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対話405 島薗 進 『新新宗教と宗教ブーム』

2011.12.23.01:12


 ワヤンというのは英語が話せるバリの呪術師で、来日したとき二週間いっしょに生活し、その霊感や生活態度に感銘を受けた。彼が帰国した晩、伝授された瞑想を一人で実践すると、指先がビリビリする、失神するなど初めてのことが起こった。気持ちはいいし、気分は落ち着くので、それから毎晩瞑想するようになった。、一瞬間ほどして、バリの最高神のビジョンが見えるという神秘的な体験を得る。しばらくして今度は、すごい恍惚感に包まれる体験がある。
(p.59)


 神秘主義の反省するべきところを端的に述べるのであれば、体験を絶対視するところだ。

 「体験したのだから信じるしかない」っていうのは結構こういう怪しい世界にタッチしていると頻繁に聞くことだし、実際そういう人たちの中には「もともとすごく懐疑的だったけれども、実際に効果があった=それは真実である」という図式を持ち出す人がとても多い。

 そこに足りていないのは、「各個人の中において、真実はいくつも屹立しうる」ということである。
なるほど確かに効果があったかもしれない。ある世界観はその現象をうまく説明するのかもしれないし、あるイメージなりモチーフはそれに影響を強く与えるのかもしれない。世界観を受け入れることでさらにそのテクニックは強化されるのかもしれない。

 だけども、ある世界観がある現象をうまく説明できたからといって、そのほかに説明する方法などいくらでもある。たとえば宗教的な説明があったとして、そのほかに生理学的な説明がある。あるいは社会心理学的な説明もありそうだし、その技法と臨床心理上の技法で似ているものがあるかもしれない。

 ようするに、問題となるのは「真実(と感じられるもの)は1つとは限らない」ということを知っておくことである。僕は何もたとえばある世界観が絶対に誤っている、などというつもりはない。主観的な世界の中ではどんな世界観であれ真実足りうるし、またそれは実利的な性格すら持っている。実利的な性格を持つものを無碍に否定しても効果は薄いし、その世界観に対する尊厳が足りないとすら言える。だけども、真実はいくつでも開拓できる。それが科学的といわれているものであれ疑似科学的といわれているものであれ宗教的といわれているものであれ世俗的といわれているものであれ、何か説明能力が高いと思えるものはすべて真実であり、違いがあるとしたら真実色のグラデーションの違いである。

 この点を認識していない神秘主義は非常に危険だ。そして強調すべきこととして、しかしその神秘主義者の体験を無碍に否定しようとがんばる外部の人間の行いも同様に危険だ。というか拙いし幼い。

 大事になってくる態度は、そこにあるいかなる(広い意味での)合理性を認めようとする、超合理主義者(もうこの言葉はフッサールがもう使ってるけど)的な態度なのではないだろうか。そこのところどうでせう皆様方。




 新宗教では死後の世界について教義が述べられる場合も、救いは別世界や異次元で達成されるのではなく、この世の幸福な生活という形で実現されるものと考えられています。新宗教は現世救済の宗教です。
(p.12)

新宗教は心なおしの宗教であり、とくに家族の和合を重要な目標の一つとする宗教です。
(p.13)

 新新宗教の一方の極には、たいへん緊密な信仰共同体を形作ろうとする教団があります。(中略)これを「隔離型」とよぶことにしましょう。反対の極には、信仰共同体の形成にあまり熱心でない教団があります。(中略)これを「個人参加型」とよぶことにしましょう。第三のタイプはこの二つの極の中間にあるものです。(中略)中間型の信仰共同体は、「旧」新宗教のそれにもっとも近いものといえます。
(p.16)

 新新宗教においても「貧病争」という信仰動機はなおかなり大きな位置を占めています。しかし、「旧」新宗教と比べるとそのウェイトは明らかに軽くなってきています。
(p.23)

 この回心譚は「空しさ」とでも要約すべき入信動機を語っています。
(p.25)

 新宗教は全体として、人間の不幸や恵まれない境遇の原因としてその人自身に責任があるということを強調する傾向があります。逆に、幸福や反映もその人自身の信仰やそれにもとづく実践の力でもたらされる、ということが強調されます。
(p.39)

日本仏教の宗派性を越えて原始仏教へ復帰しようという考え方は、阿含宗によって打ち出され、オウム真理教によって継承されていきます(オウムの麻原彰晃は、阿含宗に所属していたことがあります)。また、仏教的な世界観とスピリチュアリズムや神智学的な世界観の統合によって、体系的な霊界=異世界像を組み立てるという作業は真如苑に萌芽があり、GLAから幸福の科学への展開のなかで洗練されていきます。
(p.44)

「第四次宗教ブーム」説をとる西山茂は明治末から大正期の「第二次宗教ブーム」はともに、新宗教の発展と同時に神秘・呪術ブームという性格が強いことを指摘しています。(大村・西山編『現代人の宗教』有斐閣、1988年)
(p.51-52)

 70年代末以後、大都市の大きな書店では、宗教書のコーナーに隣接して「精神世界(の本)」というコーナーが設置されました。このコーナーは新霊性運動の存在を示す重要なシンボリックな空間になりました。ここには、東西の神秘思想についての本、S・マクレーンの本、R・シュタイナーの本、C・カスタネーダの本、ニューサイエンスの本、トランスパーソナル心理学の本、シャーマニズムやチャネリングについての本、気功や東洋医学に関する本、「臨死体験」など死後の世界や神秘現象を現代科学と結び付けようとする本などが置かれています。こうした思想とそれにもとづく神秘主義的個人主義的な宗教は東西の文明の中に長い歴史をもっており、まったく新しいものではありません。しかし、70年代以降(アメリカでは60年代以降)、その流れはマス・メディアにのって急速に大衆化し、真霊性運動とよびうる大きな潮流となったのです。
(p.55)

 しかし、そこにはある頼りなさも漂っています。個人の指摘自由に徹しようとする限り、孤独や不安や倦怠は避けられません。なんらかの深刻な困難に出会ったとき、眼前にある確かなモデルに従って生活を立て直して行くこともできません。A・Kさんの例でも「宗教」を好まないとしながら、ある技法を教える「先生」に従うことによって安心を得ている気配が感じられます。(中略)
 現代の宗教ブームは、近代合理主義の衰退を背景として起こっています。しかし、それは、過去のような括弧たる構造をもった宗教への回帰ではありません。文化の多元化と情報の洪水のなかで、人びとは「自由に」自らの宗教性ないし霊性を発展させるように促されます。まことに多彩な思想とテクニックが開発され、霊的自己実現の準備は見事に整えられているように見えます。
 しかし、個人の選択と消費に任された宗教ブームの情報市場にいったん入り込んで見ると、そこは迷路のごとくです。霊の世界や自己実現の世界では、百家争鳴、諸説粉々、不確かさの種はきりがありません。(中略)宗教ブームのなかで個人的に始められた知的自己探求や霊的探索が、長い迷いの末に、断固たる主張と体系性をもつ新新宗教というゴールに至りつくことは少なくないことでしょう。
(p.62)

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