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対話362 山下 晋司 (編集) 『文化人類学入門―古典と現代をつなぐ20のモデル』

2011.08.20.20:25



読書時間:1時間10分
個人的読みやすさ:B


 私はかつて次のように語ったことがある――「人類学者は社会の仕組みを説明するのではない。人々が自分の社会の仕組みを説明する仕方、人類学者はそれを説明するのである」と。
(p.160)


 上の言葉はかなり好きだ。今自分は人類学という学問に携わろうとしているわけなのだけど、心理学や哲学と違い、人類学は間違ったイメージを持たれる前にそもそも「それ何?」的な反応を返されることが多い。

 ある程度学問に通じている人には「ああ、あのアフリカの奥地とかいく学問でしょ?」的な反応を返されるのだが、実際の人類学は(最近は特に)そういった民俗誌的な研究に限らず、むしろそういう研究よりも都市の中の文化だとか、割と身近なものを対象にする研究をよく見かけるので、一概にそれを首肯するわけにもいかない。

 また、人類学と社会学というのはかなり区別がつけられないことが多く、しばしばその違いについて質問を受けたりする。逆に、自分自身も「なぜ自分はそこまで社会学に深い興味を持っていないことが多いのに、人類学にはあるのか?」ということを考えたりもする。そういう疑問に対して、上記の引用は一定の解を与えてくれている。

 そうしながら、「人類学が、『社会』という修飾語をつけて自分を呼ぶにせよ、そうでなく『文化』とするににせよ、人類学はつねに『全体的人間』を知ろうとねがっている」とレヴィ=ストロースは言う。
(p.6)

 このように人類学を再定義してみるとき、人類学の未来はどのようなものなのだろうか。日本の人類学の未来に向けた新たな研究と教育のパラダイムを構築していくうえで、以下の5点を指摘しておこう。
 第1は、現代社会のニーズに対応した研究領域の開発である。(以下略)
 第2は、人類学の教育についてである。すでに述べたように、卒業論文や収支。博士論文のテーマは、古典的・オーソドックスなものから現代的応用的なものへ推移し、同時に多様化してきている。しかし人類学の古典的研究と現代的課題のあいだにはしばしば大きな断絶がみとめられる。この2つを有機的に関連させ、どのようなカリキュラムを確立するかが急務である。(以下略)
 第3は、ディスプリン(専門分野)の複数化についてである。研究対象の複合化による研究の学際化は、今日、不可避である。(以下略)
 第4は、教育研究の国際連携についてである。人類学はそもそも国際的な学問である。にもかかわらずその実践は国別に異なっていて、真に地球的規模の人類学はまだ実現していない。(以下略)
 第5は、人類学の使い方・使われ方についてである。(以下略)
(p.8-9)

 スチュワードが文化相対主義と袂を分かつのはこの点である。文化の個性を認めるという限定のもとで、諸文化に共通のものを規則として捉えることは、文化の外にある要因レベルを想定しなければならないからである。
(p.31)

 しかし、こうした危うさを避けようとして、社会と文化の変化を一般説明理論なしに、個別記述のみ、あるいは記述についての理論で語ることだけを適切だとするのは、過度に人文主義的な後退である。
(p.37)

なぜなら「ネイティヴはどう考えるか」を別の仕方で真剣に考えたレヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962年)が『方法の問題』を序論とするサルトルの『弁証法的理性批判』(1960年)を痛烈に批判していることは周知のとりだからである。
(p.48)

 女性が母親であるというのは社会的発明であるとミードは考える。だから「男性は自分が男性であることを再び断言し、再び企画し、再び定義しなおさなければならない」。
(p.111)

 何がどのような順番で語られているかを切り口とした分析から、思考表現のスタイルに関しては、日本の「時系列」表現に対してアメリカでは「因果律」による叙述が強調されていること、また、教育によって高められるべき能力として、日本では「共感」が、アメリカでは「分析力」が強調されていることを見出した。
(p.123)

 日本の国語の教科書にも説明文と物語分が収録されているが、2つのジャンルの書き方の技法を教えることはなく、内容の読解に重点をおいた指導をする。(中略)アメリカの教師が、書くための技術を子どもに身につけさせることに苦心しているのに対して、日本の教師は、思ったままを書くこと、自由にイメージを膨らませることを推奨し、ものを書く児童の姿勢に共感的に寄り添い、励ましはするが、評価はせず、技術的な指導もしないことを渡辺は観察している。
(p.125)

 しかし、ハビトゥスは文化のなかの規範のような枠組みではない。ブルデューによればそれは二重の性格をもっている、。まずハビトゥスは知覚、思考や実践を持続的に生みだし、組織していく構造(構造化する構造)である。また同時にハビトゥスは、知覚、考えや実践そのものに制約と限界を与えていく構造(構造化された構造)でもある。つまり、ハビトゥスはある集団や階級に特有な過去の経験が、そこにいる行為者のなかに知覚、思考や行為の図式として沈殿したものである。
(p.150)

 古典は読み直さなければいけない。少なくとも2度は。1度目は、あらかじめ耳に入っていた知識をなぞるだけに終わるかもしれない。2度目には最初の時には気づけなかった新しいことが発見される。
(p.168)

 都市社会が共同体の規範や道徳を解体し、アナーキーな無秩序を生み出していくという二極モデルとは裏腹に、都市社会においては、ときに共同体の規範や道徳が再生・再創造され、都市生活をよりよいものへとつくりあげていくというルイスの視座は、非連続モデルに対して連続モデルと呼ぶことが出来る。この連続モデルによって、都市社会・農村社会を貫く人びとの生活世界や視野に入ってくるし、都市農村を縫合する国民国家の統制・干渉まで分析の対象にすることができるようになったのである。
(p.197)

 そのなかから生まれた実験が、自ら仕切り屋のような(超越的な)位置から降りて、人びとの声をその個々の生に寄り添って記述していくという、一見まとまりのない記述法であった。いまでは多声法として定式化されているこの手法を、「羅生門法」として手がけ実践したルイスの試みは、21世紀の民族誌記述の1つのモデルとしてますます重要性を帯びている。
(p.202)

 いっぽう、「アメリカ人類学の父」と呼ばれるボアズは、理性を強調したタイラーとは対照的に感性を重視して、異民族の習慣を内面から理解しようとした。
(p.211)

(ボアズを引用して)思想家として、今回の旅の最大の成果は『文化的な』人間とは単に相対的なものであって、人間の真の価値は『心の教育 Herzenbildung』にある、という思いが強くなったことであろう。
(p.211-212)

 ポストモダニズムに特徴的な考えの1つは「中心の不在 absent center」である。
(p.216)

 もっとも、こうした批判は新しいものではなく、以前からマルクス主義者によって指摘されていた。ただ、ポストモダニズムは、1960年代の市民権運動やベトナム戦争を学生時代に経験し、1980年代に研究者として成熟期を迎えたアメリカの前衛的人類学者に、新たな文脈で新たな批判のための枠組みを提供したのである。
(p.217)

すべての思考には前の時代と何らかの関連が認められ、新しいものの価値――可能性と限界――を見極めるためには、古いものを知らなければならないのだから。
(p.219)

そして自分が支持するのは、真理の唯一性を信じるが、それを所有することはできないとする第3の立場、啓蒙的合理主義もしくは合理主義的原理主義であると述べる。
(p.227)

 ターナーの言うコミュニタスの特性は、境界状態、部外者性、構造的劣性の3点である。これらに該当する人びとは、(1)社会構造の裂け目にいる、(2)周縁に位置する、(3)底辺を占める、という状態にあるう。総じて社会で劣位に置かれる人びとを担い手として、社会体系から外れた状況で表出する原理がコミュニタスである。
(p.247)

 現在のイニシエーションとしてはむしろ会社の入社式が機能を果たしており、前後に研修という試練の期間を持ち、禅の修業をさせたり、合宿所で肉体を鍛えて新たな知識を与えるなど社会人の自覚を持たせる上で一定の効果を挙げている。
(p.252)

 彼らはセンザンコウを通じて、この社会の基本原理を知るにいたる。彼らはこの世に隠されている曖昧な、したがって不気味なものを回避するのではなく、直視することでこの世界の虚構性に目覚める。しかし、それはこの世を否定することを意味するのではない。社会生活をより深い次元で理解し、実践することになるのである。(p.262)

 身体加工は当事者に「変態」を促す。そしてそれを見る人びとにも身体とは何か、社会とは何か、と自問させる。それは奇形の見世物として商品化するぎりぎりのところで踏みとどまって世界と対峙している。モダン・プリミティブ自身、自らの奇形の身体を見る。
(p.268)

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