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対話393 尾崎 真奈美, 奥 健夫 (編) 『スピリチュアリティーとは何か―哲学・心理学・宗教学・舞踊学・医学・物理学それぞれの視点から』

2011.10.30.18:52

 筆者は、スピリチュアル・エマージェンシーや精神病に見られる側頭葉辺縁系の機能の非定常状態を、基本的に病気とは捉えていない。人は、だれもが、辺縁系の非定常状態を作り出すことができる。パーソナリティの変容が起ころうとする時、あるいは、身体的・精神的な危機に陥った時、人は、返答用辺縁系の機能の非定常状態にして、ドリームタイムのレベルまでおりて、その危機を乗り越える力と知恵を得ようとするのであろう。そして、脳の器質的な疾患が認められる、統合失調症のような慢性的な疾患については、こちらの世界から「向こうの」世界に入ったまま、向こうの世界から「こちらの」世界に戻ってくることができなくなった病気であると考える。
(p.101)


 宗教における神秘体験を考え、捉え、そして見誤らないようにするために、この本に載っている記述はまことに興味深い。特に、神秘体験を一度した人はそれをまた求めたり、あるいはそのことで自己の優越性を誇示したりするという現象があるのだけど、そこに対する冷静な突込みが記載されている点が個人的にビビっときた。実際、僕自身もそういう風に思っていたこともあったので……

 特に上記の引用は「何故神秘体験をすると、そこから付随して人は何か悟りを得たようになるのか、そして苦行は何故苦行ならねばならぬのか?」ということへの説明率が高くて非常に参考になった。そうだよね、自分を一度不安定な状態にすることは爆発的な力を生む可能性がある。これは体感的にも非常に納得のいく話。HUNTERXHUNTERで言えば、念を使えるようになるための裏の技、つまりこじ開けるということに近いのかもしれんね。

 此岸と彼岸、あちら側にいけるのは何か特別な人だけなのかなと思いきや、むしろ現代社会にはあちらとなんらかの接触を持っている人が多いのだろう。それをコントローラブルにすることを古来の人は魔法と呼び、現代人は阿呆扱いをするというお話だ。

ここでも、「絶対」を「絶対」として、「相対」を「相対」として固定する思考習慣は破られなければならない。「絶対」は「相対」であり、「相対」は「絶対」であるということは、両者が相互に自己を否定しつつ、他者の働きの内に自己を肯定しているという、人格の働きを意味しているのだから。
(p.41)

 そして、舞踏がなかったら神話は存在しない。
(p.58)

 プラトンは、身体のトレーニング法としての体育を、レスリングと舞踏に分けている。さらに舞踏を大きく分けて戦いの踊り(ピュリケー)と平和の踊り(エンメレイヤ)に分けて説明している。
(p.62)

古来から、スピリチュアリティーの発現を司ってきたのは宗教であるが、その方法は多くの部分を言葉を媒介とするため、教条的になりがちなのではないだろうか?
(p.71)

 しかし、至高体験は、一度で終了するものでもなければ、それは、成長のゴールではない。至高体験は、順調にいけば、その後も何度も体験され、それは、やがて高原体験と呼ばれる、畏怖、神秘、驚き、美的衝撃といった至高体験と共通する特定の要素を含みながら、随意的であり、より安定した体験にとってかわられることになる。
(p.79)

 さらに、至高体験後、その高揚感が持続し、一時的な躁状態になる場合もある。彼らは、自分の体験のすばらしさを社会に訴えようとする。彼らの訴えは、しばしば、自己愛的な自己肥大を見せる場合がある。彼らは、至高体験者であることの自負から、自らを「特別な境地に至った、選ばれた存在」と認識し、他者を教育し、自分と同じ価値観を持つことを強要する。しかし、その焦燥感を伴った訴えは、日常生活の中で社会に取り入れられず、そのため、彼らは「なんで、わかってくれないんだ!」といったいらだちをつのらせ、躁のエネルギーは、理解のない社会への怒りへと容易に転換される。
(p.80)

 クンダリニーの覚醒のプロセスは、通常、それ自体の自然なペースとバランスをみつけるものである(サネラ, p.146)が、時には、コーンフィールドが紹介している若者のように、コントロールを失う状態にまで陥ってしまうことがある。そうした場合には、進行を緩めるために、重い食事(肉類など:筆者注)をとる、瞑想を中止する、よく身体を動かすなどの手段を講じる必要がある(サネラ, p.146)としている。
(p.85)

サイキックオープニングにおいて、もっとも危険なのは、その体験への固執である。サイキックオープニングへの執着は、至高体験への執着と同様に、禅仏教で言う魔境の状態とも考えられる。すなわち、超能力の獲得自体が、スピリチュアルな成長の証ではないのである。
(p.88)

 この事例からも示されるように、臨死体験者がすべて至高体験と非常に類似したパーソナリティの深い変容を直接的に起こすわけではないのである。
(p.91)

すなわち、精神病にせよ、スピリチュアル・エマージェンシーにせよ、感覚の過敏化とそれに続く幻覚・妄想は、側頭葉辺縁系の機能が何らかの関与をしていると考えられるのである。
(p.95)

 麻原およびオウム幹部信者たちの過激化の背景には、自己愛的テーマの活性化に加え、「自分の内面的な衝動の本当の源を見つめず、それと類似した状況を世の中でみつけて、それに参画していったり、その中心人物になろうとするアクティングアウト (吉福, 1996, p.199)」の状態があると考えられる。
(p.108)

 彼らは、修行や瞑想や精神的浄化の結果起こったことすべてに魅了されてしまい、自分がいかに悟りに近付いているのか、悟っているのかの証を求めようとしはじめる。そうした執着を、ラム・ダスは、スピリチュアルな物質主義と述べている (ラム・ダス, 1999, p.255)。
(p.108-109)

スピリチュアルな体験の意味は、<存在>そのものへ接する直接的な体験を通し、真理、善、美、および愛など、マスローが<存在価値(B価値;筆者注)>と呼んだ究極的価値に触れ (エルキンス, 2000, p.118)、洞察を得、新しいより拡張した価値観や世界観を作り上げることにあるのだが、スピリチュアルな物質主義は、その意味をとりあげ、古い価値観の中で強引に体験を理解し、その結果、意味から離れ、よりいっそう覚醒の証というシンボルに固着する結果を招くのである。
(p.109-110)

 一番肯定的な表現が多かったのは心の別荘というサイコシンセシスのイメージワークのCDを用いたワークであった。教室内を暗くし、イメージしやすい環境を作って行ったリラクゼーションを促すBGMが背景で流れながら、ゆっくりとした優しい語りで、具体的なイメージを誘導してくれるものである。
(p.125)

 最後に行った握手するワークは、握手をして今までのワークの感想を振り返り、できるだけ多くの人とその感想を分かち合うというシェアリングが中心のワークであった。このワークの感想記述には多くの肯定的表現が見られた。その具体的記述としては「ほとんど教室内には知らない人はいなくなっていて驚いた」「今日で授業が終わってしまうのはとても寂しい」「初回のワークではあんなに緊張していたのに、今では人と出会って会話をするのを楽しいと感じている自分がいる」など、自己の中での変化を感じているような記述は多く見られた。
(p.128)

 仏教瞑想では、サマーディ(三昧:Samadhi)あるいはサマタ(止;Samatha)と呼ばれる集中力を養うタイプの瞑想と、ウィパッサナー(観:Vipassana)と呼ばれる洞察を養うタイプの瞑想が明確に区別される。神秘体験は、サマーディによってもウィパッサナーによっても副産物として発生する。しかし、神秘体験や神秘体験がもたらす喜びなどの心理作用を対象として観察することができるのはウィパッサナー瞑想のみである。
(p.152)

 人は、人生の困難に出会うと人生の意味を問う。そして、その意味を説明してくれる信仰が得られると心が和み、喜びが生まれる。喜びはさまざまな怒りを静め、心をリラックスさせる。リラックスした心は集中しやすい。心がひとつの対象に集中していくと、感覚が鋭敏になり、神秘的な体験が起こりやすい。
(p.153)

 すなわち、許しや思いやりを含めて、宗教的あるいはスピリチュアルな体験の基盤は、人生初期の母親的養育者との関係の中で培われる一面があるのである。
(p.158)

 一方、ウィパッサナー瞑想において、自分の心身に生じている現象に純粋な注意 (Bare attention)を向け、ありのままを見つめる洞察智を養う手法も、フロイトの意識の技法に類似したものである。このように、精神分析と瞑想という、時代的にも社会的にも相異なった2つの伝統が共通して採用している、”ありのままに見つめる自覚”という手法が、スピリチュアルケアにおけるもっとも重要な意識の姿勢となる。
(p.165)

 しかし、ここでは「スピリチュアル」という言葉と同時に「ダイナミック」という言葉が追加されていることに注意する必要がある。すなわち健康とは、病気になったり死んだりすることを受けとめて、山あり谷ありの人生のすべてを全体的に引き受けて生きていくことのできることだと定義しようとしているのである。
(p.168)

私の眼には彼らの顔と姿は例外なく「穏やかな明るい光」を発して輝いているように見える。このゆえに、私はスピリチュアリティー(霊性)とは光であると語りたい。
(p.186)

第1因子は「Will 意思の働き・スピリチュアルな行動」、健全な自我の確立をもとに自尊感情をもち、自信に満ち溢れた意思の働きで、行くべき方向を選択し、行動かするという側面を表している。第2因子は「Joy 喜び・スピリチュアルな態度」である。これが主観的幸福感尺度と異なり特徴的なのは、外界の出来事によらない内面からわきあがる喜び感を特徴とすることである。第3因子は「Sense 狭義の意味でのスピリチュアリティー」、感覚的で、前個的・前合理的なスピリチュアリティーを含む可能性がある。
(p.191)

表9-2 スピリチュアリティー類型分類とその特徴
BAS: 理想的なスピリチュアリティー・愛の恋人
BAs: 地の足のついた健康な人
BaS: 義務感からの善行で無理してバーンアウト
Bas: 正義感・道徳観念が高いが悲壮感がある
bAS: 一人で悟って満足
bAs: 楽天的で無邪気な人たち
baS: 危険なスピリチュアリティー・カルト
bas: 無気力無関心

すなわち、第1因子「スピリチュアリティな行動」得点が低い個人に関しては、ライフスキル教育のような行動レベルでの変容を目的とした認知行動療法的アプローチが有効であろう。第2因子「スピリチュアルな態度」得点の低い個人に対しては、生きる意味を見出す実存的アプローチ、ロゴセラピーや森田療法などが有効であると考えられる。第3因子「スピリチュアルな感性」得点の低い個人に対しては、瞑想やイメージワークのような、いわゆるスピリチュアルなアプローチによって気づきを促すことが有効であろう。
(p.195)

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対話392 岸田 秀、 山本 七平 『日本人と「日本病」について』

2011.10.30.00:12



岸田 アメリカならどんどん受け入れるけど、受け入れてから差別する。日本人はなかなか受け入れないけど、受け入れたらあまり差別しない。(中略)日本の大学では、入試はむずかしいけど、いったん入学すれば、あとはよほどのことがないかぎり退学処分はなく、トコロテン式に卒業でき、欧米の大学では、入学するのはやさしいけど、成績のわるい者はどんどん退学させるというのも、これと同じことですね。
(p.183-184)


 実際に受け入れてから差別をしないのか、ということはともかくとしても(まあ完全にしないというのはどんな場合でも不可能である)、日本は入り口のところで最も強いプレッシャーをかけるのではないかというのは一面正しいような気がする。んではその背後に何があるの?ということを考えたときに、あるのは「差別することへの恐怖」なのかなあと。考えないこと、考えなければいけないという事態に直面することを避けているのかなと。

 この本はやや古いし、最近の事情は変わってきているようにも思うが、そのことを考えないようにするという差別という構造は、国際比較とかその辺を抜きにしても、一度見直さなければならないところだと思う。特にそれに積極的に加担している、例えば僕みたいな人物が。

このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、何ら規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしていいのかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動は起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが右側なら右側へ曲がるという方針を決定し、いったん決定すると、何度失敗しても断乎として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える。
(p.16)

山本 そうですね。聖所で契約を結ぶという形はおそろしく自覚的で、意思的ですよ。そしてなんとしてもこの契約は守らねばならん。それが旧約聖書資料の非常に古い層にある「祝福」と「呪い」の原則です。(中略)それにひきかえ二本の会社などは擬似血縁集団ですから、社規なんて誰も読まなくていい。ただし社会は「共同体」ですから、社の名誉を汚したとなると辞めなくちゃならない。機能集団だったらそんな必要はないんですけどね。
(p.36)


岸田 結局、日本人というのは、自然本来の姿を個人のレベルで赤ん坊の時代に見る。ヨーロッパ人はそれを楽園に見る。つまり人類としての集団の歴史のはじまる以前に見るわけですよね。
(p.47)

岸田 ヨーロッパ人にとって、パーソナリティはつくり上げるものですから、彼らの自我構造はガッチリしているわけで、自分の原理を持っていて、その原理に合うものだけを自らの自我領域に取り入れて、原理に合わないものは徹底的に排除する。この排除されたものが精神分析でいうところの「エス」、つまり無意識ですね。(中略)だから、神経症の治療というのは、狭く固まっている自我構造をぶっ壊して、抑圧されたものを自我領域の中に取り入れるということなんですけどね。日本に精神分析がはやらない一つの理由は、日本人の場合、自我構造がそうカチッとしてないんですね。
(p.49-50)

山本 おもしろいのは薗違いが、社会秩序に対する考え方にも現れてくることですね。たとえば、ホッブスには「万人の万人に対する闘争」という意識がありますよね。秩序というものはつくらなくちゃどうにもならないんだ、と。ところが、2.26事件の将校の発想は、人間、自然に生きてさえいれば、自然に秩序ができちゃうという発想があるんです。だから2・26の将校にとっては、既成の秩序を壊しさえすりゃいいんですよ。
(p.50)

岸田 だから、無効では社会に適応するためには、親から独立することが絶対の前提条件で、精神分析なんかでも、日本なら単に親孝行な人だと見られるような人を、近親相姦的固着だとかマザー・コンプレックスだとか名づけて、とにかく治療すべき対象と見るわけです。
(p.54)

山本 ただ、機能集団が共同体になってしまうと困ったことが一つあって、共同体を維持するために機能するという逆の現象が始まってくるわけですよ。
(p.64)

山本 日本の会議はまさにそのために、誰がしたかわからない形にして、「こうなる」ためにあるわけでしょ。「する」は作為であって、あいつは作為があって嫌なやつだということになる。
(p.74)

岸田 つまり、法律というものは、なんらかの形でその国の人々の共同幻想を反映するものなんです。
(p.79)

岸田 もちろん、死や肉体的苦痛が恐ろしいという点では、どの文化にすむ個人でも大体同じでしょうが、人間には、死や肉体的苦痛より恐ろしいことがあります。自我の崩壊がそれです。それは、自我や、自我を支えている信仰、理想、名誉などを守るために、死や肉体的苦痛を辞さなかった人が無数にいることからも明らかだと思います。
(p.81)

岸田 さっき言ったように、ヨーロッパ人の自我は神に支えられ、日本人の自我は人間関係に支えられているという違いがあるわけですが、ここが違っているのですから、当然、何が自我の崩壊の不安を呼び起こし、何が恐ろしいかということが、ヨーロッパ人と日本人とでは違っているわけです。
(p.82)

岸田 ヨーロッパやアメリカに犯罪が多いというのは、ニーチェは神は死んだと言ったけど、死にかかってはいてもまだ死んでいなかった神が本当に死んでしまったからではないでしょうかね。彼らは神が歯止めですから、神がいなくなると、残るのは、法的な処罰の恐れだけでしょう。それだけでは、犯罪は防げません。
(p.84)

岸田 男らしさの規範に満たない男を激しく軽蔑するわけです。その結果、アメリカの男はレディーファーストなどといいながら、無意識に女を深く憎んでいる。つまり、アメリカでは男が女に甘えることによって、男と女の関係の対立を緩和するという条件が欠けているんですよ。
(p.85)

山本 哲学というものも合理化の一つの願望ですよね。これは世界観ですから、完全なものをつくらなければいけない。しかし完全な体系をつくった瞬間に現実から遊離しちゃって、何の力も発揮しなくなる。だから、不合理な面をどこかに棚上げするわけです。
(p.96)

山本 この場合もやはり外国が基準なんですよね。つまり日本の伝統的文化に立ち返って、そこからどうしたらもっと合理的になるかという発想はしていない。
(p.117)

山本 善人はだまされやすいんです。(笑)善意を100パーセント通すには神にならざるを得ないのに、現実は、善意の通らない社会は悪いという考え方が支配的ですからね。
(p.136)

岸田 実際には、ムダでも、一見、勇ましそうな作戦をたてる参謀や司令官のほうが人気があるんです。そのほうが生きがいや死にがいを持たせてくれるからですかね。
(p.151)

岸田 つまり、日本軍では部下が上官の命令に服従するというヨーロッパ的組織原理を取り入れて、無能なリーダーを排除する日本的方法を塞ぎながら、業績の評価によって無能なリーダーを排除するヨーロッパ的方法は取り入れなかったわけです。
(p.156)

岸田 死んじゃうと人間関係でもってる共同体は崩壊しますから。日本兵が捕虜になったときに極端に意気地がなくなったというのも、共同体から切り離されると、戦意をまるっきり失っちゃうからでしょうね。
(p160-161)

岸田 なぜ撤退がうまいかというと、そのとき、日本軍は強いという幻想から免れているからだと思うんです。
(p.167)

岸田 ぼくも日本人は商売民族であって、戦争民族じゃないと思うんです。(中略)昔、ギリシアにも降伏を拒んで玉砕したということがありましたが、死の危険が高いというのでなく、死そのものが攻撃の成功の不可欠の条件であるという特攻隊なんていう戦術をやったのは日本人が初めてですね。それで、日本人はひじょうに勇猛果敢だと思う向きがあるかもしれないが、ぼくはむしろ逆だと思うんです。つまり、死ぬと決めてかかって、やけのやんぱちにならなきゃ、そういうことが出来ない。
(p.170)

岸田 逆に、アメリカの戦意高揚映画を見ると、アメリカ兵たちはスポーツのゲームでもやっているかのように、ふざけながら楽しそうに戦争をやっていますね。
(p.176)

岸田 ぼくはつねづね、日本語は家族語だといっているんですよ、家族語というのがあるでしょう、家族にしか通じないという意味で。日本語には暗黙の前提というのがいっぱいありすぎる。
(p.177)

山本 明治の初めのほうの日本人のほうが外国人と話が通ずるんです。本物かにせ物かは別にして、明治人は朱子学という自覚的規範を持っていましたから、これが自分たちの思想とそれに基づく規範で、それゆえに、かくかくしかじかだと説明できたんです。
(p.178)

岸田 しかし、そのわりには、日本人がヨーロッパやアメリカへ出かけていって、けっこう適応してるんですよね。
山本 それは、こっちに原理原則がないから、向こうの人間関係にあわせて対応していけるんです。
(p.181)

山本 おもしろいことに、旧約聖書には、正義の味方ほどハタ迷惑なものはないという発想がすでにありまして、サタンというのは元来、正義の味方なんですよ。
岸田 そうですか。
山本 神のかたわらで人間の悪を告発するのが役目ですから。
(p.192)

山本 普遍主義は逆に、極端に小さなグループを形成してしまうことがあるんですよ。(中略)普遍主義を貫徹するためには、小さく固まらざるを得ない。
(p. 215)

山本 これも上智大学のグレゴリー・クラークさんの体験談ですが、彼が日本に来たとき、まず日本人とは理解し合えると思ったそうです。次に韓国へ行ったら、これは何も理解できないと思った。次に中国に行った。やはり理解できそうもなかった。ところが、しばらくして評価が逆転したというんです。韓国も中国も、欧米とは論理のたて方がちがうけど、ともかく論理のある国だ。だから、相手の論理のたて方がわかればわかる。そう思ってまた日本をみると、今度は日本がいちばん理解できない国になった。
(p.218)

それは元来、個人を治療の対象とする方法であろうが、日本人のように同一文化で同一体験をした場合には、一国の文化にも運用できるであろう。
(p.226-227)

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はらわたに秩序。

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