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対話349 住原 則也、芹沢 知広、 箭内 匡 『異文化の学びかた・描きかた―なぜ、どのように研究するのか』

2011.06.22.06:41



個人的読みやすさ:B
読書時間:1時間

 かくして、現代の地域固有文化の研究の多くが、かつてのように固有性そのものの特徴を捉えようとするよりも、むしろ、固有の文化を遵守しようとする行動を「抗議表現」[ロバートソン 1997:97]や「レジスタンス」[Sahlins 1999:410]の集団として扱い、「伝統文化」といえども、外界に向けて見せつけるための、操作対象としての「創られた文化」と見なす傾向を帯びてきている。(中略)もはや、ある地域の固有の文化現象を研究する場合ですら、その地域の内部事情だけを閉鎖的に見るのみでは、内部者の、グローバルに開かれた心の内面世界を見過ごすことになる。(pp.9)

そこで、サーリンスの言葉を借りれば、非西洋社会は、近代化に反対しているというよりむしろ「近代を土着化」[Sahlins 1999:410]しようとしている。つまり、近代性を土着の良き伝統的システムのなかにうまく組み入れ、共存かをはかろうとしていることになる。(pp.11)

グローバル化は、それら中間者による「権威ある解釈」から個人を解放したことで、個々人は無解釈(メディア自身の解釈は別にして)の情報に直接接し、独自の世界観を形成するようになった。(pp.15)

日本人の享受している経済的な豊かさは、異文化と関わろうとするハングリー精神やチャレンジ精神の育成にはマイナスに働いてこなかっただろうか。(pp.19)

 進化論は、生物進化論と社会進化論に分けることができる。前者のほうは、チャールズ・ダーウィン(1809-1882)によって広く知られる生体の進化のことであり、後者のほうは、ハーバート・スペンサー(1820-1903)などの論者を中心として、社会が進化してゆくという考えである。(pp.29)

第一に、「素直な目」などというものは存在しない。(pp.55)

つまり、インターネット文書の情報は、なるべく、出版物の研究文献による情報でフォローアップしたうえで用いる、ということである。(pp.90)

 いつまで文献を集め続けるのか?もちろん、論文を書き終える最後の瞬間までである。(pp.110)

(前略)現地人といえども「知っていても語ることのできない」領域があったり、現地人にも「見えざる」領域がある。「異文化を理解する」とは、そのような「領域」を探るということであった。(pp.121-122)

 また逆に、変に歓心を買おうとする必要はない。かつて、アフリカの村に出かけた、ヨーロッパ人のキリスト教宣教師が、村人の農作業などに便利だろう、と鉄の斧をプレゼントしたところ、それをもらえなかった人々のねたみが発生し、平和な人間関係に大きな歪みを生じさせた例もある。(pp.141-142)

同様にイギリスの社会学者アンソニー・ギデンスもまた、人間社会の研究とは、おしなべて行為者自身の解釈を、調査者が再解釈する作業であると言い、これを「二重の解釈学」(double hermeneutics)と呼んでいる[Giddens 1982:11-14; 1984:284]。(p.148)

食物を例にとれば、現代の日本の食文化では、トマトなど野菜のサラダを朝食に食べることに何ら不思議を感じていない。それに野菜サラダは西洋食の影響である、と思っている。ところが、アメリカ人などに聴けば、朝食に野菜サラダ、とりわけ、トマトなどを食べるのは「気持ち悪い」ことだという。(pp.158)

(前略)皮肉にも、ホームレスに対する行政や警察の扱いそのものが、ますます彼らをほーむれすらしくさせてしまっているという、一般的な常識を覆すような現実だった。(pp.159)

 文化人類学の場合、その実践自体がそのまま「普遍」と「個別」の往復運動である。世界のさまざまな民族の生活を仔細に記述することと同時に、人類全体についても論じる。(pp.190)

私たちは、歌人が和漢の名歌にちなんだ「本歌取り」をして歌を詠むように、先人の研究を踏まえた文章をつくる必要がある。(pp.204)

最近話題になったある哲学の教科書では、自身が議論をするときに意識的に接続表現を多用することと、論理的な文章を読むときに接続関係を考えながら読むことの二点があげられている[野矢 1997:1-3]。(pp.211)


大学の指導教官より「これはマストです」と指定されたために読むことになった本。読み終えてみて、確かに僕のような門外漢でも人類学のリサーチについての大まかな雰囲気がある程度掴むことが出来たので良い本なのだと思う。

 特に論文の書き方について、「これは本歌取りなのである」としたところに感銘を受けた。別に論文に限らず、人生ってかなりの部分本歌取りの要素が強いのだと思う。
創造性というのは完全に独立したところから発生する」だなんてナイーブなことを今更思っている人はあんまりいないだろうけど、それでも「自分が創造性を発揮するために押さえておくべき基本地形がなんなのか?」について把握していないというのは振り返ってみると多々ある。

 だからこそ、まずやるべきは鬼のようにその分野に関する書物を読む、ないしは物事を体験するということなのだ。その前に自分で考えてみるとか、そういうのは多分そこまで重要じゃない。まず量。大量にそのフィールドに使ってみる。考えるのはそのあと。考えることだけでは、もはや当たり前のことではあるけど、創造性は発揮できない。むしろ、考えることというのは創造性とはかなり違う位置にあるのではないかとすら最近思う。創造性とは閃きであり、そしてその閃きは膨大な経験から生みだされる。

 もちろん、創造性を促進させるような一定の形式というのは存在しているけども、その場合でも大半の場合頭の中でこねくり回すのではなく、たとえばブレーンストーミングのように紙とぺンを使ったり、あるいはイメージストリーミングのように映像と発声を用いたりしている。

「本歌取り」をするためにまず土台を固め、そこから生まれる閃きをツールで促進させる。恐らく一般的な「考える」という作業は、そこでは最後の微調整くらいでしか効果を発揮しない。

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