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No.127 R.G.コリングウッド, 玉井 治 (翻訳) 「思索への旅―自伝」

2009.05.20.11:15




読書時間:3時間

僕が今取っている哲学のテストの中間レポートの課題用に読んだ。
ちなみにテーマはデカルト、カント、コリングウッドから誰か一人を選んでということで、その中から僕がコリングウッドを選んだのは単純に他の人はみんなコリングウッドやらないんだろうなという直感に基づく。

さて、初めての哲学書をまじめに読む体験である。
正確にいえばカントの解釈本はかなりまじめに読んだ経験があるのだけど、原著を詳しく見るのは今までなかった。
コリングウッドは比較的最近の人で、しかも自伝ということでそこまで難しい書き方ではないと思うのだが、普段読みなれていないような文章形式、哲学の課題というプレッシャー、その他もろもろの影響によりいつもより読みにくさを感じた。
その分、一つ一つのところに注意がいつも以上にいくようになり、読書後の感想としてはなかなか有益な時間を過ごせたと思う。

コリングウッドについての書評は学校への提出用の文章を恥を忍びながらここに貼ることによって終わりにしたいと思うが、一つ反論したいこととしては心理学に対するものの見方。
確かにコリングウッドの時代の心理学には眉唾物の記述が山のようにあっただろうし、今でもそれは大して変わっていないのかもしれないが、だからといって完全対立のような構図を取るのはいかがなものなのかなと思う。
この感想はコリングウッドに対して、というよりは哲学の姿勢全般にという感じだけども。

勿論、現代哲学になればなるほどその兆候は弱まるのかもしれないし、実際心理学と融合したような哲学の形態もどんどん登場しているとのことだが、人間の認識というものを考える上で知覚心理学の知見を考慮に入れていない哲学者、哲学を勉強する学生も存在しているし、結構その数は少なくはないのかなと思う。
そしてそれはやはり”怪物のような”心理学と同じで、少し荒唐無稽であるように思う。

別に”科学的に見て”荒唐無稽であっても存在価値はあると思うし、人間の心の中身というのはその人の信条によって左右されるわけだから、それが一つのベクトルとして機能していると思えば特段なんの問題もないようには思うけれども、だったらもう片方の自分と同じような立場のものを否定するなよといいたい。
ここらへんの議論は知覚心理学のデータベースがまだまだ完璧ではないということで普段は主張しづらいことではあるのだけど、僕が日常思っていることの吐露先としてここに書き連ねてみる。
あれ、コリングウッドへというよりは今の哲学の教授に対する愚痴のようになってしまったが、僕の哲学に対するスタンスとしては今のところそんな感じで。

誤解しないでほしいのだけど、僕は哲学の考え方一つ一つはとても面白いと今勉強している限りではおもうし、その時代のコンテキストの中で人がどのように思考をめぐらしたかを考えるのはとても楽しい。
ただ、一種視野の狭さというか、真理の探究というお題目の上で他の価値観、思想を否定するというのは多神教の僕には一部受け入れがたいというか。
その意味では心理学もその性質をはらんでいるので、一概に哲学とか哲学者が悪いというわけでは全然ないんだけど。

コリングウッド「思索への旅:自伝」を読み、その中で展開されている「問いと答えの論理学」の特色、その意味(重要性)について理解したことを述べなさい。

 コリングウッドが「問いと答えの論理学」で提言しているのは、そもそも哲学における問いを見直すことであると私は理解した。
問いというのは哲学のみならず、他の学問や生活において非常に重要なことであるが、その問いの段階で一部の哲学者は誤りを犯しているとコリングウッドはしている。
コリングウッドにとって、価値のある問いというのは目的に沿った答えを出すということであり、一部の哲学者が為しているような禅問答や言葉遊びのような類の哲学は適切な答えを出すためのものではない。
では適切な問い、目的に沿った答えを出すための問いとは何なのかということになるが、コリングウッドによればそれには細分化をすること、そして歴史を知るということの二点が重要になってくる。

 細分化をすることの重要性について、それは車のパーツ一つ一つの問題をチェックすることに似ているとコリングウッドはしている。
車がスパークしたからといって、「何故車というのはスパークをするものなのだろうか?」という問いを投げかけても抽象的すぎて、それは問題を解決するのには適した問いではない。
これは人が哲学と聞いて想像するような問い、たとえば「愛とはなんだろうか」「真実とはなんだろうか」という問いにそのまま置き換えられる。
そのような全体的で包括的な質問というのは多くの場合、答えを出す上では特に意味をなさないものであって、それらを細分化し個別の問いをもって答えを出した上で、初めて全体を俯瞰視することが可能になるのである。

 細分化の必要性について、これは言葉というものがきわめて複合的な性質を持っていることがその理由として挙げられる。
哲学は言語ときわめて強い関係性を有していると思われるが、言葉というのはその場合に応じて有する意味を変えうるものであり、故にその文脈に沿った質問を提供することで初めて問題解決に意味のある答えを生み出すことが出来るのである。

 この段階において、コリングウッドは歴史を理解することが必要であるとしている。
何故なら質問を投げかけたその人の思想を理解する上で、歴史というものが欠かせないと考えたからである。
これはコリングウッドにとって歴史とは思想の歴史であり、それ以外の部分はさほど重要ではないとしているテキストからも伺うことが出来る。
彼が言おうとしている思想を知る上での歴史の重要性は、つまるところそのコンテキストを把握することなしにその言葉について議論を交わすことは出来ない、意味が薄いということに収束されている。
言葉という目に見える部分は同じかもしれないが、その言葉に付着した様々な内的な意味はそれぞれ場合によって違うはずであり、これは古今の哲学者の言葉を理解することは勿論、その他の場面おいてもそれは言えることである。
故に彼は言葉の背景にある、その言葉を放った者の歴史を知ることを重要視したのである。

 これらの態度を持つことで生まれる意味というのは、内的世界の充足と外的世界への貢献にあると私は読んだ。

 内的世界の充足とは自伝においても言及されているように、他者の思想を歴史を通して知ることで自分の中にその人自身を取り入れることである。
これは表面的に記されている言葉だけを見ていては決して為しえないことである。
何故なら文字だけでそれを判断するということは自らの経験によって判断するということであり、それはその言葉が発した意味とは状況が異なるからである。
他者の思想の背景にあった歴史を理解することで内的世界を広げることが出来るという指摘には、自分の今持っている枠組みだけで物事を判断するだけでは駄目であるということを示している。

 外的世界への貢献とは、答えを出すための適切な問いを出すという態度を日常に活かすことで、机上の学問と見なされがちな哲学を実践のレベルに持っていくということである。
何かの対象について議論を交わすだけでなく、その態度を身につけることを重要視することでコリングウッドは彼の哲学が実践においても意味を持ちうると考えたのである。



読書時間とか準備時間も含め、それなりに労力をかけて書いたので(労力かけてこれかよという話もあるが)、一般教養のこのクラスでCとかついたら結構へこむなあ。

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

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