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対話403 マハーシ長老 『ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法』

2011.12.22.14:40


 逆に、念と智慧が突然、速やかに活発に進歩して、修行がうまくいくと、
「まもなく智慧が一段上がる」
と期待し、喜びます。
そのため、修行が後退してしまうこともあります。
(p.113)


 期待することでその進歩が止まってしまう、ということは別に瞑想に限らず結構頻出するような気がする。

 期待とはすなわち自意識の表れだ。自意識とはすなわち健在意識であり、僕らは健在意識にかかわるものはいまいちなんか信用できない気がするし、だから直感とか占いとか、自意識を超えたところにあるものを信じるような傾向にあると思う。

 自意識はすなわち「限定条件つきの観察者」みたいなものだと認識されているけど、自意識ってスムーズに流れている人生に一つ歯止めをかけちゃうし、語弊を恐れずにいれば一種の病みたいなものなのなんじゃないか?

 別にだからといって「自意識を滅却するべき」みたいな方向に行く必要はないしちょっとそれはやりすぎな気もするけど、ただその「観察者」たる自意識が、人生がうまくいっていないときにうまく方向転換する礎になるかというと大して役に立っていない、むしろ悪化させているっていうケースは多い気がするし、そもそも直感が自分自身の体から出た声なのだとすれば、直感を鈍らせるような自意識の存在はちょっと害悪なのではないかという気すらしてくる。

 自意識というのは――そしておそらくはそれが生み出される原因ともなった言語というものは――あくまで他者とのコミュニケーションのために用いられるべき存在なのであって、というか他者とのコミュニケーションに用いるべき言語を自己にも適応した結果生まれたのが自意識という存在に違いない。それは文化的には非常に面白いものだと思うけれども、実用性ということを考えたとき、特に自己変革とかそういうものを考えたとき、マイナスに作用することがほとんどの代物なのだということを忘れないようにしておきたい。


 つまり、六門(眼耳鼻舌身意の六根)に次々と生起する身体のあらゆる動きや、すべての心の働く様子に応じて念じることにより、心身の本質をありのままに悟るのが正しい安全なウィパッサナー(観法)なのです。
(p.19)

 しかし、下腹の起伏はいつも固有によってあるものであり、極めてやさしく念じ易いものなので、瞑想の基本として、呼吸のふくらみや引っ込みを念じることから修行を始めるのが良いでしょう。
(p.20)

 修行者の中には、精神が統一し、定が非常に進んで念じるのがうまくいくようになると、耐えられない苦痛が起きてくることもあります。
(p.31)

 修行が進歩し、智慧が熟すると、自然に眠気が起こらなくなり、いつも眼が覚めていることを自分で体験できるようになります。
(p.55)

この方法で、睡眠中をのぞき、日夜を通して常に念じ続けてゆけば、まもなく、生じたり減じたりしているすべての心身(名色)のことが具体的にありのままに分かるようになり、消滅智などヴィパッサナーの智慧が順々に発生してくることを自分で体験することができます。
(p.56)

 修行者は、引き続いて念じているうちに、様々な因果を判断できるようになります。
(p.68)

 このように、様々で不思議な形の対象が現れてくることを体験するかもしれませんが、これは、心が落ちつき定(精神統一)の勢力のはずみで、気の向くままに現れた幻想的なもの(概念)であって本当のことではありません。
(p.73)

 それに、ウィパッサナーの瞑想の努力の結果として、
2.修行者の身体から多かれ少なかれ光明が出ます。(光明)
3.念じられる対象と、念じることに関して大いに満足し、大きな喜びが生じます。(後略)(喜)
4.不安や憂いから遠ざかっているので、心身が非常に軽くなります。(後略)(軽安)
5.強く深い信仰心のため、修行者の心はたいへん澄み切っています。(後略)(信)
6.念じている間に、心身の真実、生滅、無常、苦、非我について洞察し、それらがめいめいに次々と明らかに分かってくるようにもなります。(後略)(知)
7.放逸を離れ、激しすぎず、強すぎず、安定した態度で努力する精神が現れてくることもあります。(策励)
8.自ら着々と理解できると思われるほど、観捨智慧も明瞭に生じてきます。(捨)
9.快楽もこれまでに生じたことのないほど多く生じてきます。(後略)(楽)
10.こうした光明・念・智慧・喜びなど、不思議なことを愛好する執着心が生じることもあります。(後略)(微欲)
(p.84-85)

 これほどまでに念が清浄になりますと、体・頭・手足などの形状(=形相)や概念、集合体、体が現れなくなり、それらが次々にチラリチラリと滅尽していく様子だけに智慧が止まってしまいます。
 そのため、この智慧が生じたばかりの頃には、人によっては、
「念じるのが、あっさりしてきたような感じがする」
とか、
「粗雑になった」
とか、
「調子が良くない」
と思うかもしれませんが、そのように思ってはいけません。
実は、心というものは、いつも形状(=形相)や概念、集合体、形に寄りかかり、形状という対象を好んでいるものなのです。
(p.93-94)

 ある聖者には、恐畏智、過患智、厭離智、脱欲智を十分に体験しなかったために、それぞれの智慧についての特質がはっきりしないことがあります。
 はっきりと体験したいときは、それぞれの智慧について、別々に時間を設定して修行しなければなりません。
(p.127)

一般の人々は、企業研修などにおける禅道場の警策に脅え、足のしびれに絶え(原文ママ)、姿勢を不動に保つのが瞑想であると思い込んでおられるようですが、これは仏陀が説かれた「智慧・念・定・精進」の中の定と精進に着目しているだけで、古今東西の、特に武術に用いられたものであります。ですから「解脱」を目指す仏教の瞑想とは違います。
(p.150)

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