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対話290 佐々木 宏幹 『シャーマニズム―エクスタシーと憑霊の文化』

2010.02.21.20:47




個人的読みやすさ:B
読書時間:30分


 "シャーマニズムとは、通常トランスのような異常心理状態において、超自然的存在(神、精霊、死霊など)と直接接触・交流し、この過程で予言、信託、卜占、治病行為などの役割をはたす人物(シャーマン)を中心とする呪術-宗教的形態である。”(p.41)


 シャーマニズムに関連する本を読んでいると、いつも人間の持っている可能性について驚きを感じずにはいられない。
そしてそのたびに、その人間の可能性というのは少なからず”その人が属している環境から来ている”という事実に直面することになる。

 何が人をシャーマンたらせているのか、という問題を考えることは僕にとって非常に有意義だ。
大体のシャーマンは何らかの霊的な体験を得て、そこから先は文化によって修行をしたりしなかったり、そんなことをしながら社会にシャーマンとして定着していく、と僕は思っていた。実際この本でもそういうような指摘があるし、別にそれ自体は事実だと思う。

 ただ、シャーマンを考えるときに司祭との比較、というものが本書では持ち込まれていて、それが僕のシャーマンに対する洞察を一歩進めたものにしてくれる。

 シャーマンはそれ自体が神聖な直感を持っていたり、何かを降ろす力(possesion)、または霊的に旅をする力(ecstasy)を持っていたりする。それに対して司祭というのはもっと社会的な装置としての色が強い。別に彼らは霊的な経験を得ている必要は必ずしもないし、トランス状態になって何かを降ろしたり旅したりする必要も多くの場合ない。

 それはつまり、シャーマニズムの合理化、あるいは産業化に近いのかなと思う。
シャーマンというのは選ばれた人しかなれないものであることが多いし、実際彼らの能力は何か違うものがあるとみなされている。だから珍重されるし重宝されるし尊敬のまなざしを得たり蔑視されたりする。
 でも、彼らの価値はそれだけではない。彼らのポジション自体が社会的に必要とされているのである。つまり、トランスの能力があるなしに関わらず、なんらかの異世界と繋がっている、という権威自体が求められている、ということである。そこでその権威としての存在として、司祭というものが流行を極めるに至る。

 社会に何故そのような権威が求められているか。それはなんだかんだいって、人間が人間を超えた判断基準だとか、存在を必要としているからくるからなのだろう。人間を超えた判断基準は決定をより簡単にさせてくれるし、プラセボ的な意味で病を治したりすることもある。
 特殊な力を持っている人がいればそれはそれでよいことなのだけど、そういったような人がいなくても人は社会的にそういった人物を創り上げることで、様々なことに対処をしているのである。そしてその後、シャーマンのような文化が社会的に迫害され、司祭が力を得るという様々な文化で見られるようなある種の逆転現象が発生するに至るのかなと思った。

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