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対話410 島薗 進 『“癒す知”の系譜―科学と宗教のはざま』

2011.12.26.15:04

 <癒す知>への期待が高まると、ある種の宗教が掲げる途方もない夢に転ずることがある。また、宗教の掲げる途方もない夢が、人びとの<癒す知>への期待を呑み込んで膨張することもある。オウム真理教の中には<癒す知>や「科学と宗教の統合」といった理念に、強い関心をもった経験がある人びとが少なくなかった。また、大正時代に『変態心理』誌の森田正馬や中村古峡が「迷信打破」に使命感を抱いたのもごく自然なことに思えてくるかもしれない。<癒す知>の運動が掲げる知の妥当性について厳しくチェックし、怪しいものは排除した方がよいという考え方だ。(中略)
 しかし、現代の環境問題や医療が抱える諸問題を無視することができない現代人にとって、近代科学や近代的な制度を支える知の限界は、やはり霊性に見定めておくべき事柄である。そして近代知ではカヴァーしきれない領域に、何らかの認識システムの網をかぶせようとする試みを、すべて「迷信」として抑圧したり、笑い飛ばしてしまうわけにもいかないだろう。
(p.259)


 うっかり科学とか持ち出すとそれすなわち真理でしょ、みたいな話にもって行きやすくなるため、とりあえず霊性って言葉で落ち着けようよというのが筆者の見解だと思うし僕もまたそれが一番無難というか、科学を尊重する態度になるのかなと最近思う。そしてそのことについて肯定的になり、そこにある価値をそれでも認めること、これこそが今まで島薗先生の著作をいくつか拝見して見出した結論である。

 たぶんこの考えにものすごく同調できるのは、僕自身「宗教団体とかにどっぷり入っている人とは深い部分で違ってて仲良くなれなそうだけど、それに対してとりあえず叩いとくかみたいな風潮にも賛成できない」という価値観を持っているからだろう。なんというか、僕は天邪鬼なので、まず最初に叩く側に回るんだけど、その後叩く側が大して考えてもないのに叩いていることにげんなりして、だんだん嫌気が差してどちらも叩く側に回るという性質を持っていて、きっとそういう性格がこういう態度を取らせることにしている。別にこれは宗教とかに限らず、生活態度すべてにつながっている。われながらめんどくさい性格だ。

 「そこにまともな思考がはさまれていないのに、なんとなく叩く」みたいな浅はかさに対する嫌悪感は、この場合宗教側だろうが非宗教側(と本人が思っている側)に対してだろうが共通する。それが熟慮の上だとか経験ベースで何かあった場合はこの限りじゃないけど、とりあえず「批判することで耳を閉じ続けること」にはいざという時にそれ相応のリスクがあるということを承知してしかるべきだと思う。

 ちなみに僕の宗教的な、あるいは霊性的な態度を明言しておくと、大事なのは「そこに自由度がいかにあるか」ということである。言ってみれば遊びだとかゆとりという部分の余地が自分にとっては大事だ。

 つまりそれは「神を信じること」もできるし、「神を侮辱すること」もできるという両義性の態度である。「正しいことをしなければならない」と信じる正義側にも、「悪いことをしなければいけない」という悪側でもない、そのどちらもそのときに応じて行うことが出来るというコウモリの姿勢だ。もちろん風見鶏のようにならないように、あるいは寓話の中のコウモリのようにならないように、そのどちらをそのときに選ぶかについては熟考の元に行われる必要があるわけであるが。

 最近の漫画であればめだかボックスの球磨川君が同じようなことをいっていた。きっと球磨川君が好きな人は僕の考えにもある程度同調してくれるに違いない。



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対話409 田邉 信太郎(編), 弓山 達也(編), 島薗 進(編) 『癒しを生きた人々―近代知のオルタナティブ』

2011.12.25.16:16

 ここに森田の精神療法の考え方のエッセンスがある。つまりわれわれは自分を知ることによりより不安を解消したり、コントロールすることが本当に出来るのか、われわれの精神の活動を自分の都合のよいように操作できるのか、そのように心を支配し操作しようとすること自体がわれわれの悩み、苦悩の原因ではないのかと森田は鋭く問う。
(p.155)


 何かを操作しようとすることは、それが他人であれ自分であれ(というよりも「自分」はより「他人」に近い)、力学的な行いであると最近とみに実感する。

 力学的な行いであるということはそこに力が働くということであり、つまりそれはピストルを撃ったときに反動がこちらにも来るのが必然のように、自分自身への操作も含みうる。つまり、有名なニーチェの言葉を改変するのであれば、何かを操作しようとするとき、自分自身もまた操作されている。

 知るということはその対象物を――本当は液体ないしは気体のような性質を持つ対象物を――言葉によって凝固させる行いである。それでは多くを取りこぼしてしまうし、全体のバランスを良かれ悪かれ変えてしまうのだろう。既知の範囲の自分や他人を変えようとすることはその不完全な切り取られた一部に働きかける行いであるといってもよく、ゆえにここから歪みが生じないというのはありえない。

 もちろん、知るという言葉にはいろいろな意味があって、もっと深いレベルでの場合はケースが異なる。ではその場合の知るというのが何を指すかということだが、これは単純に身体レベルでの知ということになるのだろうなあというのが今のところの印象。あるいは夢とかの無意識的レベルといってしまってもよいが、身体レベルのほうがごまかしというか幻想が入りにくいのかなという気もする。


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対話408 James G Kelly, Anna Song "Six Community Psychologists Tell Their Stories: History, Contexts, and Narrative"

2011.12.23.10:31


My understanding of psychology as a discipline was more integrative than the reality of the field .
(p.90)


 「心理学」という言葉は非常に多くを含みすぎているし、何より一般的に心理学という言葉から想像されるものを含んでいないことがままあるということは、心理学を専攻しようと大学に入った学生に訪れるひとつの典型的な症例だ。

 とくに「科学的」でないポップ心理学みたいなのに興味があって心理学をうっかりやろうとした人は、とりあえず大学に入ってその性根を叩きなおされる。特に関東では心理学が科学性を標榜する傾向が強いとかどっかで聞いたことがあるけど、大小あれどその傾向は全国共通だろう。科学性の上に乗らない心理的なところはすべて文化に回収される、ということを多くの高校生は知らないし、実は文化と名のつく多くの授業でもそれらは扱わないということを知らないのだ。

 とはいえ、ポップ心理学で扱われているような領域は普通に面白い分人口に膾炙するので、それを単純に否定するというだけではなく、文化的に考察を加えて、どのような距離感を保つべきかをきちんと教えるということはかなり重要だと思う。というのも、「あれは非科学的なので信用しないでくださいね」といっても、たとえばある占いを強く信じている人にその言葉は届かないかもしれないし、それがなぜ効果を及ぼすのかについて、プラシーボやらなにやらが効いているだとか、そういうことを、もっと真剣に伝えてその価値を検討するべきなのだ。

 心理療法でも実験でもない部分でも、つまり臨床心理学でも実験心理学でもない部分での心理学。そしてそこでまことしやかに使われているスキルのうちの少なくないものが魔術的だったりするわけだけど、そういうものに、それを取り巻く世界観やもっと引いた行動科学的な視点からの考察を考慮に加えた上で、触れ合う機会を持つことはいろいろなものにエンカウントする現代社会において必要な態度なのではないかと思う。自己防衛的な意味でも特に。



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対話407 ヴィパッサナー瞑想 実践レポートと解説

2011.12.23.10:05

しかし、もし私たちが経験している出来事を、瞬間瞬間”サティ”で捕らえてフィルムのようにバラバラに切り刻んだら・・・・もうそこには「物語」は分断されて存在しない。その苦しみの「物語」に巻きこまれている「私」という感覚も、実は錯覚でしかなかったということに気づけるでしょう。
(p.24)


 ここでいう「物語」は「過去」だとか「未来」だとか「思い出」だとか「将来の夢」という言葉で表現されるような、その人個人の中にあるお話、幻想のことである。大体、物事が意味を持っているということはすなわちそれが「物語」になっているということであり、そのとき、私たちは小説を読むように自分自身の人生を読んでいる。

 自覚性の重要性、みたいな話をこのひとつ前のエントリーでした。
そこで問題になる、というか難しいな、と思うのが「その自覚性をどう喚起するか?」ということだ。

 自分が今どのような物語の流れの中にいるのかというのはなかなか自分では見えづらい。
そしてその物語というのは大体、心地よいからという理由で採択されている。
実際自分自身に自覚があったと思っていても、そこから抜け出せるというオプションをいざという時に取ることが果たしてどの程度可能なのか?というのは大いに疑問だ。

 まあ、いつでも抜け出せるような態度が果たして必ずしもよいのか?というとかなり意見が分かれるところだろう。
いつでも抜け出せる程度にしかコミットメントしない人が何か大きなことを成し遂げることは、確率的にいうと深く深く抜け出せない程度にコミットメントする人に比べれば普通に低い気がする。
ようは自分で安全圏内にとどまろうとするということ=物語性の自覚なので、安全圏内にとどまろうとすればするほどそこで何かを成すことができなくなっていくというのは割と普通の発想だということはわかっている。

 しかしそもそもなんで「物語性」なんてものを自分の人生においていちいち自覚しなきゃいけないのかという話かというと、「のめりこみすぎると危険だから」とか「今もしその状況が気に入らなくても、あくまでその評価付け、色づけは自分が行っている」ということを認識する上で大事だからだ。のめりこみすぎは世界観を狭める危険性がある、ということが物語性の自覚を持つことの大きな意義となっているし、現在が悲観的であればそれを打開するために相対化が行われてしかるべきだろう。

 うまい「物語性の自覚」への態度は今も考えて実践しているところだが、ひとつの解としては「遊戯」としての態度なのかなと思う。つまり物語を意識的にあるいは無意識的に構成するとき、それを遊戯のようにみなして取り扱うこと。「遊戯ということはその対象物を適当に扱うこと」というのは必ずしも正しいことではない。遊戯だからこそハマる。遊戯だからこそ真剣になる。だけれど、結局は遊戯なのであり、昔お母さんに「ゲームは1日1時間までね」といわれた例のアレとなんも変わらないわけだ。

 そういうようなうまい感じのポジション取り、セッティング、それをもっと自分の中でも徹底させていきたいし、思想面でももっとそのことを念頭に入れていきたい。



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対話406 ティク・ナット ハン 『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』

2011.12.23.01:53


だれかが私たちの悪口を言ったとき、もし相手がなぜそのようなことを言うのかわかっていて、その言葉を深刻に受け取らなければ、こころはまったく動揺しません。こころにしこりは生じないのです。しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解できないでいらだってしまうと、こころのなかにしこりが生じます。
(p.81-82)


 理解というのはなかなか暴力的だなといつも思う。そしてその暴力性の自覚があるとき、理解というのはもっと暴力的に用いてもよいと認識されるべきだと思う。

 理解というのはすごくアートだ。というか、アートな理解とサイエンスな理解があるかなというのがなんとなくの実感なんだけど、意味深いレベルでの理解はすべてアート。そして理解というのは上記の引用にあるような、問題の(自分の中での)解決とかにつながる。それをいかにうまく成し遂げるか?というアートは、いわば自分をうまいことだますテクニックみたいなものだ。

 ただ、前述したように、大事なこととしてそこに自覚性がなければいけない。アートということはすなわち遊びなのだから、そこを見失ったときにそこから抜けることができなくなってしまう。アートは恣意性であり、恣意性だからこそ価値があるのだ。時にはパートタイム的にそれに没入することもあるだろう。その場合でも、何か自分の体に帰ってこれるような紐のようなもの――それは友人かもしれないし条件付けかもしれない――をまきつけておくことが大事だ。

 もちろん、自覚性を持っている、と思うこともひとつの罠だ。ミイラ取りがミイラになる、というのは非常によく起こることだし、その点を含めての自覚性、というかシステムの構築が肝要なのだろう。



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対話405 島薗 進 『新新宗教と宗教ブーム』

2011.12.23.01:12


 ワヤンというのは英語が話せるバリの呪術師で、来日したとき二週間いっしょに生活し、その霊感や生活態度に感銘を受けた。彼が帰国した晩、伝授された瞑想を一人で実践すると、指先がビリビリする、失神するなど初めてのことが起こった。気持ちはいいし、気分は落ち着くので、それから毎晩瞑想するようになった。、一瞬間ほどして、バリの最高神のビジョンが見えるという神秘的な体験を得る。しばらくして今度は、すごい恍惚感に包まれる体験がある。
(p.59)


 神秘主義の反省するべきところを端的に述べるのであれば、体験を絶対視するところだ。

 「体験したのだから信じるしかない」っていうのは結構こういう怪しい世界にタッチしていると頻繁に聞くことだし、実際そういう人たちの中には「もともとすごく懐疑的だったけれども、実際に効果があった=それは真実である」という図式を持ち出す人がとても多い。

 そこに足りていないのは、「各個人の中において、真実はいくつも屹立しうる」ということである。
なるほど確かに効果があったかもしれない。ある世界観はその現象をうまく説明するのかもしれないし、あるイメージなりモチーフはそれに影響を強く与えるのかもしれない。世界観を受け入れることでさらにそのテクニックは強化されるのかもしれない。

 だけども、ある世界観がある現象をうまく説明できたからといって、そのほかに説明する方法などいくらでもある。たとえば宗教的な説明があったとして、そのほかに生理学的な説明がある。あるいは社会心理学的な説明もありそうだし、その技法と臨床心理上の技法で似ているものがあるかもしれない。

 ようするに、問題となるのは「真実(と感じられるもの)は1つとは限らない」ということを知っておくことである。僕は何もたとえばある世界観が絶対に誤っている、などというつもりはない。主観的な世界の中ではどんな世界観であれ真実足りうるし、またそれは実利的な性格すら持っている。実利的な性格を持つものを無碍に否定しても効果は薄いし、その世界観に対する尊厳が足りないとすら言える。だけども、真実はいくつでも開拓できる。それが科学的といわれているものであれ疑似科学的といわれているものであれ宗教的といわれているものであれ世俗的といわれているものであれ、何か説明能力が高いと思えるものはすべて真実であり、違いがあるとしたら真実色のグラデーションの違いである。

 この点を認識していない神秘主義は非常に危険だ。そして強調すべきこととして、しかしその神秘主義者の体験を無碍に否定しようとがんばる外部の人間の行いも同様に危険だ。というか拙いし幼い。

 大事になってくる態度は、そこにあるいかなる(広い意味での)合理性を認めようとする、超合理主義者(もうこの言葉はフッサールがもう使ってるけど)的な態度なのではないだろうか。そこのところどうでせう皆様方。



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対話404 地橋 秀雄 『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』

2011.12.23.00:52

 ヴィパッサナー瞑想の効果を三つに大別してみました。
☆能力開発系
 *頭の回転が速くなる
 *集中力がつく
 *記憶力がよくなる
 *分析力が磨かれる
 *決断力がつく
 *創造性が開発される

☆経験事象の変化系
 *現象の流れがよくなる
  ・トラブルが解決する
  ・人に優しくされる
  ・健康になる

☆心の変化系
 *苦を感じなくなる
 *怒らなくなる
 *不安がなくなる
  ・根本的に解決する
 *執着しなくなる
  ・静かに達観する
(p.7-9)


 能力開発と呼ばれる分野のものを実際にいくつかやった経験を踏まえて言うと、それらの効果の多くは心理療法的な効果を伴っているということだ。

 それは別にイメージを使うものにしてもこの本で紹介されているヴィパッサナー瞑想にしてもそうなのだが、一応主眼としては能力向上だったり悟りだったり、心理療法とはまた別のところにとりあえずのところ本義が設けられている。しかしながらそこには心理療法的な、ゲーム的に言えばホイミないしはケアル、あるいはキアリーまたはポイゾナみたいな効果がある。この心理療法的な効果と、能力向上の効果の関係性に今興味がある。

 つまり、単純に心理療法的な効果をもたらすだけでも全体のパフォーマンスは向上するのではないか?
いや別にこの瞑想にしろ他の方法にしろ、心理療法的な効果以外の何かはたぶんあるんだろう。でもそれはもしかしたら心理療法的なものとなんらかの関係がある。もっといえば、心理療法的な効果のない能力開発法(とうたわれているもの)はないのではないか?あるのだとしたら、たぶんそれはあんまり効果が感じられないものに違いない。

 心理療法的な、HPだかMPだかを回復させることはそのままその人が扱える精神力の数値が増えるということだ。
回復呪文が使えるから相手のところにも無理して特攻することができるというか、そういう構図がもしかしたらこれらの技法に関する文化にはあるのかもしれない。





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対話403 マハーシ長老 『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』

2011.12.22.14:40


 逆に、念と智慧が突然、速やかに活発に進歩して、修行がうまくいくと、
「まもなく智慧が一段上がる」
と期待し、喜びます。
そのため、修行が後退してしまうこともあります。
(p.113)


 期待することでその進歩が止まってしまう、ということは別に瞑想に限らず結構頻出するような気がする。

 期待とはすなわち自意識の表れだ。自意識とはすなわち健在意識であり、僕らは健在意識にかかわるものはいまいちなんか信用できない気がするし、だから直感とか占いとか、自意識を超えたところにあるものを信じるような傾向にあると思う。

 自意識はすなわち「限定条件つきの観察者」みたいなものだと認識されているけど、自意識ってスムーズに流れている人生に一つ歯止めをかけちゃうし、語弊を恐れずにいれば一種の病みたいなものなのなんじゃないか?

 別にだからといって「自意識を滅却するべき」みたいな方向に行く必要はないしちょっとそれはやりすぎな気もするけど、ただその「観察者」たる自意識が、人生がうまくいっていないときにうまく方向転換する礎になるかというと大して役に立っていない、むしろ悪化させているっていうケースは多い気がするし、そもそも直感が自分自身の体から出た声なのだとすれば、直感を鈍らせるような自意識の存在はちょっと害悪なのではないかという気すらしてくる。

 自意識というのは――そしておそらくはそれが生み出される原因ともなった言語というものは――あくまで他者とのコミュニケーションのために用いられるべき存在なのであって、というか他者とのコミュニケーションに用いるべき言語を自己にも適応した結果生まれたのが自意識という存在に違いない。それは文化的には非常に面白いものだと思うけれども、実用性ということを考えたとき、特に自己変革とかそういうものを考えたとき、マイナスに作用することがほとんどの代物なのだということを忘れないようにしておきたい。


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対話402 清野 智昭 『ドイツ語のしくみ』

2011.12.22.14:26


 精神分析の始祖とも言えるフロイトは、自分自身で捉えられない無意識の世界をEs「エス=イド」と名づけました。こうしてみると、esを使った表現が段々と少なくなっているのは、ドイツ語という言葉が無意識なものよりも人間の自我を前面に出す表現を好むようになって来たからだと言えるのではないでしょうか。
(p.121)


 言葉がその文化の人たちに与える影響って果たしてどのくらいなのだろう?という研究を行っているのはおそらく認知言語とか認知心理学らへんなのだろうけど、その中でも主語の構造が与える影響ってのは体感レベルであるなあと思えるので、上記の引用に関しても自分の経験と照らし合わせてなかなか興味深く読んだ。

 というのも、結構日本語で「僕」とか「俺」とかつけるとなんか目障りというか、「この人自意識過剰じゃね?」とか思ってしまうし、「僕」という単語をものすごく使うtwitter上では他の人から「僕僕うっせよwww」みたいに突っ込まれることも稀ではない。

 なんか、僕とかそういう単語を最初にもっていくことで、自分のことを語る蓋然性が高くなるのではないか、もしかして?

 だからたぶんアメリカ人が自分語りとか多く感じる(少なくともそういうステレオタイプがある)のも、いちいち文頭に主語を持ってこなきゃいけないあの言語的構造に起因しているのではないだろうかとか、そういうことを妄想した一日の始まり(もう昼だけど


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対話401 ジョージ・E. マーカス, マイケル・M.J. フィッシャー 『文化批判としての人類学―人間科学における実験的試み』

2011.12.22.14:15



読書時間:4時間
個人的読みやすさ:D


アメリカでは、すでに見たように、相対主義が一般的な指導概念となった。この概念が、様々な移民から形成されているこの社会に適応したのである。一方イギリスにおいては、合理性の検討が同様に一般的なテーマとなった。おそらくは比較的階級意識の強いこの社会に適合したのであろう。
(p.239)


 どんな思想もある背景から生み出されていて、その背景を共有していないところには響かない。思想はまずその前に経験が先立っていて、そのあとから思想という体系が紡がれるのだから、これは当然といってしまってもよいと思う。アメリカでいえば相対主義が出てくるのは確かに必然のように感じるし、イギリスにおいて合理性が、という指摘ももしかしたらそうなのかもしれないなという気持ちにさせてくれる。

 それでは翻って日本ではどのような思想が?という疑問が次に出てくるのだが、これはどうだろう。相対主義も合理主義ももちろん部分的には取り入れられているし、その言葉が持つ説得力はすさまじいので頭の中では採用しなくてはという気持ちになる。しかしながら人種問題への問題意識が弱い日本において相対主義がアメリカのように行われるかといえば実践ベースがかけているために無理かなと思わざるを得ないし(これから変わってくる可能性はあるけど)、かといって階級意識がそこまでない気がする日本において合理主義が……というのもちょっと微妙だ。というか日本において合理主義が実権を握ったことは少なくとも社会文化レベルでは一度もない気がする。合理主義はそのお題目にそぐわず、あまり日本では採択されない思想だと思う。

 では日本文化としての特徴はどこにあるのか?ということを考えたときに「平等思想」とかそういうものに行き着きそうな気がする。「事なかれ」とかあるいはつーかーの仲的な、テレパシーじみてる暗黙の了解的文化。経験知的な文化といってもよい。

 じゃあそこからどのような生産的な思想が生まれてくるのか?あるいはそれをどう生産的な思想とさせていくのか?というのが次に生まれてくる疑問だ。たとえば「経験知」という言葉は近年少なくともビジネス界隈で使われ始めた言葉で、ある程度何かにコミットメントすることからくる言葉にはしづらい感覚をかっこよく見せ、それを再認識させる言葉だけど、こういう風に「日本人は議論が弱い」とか「出るくいは打つ文化」とかそういう風に自虐的にあるいは嗜虐的に中傷してみせるより、そこからどのようなおいしい利点、言い換えれば「長所」を見出してうまくラッピングし、それを強化する方向にもっていくかというところに注力したほうが望ましい。短所を変えるのは難しいが、長所を伸ばすのは簡単だし確実性がある。

 日本全体が今持っている長所を改めて認識し、それを手垢のついた言葉で表現するだけではなく、今風の「なんかちょっとかっこいいじゃん」って言葉で表現したり、それを編集しなおしたりする人および技術、レトリックが今求められている。

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対話400 ウィリアム・ハート 『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 』

2011.12.21.16:50



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:A

――でも、心は全身にあると?
 そうです。全身に心があります。からだ全体にです。
(p.37)


 無意識というのは現代社会においてまったく神みたいな扱いを受けているし、みんな神みたいに利用しているなあというのが最近の雑感なのだけど、その無意識の表出において「身体」を挙げて、それを観察することで無意識とうまく向き合うようにする、というヴィパッサナー瞑想の基本姿勢は面白い。特に僕みたいな「無意識≒夢などのイメージ」と捉えてような人間にとっては弱い視点だったため、ひとつの価値観として採用する価値があるなと思う。

 また、概念としてその価値観を採用しようとする際(この場合であれば無意識=肉体)、体験ベースでそれを実感できるスキルの存在が必要不可欠だ。ちょっと前の投稿でも挙げたのだけど、「直観なき概念」は空虚である。ある意味宗教というのはこの直観の部分を瞑想などに代表されるプラクティスによって、そしてそこに宗教的な意味での「概念」を付与させることを目的とした機構とみなすことができるだろう。尤も、宗教的な側面しか「概念」の中に含まれていなければ、それはやはり盲目であり危険性を大いにはらむことにはなると思うが。

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対話399 アルボムッレ スマナサーラ 『自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】』

2011.12.21.16:12



読書時間:30分
個人的読みやすさ:A


 無駄でない「思考」もあります。それは、論理的、具体的に事実に基づいて、自分の役に立つこと、人の役に立つことを考える思考です。
 事実、データに基づいて考えることですから結論が出ます。結論が出た時点で、その思考の流れは消えます。(中略)
 無駄な思考をやめる訓練をした人なら、論理的な思考が瞬時にできます。ほとんど間違いのない結論に達することができるのです。いくら考えても終わらない思考は、単なる「無駄」です。
(p.102)


 昔から思考するのが好きだった自分にとって、「思考というのは常に振りかざしていればよいというわけではないのではないか?」という最近の印象は結構革新的だ。

 僕はゲーム脳なので早速これをゲームに例えてみたいと思うが、思うに「思考する」ということはMPを使う立派な魔法みたいなものである。常にそれを常時行っている場合、そのほかの行動(物理攻撃)とかをとる暇がなくなっていくし、「思考」することでMPも減らされていくため精神衰弱になりやすい。逆に余計な思考を減らすことでMPを保存し、ここぞというときに問題解決的な思考能力をどかんと発揮することにつながるのではないか。

 だらだらと思考することにもおそらくある程度の効果はあると思うのだけど、ただ効果がその時に応じてランダムすぎるし、精神力を消耗するというのは体験的にある程度信用性があるなあと思えるので、これからはあんまり無駄なMP消費を避けていくようにしたい。

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対話398 鈴木規夫, 青木聡, 甲田烈. 久保隆司 『インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論 』

2011.12.21.16:03



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


 このようにインテグラル理論では、統合的な理解のために、ある事象について少なくとも「主観的」「客観的」「文化的」「社会的」(「経験的」「行動的」「価値的」「制度的」)という4つの視点において「見る」必要があると考えます。
(p.27) 


 あらゆる物事を多面的に評価する――つまり多面的な評価基準を用意し使えるようにしておく――というのはこの現代社会において必須とまでは言わないけれども、それを獲得しようとする姿勢を持つことが多くの場面で多くの恩恵をもたらしてくれるのではないかと最近とみに実感する。

 特にこれはなんらかの価値づけを変えようとしている人たち――それはその人自身にとってもであるし、社会にとってもという意味を含む――に非常に有用なアドバイスだと思う。新しいアイディアを生み出そうとするとき、言い古されたことではあるけれども、0から何かを生み出すということは昨今もはや不可能に近い。

 ではどのように新しく見えるアイディアを生み出すかといえば、アイディアの中にある要素の分解および別のアイディアとの再結合という手段、すなわち編集能力が問われてくるのだと考えるが、その編集作業において重要なのが「そのものについている価値観や認識を別の角度で見る」ということである。そしてそれこそが、上の引用にあるような多面的な視野を持つということである。

 何を統合的な理解の対象にするかによって異なってくるとは思うが、諸学問をそれぞれ分けるのだとしたら
主観的:経験、現象学(哲学)
客観的:行動科学、自然科学、心理学、社会学
文化的:文化人類学、経営学
社会的:政治学、法学、経済学
という風に対応するといえるだろうか?

 個人の経験として、主観的にこうであると述べることは意識していたし、それが客観的にどうであるか(より正確にいえば「科学的」にどうであるか――この「科学的」という単語が非常に厄介なのであるが、もっと定義を明確にしようとすれば「行動科学的にどうであるか」などがふさわしいか――?」)も一応念頭に入れている。
そしてそれが文化的にどのような価値を持ちうるかは最近文化人類学やら宗教学やらに手を出していくにつれなんとなく知見が深まってきた(ような気がする)。

 おそらく自分に足りていないのはそれらが制度的にどういう意味づけをもっているのか?という、政治学、そして法学、経済学的な視点なのだろうということ。今まで文系とされる学問の中でなぜかこのあたりを綺麗にスルーしてきたつけがそろそろ回ってきているので、適当に落ち着いたころにでも政治学などにまずは手をつけていきたい所存。

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対話397 宗像 恵, 中岡 成文 (編著) 『西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開』

2011.12.21.15:38



読書時間:2時間半
個人的読みやすさ:D


したがって、抽象は損失であるという、心の二層的構造に立ったバウムガルテンの抗弁に対して、『純粋理性批判』でのカントであれば心の二元的・相補的構造から、直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目であると答えるに違いない。
(p.161)


 討論とは各々の直観同士の戦いである、と考えたら結構面白いのではないかと思う。

 引用内の言葉を借りれば、「直観なき概念」を戦わしている討論をたまに目にする。
これだと思考トレーニングにはなると思うんだけど、それ以上のものがなかなか見えないのが個人的に不毛だなあと考えていた。言い換えれば、なんのために議論しているのかがちょっとよくわからないのではないか?

 逆に、神秘主義者にありがちだと思うんだけど、その体験なり直観なりがその人にとってリアルすぎて、それを一歩引いた視点で考えられないっていうケースもとても多い。

 概念がない、というのはつまりその体験をひとつの絶対的な真実であるとみなしてしまうということだ。その見かたを1つの世界観として認識する≒概念化することで、その世界を共有しない他者との対話が可能になる。そういう意味でも、自分の体験なり直観なりをある程度多角的に、そして距離を持って表現する概念はいくつか持っていたほうが安全なのはあまり疑いようがない。

 まずは自分の体験・直観を耕す。そうした上で、どこまでそれを概念化できるのか?ということを突き詰める。
概念化というのはある意味「魔法の習得」みたいなものであり、そして「魔法」におぼれないようにするための礎になるのだと思う。

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対話396 西尾維新 『鬼物語』

2011.12.19.15:27



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:A


「色々足りないって気がするんだよな――誰かに何か、抜け目なくやられてるような――今までみんなで頑張って誤魔化していたことを、うまくやっていたことを、暗黙の了解で見過ごしていたあれこれを、さながら重箱の隅でもつつくかのように、端から端まで徹底的に糾されていっているような――」
(p.272)


 幻想の破壊。

 このブログは読書感想文というよりは読んだ本から何か考えたことを書いたりすることを主な目的とするブログなので鬼物語についての言及はここでは書かない。今ここで書きたいことは、この本で描かれているような、「共同幻想の破壊」つまり「今までの物語の破壊」ということが、この世界では割と頻繁に起きている――それどころか、むしろ世界とはそれの繰り返しなのではないのかということの指摘である。

 人が1人いれば物語は生まれるけど、それが受け入れられないと共同幻想としての物語にはならない。でも、一度共同幻想となった物語はそこそこの耐久力を持ってこの世にとどまる。少なくとも特に何もないで自壊するほど弱いものではまるでない。

そんな共同幻想としての物語がどのような時に破壊されるのかといえば、当然外部からの情報である。宗教にたとえてみよう。1人の思想家が今までついていた宗派から分離して、自分自身の物語=宗教をつくろうとする。そこに誰かが共鳴して入る。この時点で共同幻想は成立する。成立した共同幻想はしかしまだこの時点では教祖と1人の信者という2人の間でしか成り立っておらず、しかもこの宗教に対する社会的な視線が厳しい日本においてその耐久性はまるでない。

 だからこそ、もっともらしい理屈(脳科学的な説明ももちろんこのうちに含む)やら内側に引きこもって社会と断絶するやら、ありとあらゆる技法をつかってその共同幻想を保とうとする。もはやこの関係性において、主役は教祖でももちろん信者ですらなく、その関係性の中で産み落とされた共同幻想そのものである。

 しかしそれはおそらく社会的に、というか普通に考えていつまでも耐久し続けるかといえば疑問である。そもそも人数が多くなればなるほど外からの耐久度がもろくなるのが幻想である。内側からは暗黙の了解で見逃されていたものでも、大きくなればなるほどボロも大きくなり、それは外部からの格好の餌になる。そしてだんだんとその物語は破綻していく。

 これをずっとずっと繰り返しているのが文化というものなのではないかと思うし、哲学はこのサイクルに乗ってしまわないようなものを探求しているように僕の目には映る(哲学という言葉ですべてをまとめてしまう我ながらこの強引さ!)。その外からの指摘を無粋ととるかそうではないかは各個人に任せる問題として、僕自身はこの「幻想解除」「解呪」という営みについてもっと今後も思索を深めていきたい。

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対話395 中村 元 『ブッダのことば―スッタニパータ』

2011.12.19.15:09



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は愛執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。
(p.75)


 キリスト教における七つの大罪は文化メディアの力もあってすごい有名になっているけど(傲慢・嫉妬・憤怒・怠慢・強欲・暴食・色欲)、仏教にもそれに対応するものがあるんだよという引用文。こちらはそれぞれに対応するシンボルをとった7つの大罪と違い(たとえばレヴィアタン=嫉妬のように)、メタファーを軍隊としていて、いろいろな欲望がいろんな形でどどどどどーって感じで攻めてくるのを表現しているようで面白い。

 7つの大罪と比較すると、
第一の軍隊(欲望)はマモン(強欲)と対応し、
第二の軍隊(嫌悪)は対応者なし。
第三の軍隊(飢渇)はおそらくベルゼブフ(暴食)。
第四の軍隊(愛執)はアスモデウス(色欲)とも取れるしレヴィアタン(嫉妬)とも取れる。
第五の軍隊(惰眠)はそのままベルフェゴール(怠惰)に対応し、
第六の軍隊(恐怖)は対応者なし。
第七の軍隊(疑惑)も対応者なしで、
第八の軍隊(強情)はルシファー(傲慢)に対応する。

 こうして見ると、それぞれの宗教が重要視している価値観が明確になってて、しかもちょっとゲーム的ですらある。仏教だと憤怒はそのままの形では軍隊に入らないんだなー。

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対話394 E.ゴッフマン 『行為と演技―日常生活における自己呈示』

2011.12.19.14:55



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:D


 この世はすべて舞台、という主張は、あまりに陳腐で、読者諸賢はその限界にはよく通じていて、この言葉はあまり真正直に受け取るべきではないということをいつでも容易に自分に証明できることを知っておられ、だからこそそのように言いだされても寛大にできるのであろう。劇場で上演されている一幕はかなりこしらえられた幻想であり、しかもそうと了承されている幻想である。
(p.300)


 最近ものすごく人生における物語性、みたいなことをよく考えている。

 割と人生が物語だとか小説だとか幻想だとか、そういうことはよく言われることだ。

 実際、ゲームみたいに人生を送っていると自覚されるときは個人的にものすごく楽しい。なぜならそこに多少の距離が感じられるし、実際に幾分かは操作できるという実感がそこにあるからかもしれない。
物語という言葉をとるにしても幻想という言葉をとるにしても、そこにある「距離」みたいなのが実感できて好感が持てる。

 ただ、なかなか自分の人生をそう常に俯瞰して見ているわけにもいかないので、時には人はそれに没入せざるを得なくなるのかもしれない。そのゲームに、その物語にという意味で。
そしてしかしその乗っているものは物語にしかすぎずゲームにしかすぎないので、それは多少の条件の変動とかによって容易に壊れうる。

 ちょっと具体的な話をするのであれば、たとえば会社の昇進争いだってゲームだし、受験戦争だって物語であり幻想だ。
それを楽しむ分には良いけれども、同時にそれに没入することへの危機感を持っていないとなかなかやばいことになるのをいかに通奏低音のように自覚的であるべきなのか?

その人が乗っているもの、将来の夢だとか現在への位置づけ、そういうものはすべて物語であり、メタファーを持って記述するのであればスケート場の氷みたいなものである。
氷の上はスピードが出るし、見た目も美しい。技術が秀でていればそこでジャンプしたりターンしたりして周りを魅了することもできる。

 でも氷の上なので、やっぱりそこには地面とのふれあいがない。温かさがダイレクトに感じられていない。スピードがついているということはその分事故を起こしたときのダメージは大きい。転んだときに顔にひっつく氷の冷たさは並みじゃない。

 24時間スケート上にいるのではなくて、スケートシューズを脱いで地面と足を接続させる。それをすることにとって、快適にスケート場の上を踊れるのだろう。たとえどんなにスケートが楽しいのだとしても、定期的に地面に接することが大事なのだ。

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