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対話397 宗像 恵, 中岡 成文 (編著) 『西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開』

2011.12.21.15:38



読書時間:2時間半
個人的読みやすさ:D


したがって、抽象は損失であるという、心の二層的構造に立ったバウムガルテンの抗弁に対して、『純粋理性批判』でのカントであれば心の二元的・相補的構造から、直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目であると答えるに違いない。
(p.161)


 討論とは各々の直観同士の戦いである、と考えたら結構面白いのではないかと思う。

 引用内の言葉を借りれば、「直観なき概念」を戦わしている討論をたまに目にする。
これだと思考トレーニングにはなると思うんだけど、それ以上のものがなかなか見えないのが個人的に不毛だなあと考えていた。言い換えれば、なんのために議論しているのかがちょっとよくわからないのではないか?

 逆に、神秘主義者にありがちだと思うんだけど、その体験なり直観なりがその人にとってリアルすぎて、それを一歩引いた視点で考えられないっていうケースもとても多い。

 概念がない、というのはつまりその体験をひとつの絶対的な真実であるとみなしてしまうということだ。その見かたを1つの世界観として認識する≒概念化することで、その世界を共有しない他者との対話が可能になる。そういう意味でも、自分の体験なり直観なりをある程度多角的に、そして距離を持って表現する概念はいくつか持っていたほうが安全なのはあまり疑いようがない。

 まずは自分の体験・直観を耕す。そうした上で、どこまでそれを概念化できるのか?ということを突き詰める。
概念化というのはある意味「魔法の習得」みたいなものであり、そして「魔法」におぼれないようにするための礎になるのだと思う。

この後者の「自然の解明」の新しい道具となるべきものがベーコンの帰納法である。こうしてベーコンはルネサンスの修辞学を改変して、対象を自然学に向け、錯綜する迷宮の森たる自然界を秩序分類したのだった。
(p.8)

こうしてベーコンの帰納法は単純枚挙による帰納法ではなく「排除の帰納法」なのである。
(p.10)

ベーコンは自然を数式に還元したり中小理論で説明したりはせず、自然をそのままの形で理解していくという基本姿勢を貫いた。彼の方法は「ベーコン主義」という名の下にやがて18世紀に「百科全書」的科学として開花する。
(p.13)

プラトン主義は、アリストテレス哲学に基づいた中世のスコラ主義に対する対抗文化としてのルネサンス思想の基盤だったが、ガリレオの運動論の期限はそのような学者的伝統とはまったく異なる技術者の世界にあった。
(p.18)

ルネサンス哲学の特徴は、中世の神中心の思想が人間中心の思想に移行し、しかもその神は超越的ではなく、自然に内在すること、したがって自然は完全で無限なものであることにある。ここからこの時代の汎神論的神秘主義の傾向が生じる。
(p.28)

 しかしホッブズは、道徳哲学や政治哲学の場合には、数学や自然哲学の場合とは異なり、その効用は、道徳・政治哲学についての無知から生じる災厄、とりわけ内乱による災厄によって測られるべきだという。
(p.39)

スピノザは人間をも、自然を扱うのと同一の方法で、「線・面および立体を研究する場合と同様に」考察する (『エチカ』第三部序言)。それは進化学のもたらした自然主義の徹底であると同時に、神学や道徳への挑戦でもある。
(p.51)

 意識はその本性からして幻覚に似てくる。人間は欲望を意識しながらその原因を知らないので、自分を自由な存在と取り違える。そして自分の欲望の投影を事物の目的と取り違える。自由の幻想と目的論の幻想だ。そこから、目的に従って自然を差配する超自然的な支配者、神がいる、という神学的幻想にはあと一歩である。同様の錯視から善と悪、秩序と混乱、美と醜、あるいは称賛と非難、功績と罪といった価値の幻想が出てくる (第一部付録、第三部定理九の備考、第四部序言)。人間は「目をあけたまま夢を見ている」のだ。ただ、それは啓蒙によって焼失するような類のものではない。それは意識の成立構造から必然的に生じる錯視、意識の生きる舞台そのものであって、だからこそそれは、眼前の現実を近くしていると信じているまさにそのときに、「想像知(マギナチオ)」なのだとスピノザはいうのである(第二部定理十七の備考)。この点においてスピノザは誤らない。彼が企てるのは生きられる幻覚そのものの除去ではなく、その意味を変えることである。
(p.54)

偶然心理の根拠づけの局面としてライプニッツにとって最重要なものが、「弁神論」の三つの主題、神の正義、意思の自由そして悪の起源の考察である。
(p.63)

パスカルにとって自然認識は、人間を「自然の主、所有者」とする知、形而上学的原理にもとづく絶対的な知ではない。それは、二つの方向に無限な実在全体に対し、有限な人間的経験をその領域とし、その範囲でのみ確実である相対的、中間者的なものであって、所与である原理への普遍的同意にもとづく、万人共通の認識であるにすぎない。
(p.72)

最初に書かれた主要著作『われわれの時代の学問の方法』では、古来からの例に従い、判断の技法としてのクリティカと発見もしくは発明の技法としてのトピカが対比され、後者が積極的に顕揚されるべき所以が説かれる。(中略)これらの諸能力は諸芸術、詩作術、雄弁術の基礎となるものであり、政治や法にも顕著な役割を演じる、思慮とも賢慮とも訳されるプルデンティアもこれらの諸能力と密接に結びついている。
(p.81)

「存在するとは知覚されてあることである」という有名なバークリーの中心テーゼはこれまで述べてきた「非物質論」の要約である。
(p.99)

「理性は情念の奴隷であり、かつただ奴隷でのみあるべきである」とヒュームはいう。
(p.108)

穏やかな情念は理性の働きと取り違えられるのである。
(p.108)

こうして政体の原理に関してモンテスキューは、貴族政と民主政は共和政としてともに「徳」を政体の原理とするが、君主政は「名誉」を、専制政は「恐怖」を原理とするという。
(p.118)

(前略)ヴォルテールはつとに「宗教が二つならばたがいに喉を切りあうが、宗教が30もあるので平和に幸福に生きている」という見地を示していた。
(p.124)

(エルヴェシウスにおいて)ここではまず、「徳」に至るために「自愛」を抑制すべきと説く宗教が、「危険」なものとして退けられている。われわれはむしろ、快への人間の傾向を社会のために積極的に用いる現実的な社会運営を図るべきなのである。
(p.135)

 カントはこのようにして人間的認識の対象を現象に制限するとともに、「客観」の概念そのものを変革する。
(p.165)

かかる「懐疑的方法」をもって、しかも単なる懐疑論に陥ることなしに、カントがここで確保しようとするのは超越論的自由の理念、すなわち自然法則からの独立という消極的自由の思考可能性である。(中略)「知」を限って「実践」と「信」に余地を与えること、これがカント批判哲学の基本方針なのである。
(p.167)

ヘーゲルが自分の哲学を最初に体系的に論じた『精神現象学』は、「感覚的革新」から出発して「絶対知」に到達するという意識の経験の「弁証法的運動」を記述したものである。それは、さまざまの意識の諸形態の真実態を解明することを通して、読者を<絶対知=学問の境位>へ導入する役割をもっている。
(p.197)

ポパーによると、理性はたしかに伝統に依存しており、この点で抽象的な合理主義(ヘーゲルふうにいえば「悟性」)は誤っていたが、この洞察に達したヘーゲル自身、論理学においてはそれを自己自身に適用することを怠り、ゼロから真理を獲得したような気になっている、という。
(p.207)

以上のような人間観の相違に発したベンサムとミルの功利主義の重要な相違の一つに、ミルが快楽に高級なものと低級なものという質的な区別を導入した点がある。
(p.217)

「スピリチュアリスム」という語はしばしば「唯心論」と訳されるが、この訳語が示唆するような「万物は心をもつ」という意味で用いられることは、フランスではむしろ稀である。19正規になって初めて一般に用いられるようになったこの語の通常の用法に従うなら、スピリチュアリスムとは単なる物質的・生理学的・動物的なものに解消されえない精神の独自性もしくは優位を説くすべての哲学を指す。
(p.243)

「重要なのは、私にとって真理であるような真理を見出すこと、私がそのために生きかつ死ぬことを願うような理念を見出すことである。……私は私の思想の発展を、客観的なものの上にではなく、私の存在のもっとも深い根につながっているもの、いわばそれによって私が神的なものに根を下ろし、たとい全世界が崩れ去ろうともそれにしっかり捉まっているものの上に基礎づけることである。見よ、私にかけているものは、まさにこのことなのだ。私はそれを求めて努力しよう。」(キルケゴール)
(p.269)

「人間よ、普遍的であれ!」などと綺麗ごとをいうのはやめてしまえ。人間はあるがままの人間であるべきなのだ――「人間よ、存在構築の意志そのものになれ!(自分の存在を存在構築の意志そのものとして構築し続けよ!)」意志する、とは、絶えざる存在構築の運動を肯定することであり、真の意志は、その運動の産物(あらゆる価値)を次々と乗り越えて、意志自信の力の高揚を欲する「意志への意志」(「力への意志」)である。そのようにして、目のくらむような永遠の自己運動(創造的な意志)の高みを生きる人間の理想が「超人」であり、この永遠の自己運動の相の下に見られた現実が、「永劫回帰」の世界である。
(p.281)

 ニーチェは、すでに『悲劇の誕生』の中で、(一見)ペシミズムと思われるギリシア悲劇を生みだし支えたのは、生の衰退ではなく、実は溢れるばかりの健康、生の充実であったと指摘する。生は充実と過剰に悩み、恐れの対象を求めては、これに立ち向かって、自分の充実度(力)を試そうとする。このようにペシミズムを、龍を、没落を、外から降りかかってくる運命としてではなく、生の充実を証明するために、生みずからが欲したものとして読み替える(解釈する)ことによって、ニーチェはショーペンハウアーの意志の否定の思想を、意志の大いなる肯定へと克服しようとした。
(p.283)





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