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考察と大量の引用。
2011.10.30.18:52
筆者は、スピリチュアル・エマージェンシーや精神病に見られる側頭葉辺縁系の機能の非定常状態を、基本的に病気とは捉えていない。人は、だれもが、辺縁系の非定常状態を作り出すことができる。パーソナリティの変容が起ころうとする時、あるいは、身体的・精神的な危機に陥った時、人は、返答用辺縁系の機能の非定常状態にして、ドリームタイムのレベルまでおりて、その危機を乗り越える力と知恵を得ようとするのであろう。そして、脳の器質的な疾患が認められる、統合失調症のような慢性的な疾患については、こちらの世界から「向こうの」世界に入ったまま、向こうの世界から「こちらの」世界に戻ってくることができなくなった病気であると考える。
(p.101)
ここでも、「絶対」を「絶対」として、「相対」を「相対」として固定する思考習慣は破られなければならない。「絶対」は「相対」であり、「相対」は「絶対」であるということは、両者が相互に自己を否定しつつ、他者の働きの内に自己を肯定しているという、人格の働きを意味しているのだから。
(p.41)
そして、舞踏がなかったら神話は存在しない。
(p.58)
プラトンは、身体のトレーニング法としての体育を、レスリングと舞踏に分けている。さらに舞踏を大きく分けて戦いの踊り(ピュリケー)と平和の踊り(エンメレイヤ)に分けて説明している。
(p.62)
古来から、スピリチュアリティーの発現を司ってきたのは宗教であるが、その方法は多くの部分を言葉を媒介とするため、教条的になりがちなのではないだろうか?
(p.71)
しかし、至高体験は、一度で終了するものでもなければ、それは、成長のゴールではない。至高体験は、順調にいけば、その後も何度も体験され、それは、やがて高原体験と呼ばれる、畏怖、神秘、驚き、美的衝撃といった至高体験と共通する特定の要素を含みながら、随意的であり、より安定した体験にとってかわられることになる。
(p.79)
さらに、至高体験後、その高揚感が持続し、一時的な躁状態になる場合もある。彼らは、自分の体験のすばらしさを社会に訴えようとする。彼らの訴えは、しばしば、自己愛的な自己肥大を見せる場合がある。彼らは、至高体験者であることの自負から、自らを「特別な境地に至った、選ばれた存在」と認識し、他者を教育し、自分と同じ価値観を持つことを強要する。しかし、その焦燥感を伴った訴えは、日常生活の中で社会に取り入れられず、そのため、彼らは「なんで、わかってくれないんだ!」といったいらだちをつのらせ、躁のエネルギーは、理解のない社会への怒りへと容易に転換される。
(p.80)
クンダリニーの覚醒のプロセスは、通常、それ自体の自然なペースとバランスをみつけるものである(サネラ, p.146)が、時には、コーンフィールドが紹介している若者のように、コントロールを失う状態にまで陥ってしまうことがある。そうした場合には、進行を緩めるために、重い食事(肉類など:筆者注)をとる、瞑想を中止する、よく身体を動かすなどの手段を講じる必要がある(サネラ, p.146)としている。
(p.85)
サイキックオープニングにおいて、もっとも危険なのは、その体験への固執である。サイキックオープニングへの執着は、至高体験への執着と同様に、禅仏教で言う魔境の状態とも考えられる。すなわち、超能力の獲得自体が、スピリチュアルな成長の証ではないのである。
(p.88)
この事例からも示されるように、臨死体験者がすべて至高体験と非常に類似したパーソナリティの深い変容を直接的に起こすわけではないのである。
(p.91)
すなわち、精神病にせよ、スピリチュアル・エマージェンシーにせよ、感覚の過敏化とそれに続く幻覚・妄想は、側頭葉辺縁系の機能が何らかの関与をしていると考えられるのである。
(p.95)
麻原およびオウム幹部信者たちの過激化の背景には、自己愛的テーマの活性化に加え、「自分の内面的な衝動の本当の源を見つめず、それと類似した状況を世の中でみつけて、それに参画していったり、その中心人物になろうとするアクティングアウト (吉福, 1996, p.199)」の状態があると考えられる。
(p.108)
彼らは、修行や瞑想や精神的浄化の結果起こったことすべてに魅了されてしまい、自分がいかに悟りに近付いているのか、悟っているのかの証を求めようとしはじめる。そうした執着を、ラム・ダスは、スピリチュアルな物質主義と述べている (ラム・ダス, 1999, p.255)。
(p.108-109)
スピリチュアルな体験の意味は、<存在>そのものへ接する直接的な体験を通し、真理、善、美、および愛など、マスローが<存在価値(B価値;筆者注)>と呼んだ究極的価値に触れ (エルキンス, 2000, p.118)、洞察を得、新しいより拡張した価値観や世界観を作り上げることにあるのだが、スピリチュアルな物質主義は、その意味をとりあげ、古い価値観の中で強引に体験を理解し、その結果、意味から離れ、よりいっそう覚醒の証というシンボルに固着する結果を招くのである。
(p.109-110)
一番肯定的な表現が多かったのは心の別荘というサイコシンセシスのイメージワークのCDを用いたワークであった。教室内を暗くし、イメージしやすい環境を作って行ったリラクゼーションを促すBGMが背景で流れながら、ゆっくりとした優しい語りで、具体的なイメージを誘導してくれるものである。
(p.125)
最後に行った握手するワークは、握手をして今までのワークの感想を振り返り、できるだけ多くの人とその感想を分かち合うというシェアリングが中心のワークであった。このワークの感想記述には多くの肯定的表現が見られた。その具体的記述としては「ほとんど教室内には知らない人はいなくなっていて驚いた」「今日で授業が終わってしまうのはとても寂しい」「初回のワークではあんなに緊張していたのに、今では人と出会って会話をするのを楽しいと感じている自分がいる」など、自己の中での変化を感じているような記述は多く見られた。
(p.128)
仏教瞑想では、サマーディ(三昧:Samadhi)あるいはサマタ(止;Samatha)と呼ばれる集中力を養うタイプの瞑想と、ウィパッサナー(観:Vipassana)と呼ばれる洞察を養うタイプの瞑想が明確に区別される。神秘体験は、サマーディによってもウィパッサナーによっても副産物として発生する。しかし、神秘体験や神秘体験がもたらす喜びなどの心理作用を対象として観察することができるのはウィパッサナー瞑想のみである。
(p.152)
人は、人生の困難に出会うと人生の意味を問う。そして、その意味を説明してくれる信仰が得られると心が和み、喜びが生まれる。喜びはさまざまな怒りを静め、心をリラックスさせる。リラックスした心は集中しやすい。心がひとつの対象に集中していくと、感覚が鋭敏になり、神秘的な体験が起こりやすい。
(p.153)
すなわち、許しや思いやりを含めて、宗教的あるいはスピリチュアルな体験の基盤は、人生初期の母親的養育者との関係の中で培われる一面があるのである。
(p.158)
一方、ウィパッサナー瞑想において、自分の心身に生じている現象に純粋な注意 (Bare attention)を向け、ありのままを見つめる洞察智を養う手法も、フロイトの意識の技法に類似したものである。このように、精神分析と瞑想という、時代的にも社会的にも相異なった2つの伝統が共通して採用している、”ありのままに見つめる自覚”という手法が、スピリチュアルケアにおけるもっとも重要な意識の姿勢となる。
(p.165)
しかし、ここでは「スピリチュアル」という言葉と同時に「ダイナミック」という言葉が追加されていることに注意する必要がある。すなわち健康とは、病気になったり死んだりすることを受けとめて、山あり谷ありの人生のすべてを全体的に引き受けて生きていくことのできることだと定義しようとしているのである。
(p.168)
私の眼には彼らの顔と姿は例外なく「穏やかな明るい光」を発して輝いているように見える。このゆえに、私はスピリチュアリティー(霊性)とは光であると語りたい。
(p.186)
第1因子は「Will 意思の働き・スピリチュアルな行動」、健全な自我の確立をもとに自尊感情をもち、自信に満ち溢れた意思の働きで、行くべき方向を選択し、行動かするという側面を表している。第2因子は「Joy 喜び・スピリチュアルな態度」である。これが主観的幸福感尺度と異なり特徴的なのは、外界の出来事によらない内面からわきあがる喜び感を特徴とすることである。第3因子は「Sense 狭義の意味でのスピリチュアリティー」、感覚的で、前個的・前合理的なスピリチュアリティーを含む可能性がある。
(p.191)
表9−2 スピリチュアリティー類型分類とその特徴
BAS: 理想的なスピリチュアリティー・愛の恋人
BAs: 地の足のついた健康な人
BaS: 義務感からの善行で無理してバーンアウト
Bas: 正義感・道徳観念が高いが悲壮感がある
bAS: 一人で悟って満足
bAs: 楽天的で無邪気な人たち
baS: 危険なスピリチュアリティー・カルト
bas: 無気力無関心
すなわち、第1因子「スピリチュアリティな行動」得点が低い個人に関しては、ライフスキル教育のような行動レベルでの変容を目的とした認知行動療法的アプローチが有効であろう。第2因子「スピリチュアルな態度」得点の低い個人に対しては、生きる意味を見出す実存的アプローチ、ロゴセラピーや森田療法などが有効であると考えられる。第3因子「スピリチュアルな感性」得点の低い個人に対しては、瞑想やイメージワークのような、いわゆるスピリチュアルなアプローチによって気づきを促すことが有効であろう。
(p.195)
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2011.11.01.20:22