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対話368 西 研、 佐藤 幹夫 『哲学は何の役に立つのか』

2011.09.06.11:53



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


 整理しますと、困難な問題がたくさんあるということはみんな知っている。しかし、そこに、諸問題に対して何とかできる、自分も手伝っていけるというストーリーが不在なのです。そして「一方に飢えている人たちがいるのに、先進国の人たちはたらふく食っている」というような、罪悪感を与える言い方ばかりがめだつ。南北問題、環境問題について説得力のあるストーリーをつくり出す努力があれば、若い人たちも関心をもち参加するようになるはずです。
(p.180)


 人々を動かすのには優れた物語が必要なのはもはやいうまでもないことで、うまく物事が進んでいないところには必ずそれをドライブさせるための物語が欠けている。
こういう事象はあらゆるところで観測されているのであり、非常にミクロなレベルでみれば個人、すなわち自分をどうやって動かすか?というところにまで繋がることになる。
 物語が優秀である必要は、おそらく少し前まではそれほどなかったのかもしれない。
すなわち価値観の多様性だとか、情報を簡単に入手できてしまう現代の特性というのがあるからこそ、「良質」の物語が必要になったのだろう。閉ざされた世界の中では選べる選択肢は少なくて、だからこそ人々は迷う必要もそれほどなかったのだから。

 選択肢が多ければ多いほど人間は不幸になるとどこかで読んだ。
それは確かにそのとおりだなと思う。選択肢が多いとき、人はなんらかの手段を用いて自分の選んだものに「確信」を感じなければならない。すなわち、そこに「運命」を見出していかなければならない。

 それがなければ足場はいつまでも不安定で、確信は消えうせ輝きは消滅する。
それをさせないためにたとえば知識を集めてみたり、何か絶対の信条を持って自分を属性化したりする必要が出てくる。
情報が多くなった社会だからこそ、そういう新しい「スキル」が求められてくるわけだ。

 そしてそれと同時に、他人(自分も含むが)を動かす場合にも新しいスキルが必要となる。すなわち「良質の物語」をや。
いくつも並列関係に物語が乱立している今だからこそ、物語の質を高める必要性が出てきてしまった。
物語の世界も資本主義化しているというか、激しく生存競争に巻き込まれているのだろう。

 でもこれを逆に言うと、「なぜこんなことが問題にされるのか」さえわかってくれば、読む苦労にも耐えられるし、

 もう少しもっともらしく言い換えると、「自分」という存在の自負、あるいはプライドについての問題、権威やら組織などに依存してプライドを保証しようとする時代は、もう終わりつつあるのではないか、ということですね。
(p.24)

悩みの解決というのは 1.時間がすぎるのを待つ 2.人に話す 3.ぶつかっている困難な出来事を解決する その三つの技法がある、そして精神療法というのは、その三つの方法を技法化したものだ、と書かれているのです。
(p.34)

そのころニーチェに出会ったのですが、ニーチェが教えてくれたことというのは、本当の生き方というものはどこかにあるんじゃない、ということです。<人生には「到達しなければならない最終地点」とか、「人として果たさなくてはならない絶対の義務」というようなものがどこかにあるわけではない。
(p.42)

役割と承認の関係で鍛えられていないと、自信ももてないですし。
(p.58)

 まず哲学のほうから言いますと、哲学は「こっちがカッコいいんだよ」ということを提出するのではなく、「いろいろな価値観をつくり出して生きている人間というものはどういうものか」を考えるわけです。ですからそこには、人間存在の基本の条件のようなものを、あえて突き放して見ていく視線があります。
(p.84)

 ところで、プラトンや近代哲学の「哲学的な思考法」を煮詰めたものが20世紀のフッサール現象学なのですが、これはじつは、批評の方法ととても近いんですね。
(p.86)

批評のほうが、価値を形成するという課題からするとより直接的な方法だと思いますが、批評もまた、個人から出発しつつ「他者一般」へと向かおうとするものなので、そこから哲学的な人間論が生まれてきても不思議ではない。
(p.88-89)

 自由を求める欲求は、近代においては、理性と結びついています。「理性は堅苦しくて、自由とは正反対なんじゃないか」と思う人もいるかもしれませんが、近代においては、理性こそが自由を可能にするもの、と考えられてきたのです。
(p.102)

ぼくも体調が悪くなると完全主義者になりやすい(笑)。体調がいいといい加減になって、物事をどんどん進められるんですが。
(p.111)

 言語によって私たちは物事を名指し対象化することができます。たとえばある感覚を「さびしい」という言葉で呼ぶとき、そうすることで自分の感覚を「対象」化できる。言語によって、感情を生きるだけでなく、感情に「向き合う」ことができるようになる。
(p.113)

 自閉症の子にもタイプがあり、その現われもかなり厳しく現われる子、比較的やわらかな子といますが、総じて言うならば、相対の世界ではなく、一対一対応の世界を生きている、と言えます。
(p.126)

 それで西さんはとても端的に「技能」「ルール感覚」そして「関係の能力」、この3つの習得が教育の目的なのだと言われています。そしてこれらの基礎の上に、生活する力、生きていく力がつくられていくのだということが含意されていると受け取ったのですね。
(p.136)

『精神現象学』全体が人間的意識の高次化のプロセスなのですが、とくに「理性」の章の「事そのもの」という箇所は見事にそれを描いていて、はじめて読んだときとても関心したことを覚えています。
(p.145)

 そういう努力のなかで、「こういうのが本物だ」という理想が次第に脳裏に結晶してくることになる。これがヘーゲルのいう、「事そのもの」なのです。
(p.146)

現象学は「内省」の方法をとるもの、つまり「なんとなくわかっていることをより明確に了解しようとするもの」であって、統計やフィールドワークによって見えてくることまでカバーできるかというと、そんなことはない。現象学は社会学に取って代わることはできないのです。
(p.164)

 ぼくらの世代を含む若い学者に顕著だと思うのですが、「弱者に弱い」ということがあります。弱い人のそばに立とうとするので、弱い人に文句が言えないのですね。
(p.173)

 社会のあるところ、正義の観念もまたある。だとすればその核心は何か、ということになりますが、とてもシンプルに「人びとが平和共存できる必要から生まれる、正しさの感覚」というふうに言ってみたいと思います。
(p.191)

<実感はもちろん誤りうる。しかしいま自分はこう感じているんだな、ということは確かめられる>。これが、現象学のカナメとなる命題なのですね。いったん自身の感触に信をおくことがないと、自分の思想をかたちづくっていくことができなくなります。訂正しようにも訂正すべき土台がないような状態になるからです。そして結局は、何かの流行の理論を支えにするしかなくなる。自分の感触を掘り下げていくことによって自分の思想を鍛えていく、という「批評」の手つきが禁じられてしまったこと、これはポスト・モダン思想の最大の問題点だと思っています。
(p.221)

自分自身の感触の「核心」にあるものは何か。それをハッキリと取り出すこと。さらに、それがこの社会の他の人びとの感触とどの程度重なり、あるいはズレているのかを検証すること。――現象学や文芸非常がつくり出してきた「思想の流儀」はこのようなものでした。
(p.222)

 たしかにカントのように耐えざる自己吟味をよしとする思想家もいましたし、不特定多数の人間たちを集めて管理する技術(規律権力の技術)を近代が発達させたのも事実でしょう。しかしそれこそが近代の核心だとほんとうに言えるのか。また、近代的主体が規律権力や告白によって生じたとほんとうに言えるのか。ぼくは怪しいと思っています。
 ぼくがなぜこれらを疑うかというと、近代の動きのなかできわめて重要なのは、むしろヘーゲルが述べたように「自由が認められた」ことではないか、と考えられているからです。
(p.227)

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