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対話377 佐藤 優 『はじめての宗教論 右巻~見えない世界の逆襲』

2011.09.17.21:51




読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C


 われわれが「見える世界」を重視するのは、この時代のありかたに、すなわち”モダン的なもの”に制約されているからだと言いました。われわれ近代人は、「見える世界」しか現実と思わないという流行の中に巻き込まれてしまった。そのことを象徴する例が商品経済です。商品経済は必ず貨幣を生み出します。われわれはすべてを貨幣、つまりカネに換算するような社会に生きています。
(p.15)


 目に見えないものは昔から目に見えるものを媒介にして顕現させてきたわけなんだけど、じゃあなんで今は目に見えるものから目に見えない世界を発動させる力が弱まっているのか?という問いの答えの一つに「ファンタジーのゲーム化」があると思う。

 目に見えないものが目に見えるものを媒介にしてその存在を色濃くする、というのは絵画とか仮面とか、そういうものを見てくれればわかると思うんだけど、その時絵画やら仮面が持っている役割はその媒介だ。決してその本体ではなく、その後ろ側にある存在の示唆。しかしファンタジーのゲーム化は、それらが媒介としてではなく本体として動くことを可能にし、しかもそれを映像的に、また音声的に表現出来てしまう。

 ゲームというものの持つ属性も目に見えない世界にとっては難敵となる。
なぜならゲームという存在は神聖とはまったく別物、むしろ真逆といってもいい。

 目に見えない存在や世界は、かつてそれを示唆するだけであった<媒介者>が技術力の向上などにより<本体>とすり変わることによって、そしてその<本体>が持つ非神聖さによって、その存在を虚ろにしてしまったのだろう。

 とはいえないがしろにされてきた<見えない世界>のほうも最近は復権を成し遂げつつあろうとしているという実感もあり、それについて考察を進める上で色々と参考になる本。


 共観福音書とは別に、もう一つ、ヨハネによる福音書というのがあります。これはロゴス・キリスト論という独自の哲学的表彰のもとで書かれている。ロゴスというのは、「つりあい」とか「言葉」を意味します。このロゴスが具体的な形をとるようになる、つまり神が抽象的な存在にとどまらず、具体的な形をとるという考え方がロゴス・キリスト論です。
(p.75)

だからこそ「一冊だけ聖書を買うならば、どれがいいでしょうか」という質問を受けたら、私は迷わずに「新共同役聖書を買うといいです」と答えます。
(p.83)

 もう一つ、十全霊感説というものもあります。逐語霊感説を少し緩めた言説です。この言説を信奉する人々は、聖書の著者は十分な霊感を受けて、著者の個性を反映させてテキストを書いたが、そこには神の意志が働いていると考えます。
(p.87)

 すこし話が逸れますが、<神は光と闇を分け>というところも重要です。地は混沌としていた。混沌としているものを二つに分けることを、ダイコトミー(dichotomy, 二分法)といいますが、このダイコトミーが西洋的な考え方の基本にあります。
(p.94)

 では、キリスト教と霊魂不滅説はなぜなじまないのか。それは、キリスト教では身体の復活を信じるからです。
(p.100)

イエス・キリスト自身は自分をキリスト教とは全く考えておらず、自分は真実のユダヤ教徒と考えていたわけです。
(p.125)

 ところがその後の無政府主義とかマルクス主義的共産主義は、初期キリスト教のような限られた範囲の、お互いに顔が見えるような中間団体でしか成立しない共産主義的な原理を、国家全体どころか世界全体に拡大できると勘違いした。それで地獄絵ができてしまった。
(p.127)

 これに対してキリストは名字ではなく「油を注がれた者」という意味。古代イスラエルでは王が即位するとき頭に油を注がれる儀式があることから、王を象徴する言葉です。
(p.177)

 神を父と表彰することを、トマス・アクィナスが段件的にとらえていなかったというマクグラスの指標はとても重要です。<人間の父親について考えることが神について考える助けになる>というのが、類比の考え方なのです。、父親という言葉を用いながら、現実に存在する父親を超えていくところに類比の特徴があります。類比はその本質において超越的なのです。言い換えるならば、常識的思考で考える場合、類比には必ず「破れ」があります。日常的思考の限界に挑むことが、類比的思考の意義なのです。
(p.183)

 ところがカトリックは違う。カトリックも類比の手法を使います。質的に全く異なるものについて語るときは類比の手法――あるいは象徴と言ってもいい――しか考えないからです。ただし、カトリックの場合は、前に述べた「存在の類比」です。カトリックはなぜ、性転換手術を認めないのか。それはどうしてかというと、性同一性障害があると主張したとしても、神がその人をそのように創ったのだから、その自然の秩序を動かしてはいけないと考えるからです。
(p.189)

 これは砂時計のようなものです。砂が上から下へ流れていくように、神の意思は上から下への一つの運動をとおしてしか伝わらない。そして砂時計のくびれた部分にいるのがイエス・キリストだということになる。神と人間の間のすべてのことはイエス・キリストを通してのみ行われる。これがプロテスタント神学の考え方です。
(p.190)

 では、なぜドイツという国ではこういった哲学者が輩出したのか、哲学はなぜドイツで発展したのかというと、ライプニッツの存在が大きいわけです。
(p.215)

 別の言い方でいうと、21世紀の現代に適応した公理系が求められています。(中略)科学をやっている人は現在、あまり公理系を立てませんが、何らかの作業仮説は立てるでしょう。つまり、現下必要なのは、新たなる認識のフレームです。人間が生きていくうえでの思考のフレーム。あるいは命のフレームと言ってもいいでしょう。
(p.247)

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