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対話313 三人称小説の魅力とは何か?

2010.03.24.18:09




村上 春樹 『1Q84 BOOK 1』

個人的読みやすさ:B
読書時間:3時間


 本人がなんと思おうと、それは間違いなくハゲなの、と青豆は思った。もし国勢調査にハゲっていう項目があったら、あなたはしっかりそこにしるしをいれるのよ。天国に行くとしたら、あなたはハゲの天国にいく。地獄にいくとしたら、あなたはハゲの地獄に行く。わかった?わかったら、事実から目を背けるのはよしなさい。さあ、行きましょう。あなたはハゲの天国に直行するのよ、これから。(p.116-117)


↑笑った。青豆さんみたいにハゲが好きな人がもっと増えたら僕も安心してハゲることが出来る。

 村上春樹を読むのは久しぶりだ。というか、そもそも小説を読むこと自体がものすごい久しぶり、といったほうが正確だと思う。僕が最後に小説を読んだ記憶は『ディスコ探偵水曜日』で止まっていて、きっとそれからいくつかの小説を読んだはずなのだけど思い出せない。最近読んだ小説の中で明確な形で憶えているのは『ディスコ探偵水曜日』だけでそれが確実なだけなのだ。サウンドノベルまで含めてよいのなら『うみねこのなく頃に散 #2』が一番新しい記憶だけども。

 そこで久しぶりに村上春樹などを読むと、どうしても表題のようなことを意識せざるを得ない。つまり、1人小説なのか3人称小説なのか、という問題である。
 僕は個人的に1人称小説のほうをよく読むことが多い。僕が一番好きな小説家は今のところ舞城王太郎だけだし、彼の作品のほとんどが1人称だ。

 そんな僕にとって、3人称小説は多分どこかよそよそしさを感じてしまうところに多少の距離感を感じてしまっているのだろう。よそよそしさを感じているので距離感を感じるのは当たり前、というかまるで説明出来ていない気がするのだが、そう思うのだからしょうがない。別に3人称小説を読まないわけではないし、むしろ読んでいる本の中では3人称小説のほうが多いかもしれない。それにも関わらず、僕は1人称小説に惹かれつづけた。


 突然だけど、僕は小説家になりたいと思ったことがある。正直に言えば今でもそういう道をいくのは悪いことではないなと思っている。これはほとんどの人に言ったことはないけど、昔いくつか超短編の小説を書いてウェブにアップし、その限られたサイトの中ではそこそこの評価を受けていた。内容は割としょうもないものであったので割愛。変態系だったことだけは疑いがない。

 そしてそのときも僕は1人称小説を書いていた。正直それが小説なのかどうかも疑わしいくらい、僕はその主人公に成りきろうとした。その小説の主人公と僕を取り巻く環境は全然違うし、それは身体的条件であったり歴史であったり、ポリシーであったりするのかもしれない。だけど、意識を持っているという点で僕と彼らは共通し、それゆえに僕が違う身体的条件をまとい、歴史をまとい、ポリシーをまとうことで、僕は別人として存在することが許された。書き手としての1人称小説の面白いところはまさにそこにあるのであって、それは一つのペルソナをつくり、そのペルソナが生きることが出来る箱庭を用意してあげることに他ならないのだ。

 一方、僕は3人称小説を書くということにどうしてもそのときは意義が見出せなかった。それは多分小説を上記のように利用していたからだろうし、人によって小説の使い方、あり方というものは違うものだ。1回だけトリックのために3人称小説で書こうとして、途中で乗らずに諦めてしまった。3人称小説だとどういう文体にすればリアリティがでるのか?ということがまるで分からなかったし、出てくる一人一人にリアリティをつけてあげるだけのスキルは僕にはなかった。程なくして、僕は小説を書くことをやめてしまった。小説書きとしての僕はその夏の間存在していただけだった。


 さて、1Q84を受けての文章だったのに、随分と1Q84から遠ざかってしまった。だらだらと思わず書いてしまったけど、僕がこの本を受けて言いたかったのは一つ。それは「3人称小説はその全体に通じる文体の魅力そのものであり、それは1人称小説とはまったく違う」ということ。

 1人称小説を書いていたとき、僕はそこにリアリティを追及していた。リアリティというのは感情のリアリティだ。僕がその立場ならこう思うのではないか?ということをなるべく書こうと試みたし、1人称小説でそれがある程度で納得行けるレベルでかけたのは、そこの主体は1人だけだったからだ。僕の書いた1人称小説で主人公以外の他の誰も話すことはなかった。それは僕が恐れていたからだ。何を?その人が話す内容にリアリティを持たせられるかわからなかった、ということだ。僕は登場人物がただのコマのように現れてはいけないものだと思っていた。特に、現実では起こりえない喋り方をする女の子などは絶対に登場させたくないと思っていた。

 だけど、果たして「現実ではいないだろうキャラクタ」をつくることは果たして罪なのだろうか?と村上春樹を読んでいると思わずにはいられない。村上春樹の文章はまさに村上春樹。一回読んだらもう村上春樹だと思うし、もし村上春樹じゃないのだとしたらそれは良く出来たフォロワーなのだろう程度にしか思わない。それだけ彼の翻訳文体は個性的で、ある意味どの作品を読んでもその文体を見ただけで一種の関連性を感じてしまう。たとえ内容がまったく違うのだとしても、村上春樹の書くものは村上春樹らしい作品以外にありえないのだ。少なくとも彼がその文体のスタイルをまるっきり変えない限り。

 そしてそれこそが僕の認識のパラダイム転換である。彼が例えば1人称小説を書くことがあるだろうか?実際僕は彼の小説の全てを読んだわけではないので、もしかしたら今まで1人称小説もあったかもしれない。それでも僕が今まで読んで記憶に残っている作品のほとんどは3人称小説の体裁をとっていたし、それだからこそ村上春樹であった。村上春樹は物語の登場人物の口調のリアリティだとか、そういうものは眼中に入れていないのだ。いや、もっと正鵠を帰すのであれば、それは村上春樹の作り出した世界の上にのっとったリアリティなのであって、それは僕らの現実のリアリティとは違うのだ。

 これは気づいてしまえば当たり前にしか感じられないのだけど、まったくもって僕が見逃していたことでもある。
何故か僕はリアリティというものを考えたとき、この現実におけるリアリティのことを考えてしまっていた。そして考え直したとき、別にこの現実にそぐわない世界に乗っかったリアリティというものがあっても良いのではないかという気がした。たとえば村上春樹的な世界に村上春樹的なリアリティを持って、キャラクタが台詞を吐く。1人称小説だとそのキャラクタに主眼が置かれるけれども、3人称小説でより強調されるのはその全体の世界観なのだ。つまりそこに流れる文体だとか、全体の音楽性みたいなのが試されるのが3人称小説なのだろう。

 なかなか3人称小説は素晴らしい、というか1人称小説とはだいぶ性格が違うのだな、ということが今本当に実感できる。たとえば僕がなんらかの物語を今後つくるとして、それは1人称小説がふさわしいのだろうか、3人称小説がふさわしいのだろうか。これはなかなか面白い問題。

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