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対話151 河合 隼雄『河合隼雄著作集(2) ユング心理学の展開』

2009.06.19.23:59




読書時間:50分

僕は色々と本を読んでいて「イメージ言語」っていうのは重要だなあと思っていたのだけど、この本が発刊された1994年時点で河合隼雄がそのことを指摘しているのはまことに興味深い。
僕がいつからこんなにイメージに嵌るようになったのかは極めて謎だが、少なくともユングという人はそのことにかなり前から気づいていたということに関して多少愕然としている。
おそらく僕はもっと早くにユングを学ぶべきだったのだろう。

ユングに関する著作を読んでいて良いのは、今まで自分が学んできたことの背景がちょっと見えてきたような気持ちになって、自分の中で今一まとまっていなかったことがくっつきだしたような気分がすることである。
あーあの人のこれはユングでいうとこれとこれに繋がっていて~みたいな感じ?あれ、ちょっと違うかもしれない。

それはともかく、この本はユングについて書かれたものの中でも個人的にはところどころインパクトのあるものだった。

まず最初に、ユングの「影」が無意識を指しているということが面白い。
影というとどこか負のイメージでとってしまいがちであるが、それは純粋にマイナスなのではなく無意識であると捉えればまた違ったイメージが沸いてくる。
そしておそらく、明晰夢だとか映像記憶というのはこの影のところに光を当てる(あるいはその状態)なのかなと思わせる。
一方、ある程度「影の中」でないと処理が進行しないものも今のところあるのかな、という感じがするので、それに全て光を当てようという試みは方法論としてとりあえずのところ保留しておいたほうがいいのかもしれない。


患者の話では、多重人格を持つイヴの話が極めて興味深い。
詳細は本書に譲るが、彼女の中にはまず最初にイヴホワイトとイヴブラックの二人がいる。
イヴホワイトはイヴブラックの経験を認知できないが、イヴブラックは出来る。

その後、第三の人格であるジェーンが発生し、こちらは最初一切の記憶をもたない。
ジェーンは興味深いことにホワイトと入れ替わることはできるが、ブラックとは出来ない。
これには何か彼女にとっての意味があるのだろうが、当事者でない僕が解釈をしてもそこまで有益ではないだろうから、とりあえず僕はエポケー(判断停止)の状態で読みすすめる。
その後、なんやかんだでジェーンの存在を知ったブラックは治療者にこう告げる。

「わたしたちみんながキチガイ病院行きになるか、誰か一人が全部を牛耳るか、どちらかだわね。ということは、他の二人は死ぬってことと同じだわ。あたし、ジェーンが残るような予感がする。あたしの体じゅうの骨でそれが感じられるわ」(p.72)


多重人格に関する書籍は今までもちょこちょこ読んでいたが、僕はそのときそんなに真剣に読んでいなかったのかもしれない。
自分は存在しているのに、一般的には同一の存在として見られている人格は存在の危機に瀕してしまうことがあるのだ。
そしておそらくそれは多重人格という特殊と思われている例でだけではなく、大なり小なりどこの存在の中でだって起きているのだろう。
おそらく僕の中でも、何人かの(僕が人格として認めていない)人格の存在が抹消されてしまったりしているはずだ。

その後、結局イヴホワイトとイヴブラックは消え去り、ジェーンが残るのだが、彼女はだんなとの結婚生活においてトラブルを持っていた。
というかそもそもイヴブラックというイヴホワイトにとっての影が活動を始めたのは前のだんなとの結婚上のトラブルが直接のきっかけなので、ジェーンにいたっても根本的にその問題は解決されていなかったと言えるかもしれない。
しかしその後また興味深いことが起きる。ジェーンはそのことをキッカケに自殺をしようとしたらしいのだが、この瞬間第四の人格のエヴァリンが誕生する。
エヴァリンは3人の記憶も全て引き継ぎ、以後結婚生活は上手くいくようになったという。

僕がこの話を読んで思うのは、人格というのは実質的には個人という存在のための道具なのではないか、ということだ。
どうしても僕は存在=1つの人格という近代の思想に取り付かれてしまっているのだけど、多分古代においてはまた別の人生観だったりするのだろう(トランスとかの文化もあっただろうし)。
存在を活かすための方法論として、1つの人格として自分を規定したほうが良いのか、そうではないのかは、各々のメリットデメリットを鑑みた上で改めて考え直す必要がありそうだ。


最後に、この文章を読んでいて驚いたフレーズがあったので引用。

このようなことも勘案すると、イメージについて外界とか内科医とかの区別は不必要であり、それに対する接近法によって差が生じてくる、と考えられる。近代自我によって把握されたイメージ群にタ逸する「客観的」接近法から、いわゆる自然科学が生まれてきたが、ある種の意識変容を行いつつ見たイメージ群について、「私」を通じて普遍に至る接近法を用いて語るのが、宗教である、ということになる。したがって、このあたりのことを身長に少しずつつめて考えてゆくと、十九世紀において、敵対的に感じられていた宗教と科学ということが、イメージやシンボルの領域において、相当に接近していくるのである。おそらく、二十一世紀はその仕事が大いに行われるのではないだろうか。イメージやシンボル研究の重要性が感じさせられる所以である。このことを予感して、二十一世紀は宗教の時代である、などと言う人も出てきているのではなかろうか。


これは本当につい最近、先週辺りに藤沢烈さんKGCの柴田さんから伺ったことである!

また同時に、このことは僕の行く末をある程度予感させてくれるような気がする。
僕がICUに入った2年前、宗教にはほとんど興味を示さなかった。
キリスト教概論が必修と聞いたときも「宗教とか胡散臭い」とまでは思わないまでも、今ほどの意味づけを感じ取れていなかった。

僕は今学期初めて宗教の授業を取ったくらいなので宗教に関する知識はほとんどないといっても過言ではないが、これからの学業探求において宗教は一つの熱い領域になりそうだ。

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

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