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対話336 この戯言は実際の自然科学とは一切関係がございません

2010.07.07.18:04



個人的読みやすさ:D
読書時間:2時間


さらに、時が経つにつれ、ラカンの著作は、言葉遊びと断片化された統辞法をないまぜにすることで、ますます判じ物めいてきた。これは多くの聖典に共通する特性である。そしてこれらのテクストが、弟子たちによる敬虔なる教義解釈の基礎となっていくのだ。こう見てくると、つまるところ、われわれは新たな宗教を相手にしているのではないかと疑っていいようだ。(p.52)


 これは特に、自然科学めいたことを社会科学や人文学に導入しようかなと思っている人は読んだほうがいい本だなと思った。つまりそれはかつての僕みたいな人のことなのだけど、この本を読むことでますますもって自然科学にきっぱりと決別する(もともと振り向いてもらえてもいなかったが)きっかけを得ることが出来るようになったと思う。あ、別に自然科学系の勉強を軽視するという意味ではなくて、自分の研究には出来る限り取り入れないという意味においてね。

 この本の最初からやり玉に挙げられているのは僕が一時期はまった(といってもジジェクの本を通じて、だけど)ラカンであり、途中に言及のあるファイヤアーベントの思想にも一時期それなりにはまっていた僕にとって、この本を読むことはそれほど気持ちの良すぎるということではなかった。ただ、かつてから科学の重要性みたいなのはひしひしと感じていたし、典型的なポストモダン論者がいうような極端な相対主義(科学だって一つの宗教でしょ?)とは距離を置きたいと思っていたから、案外僕のもともとの思想はこの本から外れていた、ということでもないようだ。

 社会科学が自然科学的な方法論を取るべきか、みたいなことは多分社会科学をやっている人なら一度は考えると思う。人文学はその点比較的いさぎよさそうで、科学とかなにそれ食べれるの?的なポジションをキープしているというところが多そうだと思っていたけど、それでもやはり科学的概念をメタファーとして分かりづらく使ったりしているという風潮が確かに昨今ではあるのは間違いない。みんな自然科学にあこがれているし、それが現代の趨勢なのだと思う。その反発心としてのポストモダニズム的な相対主義の隆盛もここに原因が求められるだろう。

 僕はその趨勢からやはり一歩抜けたいなと思う。つまり自然科学完全シカトポジションを貫きたい、少なくとも自分の研究分野において。そもそもたとえば脳とかの研究において、はっきりとこれはこれこれでありしたがってこういう現象が起きるということは一般的に想像されているよりもずっと言えることが少ないそうだ。たとえば男女の脳りょうの太さの違いから来る性格特性の差異とか、テストステロンと男性性についての関係性だとかも、最近の研究ではかなり怪しいとされているとのことである。自然科学を自分の言っていることの権威づけとして用いてしまうのはやっぱり効果的ではなさそうだ。

 であれば僕のような自然科学者ではない人はどのように自然科学を自分の思想に生かすべきか?

 別に着想を得るために、自然科学をメタファーとして認識すること自体はまったくもって悪いことではない。しかしそれを他者にアウトプットするときに、自然科学的な用語を使ってしまったり、しかも誤用なんかしたりしてしまっていたりしたら、それは人間科学の発展を阻害する礎になるだけである。だからこそ、自分が用いる用語に自然科学的な言葉、あるいは自然科学に限らずとも他分野の言葉を使うときには神経質になる必要性があるのだろう。思想には自然科学的な性質とは違ったものがあるのだから、それをそのまま転用するのは危険すぎるのである。


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