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対話385 マックス ウェーバー 『職業としての学問』

2011.09.27.22:33



読書時間:30分
個人的読みやすさ:C


わたくしの考えでは、もしだれかきわめて宗教的感受性の強い人のために、かれがいま神もなく預言者もいない時代に生活するべく運命づけられているという根本の事実を、これらの教団上の預言者のような代用物を与えることによって覆いかくしたとしても、それはかれの内的欲求にとって何の役にも立たないだろう。むしろ、その宗教的感情の誠実さのゆえに、かれはこうした代用物による隠蔽を拒否するにちがいない。
(p.67)


 かつてその性質がゆえに職を得ていた人が、現代においてはその職がなくなったおかげで適職がなく、その逆もあったりするのだろうなということをぼんやりと考えている。

 宗教的感受性、というのもその性質のうちの一つになりえるかもしれない。
そもそも宗教的感受性自体は誰にでも発現しうるし、多かれ少なかれ(気づいているにせよ気づいていないにせよ)人々は皆持っているものなのだとは思うけど、そういう人たちが持っている「性質」のようなもの、は現代では様々なパッケージングをされて隅に追いやられている。おそらく、あまりにもその感性から生まれる主観的現象が個人的すぎるというか、普遍性を持っていないものとして解釈できる道具(たとえば心理学における無意識という概念)があまりに人口に膾炙しすぎているのが背景にあるのだろう。現代はあらゆることが個人の問題として処理することが可能な時代になっている。

 とはいえ、最近言われはじめているように、何かが起きたときにそれを個人の問題として捉え、そう処理するというのが果たして正しいのか?という疑問は残る。今僕は大学でコミュニティ心理学という授業を取っているのだけど、この心理学の一派の考え方によると、「今までの心理学は個人に全てを押し付けてきたが、実際はその人のその性質の発現はその人を取り巻く環境との相互作用によって生まれるのであり、そのエコシステムを含めて考えるべきである」ということである。

 壮大に話がすり替わってきた、というかどこに向かっているのか、書いている僕もよくわからない文章になってきたが、とにかく宗教的感受性が例えば「神経症」だとか「精神病」だとかいった個人の問題として片付けられてきた近代から、それを取り巻くコンテクストを含めた分析へと段階は進み、そうすることによってまたそれらの捉え方が変わり、ひいては社会システムが変わって今怪しいとされる職とかへの実践者および部外者それぞれの認識も変革していくのかもしれない。我ながらなんにもまとまっていない文章だが、そこには何か、社会の持つ価値観が変革する要素が見えてならなくて、長生きするのが少し楽しみに勝手になっている。

いやしくも学問を自分の天職と考える青年は、かれの使命が一種の二重性をもつことを知っているべきである。というのは、かれは学者としての資格ばかりではなく、教師としての資格を持つべきだからである。
(p.18)

ところが、近ごろの若い人たちは、学問がまるで実験室か統計作成室で取り扱う計算問題になってしまったかのように考える。ちょうど「工場で」なにかを製造するときのように、学問というものは、もはや「全心」を傾ける必要はなく、たんに機械的に頭をはたらかすだけでやっていけるものになってしまったかのようにかれらは考えるのである。
(p.23)

近ごろの若い人たちのあいだでは一種の偶像崇拝がはやっており、これはこんいちあらゆる街角、あらゆる雑誌のなかに広くみいだされる。ここでいう偶像とは「個性」と「体験」のことである。このふたつのものはたがいに密接に結びつく。すなわち、個性は体験からなり体験は個性に属するとされるのである。(中略)
 さて、お集まりの諸君!学問の領域で「個性」をもつのは、その個性ではなくて、その仕事に仕える人のみである。
(p.27)

 預言者や扇動家に向かっては普通「街頭に出て、公衆に説け」といわれる。というのは、つまりそこでは批判が可能だからである。これに反して、かれの批判者ではなくかれの傾聴者にだけ面して立つ教室では、預言者や扇動かとしてのかれは沈黙し、これにかわって教師としてのかれが語るのでなければならない。
(p.50)

すなわち、各人がその拠りどころとする究極の立場のいかんに応じて、一方は悪魔となり、他方は神となる。そして、各人はそのいずれがかれにとっての神であり、そのいずれがかれにとっての悪魔であるかを決しなければならない。(中略)かの倫理的に節度ある生活態度に内在した偉大な合理主義は、あらゆる宗教的予言に共通の産物であるが、この合理主義は、かつては「唯一不可欠の神」のためにこうした多神教をその王位から斥けたのであった。
(p.57)

かつての多くの神々は、その魔力を失って非人格的な力となりながら、しかもその墓から立ちあらわれて、われわれの生活への賜杯をもとめてふたたび永遠の争いをはじめている。ところが、現代の人々にとって、とくに現代のヤンガー・ジェネレーションにとって、もっとも困難なのは、この日常茶飯事に堪えるということである。
(p.57-58)

もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる。
(p.63)

わたくしの考えでは、もしだれかきわめて宗教的感受性の強い人のために、かれがいま神もなく預言者もいない時代に生活するべく運命づけられているという根本の事実を、これらの教団上の預言者のような代用物を与えることによって覆いかくしたとしても、それはかれの内的欲求にとって何の役にも立たないだろう。むしろ、その宗教的感情の誠実さのゆえに、かれはこうした代用物による隠蔽を拒否するにちがいない。
(p.67)

ところで、すべての神学が――したがってたとえばインド教のそれもが――有するものは、世界はなんらかの意味をもっているにちがいない、という前提であり、したがって、すべての神学にとっての問題は、それが合理的に納得されるためにはこの意味はいかに解釈されるべきか、ということである。
(p.68)

かくてまた、神学にとっての問題は、これらの端的に承認されるべき諸前提は、ひとつの全体的世界像のなかでどのようにして異議あるものと解されうるであろうか、ということである。ところで、あたかもこの前提こそが神学にとって「学問」であることの彼岸にあるものなのである。それは、普通いう意味の「知識」ではなくて「所有」である。
(p.69)

このような「知性の犠牲」の達人となる能力は、既成宗教の信仰をもつ人々の決定的な特徴である。
(p.70)

ウェーバーの表現様式はけっして明快でも率直でもない。むしろ不必要なほど入りくんでおり、強調が多く、比喩が多く、くり返しが多い。これは話し手が非常に感情の強い人であることを物語るものだろう。
(p.83)

青年たちの心は日々の仕事を捨てて先走りした。かれらは現実のかわりに理想を、事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、専門家のかわりに全人を、教師のかわりに指導者を欲した。ウェーバーがこの講演をおこなったさい、その当の相手はこのような青年たちだったのである。ウェーバーは青年たちに向かって「日々の仕事に帰れ」と叱咤した。
(p.91)

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