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対話394 E.ゴッフマン 『行為と演技―日常生活における自己呈示』

2011.12.19.14:55



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:D


 この世はすべて舞台、という主張は、あまりに陳腐で、読者諸賢はその限界にはよく通じていて、この言葉はあまり真正直に受け取るべきではないということをいつでも容易に自分に証明できることを知っておられ、だからこそそのように言いだされても寛大にできるのであろう。劇場で上演されている一幕はかなりこしらえられた幻想であり、しかもそうと了承されている幻想である。
(p.300)


 最近ものすごく人生における物語性、みたいなことをよく考えている。

 割と人生が物語だとか小説だとか幻想だとか、そういうことはよく言われることだ。

 実際、ゲームみたいに人生を送っていると自覚されるときは個人的にものすごく楽しい。なぜならそこに多少の距離が感じられるし、実際に幾分かは操作できるという実感がそこにあるからかもしれない。
物語という言葉をとるにしても幻想という言葉をとるにしても、そこにある「距離」みたいなのが実感できて好感が持てる。

 ただ、なかなか自分の人生をそう常に俯瞰して見ているわけにもいかないので、時には人はそれに没入せざるを得なくなるのかもしれない。そのゲームに、その物語にという意味で。
そしてしかしその乗っているものは物語にしかすぎずゲームにしかすぎないので、それは多少の条件の変動とかによって容易に壊れうる。

 ちょっと具体的な話をするのであれば、たとえば会社の昇進争いだってゲームだし、受験戦争だって物語であり幻想だ。
それを楽しむ分には良いけれども、同時にそれに没入することへの危機感を持っていないとなかなかやばいことになるのをいかに通奏低音のように自覚的であるべきなのか?

その人が乗っているもの、将来の夢だとか現在への位置づけ、そういうものはすべて物語であり、メタファーを持って記述するのであればスケート場の氷みたいなものである。
氷の上はスピードが出るし、見た目も美しい。技術が秀でていればそこでジャンプしたりターンしたりして周りを魅了することもできる。

 でも氷の上なので、やっぱりそこには地面とのふれあいがない。温かさがダイレクトに感じられていない。スピードがついているということはその分事故を起こしたときのダメージは大きい。転んだときに顔にひっつく氷の冷たさは並みじゃない。

 24時間スケート上にいるのではなくて、スケートシューズを脱いで地面と足を接続させる。それをすることにとって、快適にスケート場の上を踊れるのだろう。たとえどんなにスケートが楽しいのだとしても、定期的に地面に接することが大事なのだ。

 ある行為主体が特定の役目を演じているとき、彼は自分を観察する人びとに、彼らを前にしてつくりだされた印象が真面目に受け容れられることを暗黙のうちに求めている。
(p.19)

 アメリカの女子大生は、デートの相手になりそうな男子学生の前にいるときは、以前は自分の知性・技能・決意のほどを低目に見せたし、今でも明らかにそうしている。
(p.45)

オーディエンスは、パフォーマーが制服の示している通りのものにほかならないかのように、彼を職業上の見かけ通りに取り扱う権利に、時間と感情的エネルギーの節約を看取できるのである。
(p.56)

移民たちがアメリカ生まれの人びとの衣装とか作法の様式を模倣することはまったく正当なことだとする感情があるが、名前や鼻の型までもアメリカ風にすることには疑問があるとされている。
(p.71)

 以上のようにオーディエンスにさまざまのことを禁止することは、それがオーディエンスに対してどういう機能をもつにせよ、パフォーマーが自己の望む印象をつくり上げるときに彼に多少の余裕を与えパフォーマー自身のためにあるいはオーディエンスのために遮蔽物あるいは威嚇――このようなものは近くに寄ってくわしく調べられれば影も形もなくなってしまう――として機能することができるようになるのである。
(p.80-81)

すなわち、彼は一つの行為のパフォーマーであり、かつ同時に観察者なのである。おそらく他者の前で維持しようとしている基準を心のうちに感じている introcept ないしは取り入れて incorporate いるので、彼の自意識が社会的に適切な仕方で行為をすることを彼に要求するのであろう。パフォーマーとしての立場にあるエゴは、オーディエンスとしての立場にある自己自身から、パフォーマンスについて、これまで習得しなければならなかったさまざまの不信を招く事実をかくさなければならなくなろう。
(p.94-95)

 舞台裏をめぐるさまざまの難問を示す最後の例は、まれ人であるということに随伴する出来事から挙げられる。人が聖化されると、そのような人に相応しい唯一の外見は、従者の行列や儀式の中心にあるということにある。つまりこのような人がそれ以外のコンテクストで他者の前に現れることは穏当を欠くと考えられるのである。
(p.139-140)

 通常、あるパフォーマンスが行なわれる場所の装飾と固定的備品は――もちろんその場所に通常見かけられるパフォーマーやパフォーマンスも――その場所に一種の呪術をかける傾向がある。すなわち、その場所に慣例的なパフォーマンスが現に遂行されていなくても、場所自体に何かしらその表-局域的性質を保持する傾向があるのである。
(p.144)

 オーディエンスの分離に失敗し、しかもある局外者がその人に向けられたのではないパフォーマンスに遭遇すると、印象操作上の問題がいくつか生じる。このような問題を扱う調整法を二つ挙げていこう。第一は、すでにオーディエンスの一員になっている人びとはみな、突如、一時的に舞台裏仲間として位置づけられ、それを受け入れ、共謀に左担してパフォーマーに歩調を合わせ、闖入者の見るのに適した挙動に〔自分の挙動を〕素早く変える。(中略)つまり一般的にいって、新来者を彼の慣れた仕方で扱わなくてはならないならば、パフォーマーは自分がそれまで遂行していた行為から新来者がしっくり感ずる行為へと敏速に変わらなければならない。(中略)
問題を処理する第二の方法は、闖入者に、彼はその局域にずっといて当然の人だったのだ、とはっきりした歓迎の態度を示すことである。(中略)
 しかし一般に、右の二つの処理法はあまり効果的ではないように思われる。
(p.162-163)

 明らかに、仕事上、他の人びとのパフォーマンスを舞台裏的視角から見ざるを得ないすぺさリストは、人びとにとっては当惑の種であろう。
(p.183)

パフォーマーは、自分が昔どれほどおろかであたかを自分自身に忘れさせることはできても、訓練者には忘れさせることはできないのである。
(p.185)

 アングロ-アメリカ社会では、とか、あるいはそれと等価の表現は、明らかにパフォーマーがどんな意図的に演じられた役柄も維持しきれなくなった立場に自己を一瞬おいたということの告白として機能していることに注意を促しておこう。
(p.198)

類似の状況は、環境両方が行なわれている精神病院にも認められる。看護婦ならびに看護人も、一般には神聖とされている医局員会議に出席させると、医師ではない職員たちは自分たちと医者たちの距離が縮小したと感じることができ、医師の患者に対する観点をとることがいっそう容易になるのである。
(p.234)

われわれの見たところ、パフォーマーも、オーディエンスも、また局外者もすべてが、ショーを救うための技法、すなわちありそうな攪乱を回避する、回避できなかった攪乱を修正する、あるいは他者が回避できるようにする、などの技法を用いている。これらの技法の使用を確実にするために、チームは一般に、忠誠で、節度があり、周到な構成員を選抜し、察しのいいオーディエンスを選択する。
(p.281)

 この構造の核心的因子は、状況に関して単一の定義を維持すること、すなわちこのような定義は表出されねばならず、またこのような定義は無数の潜在的攪乱のただなかで維持されねばならない、ということである。
(p.300-301)

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