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対話382 日向 あき子 『イメージを読みとる』

2011.09.18.22:19



読書時間:1時間20分
個人的読みやすさ:B

 彼ら原始人はごくわずかな例外(人間像)をのぞき、ただひたすらに動物だけを描いた。ギリシア時代以後の美術で描かれる対象の中心となる人間は、ほとんど描かれていない。もう一つは、彼らもまた太陽、空、雲、雨、山、木にかこまれているのに、こうした環境もまったく絵には描いていない。
(p.48)


 これは非常に面白い指摘だ。さっきせっかく色々書いたのにうまくセーブが出来ていなくて全部吹き飛んだのでざっくり書くが、これが示唆するところはすなわち「過去において人間はファンタジーではなかった」ということである。あるいは「過去において絵に描かれるものはファンタジーのみであった」と言い換えることもできよう。

 その当時において、動物というのは実りである。というより狩らなければ自動的に自分が死ぬことになるので、懇願するものである。すなわちファンタジー。

 また、たまに描かれる人間が例外なく普通の人間でなく、何かの動物と融合したような姿をしているのはすぐさまシャーマンの存在を喚起させるが、これもファンタジーだ。ファンタジーを視覚化させることによって、その存在に対する羨望を脳裏に焼き付ける。ファンタジーを絵画で示すことにより皆で共有し、それが一つの世界観になる。

 こうして考えてみると、「普通」の人間が絵画に描かれるようになった経緯は興味深いところ。それは人間の階級化(=ファンタジー化)を指し示しているのかもしれない。加えて、現代では容易に自分の似顔絵を描いてもらうことが出来るようになったが、そのこともファンタジーというものを軸に考察してみると面白い現象としてとらえることが出来るようになるかもしれない。

 ただし、ひと口に原始的といっても、さまざまな様相があるわけで、タイラー以後の文化人類学はそれをいくつかの段階に分けている。主なものをあげると、呪術的段階、アニミズムの段階、トーテミズムの段階、シャーマニズムの段階である。
(p.15)

「多分天才なら宇宙までいかなくてもわかるだろうが、普通の人間の場合、これは実際に行ってみた者でないとわからない感覚だ。それを言葉にするのはむつかしい」といいながら、彼らが語るその宇宙観は、インドの聖典『リグ・ヴェーダ』が語る宇宙観に大変近いのである。
(p.20)

ただし宇宙に行った物理学者、エンジニア、パイロット、その他の科学者で、「無神論になって帰ってきた者は一人も」いなかった。ほとんど全員がその逆であり、また彼らが語る神秘体験は、私がいう宗教以前のカミ的心性にたいへん近いことがわかるのである。
(p.21)

 主な食料であるこれらの動物は、人間のはげし飢えと熱望の対象であった。動感にみちた動物たちの絵は、彼らを狩り、追い込み、倒す呪術的願望で描かれたのだ。
 これらを多数派第一のタイプとすれば、それに対して数は少ないが、静止した状態で描かれた肉付きのよい脂ぎった動物たちもいる。この第二のタイプは孕んだ動物図であり、第一のタイプとは異なった願望をあらわす絵と考えてよい。
(p.49)
 
 ただし人間像といっても、正確には人間の顔をもつ人間ではない。実は鹿や鳥に仮装した人間であり、次ページにみるような人間とも動物ともつかない姿で描かれているのである。
(p.60)

インドは哲学の国、宗教の国だが、理念的、中傷的といっても、どちらかといえば宗教のなかに哲学も生活もとけこみ、くみこまれているのである。その理念も哲学も、大衆生活の末端まで行きわたるような太古以来のカミ的具体的な思考に基づいており、観念的なヨーロッパ系の哲学との大幅な差異もそこにある。
(p.109)

 唐突かもしれないが、共存者・蛇のメタファーにかわるのは、子どもたちの愛好するロボットとかパソコン、あるいは光、電波によって象徴されるなにかだと思うが、どうだろう。
(p.137)

それは「巧いという以上のものだった。日本や古代ギリシャの演劇を想いださせながら、完全に現代的だった。ヤンコが仮面をもってやってきたとき、われわれ全員がそこにいたが、みんなすぐさま、仮面をつけた。そのとき奇妙なことが起った。仮面はたちまち衣装を要求しただけでなく、狂気すれすれの身振り、あるきわめて明確で劇場的な身振りを要求したのである。(ゴーズリー・ゴールドバーグ『パフォーマンス』中原祐介訳、リブロポート社、1982年)。 

 したがってシャーマニズムは単なる憑依ではない。それはなにかにとりつかれた憑依状態を克服し、エクスタシーのなかで原因となる病理、欠如をとりのぞくのである。その全過程がシャーマニズムである。
(p.173)

 日本密教の大成者である空海に、「雑密・純密」というキーワードがある。これにならい、古代以来のシャーマニズムは雑密、タントリズムはより純化された純密と呼ぶのも不可能ではない。根本的な相違は、前者が古代の村落共同体を背景にしているのに対し、後者は古代都市化時代のエリートや上流階級の悩みに対応して再編成されていった点にある。
(p.174)

 タントリズム出現の一原因には、口寄せ、いんちき予言といったことのみに終始するようになったシャーマンへの反撃、および太古シャーマニズムへの復帰という面もある。だが、シャーマンの堕落にはそれなりの社会的な必然もないわけではなかった。
(p.176)

 その儀式も、シャーマニズムをはるかにこえてこみいっている。またシャーマニズムにおけるような、村をあげての祭祀といったオープンネスはない。
(p.185)

 シャーマニズム=仮面に比べると、タントリズムの視覚表現はまことに豊富だ。
(p.195)

 一つの例外として、アウトサイダー的な性をともなう密教「立川流」がある。これは中央の僧職を追われたすぐれた僧が各地を放浪したのち、立川において開かれたもので、オーソドックス筋からは左道、邪道の扱いをされてはいる。
(p.202)

 シャーマン儀式や祭りは共同体的、集団的であり、部落をあげてのオープンネスがあった。それに対し、どちらかというと密教=マンダラは個のレベル、個の密室的な悟りと救済の要素が強い。
(p.210)

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