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対話323 機械論には生気論を、生気論には機械論を

2010.03.29.20:05




伊勢田 哲治 『疑似科学と科学の哲学』


個人的読みやすさ:C
読書時間:2時間


 一つの論点としては、もちろん、ヒュームの議論を変形して流用することができるだろう。心理学や社会学は別に他の科学の分野の主張と矛盾することを言っているわけではない。信じるのと信じないのと、より大きな奇跡を受け入れるのはどちらか、と悩む必要はまったくない。芸術的な創造性とのアナロジーで超能力を擁護する議論も同じ理由で失敗する。創造性は他の分野の知見と矛盾しないので創造性というものがあると考える上で別に奇跡を信じる必要はない。文学や芸術学などはあまり科学とみなされていない(その理由としてはまさに再現性のない現象をあつかっている点が大きいだろう)が、少なくとも科学の知見と矛盾する力を想定しているわけではないので正統的な学問として受け入れられている。これに対し、他の化学と矛盾する主張をし、自らを科学とみなす超心理学は、再現性について文学はもとより心理学や社会学より厳しい基準を満たさなければ受け入れてもらえない運命にあるのは仕方ないだろう。(p.146)


 まずこの本を読んで一番良かったことを最初に書いておくと、ベイズ理論に出会ったことだ。
僕は今までベイズ理論が何を意味しているかよくわかっていなかったけれど、この本には非常にわかりやすい形でそれが解説されていて、それが今後僕の考え方の一つの骨子になるという予感が生まれた。
 今まで確率というとどうしても古典的なほうの確率を思い浮かべていたけども、こういった主観的要素の入ったものも理論に取り入れてよいということがわかったことはアカデミックの場だけではなく、日常生活を営む上でも自分にとってプラスになるのだろうなあと思う。

 疑似科学、というテーマは僕にとって一つの大きなホットトピックだ。
僕は「人の信じる力は何を起こすのか」ということに凄く興味をもっていて、たとえ科学で実証されないことであったとしても、社会的権威付けや思い込みでどこまで効果を出すことができるかを知りたいという欲求が強い。つまりそれはプラセボ効果を人はどこまで起こすことができるのか、という問題に繋がるのだけど、このプラセボ効果というのはものすごく強い形で、疑似科学とよばれているものに相関している。

 ”擬似”とよばれているものに対してでも信じることで、実際にそれが現実の現象として起きたら非常に面白いじゃないか!と僕は思う。そしてそういう立場を取っているからこそ、たとえばがちがちの機械論的科学論者とか、プラセボ的効果を受け入れない、あるいはプラセボ効果を単なるマイナスのファクターとしてしか受け取れない人に対してある種の反発心を抱くことがある。
 確かにそれは要素に還元したら取りこぼされるもの、だけど全体の複雑さの中ではそれが機能するかもしれないし、ましてや信じるという味付けが入った現象には還元主義では理解できないものが絶対に含まれているはずなのだ、と感じてしまう。

 一方、生気論を強く信じる人、特にスピリチュアリティに目覚めた人や宗教的バックボーンを強く持つ人に対しても、僕は反発心を感じてしまう。僕はただの天邪鬼なのだろうか?彼らの話を聴くと一つの世界観としては非常に強く理解できるし、世界観には社会的信仰やその権威がつきまとう。それが機能している場合彼らの「信じる力」は強化され、故に彼らの世界の中で起きる現象というものは必ずあるのだろうということは推測することが出来る。しかしそれは人類全体に還元できることでは決してない、とも同時に強く思う。このとき、僕の中の科学主義みたいなものが強く顔を出す。たとえば特に彼らに面と向かって科学主義を説いたりすることは野暮だしそもそも科学というものに対してのアンチテーゼとしてのスピリチュアリティだったりするので話すのは非常に億劫ということもあって別に議論などはしたりしないが、「ああ、ここは僕の世界ではないな」ということを感じながら後ずさりをすることはやはり僕に運命付けられたことなのだろう。

 このように、僕はがちがちの機械論者になることも出来ず、かといってがちがちの生気論者になることも出来ない。コウモリ的ポジションというか、やはり何か極端に触れるということが出来ないのかもしれない。ただ、やはり自分はなんだかんだ科学のほうに思考が寄っていて、その中で多少異端というか胡散臭いポジションをとるのが一番適しているのではないかなとは思う。科学のほうにはそれを受け入れる余地みたいなのを感じるのだけど、強い生気論を取る人たちのコミュニティにはそれだけの度量がない気がするからだ。別にそれは悪いことではなく、それが彼らの世界観の破壊に結びつくのであれば受け入れないのが普通だし、人は信じることで何かを生み出しているという側面は必ずあるわけだ。
 科学に立脚しない考えを持っている場合、普遍性という面ではマイナスのファクターを抱えてしまっているわけだから、閉じたコミュニティの中でその世界観を維持させようという目論みは非常に強く理解できる。生存競争を生き延びるためにはある種隔離された場所にとどまることも必要なのだ。たとえばそれはガラパゴス諸島の動植物のように?

 あと、ここでは生気論者をマイノリティみたいにちょっと描いてしまったけど、でも別に生気論者カテゴリーのそれぞれが一つ一つマイノリティというわけではない、ということも一応追記しておこう。科学コミュニティは部分部分では浸透しているわけだけど、人は多かれ少なかれ近代科学にそぐわないことをやっているわけで、人間がそう黒と白にはっきり分かれるわけでもないのは当たり前のファクト。

comment

Secret

ヒューム哲学の相対化

2010.04.03.13:17

来年はヒューム生誕300周年にあたるが、そろそろこの哲学の真の拡張の時ではないだろうか? それは、
「観念は、連合もあれば分断もある」

「観念は、類似・近接・因果の法則で連合する一方、相違・遠隔・意外の法則で分断する」という命題は至極当たり前な事実である。そして英米系哲学を相対化し、民主主義も自由主義も実験科学も相対化し得る。

2010.04.08.23:02

どうもです、ブログ読ませていただきました^^

はじめまして 伊勢田さんの本、おもしろいですよね

2010.04.10.10:19

トマトさんのブログ、おもしろいですね。
僕も伊勢田哲治とか、市川伸一とか、苅谷剛彦あたりを読むので、関心領域が被ってそうで、嬉しいです。

ところで、僕もプラシーボには興味を持っています。つまり、それが、ある種の妥当性を持っていようがいまいが、本人が「これはこうなんだ」と認知したら、ある程度、行動や真理に強いバイアスがかかると。そのバイアスが時によって、命を救ったり、あるいは、誰かを殺したりするのでしょうね。

今から、仕事なので、取り急ぎ。

お気に入りに入れさせていただきます。では、また。
追伸 21歳なんですね!若っ(笑)。僕は23歳です。よろしくです。

2010.04.11.09:37

はじめまして!

関心領域がかぶっている方に会えて僕もうれしいです笑 
プラシーボの面白いところはそこですよね。

更新頻度がだいぶ偏ると思いますが、どうぞこれからよろしくお願いします!
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はらわたに秩序。

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