なんかにいるとどうしても両者のことについて考える機会が増えてしまって困る。僕の場合、最初に志したのは心理学だった。中学生ぐらいの出発時点はいわゆる”アーツ”としての心理学に興味があったはずなのだが、いつの間にかそれは大学に入る頃には”サイエンス”としての心理学にすり変わっていた。どうやら心理学界隈で“アーツ”としての心理学は受けが悪い、ということを知りつつあったということもあったかもしれない。そこで”アーツ”としての心理学を回収出来そうな認知心理学、および神経科学に興味が転じていくのも、我ながら割と自然な流れなのではないかなという気がする。それが自分の興味の中心トピックでないことはうすうすと感じてはいたものの。

 そのような関心はしかし、もともと抱いていた根元的な関心の前に敗れ去り、結局のところ僕は”アーツ”サイドに還ってくることになる。しかし”心理学”としてアーツをやることは、内部に少しでもいれば判ると思うが少々息苦しい。では自分のいるべき場所はどこか?を考えた。哲学、科学哲学、現象学、文化人類学、心理人類学、医療人類学、人間科学、あるいは臨床心理学……?この辺の枠組を右往左往しているのは今でも変わらないけど、とにかく”アーツ”を研究課題として扱おうということがはっきりしてきたことが、僕が4年ばかし大学に通ったことで得た一つの発見なのだろう。

 そしてアーツと言うものを考えたとき、現代では荒唐無稽とされる「魔術」「呪術」についてしばしば考えざるを得ないことになる。皆にとってはどうかはわからないけど、少なくとも僕にとっては確実に。

 もともと魔術というのは人間の文化的本能(と言ってしまっていいだろう)にそこまで逆らうものではなく、むしろ其の本願である。ちょっと医療人類学を齧ればわかることだが、人間の医療にまつわる様々なところに呪術的な思考がある。それは石器時代にまでさかのぼる必要はなく、17世紀の医療は科学ではなくベースに呪術的対応があったし、現代においてもそれに満ち溢れている。でなければ疑似科学と云ふものがこんなにまで溢れているわけがないのではないだろうか?

 何を持って科学とし、何を持って非科学とするかという科学哲学の問題も僕の中で一つの中心的テーマなのだが、それに対立(科学という意味を広くとれば対立すらしないが)する「魔術」「呪術」を探求することも、必然的に一つの中心的テーマになってくる。現在ではすでに「古いもの」「克服したもの」とみなされがちなものは、存外私たちの生態に根深く食い込んでいる。

 そもそも、わたしが何より魔術に心惹かれるのは、「科学の世界では存在が至上のものであるのに、オカルト(神秘学)的宇宙は所有の王国である」というロベエル・アマドゥ氏の公式によってあらわされるような、魔術の基本的性格のためである。
(p.14)

 こんな工合に、カバラ派は知識を重要視する。知識こそは力である。キリストの代りに、申請な知識をあらわす蛇(ウロボロス)が十字架にかかっているような絵があるが、これはこの間の事情をよく説明している。
(p.32)

 薔薇十字団の思想は、しかし、政治的というよりもむしろ純粋に魔術的である。彼らは知識と行動によって、全人類が京大足りえるような世界に近づくことができると信じたのだ。
(p.51)

 幻影が消えても、しかし、彼女たちは失望しないだろう。むしろ一度見たあやかしの夢は、あらゆる日々の貧困や苦痛を色あせさせるほどに、いやまさる強烈な期待の念をもって、彼女たちの今後の生活を律していくだろう。
(p.94)

「逆行の衝撃」を避けるためには、呪術師はどうすればよいか。十九世紀の大学者スタニスタス・ド・ガイタの意見では、第二の補助的な呪いの対象をつくっておいて、第一の呪禁が破られた際の流体の逆行を、第二の対象に受け止めさせるようにする。また別の意見では、呪いを行っているあいだ、魔法サークルのなかから決して出ないようにし、自分の周りに一種の霊気をはって、逆行する流体を跳ね返すようにする。
(p.156)

 精神医学が認めているところによると、ある種のひとびとにとって、教会音楽は色情的な恍惚感を誘発する。
(p.168)

 だから、オカルティズムの思考方法は、当然、科学の方法と違う。実験を基礎としている点は同じであるが、科学のように分析的ではなく、直感的かつ類推的である。いかに知的好奇心が旺盛で、魔術の本をたくさん耽読したとしても、それだけでは秘密の領域に推参するのは不十分であろう。しばしば段階的な、長い自己鍛錬が要求される。
(p.212)

対話371 山田 ズーニー 『伝わる・揺さぶる!文章を書く 』

2011.09.17.16:49




読書時間:15分
個人的読みやすさ:B


たぶん、「かわいい」といった瞬間に、対象に対する観察、自分の中の揺らぎは止まっている。
(p.209)


 最近、ある知人に「あなたはなんでも『面白い』ととりあえず言うことで思考が止まっている」というようなことを言われた。べつにそのこと自体は特に悪いと今も思っていないし、まったく面白いと思わないことに面白いということはなく、ただ単にその適応範囲がやや広いだけなのだと認識しているが、しかし言葉にすることで停止するものは多いということもまた真実であろう。

 僕は会話の空白が嫌いなのか、あまり黙るということが昔から出来ない。しかしまあきっと、そのせいで色々と失っているものがあるのだ。僕が空白を埋めることで得ているものと同じくらいか、あるいはそれ以上に。

 「雄弁は銀、沈黙は金、でも心の中でおしゃべりをしていたらそれはただの金メッキ」というのは僕の座右の銘の一つだが、確かに偽りの沈黙に対して「金メッキ」というレッテルを貼るだけで、何が本当の「金」なのか、あるいはそのようなものがあるかについて考えることにやや逃げ腰であったことは否めない。

 いわゆるエポケー(判断停止)こそが、何かの情報を加工せずに受け入れるには適切なことも多いだろう。
自分の中の雄弁性を捨てる気はさらさらしないが、真なる沈黙という身体性を身につけたいとも同時に思う。金も銀も、どちらも身につけられる大人になろうと思う。

 自分の書くもので人に歓びを与えられるかどうか?
(p.62)

 意見は、ちょうど氷山の見えるところのようなもので水面下には、その何倍もの大きな、その人の生き方・価値観が横たわっている。それが「根本思想」だ。
(p.104)

 説得は相手の「理由」を知らなければ始まらない。
この鉄則を思いだそう。説得というと、自分に都合のいい理由ばかりを集めて、畳み掛けるようなことになりがちだ。だが、これでは、説得力は生まれない。
 例えば、死刑制度に賛成の人が、賛成者の賛成理由だけを集めて論拠にしても、反対者の心は動かない。反対者の反対理由を押さえてはじめて説得がはじまる。
(p.119)

 私は、新米のころは、これらの1人称をほとんど意識することはなかった。でも、以来をして断られたり、うまくいったりと、試行錯誤を繰り返すうち、「読書の代弁者である私」をメインにする形に自然に落ち着いた。
(p.140)

 人によって、さまざまな思考停止のポイントがある。会社では、トップが提示した言葉がよく流行する。顧客第一主義とか、高利益体質づくりとか。(中略)
 カリスマ性のある人のまわりも、やはり思考停止に陥りやすい。
(p.208)

 正直という戦略。
(p.220)

 自分が考えることは、文字や言葉にすることで、最初の思考からは少し離れたものになります。
 本来感じるべきことを、そういった使い勝手に少し難のある道具を使いながら探りあうのが、人間同士のコミュニケーションなのでしょう。
 これは、ある法務教官の言葉だ。
(p.222)

対話370 波平 恵美子 (編) 『文化人類学―カレッジ版』

2011.09.17.16:40



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


クマの肉を食べる饗宴は神を接待する行為としてアイヌの世界観のなかに位置づけられている。したがって、1つひとつの行為が世界観の一角としての意味づけを与えられ、神と人間との相互交渉の物語としてアイヌの人々に理解されていくことになる。
(p.171)


 何を持って文化(宗教)とするかはかなり分かれるところだけど、一つ大きな要素にこの「身体性」があるというのは結構間違いないのではないかなと思う。これは何を持って「宗教」とするかの論議にも関わる問題で、例え信じていようが信じていなかろうが、身体を持って何かの行為を行ない、そこに積極的に見出したにしろ受動的に見出されてしまったにしろなんらかの意味が付与されたのであれば、もうその時点でそれは文化(あるいは宗教)行為になるのではないだろうか。

 それは人類学的用語を使うと"Sympathetic Magic""Contact Magic"という現象を引き起こし、心理学的には条件付けのような効果を生み出す。こうした時、信仰というのは身体性を持って、当人の意志に関わらず組み立てられることになる。いわゆる信仰心をもっていたほうがその深度は高いのかもしれないが、しかし信仰心を積極的に持っていなくてもそれは「自動的に起きてしまう」というのは、日頃自分のことを「無宗教」だと思っている多くの日本人にとっては注目するべきことなのかもしれない。

 C. レヴィ・ストロース Levi-Strauss, Claude (1908~)は、インセスト-タブーを、婚姻で結ばれる集団間のコミュニケ―ションの問題からとらえようとした。つまり、自分の集団にほかの集団の女性を受け入れ、自集団の女性を他集団に送るという「交換」によって、集団は結びつくのであり、このために自集団内での性行為を行わないようにインセスト-タブーがあるとする。
(p.48)

 ところが、ここで、私たちの知覚に非常に興味深い現象がおこる。時計の針の動きを見てはじめて時の経過を経験するにかかわらず、私たちは、逆に時が経過したから針が動いたのだというふうに考える。時計の針の動きによってはじめて認知されたものを、時計の針の動きとは独立して時の経過というものがあり、それが原因で時計の針が動いたのだというふうに逆転っして考えるということがおこるのである。
(p.82)

 リーチは、今日階部分の危険性は、人間の一生についてもあてはまるとしている。私たちは人生の節目という表現を用いるが、この節目は、あくまでも人間が人為的に設定しているもので、自然状態としての人間に本来備わっているものではない。(中略)誕生や死が不浄や危険と結びつけられるのは、人間の一生に人為的に境界を設けるということと、かかわりがあるのである。
(p.86)

 狩猟採集経済が、生態系とのバランスのうえに成立する生業携帯であるのに対し、農耕は、森林や原野の植生を取り払い、地形や土壌を改変し、そのあとに栽培作物を人為的に植えていく生業携帯である。それゆえに、農耕文化は、森林の伐採・火入りによって農地化を行う東南アジアやオセアニアの焼畑農業 swidden cultivation が示しているように、自然環境の秩序を乱す可能性を含んでいる。
(p.115)

 だが、新宗教が社会の矛盾やゆがみを敏感に感じ取って人々の潜在的な欲求にこたえ、ときに時代を先どりしながらここまで勢いをのばしてきたのも事実である。から現在まで、新宗教は人の生につきものの「貧・病・争」の悩みにこたえるべく、庶民の相互扶助組織として機能してきたといえる。
(p.149)

 つまり、サカに憑かれることは、女性にとって、一時的なりとも男女の役割転換を可能にすることになる。タイタの社会で、サカに憑かれるのはほぼ女性のみであり、サカの要求するものが男性を象徴するものや、男性を通してしか手にはいらないものであるのは、タイタ社会で女性が社会的に弱い立場におかれていることの結果といえる。
(p.161)

 シャーマンはみずからが傷つき、いったん死に目に会い、そこから回復したがゆえに、その力を使って他者を癒すことができるのである。
(p.164)

こうした大きな自然環境の違いのなかで何千年あるいは何万年も生きてきたにもかかわらず、生物学的には単一の主でありつづけるという、ほかの哺乳類にはけっしておこらない状態を保っている点で、人間は得意な存在である。
(p.185)

周囲の人々は其の人に見ずも食事も与えず、確実に死ぬものと信じて葬式の準備をすることさえある。それは、ヴードゥー死によって死ぬ人を少しでも早く死者の国(快適で幸せな国と想定されている)へ送り出し、そこで再生の時を待つほうが本人のために幸せだと考えられているからである。
(p.205)

 1970年代に『医療人類学』というタイトルの教科書を著わしたジョージ=フォスターとバーバラ=アンダーソンによれば、医療人類学には次の4つの起源があり、それらは現在の医療人類学の重要な下位領域であるという。
 (1)人類の進化と適応に関する研究および人類の生態に関する比較研究
 (2)病気や治療に関する民族誌的研究
 (3)人類学者と精神科医との協同による「文化とパーソナリティ」の研究
 (4)発展途上国への医療援助の実践から生じた国際的な公衆衛生
(p.211)

 危険なのは、それから病気が感染するとかいう意味ではないことは、遺族が頻繁に死体に接することからでもわかる。考えられる解釈の1つは、第3章でも述べられているように(102ページ以下参照)、呼吸をとめた直後の身体は身体の状態からしても、儀礼的な意味においても、生きているのか死んでいるのがはっきりしない、あいまいな状態であり、そのような中間的な状態は、危険視されやすいということである。
(p.236)

それは通過儀礼がその文化における人々の世界観および社会関係を明白に示すことが多いからであり、儀礼において男性と女性との区別を明確にすることは、世界観と社会関係とを人々に確認させ補強する重要な要だということであろう。
(p.246)

対話369 ドナルド・A. ノーマン 『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論』

2011.09.06.12:29



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:B

可視性 目でみることによって、ユーザは装置の状態とそこでどんな行為をとりうるかを知ることができる。
よい概念モデル デザイナーは、ユーザにとってのよい概念モデルを提供すること。そのモデルは、操作とその結果の表現に整合性があり、一貫的かつ整合的なシステムイメージを生むものでなくてはならない。
よい対応づけ 行為と結果、操作とその効果、システムの状態と目に見えるものの間の対応関係を確定することができること。
フィードバック ユーザは、行為の結果に関する完全なフィードバックを常に受け取ることができる。


 こういう話を聞くと漠然とAppleを思い浮かべてしまうあたりそろそろ林檎信者になってきたのかもしれない。いや僕は普通に窓使いですが。どうしても周りにアップルユーザーが多いと洗脳されていくなー。僕も次パソコン買うときはマックにしようとか思ってきているし。

 さて、人間にエラーはつきものではあるが、そのエラーが起きるかどうかは広い意味での「環境」によって左右されるというのが本書の趣旨であろう。この辺の考えは本文中での指摘にあるようにアフォーダンスの概念そのまんまを導入している。特にデザインを考える際にアフォーダンスの理念はとりわけ有効なのだろうと思う。

 目に見えるデザインに限らず、自分の生活習慣についても同じようなことが言える。すなわちライフスタイルのデザイン。自分の生活に何かエラーがあるなと思ったときは、一度そのデザインについて疑ってみたほうがよい。

 そのとき、上記のリストに沿って考えてみるのも面白い。
人間の生活習慣レベルともなるとさらに状況は複雑になると思うが、逆に上の条件を満たそうとしてもなかなか満たしづらい場合は、何が阻害要因になっているのか(たとえば過去の習慣だとか記憶が阻害しているのか?)を考えることはそこそこ有用なことだろう。

 だんだんと真実は明らかになってきた。私は、ヒューマンエラーや産業自己の研究をするようになった。そしてわかったのは、人がいつでも不器用に行動するとは限らないということだった。いつでもエラーをするわけではない。人がエラーをするのは、その物がよく考えられていなかったり、デザインが悪かったりするときなのである。
(p.v)

 できることのすべてが目に見えていて、コントロール手段とその表示が自然な反応づけを十分に利用しているとき、その道具は使いやすくなる。
(p.38)

 叙事詩の記憶に関する古典的な研究は、アルバート・ベイツ・ロード (Albert Bates Lord)が行なっている。彼は、ユーゴスラビアで今なお口承文芸の伝統を守っている人々を見いだした。そして、叙事詩を学びそれを村から村へ旅しつつ朗唱する「話の歌い手」は、暗唱しているのではなく、実は、韻やテーマや話の筋や構造やそれ以外の特徴などに従うようにその場で急いで作り上げながら、その詩を採光性しているであるということを示した。
(p.98)

 時には、可視的にできないものもある。その場合には音を入れるようにすればよい。音は他の方法では伝えられないような情報を提供することができる。
(p.164)

 スリップの中には行為の類似性から生じるものもある。また、外界のできごとがその行為を自動的に引き起こしてしまうというスリップもある。私たちのもつ考えや行為が意図していなかったことを思い出させて、それを実行してしまうこともある。このようなスリップは、乗っ取り型エラー、記述エラー、データ駆除型エラー、連想活性化エラー、活性化消失エラー、モードエラーの6つに分類することができる。
(p.172)

 心理学者がよく研究してきたのは、日常の作業ではなかった。研究の対象とされたのはチェスとか数学のパズルとかで、よく考え努力しないといけないものだった。
(p.202)

 ミステーク、それもとりわけ状況を解釈し損なったことによっておこるミステークには、気づくまでにずいぶん時間がかかる。
(p.208)

フィッシュホフはさまざまな状況を提示して、被験者にそこで何が起こるかを予測させた。彼らの予測が正当と一致したのは偶然程度の確率でだった。次に、他の被験者の人たちを対象とし、同じ状況を今度は実際に起こった結果の記述とともに提示した。そして、その結果がどれくらいありそうなことだったかを判断させた。すると、実際に起こった結果を知っているときにはそれがもっとも起こりそうだと判断され、他のことは起こりそうもないとされた。実際の結果がどうだったかを知らないときには、それぞれの選択肢のもっともらしさは、まったくこれとは異なるように判断されていたのである。ことが起きてしまった後から振り返れば、いったい何が当り前のことなのかを判断するのはずっと容易なのである。
(p.210)

 微妙なものではあるが、多くの事故の中で目だってくるのが社会的圧力である。(中略)社会的な構造がどうなっているかを知ることは物理的な構造がどうなっているのかと同じくらい、ミステークを理解するためには本質的に重要である。
(p.210)

デザイナーがすべきことは以下のようなことだろう。
 1 エラーの原因を理解し、その原因が最も少なくなるようにデザインすること。
 2 行為は元に戻すことができるようにすること(すなわち、"undo"できなくてはならない)。そうできないとしたら、元に戻せない操作はやりにくくしておくこと。
 3 生じたエラーを発見を変えてみるべきだ。それを使っている人は作業をしようと試みているのであって、そのために不完全ながら目標に少しずつ近づいてきているのであると考えてみること。ユーザがエラーを犯していると考えるべきではない。ユーザの行動は望んでいることに少しずつ近づこうとする試みであると考えること。

 もっとよいものもある。それは産業工学の創始者の一人のドボラクによって苦心の末開発されたドボラクキーボードである。ドボラクキーボードは学びやすく、タイプ速度もだいたい10%は速くする。しかし、その程度の改善ではキーボードの世界における革命を断行するだけの価値があるとはいえない。何百万ものタイプライターも改造しなければならない、現在実際に行なわれているということ自体が強い制約となって、変化をさまたげるのである、その変化が改良につながるものであっても。
(p.242)

 何か問題が起こると、人はそれに焦点を集中してしまい、他の要因には目を配らなくなりがちである。
(p.270)

 デザイナーの問題に戻ってみたい。時間と経済的な圧力がデザイナーにのしかかっているということはすでに述べた。ここでは、二つの致命的な誘惑について述べる。これらの誘惑は、軽率な人を誤らせてしまい、また、製品を過度に複雑にしてユーザを混乱させることになるのである。私はこの二つを、なしくずしの機能追加主義と誤ったイメージの信奉と呼んでいる。
(p.281)

 なしくずしの機能追加主義は一種の病気は、すばやく対処しなくてば致命的になる。
(p.283)

 道具は単に私たちが何かをするのは簡単にしてくれるというだけではなく、私たちが自分自身や社会や世界を見る見方に多大な影響を及ぼしている。
(p.345)

 ハイパーテキストは、文章の体系のなさをまさに活用し、文章の体系のなさを活用し、アイディアや考え方を意のままに並べることができるようにしたものである。筆者はとにかく自分のアイディアをポンと投げ出して、それを関係していそうだと思ったページにくっつけてしまうのである。
(p.350)

 しかし、私たちが暮らしている生活場面における毎日の作業で、そのような問題が生じないのは、私たちは外界から切り離されて生活しているのではなく、外界と緊密にインタラクションを行ないつつ、外界の情報に依存しながら、「外界と結びついた (re-emnbodied)」認知処理を行っているからといえよう。
(p.400)

対話368 西 研、 佐藤 幹夫 『哲学は何の役に立つのか』

2011.09.06.11:53



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


 整理しますと、困難な問題がたくさんあるということはみんな知っている。しかし、そこに、諸問題に対して何とかできる、自分も手伝っていけるというストーリーが不在なのです。そして「一方に飢えている人たちがいるのに、先進国の人たちはたらふく食っている」というような、罪悪感を与える言い方ばかりがめだつ。南北問題、環境問題について説得力のあるストーリーをつくり出す努力があれば、若い人たちも関心をもち参加するようになるはずです。
(p.180)


 人々を動かすのには優れた物語が必要なのはもはやいうまでもないことで、うまく物事が進んでいないところには必ずそれをドライブさせるための物語が欠けている。
こういう事象はあらゆるところで観測されているのであり、非常にミクロなレベルでみれば個人、すなわち自分をどうやって動かすか?というところにまで繋がることになる。
 物語が優秀である必要は、おそらく少し前まではそれほどなかったのかもしれない。
すなわち価値観の多様性だとか、情報を簡単に入手できてしまう現代の特性というのがあるからこそ、「良質」の物語が必要になったのだろう。閉ざされた世界の中では選べる選択肢は少なくて、だからこそ人々は迷う必要もそれほどなかったのだから。

 選択肢が多ければ多いほど人間は不幸になるとどこかで読んだ。
それは確かにそのとおりだなと思う。選択肢が多いとき、人はなんらかの手段を用いて自分の選んだものに「確信」を感じなければならない。すなわち、そこに「運命」を見出していかなければならない。

 それがなければ足場はいつまでも不安定で、確信は消えうせ輝きは消滅する。
それをさせないためにたとえば知識を集めてみたり、何か絶対の信条を持って自分を属性化したりする必要が出てくる。
情報が多くなった社会だからこそ、そういう新しい「スキル」が求められてくるわけだ。

 そしてそれと同時に、他人(自分も含むが)を動かす場合にも新しいスキルが必要となる。すなわち「良質の物語」をや。
いくつも並列関係に物語が乱立している今だからこそ、物語の質を高める必要性が出てきてしまった。
物語の世界も資本主義化しているというか、激しく生存競争に巻き込まれているのだろう。

 でもこれを逆に言うと、「なぜこんなことが問題にされるのか」さえわかってくれば、読む苦労にも耐えられるし、

 もう少しもっともらしく言い換えると、「自分」という存在の自負、あるいはプライドについての問題、権威やら組織などに依存してプライドを保証しようとする時代は、もう終わりつつあるのではないか、ということですね。
(p.24)

悩みの解決というのは 1.時間がすぎるのを待つ 2.人に話す 3.ぶつかっている困難な出来事を解決する その三つの技法がある、そして精神療法というのは、その三つの方法を技法化したものだ、と書かれているのです。
(p.34)

そのころニーチェに出会ったのですが、ニーチェが教えてくれたことというのは、本当の生き方というものはどこかにあるんじゃない、ということです。<人生には「到達しなければならない最終地点」とか、「人として果たさなくてはならない絶対の義務」というようなものがどこかにあるわけではない。
(p.42)

役割と承認の関係で鍛えられていないと、自信ももてないですし。
(p.58)

 まず哲学のほうから言いますと、哲学は「こっちがカッコいいんだよ」ということを提出するのではなく、「いろいろな価値観をつくり出して生きている人間というものはどういうものか」を考えるわけです。ですからそこには、人間存在の基本の条件のようなものを、あえて突き放して見ていく視線があります。
(p.84)

 ところで、プラトンや近代哲学の「哲学的な思考法」を煮詰めたものが20世紀のフッサール現象学なのですが、これはじつは、批評の方法ととても近いんですね。
(p.86)

批評のほうが、価値を形成するという課題からするとより直接的な方法だと思いますが、批評もまた、個人から出発しつつ「他者一般」へと向かおうとするものなので、そこから哲学的な人間論が生まれてきても不思議ではない。
(p.88-89)

 自由を求める欲求は、近代においては、理性と結びついています。「理性は堅苦しくて、自由とは正反対なんじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、近代においては、理性こそが自由を可能にするもの、と考えられてきたのです。
(p.102)

ぼくも体調が悪くなると完全主義者になりやすい(笑)。体調がいいといい加減になって、物事をどんどん進められるんですが。
(p.111)

 言語によって私たちは物事を名指し対象化することができます。たとえばある感覚を「さびしい」という言葉で呼ぶとき、そうすることで自分の感覚を「対象」化できる。言語によって、感情を生きるだけでなく、感情に「向き合う」ことができるようになる。
(p.113)

 自閉症の子にもタイプがあり、その現われもかなり厳しく現われる子、比較的やわらかな子といますが、総じて言うならば、相対の世界ではなく、一対一対応の世界を生きている、と言えます。
(p.126)

 それで西さんはとても端的に「技能」「ルール感覚」そして「関係の能力」、この3つの習得が教育の目的なのだと言われています。そしてこれらの基礎の上に、生活する力、生きていく力がつくられていくのだということが含意されていると受け取ったのですね。
(p.136)

『精神現象学』全体が人間的意識の高次化のプロセスなのですが、とくに「理性」の章の「事そのもの」という箇所は見事にそれを描いていて、はじめて読んだときとても関心したことを覚えています。
(p.145)

 そういう努力のなかで、「こういうのが本物だ」という理想が次第に脳裏に結晶してくることになる。これがヘーゲルのいう、「事そのもの」なのです。
(p.146)

現象学は「内省」の方法をとるもの、つまり「なんとなくわかっていることをより明確に了解しようとするもの」であって、統計やフィールドワークによって見えてくることまでカバーできるかというと、そんなことはない。現象学は社会学に取って代わることはできないのです。
(p.164)

 ぼくらの世代を含む若い学者に顕著だと思うのですが、「弱者に弱い」ということがあります。弱い人のそばに立とうとするので、弱い人に文句が言えないのですね。
(p.173)

 社会のあるところ、正義の観念もまたある。だとすればその核心は何か、ということになりますが、とてもシンプルに「人びとが平和共存できる必要から生まれる、正しさの感覚」というふうに言ってみたいと思います。
(p.191)

<実感はもちろん誤りうる。しかしいま自分はこう感じているんだな、ということは確かめられる>。これが、現象学のカナメとなる命題なのですね。いったん自身の感触に信をおくことがないと、自分の思想をかたちづくっていくことができなくなります。訂正しようにも訂正すべき土台がないような状態になるからです。そして結局は、何かの流行の理論を支えにするしかなくなる。自分の感触を掘り下げていくことによって自分の思想を鍛えていく、という「批評」の手つきが禁じられてしまったこと、これはポスト・モダン思想の最大の問題点だと思っています。
(p.221)

自分自身の感触の「核心」にあるものは何か。それをハッキリと取り出すこと。さらに、それがこの社会の他の人びとの感触とどの程度重なり、あるいはズレているのかを検証すること。――現象学や文芸非常がつくり出してきた「思想の流儀」はこのようなものでした。
(p.222)

 たしかにカントのように耐えざる自己吟味をよしとする思想家もいましたし、不特定多数の人間たちを集めて管理する技術(規律権力の技術)を近代が発達させたのも事実でしょう。しかしそれこそが近代の核心だとほんとうに言えるのか。また、近代的主体が規律権力や告白によって生じたとほんとうに言えるのか。ぼくは怪しいと思っています。
 ぼくがなぜこれらを疑うかというと、近代の動きのなかできわめて重要なのは、むしろヘーゲルが述べたように「自由が認められた」ことではないか、と考えられているからです。
(p.227)

対話367 J.M. シュピーゲルマン 『能動的想像法―内なる魂との対話』

2011.09.06.11:37



読書時間:1時間30分
個人的読みやすさ:C


 この試みにおいて、われわれは、神秘家や詩人と再度触れ合い、「心理よりも魂を、感覚よりもイメージを、全体性よりも個別性を、論理と認識よりも美とイメージすることを、意味よりも事物を、知識よりも知覚を、真理よりもレトリックを、人間よりも動物を、自我よりもアニマを、なぜ (why)という質問よりも何 (what)と誰 (who)という質問を、より高く評価するようになる」でしょう。
(p.80)


 僕がやっている「イメージ・ストリーミング」の源流ともいうべきユングの能動的想像法について書かれた本。
ユングの能動的想像法はユング自身が重視していたにも関わらずあまり有名ではないが(おそらく臨床心理学専攻の学生でも知らない人は結構いるんじゃないかと思う)、「イメージ」をどうやって日常に溶け込ませ利用するか(調和するか)を考える上ではかなり重要な本ではないかと思う。

 ユングの考えた能動的想像法はイメストに比べてイメージ上の対話と対決が重視されていて、より意識的・音声的なのだが、これもイメスト的に踏まえれば応用テクニックの一つと考えることができる。実際、締めの部分で河合隼雄が述べているようにこのイメージの利用法はイメストに比べて難易度が高い。というのも、言語を使ったイメージというのは、僕の経験上意識が介入しやすく、どうしても恣意的になりやすいからだ。イメージが自発的に、その意識を持って会話するようになるためには相当レベルにそれが独立していないと難しい。

 興味深いことに河合隼雄が一般人向けに応用した”能動的想像法”はほぼ完全にイメストで用いられる手法と同じである。河合隼雄はここから精神分析的な手法に結び付けていたようだ。ただ、他のイメージ研究ではイメージを自由に浮かべるというその行為そのものに治療効果があるとされている。いずれにせよ、イメスト的手法(あるいは能動的想像法)はそこまで人口に膾炙しているとはいえないものの、今ある瞑想などと並んで、生活に取り入れやすいという観点においても、今後さらに注目を浴びてライフスタイルに根ざすものに徐々になっていくに違いない。

 この本は、C.G.ユングがジグムント・フロイトと最初に決別したときに発明もしくは発見した能動的想像法という方法について、および私自身によるその技法の発展、つまり、文学の分野へのその導入と、それが「心理神話学」という新しいジャンルを生み出したことについて述べています。
(p.ii)

 老婆心ながらつけ加えておくと、能動的想像の相手としては、実在する人を選んではならない。内的現実と外的現実との混同を起こしてしまうからである。たとえば、。自分の親とか恋人とかを相手にすると、そこに自分の願望がまじってきて、その結果を実際に生じることとして確信したりしてしまう。
(p.7)

 しかし、そのときフレイ先生が「能動的想像法を解決を与えるとか、解決法を示すものとしてではなく、方向を示唆するものと考えてはどうか」と言ったことは、今も記憶に残っている。
(p.13)

 芸術家自身が自らの作品によって癒される、ということも自明のことと言っていいほどであろう。自己治癒の努力のなかから作品が生み出されてくる、と言っていいだろう。
(p.17)

 心理療法のことを考えはじめると、宗教、哲学、芸術、科学などといろいろなことを考えねばならなくなり、しかも、「~とは異なる」と言いつつ、相当な重複を認める、とい苦しい態度を取らざるを得なくなってくる。
(p.24)

 湯浅氏は「存思」について、@現代の心理学的観点からみれば、それはさしあたり、無意識領域から生れるイメージを経験する一種の能動的想像 active imagination の技法である、と言うことができる」と述べている。つまり、ユングが今世紀になって自ら考え付いたと思った「能動的想像法」は、東洋においては、文献に現れているものでも、すでに三世紀に行われていたのだ。
(p.28)

 そのいちばん大きいところとして、ユングの場合は、西洋の近代自我の確立を前提として、能動的想像法を行なったこと、そこに必ずしも「宗教的」イメージの出現を前提としないことが指摘されるだろう。
(p.31)

 このようにして、あなたは自分の無意識を分析するだけでなく、あなたの無意識があなたを分析する機会を与えることになります。このことにより、あなたは意識と無意識の統一体を次第に創ることになるのです。
(p.38)

 シュタインプレッヒャーのやり方をみると、ユングの能動的想像法と「指示的空想法 (guided fantasy)」と呼ばれる多くの方法とを対比して考える必要があります。この後者の方法は治療者や師が瞑想すべき特定のイメージを与えたり、従うべき指示を与えたりするものですが、ユングのやり方はむしろ「魂のことは魂に語らせよ (Let the soul speak for itself)」(テルトゥリアヌスの有名な言葉)というものです。
(p.42)

 この能動的想像法の概論を終えるにあたり、この方法を試みることで得られる効用を要約しておきましょう。
(1)被分析者は分析者にあまり依存しないですむ。
(2)無意識の意図を知るのにあまり夢に依存しなくてよい。
(3)意識が広がる。
(4)(略)要約するなら、この方法はユングの経験したものを自分の力で確かめることのできる理想的実験方法である。
(5)この方法により全体性、人格の統合、超越的機能に達することができる。
(6)ユングの「超越的機能」についての論文の終わりの文章を引用するなら「この方法は自分の努力で自己解放が遂げられるものであり、自分が自分の自己でありうる確信を見つけるためのものである」。
(p.43)

 能動的想像法を行なう人々(『真のユング派」)は、行なわない人々(「真のフロイト派」ないし「転移に介入する人々」)に比べ、高いレベルのものが時に必要とされると言われています。
(p.45)

 能動的想像法は錬金術の「精神の結合 (unio mentalis)」の段階を非常によく果たしますが、「結合 (conjunctio)」(肉体との結合)と「一なる世界 (unus mundus)」(世界との結合であり、その体験である)は部分的か、あるいは一時的にしか生じないというのが私の意見です。
(p.49)

 この要約では能動的想像法のプロセスには次のような四つのステップがあることを述べています。(1)心を空にする、(2)ファンタジーのイメージが自然に現れるのを待つ、(3)書いたり対話を行なうことによってファンタジーの登場人物たちにかたちを与える、(4)ファンタジーの素材に対して倫理的な対決を行ない、その結果を実生活に反映する。
(p.61)

 病んでおり、ノイローゼであり、世界に大して適応していないのは、もはや心理療法を受けている患者個々人の魂ではなく、病気なのは世界なのです。
(p.76)

 彼は彼の書簡集のなかでこのことをみごとに述べている。彼は、能動的想像法は、理解することへの欲求(すなわち、意識を高めるための努力)と美への欲求(美しく、心を満足させる表現)の双方を含んでいることを認めたのである。(中略)しかし、ユングは、能動的想像法は芸術の領域ではなく、心理学的な目的をもつものであることを主張して止まなかった。
(p.90)

 ご存じのように、ユングは能動的想像法と芸術との間に厳格な区別をおきました。前者の目的は芸術作品の創造ではなく人格の創造です。
(p.111)

 私は、ユング派の分析かが神話的な物語を書くとき、その結果生まれるこの主の作品を最初「心理神話学」という新しいジャンルと呼びました。
(p.113)

 しかし、心理神話学においては、解釈は――作品の上にあったり、離れているのではなく――その芸術そのものの一部なのです。もし解釈が作品の一部ではなく、プロセスの前進に貢献しないならば、それは無用のものであり、破壊的でさえあります。
(p.115)



対話366 米山 公啓 『医学は科学ではない』

2011.09.06.11:23



読書時間:30分
個人的読みやすさ:A

 医療費を削減していこうとするなら、患者の持つ医療への幻想や、治療習慣ともいえる「風邪は医者へ行けば治る」という行動を、どこかで直していく必要があるだろう。
(p.130)


 (西洋)医学というのは僕らの生活の中ですでに十分溶け込んでいるけれども、他の理系分野(たとえば物理とか?)に比べて人間を扱っている分、より問題はややこしく複雑になっているというか、一概に断言できないことがいっぱいあって、もろもろ色々と考えることも増えるのだなあという話。

 特に治療効果には確実に医師と患者の信頼関係によるプラシーボも含まれるというのが状況をややこしくさせている。つまり面白くさせている。
プラシーボという言葉でくくってしまうとどうしても「本来」の医療効果のおまけ的なニュアンスが含まれてしまうと思うけど、医療の歴史をかんがみてみると、むしろこの「信じる」という力こそが主役だったのではないかと思う。
 「信じる」ことが生み出す力、生理学的に起こしうる現象にはすでに注目が集まっているとは思うけども、それをどうやって有効利用するかについての医療倫理だとかそういう側面はまだまだ開拓されつくされていっていない。これからの医療を考える上でこのへんの問題についての討論が、たとえ共通の結論は出ないにしても、国民レベルで重ねられてしかるべしなのだろう。

 だが、果たしてそれでいいのだろうか。本来、医療が患者のものであるとするなら、正しい治療とは、医学的・統計的に正しいことを選択することではなく、患者の望む選択をすることであるはずだ。
(p.16)

 呼吸器学会が発表したように、風邪はウイルスで起こる病気であるから、細菌に効果のある抗生物質では風邪は治らないことは、当たり前である。
(p.26)

 日本式の平等医療の徹底化は、ある時期まではいいが、患者がもっといい医療を受けたいと望んだとき、今の日本の医療体制ではとても応じられない。
(p.53)

MRIは一気に全国に普及した。だが、それをしようする機会が減ってしまった。医療機関はMRIの使い方をどうするかを考え、そこで登場したのが脳ドックである。
(p.78)

 つまり文明や社会観だけでなく、医学的な視点も外国基準を使うしかないのが日本の医療の現状である。
(p.110)

 もちろん最近ではインフルエンザの治療薬ができて、それを飲めば熱も早く下がることが多い。しかし、その薬を服用しても、インフルエンザにかかっている期間を短くできるのは平均一日である。
(p.129)

 ストレスがかかれば、血液の中で副腎皮質ホルモンが増えることはわかっている。これが軽度増えるなら、からだにとってプラスになって防御的に作用するが、過剰に分泌されると、免疫能力が下がって病気になりやすくなる。
(p.144)

 便利になればなるほど、ITなどの最先端技術が進歩すればするほど、人間の心の中には自然を求めようとする本能のようなものがありそうだ。
(p.163)

 健康食品は情報食品と言ってもいいかもしれない。
(p.167)

つまり健康維持を個人の責任で行わせるために、健康食品の位置づけをはっきりさせているのが、アメリカではないだろうか。
(p.170)

 自分はインチキな治療法などにだまされないと思い込んでいるために、批判的な視点が持てないひとが、どうしても代替医療に流れていきやすいのが現状ではないだろうか。
(p.182)

 ロバート・L・バークによれば、代替医療は医学ではなく、文化ととらえたほうがよく、それは科学的な立証を厳しく要求されない文化だと言う。
(p.189)

 つまり、人類の歴史から見ると、医術、宗教と呪術は同一のものとして出発している。
 そこにはプラシーボ効果があったはずだ。
(p.194)

 医療時間を長くすることは、それで収益を上げるような健康保険制度がなければ難しい。
 つまりもっとも金のかからない医療であるはずのプラシーボ効果を得る医療を作り上げるには、医者が話を聞く、十分に説明をすること自体を、しっかり有料としていかねばならなくなるからだ。
(p.196)

 従来の病院は感染症患者などを隔離する意味があったのだろうが、感染症が減った現在、管理しやすいというだけで、病院というなんとも自由のない空間に閉じこめておくことは、誰にとってもプラスにはならないだろう。
(p.200)

 医学とは、「こうしたほうがいい」というくらいの弱い強制力、あるい指導力というものでしかない。
(p.202)

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