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対話392 岸田 秀、 山本 七平 『日本人と「日本病」について』

2011.10.30.00:12



岸田 アメリカならどんどん受け入れるけど、受け入れてから差別する。日本人はなかなか受け入れないけど、受け入れたらあまり差別しない。(中略)日本の大学では、入試はむずかしいけど、いったん入学すれば、あとはよほどのことがないかぎり退学処分はなく、トコロテン式に卒業でき、欧米の大学では、入学するのはやさしいけど、成績のわるい者はどんどん退学させるというのも、これと同じことですね。
(p.183-184)


 実際に受け入れてから差別をしないのか、ということはともかくとしても(まあ完全にしないというのはどんな場合でも不可能である)、日本は入り口のところで最も強いプレッシャーをかけるのではないかというのは一面正しいような気がする。んではその背後に何があるの?ということを考えたときに、あるのは「差別することへの恐怖」なのかなあと。考えないこと、考えなければいけないという事態に直面することを避けているのかなと。

 この本はやや古いし、最近の事情は変わってきているようにも思うが、そのことを考えないようにするという差別という構造は、国際比較とかその辺を抜きにしても、一度見直さなければならないところだと思う。特にそれに積極的に加担している、例えば僕みたいな人物が。

このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、何ら規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしていいのかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動は起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが右側なら右側へ曲がるという方針を決定し、いったん決定すると、何度失敗しても断乎として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える。
(p.16)

山本 そうですね。聖所で契約を結ぶという形はおそろしく自覚的で、意思的ですよ。そしてなんとしてもこの契約は守らねばならん。それが旧約聖書資料の非常に古い層にある「祝福」と「呪い」の原則です。(中略)それにひきかえ二本の会社などは擬似血縁集団ですから、社規なんて誰も読まなくていい。ただし社会は「共同体」ですから、社の名誉を汚したとなると辞めなくちゃならない。機能集団だったらそんな必要はないんですけどね。
(p.36)


岸田 結局、日本人というのは、自然本来の姿を個人のレベルで赤ん坊の時代に見る。ヨーロッパ人はそれを楽園に見る。つまり人類としての集団の歴史のはじまる以前に見るわけですよね。
(p.47)

岸田 ヨーロッパ人にとって、パーソナリティはつくり上げるものですから、彼らの自我構造はガッチリしているわけで、自分の原理を持っていて、その原理に合うものだけを自らの自我領域に取り入れて、原理に合わないものは徹底的に排除する。この排除されたものが精神分析でいうところの「エス」、つまり無意識ですね。(中略)だから、神経症の治療というのは、狭く固まっている自我構造をぶっ壊して、抑圧されたものを自我領域の中に取り入れるということなんですけどね。日本に精神分析がはやらない一つの理由は、日本人の場合、自我構造がそうカチッとしてないんですね。
(p.49-50)

山本 おもしろいのは薗違いが、社会秩序に対する考え方にも現れてくることですね。たとえば、ホッブスには「万人の万人に対する闘争」という意識がありますよね。秩序というものはつくらなくちゃどうにもならないんだ、と。ところが、2.26事件の将校の発想は、人間、自然に生きてさえいれば、自然に秩序ができちゃうという発想があるんです。だから2・26の将校にとっては、既成の秩序を壊しさえすりゃいいんですよ。
(p.50)

岸田 だから、無効では社会に適応するためには、親から独立することが絶対の前提条件で、精神分析なんかでも、日本なら単に親孝行な人だと見られるような人を、近親相姦的固着だとかマザー・コンプレックスだとか名づけて、とにかく治療すべき対象と見るわけです。
(p.54)

山本 ただ、機能集団が共同体になってしまうと困ったことが一つあって、共同体を維持するために機能するという逆の現象が始まってくるわけですよ。
(p.64)

山本 日本の会議はまさにそのために、誰がしたかわからない形にして、「こうなる」ためにあるわけでしょ。「する」は作為であって、あいつは作為があって嫌なやつだということになる。
(p.74)

岸田 つまり、法律というものは、なんらかの形でその国の人々の共同幻想を反映するものなんです。
(p.79)

岸田 もちろん、死や肉体的苦痛が恐ろしいという点では、どの文化にすむ個人でも大体同じでしょうが、人間には、死や肉体的苦痛より恐ろしいことがあります。自我の崩壊がそれです。それは、自我や、自我を支えている信仰、理想、名誉などを守るために、死や肉体的苦痛を辞さなかった人が無数にいることからも明らかだと思います。
(p.81)

岸田 さっき言ったように、ヨーロッパ人の自我は神に支えられ、日本人の自我は人間関係に支えられているという違いがあるわけですが、ここが違っているのですから、当然、何が自我の崩壊の不安を呼び起こし、何が恐ろしいかということが、ヨーロッパ人と日本人とでは違っているわけです。
(p.82)

岸田 ヨーロッパやアメリカに犯罪が多いというのは、ニーチェは神は死んだと言ったけど、死にかかってはいてもまだ死んでいなかった神が本当に死んでしまったからではないでしょうかね。彼らは神が歯止めですから、神がいなくなると、残るのは、法的な処罰の恐れだけでしょう。それだけでは、犯罪は防げません。
(p.84)

岸田 男らしさの規範に満たない男を激しく軽蔑するわけです。その結果、アメリカの男はレディーファーストなどといいながら、無意識に女を深く憎んでいる。つまり、アメリカでは男が女に甘えることによって、男と女の関係の対立を緩和するという条件が欠けているんですよ。
(p.85)

山本 哲学というものも合理化の一つの願望ですよね。これは世界観ですから、完全なものをつくらなければいけない。しかし完全な体系をつくった瞬間に現実から遊離しちゃって、何の力も発揮しなくなる。だから、不合理な面をどこかに棚上げするわけです。
(p.96)

山本 この場合もやはり外国が基準なんですよね。つまり日本の伝統的文化に立ち返って、そこからどうしたらもっと合理的になるかという発想はしていない。
(p.117)

山本 善人はだまされやすいんです。(笑)善意を100パーセント通すには神にならざるを得ないのに、現実は、善意の通らない社会は悪いという考え方が支配的ですからね。
(p.136)

岸田 実際には、ムダでも、一見、勇ましそうな作戦をたてる参謀や司令官のほうが人気があるんです。そのほうが生きがいや死にがいを持たせてくれるからですかね。
(p.151)

岸田 つまり、日本軍では部下が上官の命令に服従するというヨーロッパ的組織原理を取り入れて、無能なリーダーを排除する日本的方法を塞ぎながら、業績の評価によって無能なリーダーを排除するヨーロッパ的方法は取り入れなかったわけです。
(p.156)

岸田 死んじゃうと人間関係でもってる共同体は崩壊しますから。日本兵が捕虜になったときに極端に意気地がなくなったというのも、共同体から切り離されると、戦意をまるっきり失っちゃうからでしょうね。
(p160-161)

岸田 なぜ撤退がうまいかというと、そのとき、日本軍は強いという幻想から免れているからだと思うんです。
(p.167)

岸田 ぼくも日本人は商売民族であって、戦争民族じゃないと思うんです。(中略)昔、ギリシアにも降伏を拒んで玉砕したということがありましたが、死の危険が高いというのでなく、死そのものが攻撃の成功の不可欠の条件であるという特攻隊なんていう戦術をやったのは日本人が初めてですね。それで、日本人はひじょうに勇猛果敢だと思う向きがあるかもしれないが、ぼくはむしろ逆だと思うんです。つまり、死ぬと決めてかかって、やけのやんぱちにならなきゃ、そういうことが出来ない。
(p.170)

岸田 逆に、アメリカの戦意高揚映画を見ると、アメリカ兵たちはスポーツのゲームでもやっているかのように、ふざけながら楽しそうに戦争をやっていますね。
(p.176)

岸田 ぼくはつねづね、日本語は家族語だといっているんですよ、家族語というのがあるでしょう、家族にしか通じないという意味で。日本語には暗黙の前提というのがいっぱいありすぎる。
(p.177)

山本 明治の初めのほうの日本人のほうが外国人と話が通ずるんです。本物かにせ物かは別にして、明治人は朱子学という自覚的規範を持っていましたから、これが自分たちの思想とそれに基づく規範で、それゆえに、かくかくしかじかだと説明できたんです。
(p.178)

岸田 しかし、そのわりには、日本人がヨーロッパやアメリカへ出かけていって、けっこう適応してるんですよね。
山本 それは、こっちに原理原則がないから、向こうの人間関係にあわせて対応していけるんです。
(p.181)

山本 おもしろいことに、旧約聖書には、正義の味方ほどハタ迷惑なものはないという発想がすでにありまして、サタンというのは元来、正義の味方なんですよ。
岸田 そうですか。
山本 神のかたわらで人間の悪を告発するのが役目ですから。
(p.192)

山本 普遍主義は逆に、極端に小さなグループを形成してしまうことがあるんですよ。(中略)普遍主義を貫徹するためには、小さく固まらざるを得ない。
(p. 215)

山本 これも上智大学のグレゴリー・クラークさんの体験談ですが、彼が日本に来たとき、まず日本人とは理解し合えると思ったそうです。次に韓国へ行ったら、これは何も理解できないと思った。次に中国に行った。やはり理解できそうもなかった。ところが、しばらくして評価が逆転したというんです。韓国も中国も、欧米とは論理のたて方がちがうけど、ともかく論理のある国だ。だから、相手の論理のたて方がわかればわかる。そう思ってまた日本をみると、今度は日本がいちばん理解できない国になった。
(p.218)

それは元来、個人を治療の対象とする方法であろうが、日本人のように同一文化で同一体験をした場合には、一国の文化にも運用できるであろう。
(p.226-227)

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はらわたに秩序。

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