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対話358 鯨岡 峻 『エピソード記述入門―実践と質的研究のために』

2011.08.19.21:07



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:B


 言語聴覚士のこれまでの仕事の中には、記号的な意味のやりとりのコミュニケーションが関心の中心だったために、「人にとって音が聴こえるとはどういう経験なのか」というような問いは、あまりに抽象的な問いだったのでしょう。しかし、S.K.さんがこのエピソードから切り開いたのは、まさにその問いでした、私自身は、このエピソードを聴いたときに、ただちにその問いが念頭に浮かび、少々大げさですが、「これは<聴こえることの現象学>にまで行き着くことになるな」という直感があったくらいです。たった1枚のファックスが、一人の研究者はもちろん、言語聴覚士の世界まで大きく変えるだけのインパクトをもちうること、そしてそのような経験に出会えたり、立ち会えたりできること、そこにエピソード記述を中心にした研究の一つの進むべき道があるように思います。
(p.220)


 自分が学問に携わることで何をしたいのか?という疑問を煮詰めていくと、「人々の認識を変えたい」というところに行き着くと最近思う。ここでいう「人々」の中にはもちろん僕も含まれていて、というか基本的には僕が主体であり、そのほかの「人々」はどちらかというと僕と似た要素を持った他人という要素が強い。自分の心を震わせ、その感動を自分とどこか似たところのある他人に伝えたい、という欲求。それはオセロで一気に色をひっくり返す感覚に似ている。自分の今までの認識がくるっとひっくり返るあの瞬間が好きだからこそ、そういう目標を掲げることに快感を覚えるのだろう。

 別に認識を変えるといってもそこまで大それていなくていい。小規模なパラダイム・シフトを小規模な範囲で起こす。とりあえずスタート地点はそこでいい。できればまあ一個くらいは大きなパラダイム・シフトを見出したいものだし(なにより大勢の人の認識が変わるくらいの着想が浮かべばまず僕自身が驚いて喜ぶのは間違いないのだから)、1回じゃなくて何回もそういうものが見出せればさらに素敵だと思うけど、とりあえず1ゲームに1回くらいは黒い駒を白く反転させたり、白い駒を黒く反転させて、両方の目ん玉を白黒したりさせたりできたら人生はきっと素敵だ。

そして、そうした日々の記録や実践報告を読み返してみると、かかわる相手が何をした、何を言った、自分が何をした、等々の行動の事実しかわからず、相手はどのように思ってその場を生きてきたのか、自分はそこで相手の思いをどのように掴んだのか、またどのような思いでかかわっていたのかというような、生の断面に息づくものがすべてそぎ落とされ、相手がまるでひとりの人間ではないかのような、何かそっけなく、砂を噛むような思いに駆られるのを禁じえません。
(p.6)

ただ、一般化された評定や判定やテストの手続きで捉えられる人物像と、日々かかわる中でかかわり手に捉えられる人物像のあいだにしばしば大きな乖離があること、しかも現場はそれを専門家に向かっていえないという苦しさがあること、つまり、同じ人にかかわっていながら、専門家の判断が上、日々かかわっている自分たちの評価や判断は下というような暗黙の力関係が現場を支配していること、しかも自分が感覚的に掴んでいるものをうまく言葉に表現していけないこと、こうしたことに現場担当者はしばしば悩むということなのです。
(p.9-10)

(4)エピソード記述は体験の「意味」へと向かい、新たな問いを立ち上げ、他者と「意味」を共有することへと向かう
(p.11)

 これまでの議論を少し整理すれば、何も感じない(感じてはならない)東名な観察者の目にあくまで対象として捉えられるもの、測定可能で再現可能なものだけを議論しようとする「客観主義=実証主義の立場」と、事象の「あるがまま」を可能な限り忠実にとらえようというときに必要になる「客観的な見方」とを混同しないことが大事になってきます。つまり、客観主義の立場を否定するということは、決して恣意的であってよいという意味での主観主義を肯定することではありません。
(p.22)

 これはエピソードが拾えないと嘆く学生を前に、「エピソードは何かの感動や違和感など、自分の心が揺さぶられたときに生まれることが多いから、まずそういう経験をしたときに、試みに一つ描いてみるといいですね」と私が話したのを聞いて、それを20歳代前半の大学院生が実行してみたというものです。
(p.34)

 心理臨床系、精神医学系の学会誌では、さすがに事例研究が中心に編まれていますが、しかしその事例の扱い方は、事例そのものに密着して「その事例そのものに語らしめる」というような扱い、つまり、事例そのものに価値があるという扱いであるよりは、むしろ既存の臨床理論を検証し補強する目的のためにその事例が引き合いに出されているにというすぎないというような扱い方です。つまり、この事例はこの理論によって説明がつくというように、事例よりも理論に価値があるといわんばかりの扱いなのです。
(p.39)

 そのことを踏まえると、個別具体(書き手の主観のあるがまま)を大切にするとはいえ、エピソード記述はあくでも相手の主観内容についての間主観的な把握に重きを置くものであって、相手の様子に触発されて生れた書き手の主観的イメージの記述であってはなりません。
(p.43)

「これでいいのだ」と安易に自分の価値観や判断に安住するのではなく、自分にこう見えているのは自分がこういう価値観やこういう枠組みをもっているからだと相対的に考え、その価値観や枠組みを含めて、「こう捉えていいのか、別の捉えようはないのか」という問いが立てられなければなりません。
(p.97)

間主観的に把握されたものの確信度が何らかのかたちでエピソード記述の中に表現されるなら、読み手はさらにその場のアクチュアリティに迫ることができるでしょう。
(p.104)

 こうしたインタビューや面接のやり方は、「半構造化」という形容をつけられることがしばしばです。つまり、おおよそは聞きたいことを整理しておくけれども、その聞き方や聞く順番は、インタビューや面接の状況に合わせて柔軟に変えていくというやり方です。
(p.119)

「質的」研究が意味するところのものは、客観―主観という二項対立の構図から脱却し、現場における自分自身の座というもの、そして現前する関係性そのものを捉えるということである。
(p.154)

 ところで、保育の場に出かけるとき、関わり手である自分がここからそこを見るときの目、つまり「大人の目」ばかりでなく、子どもに自分を重ね、子どもの側から物を見ようとするときに、「子どもの目」になることがしばしばあります。そしてさらに、自分が今「大人の目」で事態を見ていること、あるいは「子どもの目」になって事態を見ていることを意識するもう一人の自分がいます。これも「脱自的主体」なのですが、この表現は保育の世界では少し仰々しいので、私はこれまでこれを「第三の目」と呼んできました。
(p.160)

 これまで何度も述べてきたように、エピソードを拾う作業はきわめて地味な営みで、検挙さと忍耐と根気が必要になります。そのような地味なエピソードを集積していく中で、当初は注目していなかったエピソードが急に面白いエピソードに転換するところが、関与観察研究のある意味での醍醐味かもしれません。
(p.172)

ポストモダンの研究者たちのいささか格好のよすぎる「<家族>は死んだ」という言説や、「家庭が子どもを育てることの幻想」などという観念論的な机上の空論がすっかり色褪せるほど、子どものちょっとしたつぶやきは大人の心を穿ちます。
(p.235)

希夫:「配偶者は介護したらあかんねん、(非常に座った目で、しっかりした口調。)」
私:「役割を変えな……分けなあかんねんな?」
希夫:「そうそう。だから、配偶者はあくまで配偶者。介護したらあかんねん。」
(p.242)

 自然科学の客観主義は「value free」であるといわれ、それゆえ人間科学も value free でならなければならないとして、観察の場においても無関与的、傍観者的でなければならないとされてきました。しかし、本書のこれまでの議論を踏まえれば、少なくとも人間科学は value free ではなく、value bound であるというところから出発せざるを得ません。
(p.258)

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