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対話248 スラヴォイ・ジジェク 『ラカンはこう読め!』

2009.10.25.15:23



<殿堂入り>
個人的読みやすさ:C (たまに内容についていけないことがあった)
読書時間:2時間


今宵、計画通りにやってみましょう。
うまくいけば、先方は邪なココロを抱いて正しい行為をするわけだし、
こちらは正しい心を抱いて正しい行為をするわけでしょ。
どちらも罪ではないけれど、罪深い行為にはちがいない。
とにかく、やってみましょう [第三幕代七場](p.190)


のんびりのんびり味わって、自分の消化の音を全部聞き届けてみたくなる本が確かにある。この本はそんな本の1冊だと思う。

単刀直入にいって、素晴らしい本だった。僕が普段なんとなく考えていたこと、なんとなく感じていたこと、でも言葉にはうまくしづらいような感覚、それらをジジェクはうまく言葉に拾いあげ、さらに僕の考えも及ばない程度に堀りまくり、結果ここに奇跡的な書籍が誕生した。ファンファーレ!

読んでいるとき、僕はラカンの本のつもりで読んでいたけど、あとがきとかアマゾンのレビューを見るかぎりむしろラカン的思考法を実践したジジェクの著書、というように読んだほうがいいだろう。入門書というよりそこから新しく生まれた思想書というか、世相をラカン的に切り取った本というか。いずれにせよ僕的には大ヒットだし、ここまで他の著作を読みたいと思った人は久しぶりである。とりあえずジジェクとラカンはもの凄い勢いでチェックせねばなるまい。

ボーアの家の扉には蹄鉄が付いていた。それを見た訪問者は驚いて、自分は蹄鉄が幸福を呼ぶなどという迷信を信じていないといった。ボーアはすぐに言い返した。「私だって信じていません。それでも蹄鉄を付けているのは信じていなくても効力があると聞いたからです。」(p.59)

ここで指摘されていることはプラシーボの研究からも報告されている。たとえそれがプラシーボと知っていても、プラシーボを通して効果があるということを知ることで実際に効果が出るのだ。そこで見えるのは”本当に”因果関係的に、直接的に効果が発生するか否かではなく、そのような相関関係が見られたかどうか、そしてそれが自分の信じたいことであるか否かということなのだ。うまく言葉にするのが難しいが、他者性ってのは容易に自分のものとして取り込まれるものだし、その意味で人間はつながっている、あるいは飲み込まれているのだと思う。それが本書の指摘するところの<大文字の他者>のなんとなくな概要なのだろう。

「(前略)それなら跪いて、信じているかのように行動しなさい。そうすれば信仰を追い払うことが出来るでしょう。もはや自分で信じる必要はないのです。あなたの信仰は祈りの行為へと対象化されたからです」。(p.60-61)

これも逆転的な発想だけど、的を射ているように思う。ある意味それは人格の切り離しなのだ。人格という言葉が気に入らなければ側面と言っても良いと思うけど、行為に自分自身の人格を引き受けさせることによって、人間は驚くほど様々な人格を持ちうる。シャーマニズムやアニミズムに見られる儀式が良い例だ。彼らは日常においては普通に生活しているケースが多かったのだろうが、しかし儀式の際にはそれとはまったく異なった性質を現す。それは儀式を”象徴”としてある別側面を預けていたからであり、だとすれば人格はかなりの部分で外部委託的なのである。

例を出そう。人格は金であり、儀式はゲームである。僕らはそのお金であるゲームを買う。もはやそのとき使ったお金はゲームとして別物になってしまっているように思うが、しかしプレイボタンを押せばいつでもそのゲームを起動してその世界に入り込める。ゲームの中では僕らの日常とは違ったことを出来たりするわけだけど、ゲームを消せば普段の生活に元通りだ。ゲームの中で色々しようが、それが”私”と”ゲーム”という形で完全に切り離されていれば周りから非難を受けることもあまりないはずである。

このとき、ゲームをしているときの人格は完全にゲームに預けられ、それをおろすまで(ゲームをプレイするまで)その人格は発生しない。何もない場所でゲームをするようなそぶりを見せたら病気だが、ゲームが目の前にあるときにゲームをするのは趣味の問題であって、弾圧を受けるほどにとがめられることは比較的少ないはずだ。

素粒子のもつエネルギーは、ひじょうに短い時間内であれば、激しく変動しうる。すぐに返済しさえすればエアチケットを買う金を「借りる」ことを「容認する」航空会社の経理システムのように」(p.131)

この例えは原因と結果の関係性を再び僕に考えさせてくれる。結果が同じであれば原因はいかようにも出来る、その過程もいかようにも出来る、というのは「うみねこのなく頃に」の1つの重要なテーマであるが、これが素粒子レベルで実際にそう考えることが出来るというのが僕にとっては驚きなのだ。

人間の動機に関しても、これに似たようなことが想起される。僕がたとえば大学に入りたいと思ったとしよう。実際に合格して入る。そして合格体験記にそのときの志望動機などを書き散らしたりする。しかし実際そこに行くまでにその過程は揺れに揺れまくっているのだ。僕が知覚しているレベルでもそれはいえるし、実際知覚していないレベルにおいても含むのであればそれは明白だろう。ただ、結果としてはいくつかにこしらえられた原因に落ち着く。それはあたかも最初からそうであったかのように思える。

アメリカの成人の半数は「原理主義」と呼びうるような信仰をもっているそうだが、この最近の宗教的原理主義の潮流は、ひねくれたリビドー経済の優勢に支えられている。原理主義者は信じるのではなく、じかに知っているのだ。リベラルで懐疑的な冷笑者と、原理主義は、その根底にある基本的特徴を有している。どちらも、本来の意味において、信じる能力を失っている。(p.197)


私たちは何をどこに預け、そして何を「預けていない」のかを知らないのか。

私たちはそれぞれ、人格、性格の一部を行為や儀式に預けている。そして必要になったらそれを降ろす。だからその行為や儀式を忘れた時に、私たちは自分の人格や性格の一部を同時に喪失してしまうことになるのだと思う。

theme : 読書メモ
genre : 本・雑誌

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