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対話390 内田 樹 『寝ながら学べる構造主義』

2011.09.27.23:54



読書時間:1時間20分
個人的読みやすさ:B


「エスニック・アイデンティティ」というものを私たちはあたかも「宿命的刻印」のようなものとして重々しく語ります。しかし、多くの場合、それは選択(というより、組織的な「排除」)の結果に過ぎません。ある祖先ただ一人が選ばれ、、それ以外のすべての祖先を忘れ去り、消滅させたときにのみ、父祖から私へ「一直線」に継承された「エスニック・アイデンティティ」の幻想が成り立つのです。
(p.84)


 自分という人間を組み立てるとき、それは非常に部分的であり選択的であるなあということは常々思ってきた。それは個人がそれを意図して行なっているときもあるし、意図して行なっていないときもある。逆に、権力構造や慣習にしたがってそれが組み込まれていることもある。ともあれ、それが抽出的であるということに特に異論はないだろう。引用されているようなエスニック性のような、もはや当然に扱われて見た目にも表れるようなものですらそうなのだ。というより、見た目はそれを構成するための一要素――それはまた非常に大きい要素ではあるが――に過ぎないのだから。

 その幻想について、別に僕は悪いとは微塵も思わない。そもそも僕は根本思想において、人間における幻想というのは最大限許容されるべきであると思っているし、人の幻想をいたずらに破壊していこうとすることは非生産的なことだとすら思っている。が、ニーチェやフーコーに流れる系譜学的思想、すなわちそこにどのような幻想が組み込まれているかを理解した上で読み解くというスキルは同時に、幻想を扱う人間存在だからこそ習得するべきスキルなのだなということも同時に非常に強く感じている。人間を学問するということは幻想といかに向き合うかということであり、そのかかった霧の色を脱色していくという過程なのだろう。

 入門書は専門書よりも「根源的な問い」に出会う確率が高い。これは私が経験から得た原則です。「入門書がおもしろい」のは、そのような「誰も答えを知らない問い」をめぐって思考し、その問いの下に繰り返し繰り返しアンダーラインを引いてくれるからです。
(p.11)

「私たちはつねにつねにあるイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらした、もっとも重要な「切り口」だからなのです。
(p.19)

 私たちは自分では判断や行動の「自律的な主体」であると信じているけれども、実は、その自由や自律性はかなり限定的なものである、という事実を徹底的に掘り下げたことが構造主義という方法の功績なのです。
(p.25)

 ヘーゲルもマルクスも、この自己自身からの乖離=鳥瞰的視座へのテイク・オフは、単なる観想(一人アームチェアに坐って沈思黙考すること)ではなく、生産=労働に身を投じることによって、他者とのかかわりの中に身を投じることによってのみ達成されると考えました。
(p.31)

 私たちは生きている限り、必ず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれています。そして、ある心的過程から組織的に目を逸らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしています。
(p.39)

 ニーチェはもともと古典文献学者としてスタートした研究者です。古典文献学という学問はその研究者に特殊な心構えを要求します。それは、過去の文献を読むに際して、「いまの自分」の持っている情報や知識をいったん「カッコに入れ」ないといけない、ということです。
(p.42)

 ここに倒錯的な畜群道徳が誕生します。
なぜ「倒錯的」かと言いますと、畜群においては、ある行為が道徳的であるか否かについての判断は、その行為に内在する価値によってでも、その行為が当人にもたらす利益によってでもなく、単に「他の人と同じかどうか」を基準に決されるからです。
(p.52-53)

 ご覧の通り、ニーチェは「超人」とは「何であるか」ではなく、「何でないか」しか書いていません。
 どうやあそれは具体的な存在者ではなく、「人間の超克」という運動性そのもののことのようです。「超人」とは「人間を超える何もの」かであるというよりは、畜群的存在者=「奴隷」であることを苦痛に感じ、恥じ入る感受性、その状態から抜け出そうとする意志のことのように思われます。
(p.55)

 何よりもまず、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは、「いま」を基準にしては把持できない、過去や異邦の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力とのびやかな知性が必要とされる、という考え方です。この点に関しては、ニーチェに全面的に賛成です。
(p.58)

 言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満天の星を星座に分かつように、非定型的で星雲上の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。
(p.67)

 英語にはもちろん「肩」ということばがあり、「凝る」ということばもあります。しかし英語話者は「私はこわばった肩を持つ」という言い方をしません、。日本人が「肩を凝る」のとだいたい同じ身体的な痛みを彼らは「背中が痛む」 I have a pain on the back. と言うのです。
(p.69)

 私が確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」を繰り返していると思っていただいて、まず間違いありません。
(p.73)

 フーコーはそれまでの歴史家が決して立てなかった問いを発します。
 それは、「これらの出来事はどのように語られてきたか?」ではなく、「これらの出来事はどのように語られずにきたか?」です。なぜ、ある種の出来事は選択的に抑圧され、黙秘され、隠蔽されるのか。なぜ、ある出来事は記述され、ある出来事は記述されないのか。
 その答えを知るためには、出来事が「生成した」歴史上のその時点――出来事の零度――にまで遡って考察しなければなりません。考察しつつある当の主体であるフーコー自身の「いま・ここ・私」を「カッコに入れて」
、歴史的事象そのものにまっすぐ向き合うという知的禁欲を自らに課さなければなりません。そのような学術的アプローチをフーコーはニーチェの「系譜学」的思考から継承したのです。
(p.86)

 私たちの常識とは逆のことをフーコーはここで書いています。狂人は「別世界」からの「客人」であるときには共同体に歓待され、「この世界の市民」に数えいれられると同時に、共同体から排除されたのです。つまり、狂人の排除は「なんだかよく分からないもの」であるからなされたのではなく、「なんであるかが分かった」からなのです。
(p.90-91)

 それから二百年後のアメリカでは、「場所塞ぎ」であることは社会的威信どころか自己管理能力の欠如の記号とされています。現代のアメリカ紳士は必死になってダイエットに励み、シックな服装をし、控え目なコロンをつけて、できるだけ「目立たず」「場所塞ぎにならない」ことをめざしています。それはごく単純には、住民一人当たりの国土面積が開拓時代とは比較にならないくらい狭隘になったせいです。
(p.95)

 政治権力が臣民をコントロールしようとするとき、権力は必ず「身体」を標的にします。
(p.103)

 ご存知の方も多いでしょうが、これは体育館や運動場で生徒たちをじべたに坐らせるときに両膝を両手で抱え込ませることです。竹内敏晴によると、これは日本の学校が子どもたちの身体に加えたもっとも残忍な暴力の一つです。
(p.104)

 現に、フーコーの著作はいまでは全世界の社会科学・人文科学の研究者の必読文献であり、それを「勉強する」ことはほとんど制度的な義務となっています。(中略)これこそ「権力=知」の生み出す「標準化の圧力」でなくて何でしょう。この逆説をフーコー自身はおそらく痛切に予知していたはずです。
(p.111)

 エクリチュールとスティルは違います。スティルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です。
(p.120)

 例えば、私が「おじさんのエクリチュール」で語り始めるや、私の口は私の意志とかかわりなしに突然「現状公的的でありながら愚痴っぽい」ことばを吐き出し始めます。(中略)そして、そのことばづかいは、その人の生き方全体をひそかに統御しているのです。
(p.122)

 サルトルの「参加する主体」は、与えられた情況に果敢に身を投じ、主観的な判断に基づいておのれが下した決断の責任を粛然と引き受け、その引き受けを通じて、「そのような決断をなしつつあるもの」としての自己の本質を構築してゆくもののことです。
(p.143)

 日本語の「鼻濁音」もそうですね。『夜霧よ今夜もありがとう』で石原裕次郎はきれいな鼻濁音で「ぎ」の音を発声していますが、カラオケで歌っている若い人たちのほとんどはこの音を出すことができません。
(p.152)

 さて、レヴィ=ストロースの大胆なところは、二項対立の組み合わせを重ねてゆくことによって無数の「異なった状態」を表現することができるというこの音韻論(とコンピュータの両方に通じる)発想法を人間社会のすべての制度に当てはめてみることができないのか、と考えたところにあります。レヴィ=ストロースが集中的な検討を加え、みごとな成功を収めたのは、親族制度の分析です。
(p.154)

 世界中のすべての言語音が2ビットで表現できるように、世界中どこでも親族の基本構造は2ビットで表現できる、これがレヴィ=ストロースの仮説です。
(p.156)

 さて、この「原初的不調和」に苦しむ幼児が、ある日、鏡を未定空地に、そこに映りこんでいる像が「私」であることを直感するという転機が訪れます。(中略)視覚的なイメージとしての「私」に子どもがはじめて遭遇する経験、それが鏡像段階です。
(p.170-171)

 あらゆる「自分についての物語」がそうであるように、被分析者の語りは、断片的な真実を含んではいますが、本質的には「作り話」に他なりません。
(p.174)

 意外に思われるかも知れませんが、精神分析的対話は、被分析者が「ほんとうに体験したこと」や「ほんとうに考えていること」を探り当てるためになされているのではありません。(中略)被分析者が語っているのは「空語」です。全力を尽くして、被分析者は自分について語っているつもりで、むなしく「誰かについて」語っているのです。「その誰かは、被分析者が、それこそ自分だと思い込んでしまうほど、彼自身に似ている」だけなのです。
 しかしそれでよいのです。どれほど「漸近線」な接近に過ぎなかろうとも、「自我」について語ることによって、被分析者と分析家のあいだで創作され、承認された「物語」の中での「私」という登場人物はどんどんリアリティを増してゆくからです。
(p.179)

 フロイトのヒステリー患者たちが語った過去の性的トラウマのいくぶんかは偽りの記憶でした。しかし、「偽りの記憶」を思い出すことで症状が消滅すれば、分析は成功なのです。
(p.181)

 分析家と被分析者のやりとりは、(一つ一つの音符の集積がやがて主題をもった旋律をなしてゆくように)、一つの物語世界を構築してゆきます。
(p.183)

 私が自分の過去の出来事を「思い出す」のは、いま私の回想に耳を傾けている聞き手に、「私はこのような人間である」と思って欲しいからです。私は、「これから起きて欲しいこと」、つまり他者による承認をめざして、過去を思い出すのです。私たちは未来に向けて過去を思い出すのです。
(p.184-185)

アナログな世界にデジタルな切れ目を切れること、それは言語学的に言えば「記号による世界の分節」であり、人類学的に言えば「近親相姦の禁止」です。
(p.188)

 彼らの仕事は、この世には理解も共感も絶した「鬼」がいて、世界をあらかじめ差異化しているという「真理」を学習することです。それを学び知ったときはじめて、「子ども」はエディプスを通過して「大人」になるからです。
(p.191)

 ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスにおいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。
(p.195)

そして「治る」というのは、コミュニケーション不調に陥っている被分析者を再びコミュニケーションの回路に立ち戻らせること、他の人々とことばをかわし、愛をかわし、財貨とサービスをかわし合う贈与と返礼の往復運動のうちに巻き込むことに他なりません。そして、停滞しているコミュニケーションを、「物語を共有すること」によって再起動させること、それは精神分析に限らず、私たちが他者との人間的「共生」の可能性を求めるとき、つねに採用している戦略なのです。
(p.197-198)

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