スポンサーサイト

--.--.--.--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

対話379 佐藤 優 『はじめての宗教論 左巻―ナショナリズムと神学』

2011.09.18.08:03



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:C

つまり、圧倒的大多数のヨーロッパやアメリカのキリスト教徒は文化プロテスタント主義者です。これは一種の無関心主義ですが、一つの文化と一体化しているため、こういうことでも外形的な進行は十分成り立ってしまうのです。
(p.164-165)


 文化と宗教というのは思ったよりも不可分なものだなというように最近思う。というのは、宗教という形式に「文化」として従うだけで生まれる信仰心というのは恐らく存在する。それは僕らがイメージするような積極的かつ盲目的な信仰心なのではなく、もっと消極的な、しかし確実にその人に根付いたようなタイプの信仰心なのだ。

 どの程度他国に「熱心な」宗教者がいるのかはわからない。
もしかしたらそれは日本人よりも多いのだろう。
しかしいわゆる先進国と呼ばれている国、またそうでない国(僕の経験から言えば例えばリトアニアとか)の若者たちにおける文化宗教主義者はかなりの数にのぼり、マジョリティを形成しているのではないだろうか。

 文化宗教主義者は状態として安定し、故に早かれ遅かれ大多数になる。
なにせ文化宗教主義者こそ、宗教に対する批判にも耐えるだけの柔軟性を持ち、その上宗教の「使える」要素を掠め取っているのだから。

 この問題を根本的に解決したのがシュライエルマッハーでした。彼は、初期の著作『宗教論』(1799)で「宗教の本質は直観と感情である」と定義し、晩年の著作『キリスト教信仰』(1821-22, 第二版1830)では「宗教の本質は絶対依存の感情である」と定義したのです。その結果、神は天上ではなく、各人の心の中にいることになりました。神を「見えない世界」にうまく隠すことに成功したと言ってもいいかもしれません。これで、神の居場所の問題は見事に解決したわけです。
(p.13)

 ここで面白いのは、シュライエルマッハーが道徳というものをきわめて拡張的、あるいは侵略的なものとしてとらえているところです。道徳といのは、人間が正しいと思うことにしたがって自然界を克服していく、外へ外へと拡張していくという考え方です。そうすると、人間は自らの限界を知ることができなくなってしまう。道徳の中には自己神格化の危険があるからです。
(p.38)

 大学卒業程度の学力をもって人が読んでおくべき本は、文科系・理科系関係なく、少なめに見積もって150冊くらいあるとして――たとえばマックス・ウェーバー『職業としての学問』、アインシュタインの『相対性理論』、デカルトの『方法序説』などです――、そのうちナショナリズム関係の必読書がいま紹介した『創造の共同体』と『民族とナショナリズム』です。
(p.64)

その他、カウンセリング(臨床心理学)なども牧会学には入っています。そのため、牧会学に関わる補助学は心理学です。実践神学を専攻する人は必ず心理学の基礎的な知識をもっている(という建前になっています)。
(p.87)

 ところで、シュライエルマッハーやヘーゲルよりはすこし前の時代になりますが、カントは当時の基準で言えば、なかなかのハンサムと言えます。彼は生涯独身を通しました。どうしてかというと、カントには女性のスポンサーが複数いたからです。結婚するとスポンサーの数が減るので、あちこちの女性スポンサーの家に行って面白い話ばかりしていた。カントは真面目だというのは大嘘で、彼の論考の中には女のストッキングはやはり黒のほうが興奮するとか、そんな話が出てくる。
(p.98)

ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのような、ルネサンス型のすべてに通暁した人間、教養人になるということは基本において不可能です。その認識からスタートしないといけないわけです。
(p.113)

 学問というのは、だらだらと書かれていることの本質を、ギュッと縮めて提示することです。
(p.122)

 ちなみに英国国教会(アングリカンチャーチ)――日本でいうと立教大学の系統です――では、ブドウ酒とパンの両方を出します。ブドウ酒は信者も司祭・牧師も飲むため、大きな盃に入っている。ところが実態変質説を取っているため、残すことはできません。大きな盃をはじから皆で飲んでいくわけですが、最後に残った分は、牧師が飲み干さないといけない。信者が今日は100人くらい来ると思って、力士が飲むような盃の中にいれておくと、人数を読み間違った場合、牧師はフラフラになってしまいます。
(p.135)

 復習しましょう。神学には弁証学と論争学がありました。他の宗教に大してキリスト教が正しいと証明するのが弁証学で、キリスト教内の論戦が論争学です。弁証学と論争学では論争学のほうが激しくなる傾向があり、論争学は必ず内ゲバ的な様相を示すことになります。
(p.179)

 ところがバルトはそう考えません。中世や古代の人もそう考えなかった。ヘンな人、性格に偏りがある人に典型を見るわけです。平均的な人というのは偉人伝になりません。
(p.192)

バルトの面白い点は、キリスト教にとって誘惑になりそうな思想にはものすごく厳しいということです。ナチズムとか実存主義とか、あるいは文化プロテスタンティズムもそうですが、「あっ、これはキリスト教と融合してしまうな」と直観したものを手厳しく批判する。他方で、共産主義とかフォイエルバッハの無神論のような、キリスト教に敵対的なドクトリンには寛容です。
(p.228-229)

 以上をまとめると、宗教とは決断ではないということです。われわれは常に、あれかこれかという選択肢を前に決断を強いられます。しかし、その決断が正しいという根拠はどこにもありません。だからこそ、宗教には揺らぎというか、不安定さが必要なのだと私は思います。宗教とは実存的ではなく、脱実存的なものです。そして、本質的にわれわれのちっぽけな決断を壊すものです。
(p.229)

 真理は具体的であるので、「見えない世界」がどのように私たちの現実に影響を与えているかという問題について、左巻では取り扱った。
(p.257)

comment

Secret

twitter
プロフィール

×÷

Author:×÷
はらわたに秩序。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。