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対話356 尾見 康博, 伊藤 哲司 『心理学におけるフィールド研究の現場』

2011.08.18.00:05



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


いずれにしても、狭い空間に閉じ込められているかのような圧迫感、閉塞感を感じていた(私を含めて)少なからぬ心理学者にとって、このフィールドワークの風は、まさに時宜を得ためぐみの雨ならぬ風であった。(p.4)

では誰がもっとも圧迫感を感じていたのかといえば、それは、発達心理学、社会心理学、教育心理学といった、実験と臨床のハザマにある分野の研究者(の一部)だったのである。(p.5)

いいたかったことは、近年の心理学では、「客観性」を保持するために、質問紙調査が最大限に利用(悪用?)されてきたということである。そして、実験でなければ質問紙、みたいな二者択一の選択肢を常に突きつけられて、いずれかの方法にあわせて、テーマや研究計画が選ばれるという事態が生じるようになった(詳しくはサトウ・渡邉・尾身, 2000参照)。(p.5)

 ところで、近年、欧米では「フィールドワーク」とりも「エスノグラフィー」が現場調査の報告書およびその調査のプロセスそのものをさす言葉として使用される傾向が強いという(佐藤, 2000)。「目で見て、耳で聞く」、つまり調査するための技法としてでなく、それを報告書としてまとめ上げる、つまり「書く」までのプロセス全体を包含する技法として、「エスノグラフィー」という呼称がふさわしいというのである。(p.7)

エスノグラフィーには2つある。①いわゆる民族誌と②マイクロ・エスノグラフィーである。前者は文化人類学に根ざす「異文化記述」の伝統をもったエスノグラフィーである。後者は、人々の行動や相互行動について、文脈の影響も考慮に入れつつ読み解いていくという意味でのエスノグラフィーであり、「マイクロ」という言葉を用いることでその対象がマクロな社会構造ではなく、マイクロな行為レベルであることを示している。(p.21)

 研究者は、心理学の蓄積された知識について勉強しているから、母親たちに見えない治験があると思いがちだが、母親たちも蓄積された知識をたくさん持っている。しかし伝える術、残す術、記録する術がない。研究者の仕事は、母親に代わって、記録したり伝えたりするだけのことかもしれない。(p.44)

そのときに思ったのは、「なんで俺、他人の考えた測定方法のためにこんなにがんばって答えてるんだろ?」「その点はオレじゃなくて愛着の概念を考えたボウルビー(Bowlby, J.)に聞いてくれ」。こんなことを思うのは、自分のではなく人の借りもので研究していたからにほかならない。そして他人の研究の正しさを懸命に主張することはむなしく、どうせ文句(正確には批判的なコメント)をいわれるのならば、人の理論ではなく、自分ので言われたいと強く思った。(p.70)

現象から自分が切りとった部分ととりこぼした部分を意識し、現場や近接領域における自分の研究の位置について敏感であるようにしたい。(p.76)

 現場にでるのはとにかくおもしろい。(p.96)



 心理学はとかく息苦しい。これは心理学を専攻している人の少なくない割合が感じていることだと思う。特に臨床と実験がまとめられているような学部ではそれが顕著なのではないか?いや単純に僕の大学だけに起きている現象なのかもしれないが、基本的に心理学では臨床と実験は仲が良くない(というか実験の人が臨床を嫌っている気がする)。CBT(認知行動療法)など、いわゆる「科学的に」認められた療法に関しては実験の人たちもそれなりに敬意を持っているように感じるが、それ以外のちょっとオカルティックともとれるような手法をいまだに採用し続ける日本の臨床心理の人たちに対する偏見が実験を中心にしている人たちには渦巻いているのだと思う。

 実験と一口にいってもいろいろある。実験手法が生物寄りの人たちは(完全に僕の偏見だけど)まだ臨床をそこまで嫌悪しているという感覚はない。というか多分あんまり眼中にない。逆に、日本の臨床心理学を軽蔑して攻撃を加えるような学問領域の人は、社会心理学とかの人が多い気がする。つまり文系と理系の中間地点。統計が中心的な武器であるがゆえに理系の世界の中ではやや見下されるように感じ、ゆえに自分よりも科学的でない学問を叩く。いじめの構造はこんなところにもある。

 僕はそういう息苦しさがいやで、自分の専攻を心理学から文化人類学に変えた。正確には心理人類学と呼ばれるような範囲を志そうということを決めた。まだあまり人類学的手法を用いて研究をしたことはないが、たぶん人類学のほうが僕はやっていて楽しい。そういう確信がある。もともと現場主義的な性格が自分にはあるし、いろいろな分野をごった煮にしている感覚というのも自分に合ってる。そして何より文化人類学は、ごった煮であるからこそ心理学よりも全然息苦しくない。心理学が自然科学と社会科学の中間点に位置しているのであれば、人類学は社会科学と人文学の中間点に位置していて、色々なところに大らかなのだ(少なくとも心理学に比べれば)。

 かくして僕は心理学から文化人類学に移動したわけだが、しかし本書のように、心理学の中でもフィールドワーク的手法を用いるというケースがだんだんと増えてきているとのこと。まあ当たり前のことである。多分僕のように心理学で一般的に認められている手法に疑問を持っている学生やら教授は多い。しかも文化人類学というのはどっかアフリカの奥地にいってフィールドワークするというイメージが強いし、実際心理学的要素を認めている人類学はアメリカでは顕著だけども他の国ではそうでもないらしい。

 僕はたまたまアメリカに留学したので、僕みたいな心理学難民にはこういう人類学という受け皿があるのかと感動したものだが、それがないここでは心理学の中でフィールドワーク研究という受け皿を広げていかなくてはいけない。学問の垣根はないというのは一つの理想論だけども、しかしそれが持っている影響力だとか事の利便性は確かにあって、心理学の中でフィールドワークが力を持つのはまだまだ先のことになるだろう。それでも、本書の執筆者たちのような認識を持っている心理学者が増えているというのは一つの朗報だなと思う。

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