スポンサーサイト

--.--.--.--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

対話387 中島 義道 『「対話」のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの』

2011.09.27.23:05



読書時間:50分
個人的読みやすさ:A


みな、真実を語らない社会、言葉を信じない社会、〈対話〉を拒否する社会をつくりたいのである。それも「思いやり」や「優しさ」という美名のもとに。
(p.144)


 自分の思想と合わない人の本を読むのは凄い面白い体験だなと中島義道を読むと強く感じさせる。確か僕が最初に中島義道の著作を読んだのは大学2年の頃で、あの頃は今ほど彼の言う意見が自分の思想と異なっているとは感じなかった(性格に問題があるおっさんだなとは思ったが)。あれから一応3年近くたち、僕も自分の立場を明確にしつつあるということなのだろう。

 僕は人間の抱く共通幻想とかを積極的に維持したい(必要に応じては壊す必要があるが無理して壊す必要はない)とかなり強く考えているため、基本的に彼の思想は合わないというかそもそも意識したことすらなかったので、読んでいて「そんな変な人もいるのか」という衝撃を受けた。より正確にいうと、最近中島義道を愛している後輩と一度口論じみた会話になったのだが、この本を読んで彼の言わんとしていることがわかってきて、それで「あんな変な人はこういう本に同調するのか」という衝撃を受けた。

 非常に異なる思想、しかも普段意識していないところからのボディーブローみたいなものなので、とりあえず衝撃を受けたのには間違いがない。しかしやや冷静になって考えてみると、「こんなのコミュ障が自分が世界に合っていないからって駄々こねているだけなのではないか」とかいうまったくつまらない大人じみた感想が頭から沸いてくるというのも事実である。それだけ、僕がいわゆるマジョリティ側の思想に積極的に加担していることの証左でもあるのだが。

 ともあれ、『うみねこのなく頃に』でベアトリーチェの思想に共感してしまったような僕のような人間にとっては、戦人からの青き真実の一撃を受けるに等しい衝撃を受けるのは間違いがないので一度くらいは読んでみてもばちはあたらないと思う。読んでよかった。

 日本の若者たちは、全員に向かって言われるコゴトには不感症になっている。だが、自分個人に向けて言われたことは骨身に染みる。
(p.18)

 したがって、――容易に想像できるように――おおざっぱに言って、学生たちは学力(偏差値?)が低くなるほど言葉への信頼を失っている。
(p.33)

「美化」のためにデカデカと板を立て、膨大な垂れ幕を掛けることが私にはどうしてもわからないのだ。
(p.58)

 日本にいる外国人は『しゃべる機械』として利用されていると思うことがしばしばです。外国人の持っている個性や考えは無視されてします。
(p.68)

ヨーロッパ人は大変に「おせっかい」だ。それも、こちらの気持ちや事情を考慮してというより、自分の価値観を一方的に押しつけようとすることが非常に強い。
(p.84)

 井上の指摘を待つまでもなく、この国の人々は個人と個人が正面から向き合い真実を求めて執念深く互いの差異を確認しながら展開していく〈対話〉をひどく嫌い、表出された言葉の内実より言葉を投げ合う全体の雰囲気の中で、漠然とかつ微妙に互いの「人間性」を理解し合う「会話」を大層好むのである。
(p.105)

 言葉の表面的意味、仕草の表面的意味ではない、もっと「深い」ものを求めるという大義名分のもとに、人々はそこに表出された言葉や身振りを軽視するのだ。何かを語ると「そうは言っても、じつは……」という台詞が飽きるほどわれわれの周りうごめいている。
(p.114)

すなわち、真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと、これこそ「対話」なのだ。
(p.122)

<対話>は各個人が抱く意見の「小さな差異」を確認しながらゆっくりと忍耐強く進む。
(p.129)

これほどまでに「優しさ」が叫ばれている空気の中で、弱い人間は「優しさ」によって殺されていく。
(p.161)

〈対話〉は対立から生まれる。したがって、対立を圧殺することは〈対話〉を圧殺することである。
(p.166)

 この国のあらゆる会合では、だれからも不平不満が出ないこと、というよりだれにも不平不満を言わせない状態にもってゆくことが最高の目標とされている。
(p.172)

 私にはヘドが出そうなほどいやなセリフがある。それは「ただ頭を下げるだけでなんでもないことじゃないか。一度ごめんなさいと言えば済むことじゃないか」とじゅんじゅんと教え諭すグレツな奴らのコトバである。
(p.179)

 言いかえれば、だれも彼もが自分はじつは「和風個人主義」を望んでいるのに、「洋風個人主義」を望んでいる振りをする。自分はじつは日本的風土に合った「会話」を望んでいるのに、〈対話〉を望んでいる振りをするのだ。
(p.197)

だが、私はここで西洋的対話と日本的対話のどちらが優れているか、という比較判定をしようとしているのではない。ただ、われわれ日本人の肌身に浸透している言語行為には数々の美徳もあるが、人々を沈黙させ(「お上」から、多数派から)与えられた状況を需要させる機能を備えている、と言いたいだけなのだ。そして、言葉の「裏」を詮索する日本的態度をもう少し減じて言葉の「表」の意味を尊重する欧米的態度をもう少し増やしてはどうか、と提案しているだけなのである。
(p.201)

 何度でも言うが、私は祖国を現在の欧米の一国のように変革したいわけでは毛頭ない(絶対ならないから安心なのであるが。)私は、言葉を、〈対話〉を圧殺するこの国の文化にあと数パーセント西洋的な言語観を採用すれば、もっと風通しのよい社会が、弱者が泣き寝入りすることのない社会が、個人が自立しみずからの責任を引き受ける社会が実現するのになあ、と思うだけなのだ。
(p.203)

comment

Secret

twitter
プロフィール

×÷

Author:×÷
はらわたに秩序。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。