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対話388 中村 雄二郎 『術語集―気になることば』

2011.09.27.23:22



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:C


 哲学は従来考えられてきたような普遍的な知ではなく、ギリシア―ヨーロッパに生まれ、展開された、一つのきわめて特殊な知の形態にすぎないのではないか。しかもさらに、虚妄な前提の上に成り立っているのではないか、と。このような問い直しは、いずれも現代の知の最前線にある三人の人たち(M・フーコー、G・ドゥルーズ、J・デリダ)によってなされたのである。
(p.196-197)


 哲学についてあーだーこーだ言うのは絡んでくる人が率直に言ってめんどくさい人が多いという偏見を僕の中で非常に積極的に構築しているためにあまり好きではない。好きではないのだが、しかしこの一文は僕の中でそれまで「なぜ(現象学以前の)哲学というものはここまで偏屈になれるのだろうかというかなんでこんなに偉そうなのだろうか、というかなんでこんなに宗教的情熱をむき出しにしているのだろうか」というもはや感情レベルでの反応が渦巻いていたかについての一つの回答を出してくれている。まさしく、僕が<哲学>という言葉一般から導き出している違和感は「これは一つのきわめて特殊な知の形態なのではないか」ということに尽きるのだ。特に西洋世界をベースにした。

 現象学はアンチ哲学と呼ばれるようなポジションで、特にこの辺は東洋思想に理解が深い人が多いので別ものとして区別されるべきであるというのは最近わかってきたことであるが、そうではない。特に東洋思想らへんにあまり興味がなさそうな哲学者に対する僕の猜疑心の半端なさが異常なのはこの辺の違和感から来ているのだなということがわかっただけでも一つの大きな発見だった。上に述べられている名前だけは有名な三人の思想家(哲学者?)の著作はまだまだ全然読んではいないのだが、それを指摘しているだけでも精神的にはずいぶん仲良くなれそうだなと勝手に思ったため、ここら辺も時間の合間を縫い縫いしながら読み進めていきたいと思う。

またニーチェが、あえてソクラテスを極端な理論的人間として捉え、その知のあり方を否定して、みずからの<歓ばしき知>を提出したのは、知の領域においても人間の根源的な生と自由とを体現する遊びと演劇をとりもどそうとしたからであった。
(p.9)

そして、いまや私たちは、狂気や異常を自分の外側の人々にではなく、自分たち自身の内側に見つめるべきだろう。というのは、狂気とはほかならぬ人間の根源的自然として誰のうちにもあるものであり、異常とは日常的な規範あるいは秩序を破って現われる根元的自然の怪異な姿だからである。
(p.25)

 この例の選び方は少々お座なりのきらいがあるけれど、エロスの全体的で豊かな他形性の喪失が単に性器的なものへの性の局所化をもたらすという指摘は、現在エロスの問題を考える場合の重要なポイントをよく突いている。
(p.28)

 そこで仮面は、素顔の目を蔽い顔をかくすことによって、私たち人間を意識から解放しつつ、身体の他の部分の自由な表現を助ける。
(p.37)

≪素顔は真実に、仮面は<偽り>ないし<絵空事>により近い、と考えるのは、特定の文化的限定を受けた、一つの特殊な偏見以外のものではない。≫(坂部恵『仮面の解釈学』)
(p.40)

というより、≪消費される物になるためには、物は記号にならなくてはならない。≫(ボードリヤール, J 『物の体系』)
(p.45)

はじめにその〈劇場国家〉論の要点を述べておけば、西欧の国家や社会がもっぱら現実的=政治的な支配や権力から捉えられることが多かったのに対して、ギアーツが儀礼的=象徴的な側面を重視して、まったく別なモデルを提出していることである。
(p.57)

 かつて弁証法が科学的と考えられたのも、喩えるものと喩えられるものとがおなじ実在のレヴェルである換喩的な性格によるところが大きかったはずである。換喩的表現のリアリズムが科学的だと思われがちなように。そして、特徴的な部分によってイメージ的全体化を行う換喩法の有効性と弱点は、そのまま弁証法の有効性と弱点になっている。つまり、換喩法も弁証法もいわば目にみえる現実世界の事物を介してのイメージ的全体化の方法である。
(p.69)

 この構造論的方法を私たちは、弁証法との対比で次のように捉えることができる。すなわち、弁証法が主として現実界にかかわる、結合軸(統合関係、隣接関係)に沿ってのイメージ的主体化の方法であり、換喩的な言語の論理であるとすれば、それに対して構造論のほうは、主として象徴界(シンボルの次元)にかかわる、選択軸(連合関係、範列関係)に沿ってのイメージ分節化の方法であり、隠喩的な言語の論理である、と。
(p.70)

惰性化されたまなざしのもとでは、未開人よりも狂人、狂人よりも子供といった具合に、身近なもののほうがはるかに捉えがたいのである。
(p.77)

 かつての日本で子供が神に近いと見なされていたということは、子供がただ純真だとか無垢だとかいうのではなしに――荒ぶる神でもあるものとして――同時に荒々しく残酷であること、つまり根元的自然をも体現していることを意味している。
(p.79)

 たしかに現象学的に見ると、現在それらの点で好んで差異が強調されているように見える。けれども一歩立ち入って考えてみると、そのような差異というのは価値の豊かな多様化をもたらす本来の意味での差異ではなくて、価値の貧しい単一化にもとづく、そのなかでも差異にすぎないことがわかる、。いいかえれば、それは差異ではなくて同一性にもとづいたものなのである。
(p.90)

 このようなわけで、元型としての〈グレート・マザー〉をとおして、包み込むという母性原理が示される。そこにあるのは、すべてのものに対する絶対的な平等性である。これに対して、父性原理の特性を示すものはなにかといえば、それは断ち切ること、分割することであろう。
(p.95)

 また、神話は単に迷信的なものでも、克服すべき遅れた知でもない。それは科学の知にも似た認知的な性格をもちながら、同時に表現的でもある。神話の知はすぐれて体系的であるとともにイメージ的なのだ。
(p.104)

 というのも、ターナーのいうコミュニタス(communitas)とは、制度化された日常のコミュニティから自由、かつそれに対立する、非日常的で感性的な共同体のことであり、さらにその典型的なものとして、通過儀礼、<千年王国>運動、僧院、カウンター・カルチャーなどが考えられているからである(『象徴と社会』1974年)。
(p.130)

≪いわば、アルレッキーノは、人間と人間を超えたもの、日常と非日常、此岸と彼岸の中間に、すなわちすべてのものがたえず生成する地点に立っている境界石柱であり、その神話性においてヘルメスと対応する充分の性格を備えていたのである。≫(山口昌男『道化の民俗学』1975)
(p.133)

 また、私はパトス的行動をパフォーマンスとして捉えることによって、科学の知に代わる新しい選択肢として〈演劇的知〉というものを提出することができた(拙書『言葉・人間・ドラマ』1981年)。これは、コスモロジー、シンボリズムおよびパフォーマンスを主要な構成原理とするもので、普遍主義、分析性、客観主義からなる近代科学の機械論モデルに対する演劇モデルにもとづいた知である。そしてこの演劇的知は、〈パトスの知〉とも〈臨床の知〉とも言いかえられるのである。
(p.155)

もともとパラダイムというのはクーンの現実の科学研究上の経験からいろいろな意味をこめて提出された術語であってみれば、半ば日常用語のもつあいまいさ=多義性をもっているのは当然である。したがって、それを強いて一義化することは近代科学の知に囚われた考え方だと言うべきだろう。
(p.160)

木村敏氏(『自己・あいだ・時間』1981年)が明らかにしたように、メランコリー(うつ病)者においては、とりかえしのつかないことが苦にされて、その体験はもはや手遅れで回復不可能な<あとの祭り>つまり〈ポスト・フェストゥム〉という時間形態を取る。それに対して、分裂病者においては、運命への予感に敏感なため、その体験は未来の先どりをあせる先走りによって代表される〈前夜祭〉的な、つまり〈アンテ・フェストゥム〉の時間形態をとる、ということができる。
(p.168)

 そこに見られるのは、狩猟民的な認知特性、世界へのやさしい無関心であり、所有もなければ貯蔵されることもない。しかしながら、次に農耕社会に入ると、人類はものを計量し、測定し、配分し、貯蔵するようになる。そしてそこに見られる人間像は〈強迫症親和者〉である。というのはこの場合、完璧さへの追及が強められるからである。
(p.169)

 その理由として考えられるのは、なによりも、近代医学が中川米造氏(「二十一世紀の医療を担うために――医者の五つの顔」1983年)の言う、科学者の医学、技術者の医学になったことであろう。中川氏は述べている。これまでの医者んは四つの顔があった。魔法医、学者(知識の伝承者)、科学者、技術者の四つがそれである。これらのうち魔法医というのはアフリカやインドの文字通りの魔法医のことだけでなく、患者に対して権威的かつ神秘的に演ずる医者一般の一面をも指している。
(p.182)

けれども、I・イリイチ(『脱病院化社会』1976年)も言うように、近代医学は、痛みを技術の問題に変えてしまい、その際、受苦からその固有の人間的意味を奪ったのである。
(p.185)

 このように〈科学の知〉が操作の知であることに対して、〈パトスの知〉は環境や世界がわれわれに示すものをいわば読みとり、意味づける方向で成り立っている。
(p.188)

 けれども私としては、同じくレトリックを再評価するに際して、もう少しちがったところに重点を置きたい。それは、簡単にいうならば、論理主義的な狭い意味での〈哲学の知〉に対して、感性、イメージ、想像力などを大きくとり入れた〈レトリックの知〉の存在をはっきり認めることである。
(p.194)

 さて、ここで注目されるのは、フーコー、ドゥルーズ、デリダという三者による、哲学の知の批判が、いずれもプラトン主義のイデア説を、その源流とし見なしていることである。また、概念的真理のかわりに、出来事としての言説(フーコー)、差異を含む模像(ドゥルーズ)、文字言語の戯れ(デリダ)という言語的なものが重視されていることである。
(p.199)

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薬を服用することなく、うつ病を克服できる!

2011.10.03.06:52

今から30分後には心も体もかるくなり、重いうつでも2ヶ月以内に改善できます。

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はらわたに秩序。

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