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対話357 山下 晋司 (編集), 船曳 建夫 (編集) 『文化人類学キーワード』

2011.08.19.20:53



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


フレーザーは類似の原理に基づくものを「類感呪術」、接触の原理に基づくものを「感染呪術」と呼んだ。
(p.115)


 僕が人類学をちゃんと学ぼうと思ったのはアメリカに行ってから、つまり去年の9月以降の話になるのだけど、そこで扱われたこの概念が非常に印象的だった。日本語だとなんだかお堅いイメージが生まれてしまうのが難点だが、英語だと前者が"sympathetic magic," 後者が"contact magic"となり俄然魔法っぽい。多分「呪術」という言葉になんとなく民族的なオーラを感じてしまっていたのだけど、magicとされることでもっと僕にとって身近な「魔法」という言葉で脳内翻訳されたのがよかったのだろう。人類学的にいえばこれを「魔法」と訳してしまうのは誤りだそうだが、しかし幼少の頃よりゲームなどを通じて「魔法」という言葉に通じてきた僕にとってはそれが一番よかったのだ。なにより、その概念が遠く離れたよくわからん部族の中で扱われていると認識せず、自分たちの身近にある現象なのだと認識する上で。

 前述の「類感呪術」も「感染呪術」も、原理的には僕らの日常でいたるところで使われている。「これはこれに似ているから効果が出るに違いない」と思うのは前者で、最近でいうとホメオパシーみたいな”疑似”科学はまさにこの典型だと思う。「感染呪術」は教祖が触ったものはなんかすごい!みたいなノリの概念なんだけど、こんな特殊とみなされる例を引き合いに出すこともなく、つまりこれらの概念は疑似科学とか宗教的な意味合い以上に(あるいは以前に)僕らの生活には密着していることは明らかで、そのことに関して当時の僕は「なんか未開の部族とかむっちゃ自分たちと違うルールにのっとって生きているように見えたのに、意外に自分たちも大して変わらない理の上で考えて影響を受けているのだなあ」と感動したのだ。これが僕が人類学を専攻にしようかと思った第一の理由ぱっぱらぱっぱっぱ。

しかし文化人類学における「エミック」は、「人々が言うこと」や「人々の主観」と同じではない。むしろ問題は「人々が言うことが何を意味するか」である。エミックとエティックという明快な対比は、「エミック」が結局なにを意味するのか、そして内側の、現地の「住民の視点から」ものを見るとはどういうことか、ということ自体を問題としていかない限り、文化の分析にとって障害になる可能性がある。
(p.9)

この両者の主張の統合を試みたのがE.サーヴィスとM.サーリンズである。彼らは一般進化と特殊進化が相互補完的なものであると考え、「バンド社会→部族社会→首長制社会→国家社会→産業社会」という社会文化的統合の発展図式を提出した。この図式は今日では広く受け入れられている。
(p.13)

 解釈人類学的なアプローチには、文化をいわば「作品」とみなして理解しようとするところがあり、その理解を定着するものとしての民族史自体をまた「作品」とみなすところがある。
(p.27)

 G.フォスターらによれば、医療人類学の起源は4方向にたどられる。
第1は形質人類学であり、比較解剖学や遺伝学を含むような人間の身体に対する生物人類学的関心である。第2は民族医学であり、文化により異なる病気や治療の知識・技術・実践に対する民族誌的関心である。病気観や治療行為にかかわる宗教や世界観、また儀礼や省庁が中心になる点で象徴人類学的である。第3は文化精神医学ないし文化とパーソナリティ論であり、これは20世紀前半の精神医学と人類学の学際研究の系譜を引き、強い心理学的モーメンタムを持つ。第4は第2次大戦後に始まる国際公衆衛生への人類学の関与である。国際医療協力により途上国へ近代医学を導入する上で、地域固有の医療知識や実践を知る人類学の有効性が認められたという。この面での医療人類学はきわめて直接的な応用学としての性格を持つ。
(p.34-35)

何を食べてはならないか、何を食べないかは、自らがどんな文化・社会集団に属しているかを示すための、最強のラベルの一つと言える。
(p.81)

 聖と俗――時間のリズムを生み出しているのは聖と俗の振り子運動であり、空間もまた聖と俗のいくつかの組み合わせからできている
(p.102)

ハレ=聖、ケ=俗という理解ではなく、ケシネ(日常食)、ケカチ(飢饉)といった民族語彙にみえるようにケは日常を支える食の力であり、より根源的には稲を生長させる霊力をさす。このケの枯れる状態がケ枯レ、ケガレであり、ハレの祭りはこれを回復する手立てである。すなわち、ハレとケという静態的二元論ではなく、ケ→ケガレ→ハレ→ケ…という循環を考えるのである。
(p.103)

類似は確かに存在する、がそれを呪術実践の根拠と考えるのはナンセンスだとフレーザーの呪術論の最も的確な批判者L.ヴィトゲンシュタインはそう論じる。彼によると呪術の実践を特徴づけるのは、それが誤った理論によって根拠づけられていることではなく、そもそも根拠の問いそのものが排除されているという点なのだ。
(p.115)

アニミズム的思考においては、人間は身体と霊魂からなるととらえられる。
(p.118)

 男性の地位が分裂し、その権威や管理権が重層する母系社会の仕組みは、父系社会にくらべ構造的に弱いとみなされてきた。それでは、母系社会の実験は女性の手中にあるのか。答えはノーである。(中略)つまり、地位のうえで男尊女卑のイデオロギーが確立されている。
(p.143)

そしてニマンギがそうであるように、加入の時には新たなメンバーに少なくともある程度は秘密を明かさざるを得ないという論理的必然もあって、加入式自体が秘密の知識の核となっている秘密結社は非常に広くみられる。
(p.171)

 創造された伝統は、今日、国民文化の創出や地域おこしに用いられたり、観光開発に利用されたりする。それゆえ、伝統文化を太古から連綿として続いてきたとする本源主義 (essentialism) 的な文化の捉え方は事実として間違っている。同時にまた、「伝統」か「近代」かという二者択一的な問題の立て方も誤っている。伝統は今日、新たに作り出され、消費され、意識的に操作されるものとして存在しているのである。
(p.191)

つまり、「伝統文化」を無批判に美化するような語り口は、一見バリを持ち上げているようでいながら、実はバリを「本源的な世界」へと閉じ込めてしまう一種の「オリエンタリズム」にほかならないのである。
(p.199)

 しかし、いわゆる原理主義の活動家の多くは、伝統的なムスリム知識人ではなく、むしろ近代的高等教育機関の出身者であり、その意味では「近代主義者」という側面ももっている。それは、ひと時代前にはナショナリストや社会主義者などを生み出した社会階層である。
(p.205)

 ファンダメンタリズムを、反動的復古主義として切り捨てるよりも、むしろ、行きづまりが指摘されている「近代」を乗り越えようとする試みの一つとみる視点が必要であろう。
(p.205)

 

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