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対話406 ティク・ナット ハン 『微笑みを生きる―“気づき”の瞑想と実践』

2011.12.23.01:53


だれかが私たちの悪口を言ったとき、もし相手がなぜそのようなことを言うのかわかっていて、その言葉を深刻に受け取らなければ、こころはまったく動揺しません。こころにしこりは生じないのです。しかし相手がなぜそのような悪口を言うのか理解できないでいらだってしまうと、こころのなかにしこりが生じます。
(p.81-82)


 理解というのはなかなか暴力的だなといつも思う。そしてその暴力性の自覚があるとき、理解というのはもっと暴力的に用いてもよいと認識されるべきだと思う。

 理解というのはすごくアートだ。というか、アートな理解とサイエンスな理解があるかなというのがなんとなくの実感なんだけど、意味深いレベルでの理解はすべてアート。そして理解というのは上記の引用にあるような、問題の(自分の中での)解決とかにつながる。それをいかにうまく成し遂げるか?というアートは、いわば自分をうまいことだますテクニックみたいなものだ。

 ただ、前述したように、大事なこととしてそこに自覚性がなければいけない。アートということはすなわち遊びなのだから、そこを見失ったときにそこから抜けることができなくなってしまう。アートは恣意性であり、恣意性だからこそ価値があるのだ。時にはパートタイム的にそれに没入することもあるだろう。その場合でも、何か自分の体に帰ってこれるような紐のようなもの――それは友人かもしれないし条件付けかもしれない――をまきつけておくことが大事だ。

 もちろん、自覚性を持っている、と思うこともひとつの罠だ。ミイラ取りがミイラになる、というのは非常によく起こることだし、その点を含めての自覚性、というかシステムの構築が肝要なのだろう。




 意識的呼吸法を行なえば、息を吸ったりはいたりしているときに思考は止まります。「入息」、「出息」という言葉は思考ではなくて、息に集中するきっかけを与えるサインです。
(p.13)

 瞑想センターによっては、座禅中に体を動かすことを禁じているところもあります。そのような座禅会に参加した人は、たいへん不快で苦しい眼に合わなければなりません。私にはこのような座禅は不自然なものに思われます。
(p.20)

 それから、大地とあなたの足が接する、その感触に気づいてみてください。一歩あゆむごと、そっと大地にキスするように歩きます。
(p.35)

 「車と私はひとつ」。車を運転するとき、私たちは自分が主人で、車は道具にすぎないと考えますが、そうではありません。私たちが何か道具や機械を使うとき、私たちは変わります。(中略)車を運転するときには、私たちは自分であり、かつ車でもあるのです。
(p.41)

仏教の教えに「あてをつくらないこと(無願)」というのがあります。これは目前に何か目的を置いてそれを追わないという教えです。その理由は、すべてのことが、もうすでに、あなたのなかに備わっているからなのです。
(p.47)

有機農法家に堆肥が必要なように、私たちにも怒りが必要です。怒りをどのように受けとめるかがわかったならば、こころの平和と喜びは、もうすぐそこまで来ています。あとはこの怒りをゆっくりと、平和や、愛や、理解するこころへと変容させていけばよいわけです。
(p.74)

 意識にはふたつのレベルがあります。種のレベルとその種の発言のレベルです。
(p.93)

他の人の苦しみをとりはらうことができたときには、悲のこころが働いているのです。だから他人に対する悲のこころを育てて、それを表現する方法を見つけることが大切です。
(p.105)

「理解する(コンプリヘンド)」という言葉はラテン語の語根の「ともに」を意味する「クム」と、「摑む、拾いあげる」ことを意味する「プレヘンデーレ」が結合してできています。何かを理解するためには、それを摑んで、それといったいにならなければなりません。
(p.126)

何かにわれを忘れかけていても、気づきを思いださせてくれる「マインドフルネスベル」として積極的に活用するのだ。
(p.179)

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