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対話407 ヴィパッサナー瞑想 実践レポートと解説

2011.12.23.10:05

しかし、もし私たちが経験している出来事を、瞬間瞬間”サティ”で捕らえてフィルムのようにバラバラに切り刻んだら・・・・もうそこには「物語」は分断されて存在しない。その苦しみの「物語」に巻きこまれている「私」という感覚も、実は錯覚でしかなかったということに気づけるでしょう。
(p.24)


 ここでいう「物語」は「過去」だとか「未来」だとか「思い出」だとか「将来の夢」という言葉で表現されるような、その人個人の中にあるお話、幻想のことである。大体、物事が意味を持っているということはすなわちそれが「物語」になっているということであり、そのとき、私たちは小説を読むように自分自身の人生を読んでいる。

 自覚性の重要性、みたいな話をこのひとつ前のエントリーでした。
そこで問題になる、というか難しいな、と思うのが「その自覚性をどう喚起するか?」ということだ。

 自分が今どのような物語の流れの中にいるのかというのはなかなか自分では見えづらい。
そしてその物語というのは大体、心地よいからという理由で採択されている。
実際自分自身に自覚があったと思っていても、そこから抜け出せるというオプションをいざという時に取ることが果たしてどの程度可能なのか?というのは大いに疑問だ。

 まあ、いつでも抜け出せるような態度が果たして必ずしもよいのか?というとかなり意見が分かれるところだろう。
いつでも抜け出せる程度にしかコミットメントしない人が何か大きなことを成し遂げることは、確率的にいうと深く深く抜け出せない程度にコミットメントする人に比べれば普通に低い気がする。
ようは自分で安全圏内にとどまろうとするということ=物語性の自覚なので、安全圏内にとどまろうとすればするほどそこで何かを成すことができなくなっていくというのは割と普通の発想だということはわかっている。

 しかしそもそもなんで「物語性」なんてものを自分の人生においていちいち自覚しなきゃいけないのかという話かというと、「のめりこみすぎると危険だから」とか「今もしその状況が気に入らなくても、あくまでその評価付け、色づけは自分が行っている」ということを認識する上で大事だからだ。のめりこみすぎは世界観を狭める危険性がある、ということが物語性の自覚を持つことの大きな意義となっているし、現在が悲観的であればそれを打開するために相対化が行われてしかるべきだろう。

 うまい「物語性の自覚」への態度は今も考えて実践しているところだが、ひとつの解としては「遊戯」としての態度なのかなと思う。つまり物語を意識的にあるいは無意識的に構成するとき、それを遊戯のようにみなして取り扱うこと。「遊戯ということはその対象物を適当に扱うこと」というのは必ずしも正しいことではない。遊戯だからこそハマる。遊戯だからこそ真剣になる。だけれど、結局は遊戯なのであり、昔お母さんに「ゲームは1日1時間までね」といわれた例のアレとなんも変わらないわけだ。

 そういうようなうまい感じのポジション取り、セッティング、それをもっと自分の中でも徹底させていきたいし、思想面でももっとそのことを念頭に入れていきたい。



 しかるにヴィパッサナー瞑想は、こうした理想追求型とは正反対のシステムなのです。たとえわずかでもヴィパッサナー瞑想を修行すれば、苦しみや悩みが確実に減っていくのは、この瞑想の基本構造に秘密があるようです。
(p.5)

「エネルギーが枯渇してきた時には、一時的に気合の籠ったサマタ瞑想をするとよい。体が持ち直してきた時の瞑想のレベルは、体の透明感と相まって非常に高いものだ」
(p.6)

 一心に観察していると、一回一回の微妙な違いが実感され、一つ一つが消えるたびに、
 「もう戻ってこない」
 「これっきりだ」 
 という寂寥感というか、不安感を覚えた。
 しかし身体全体は、非常に心地よい感覚に包まれていた。
(p.6)

 「本当のことを言うと、この世には、苦と苦を癒す道しかないのだよ」
 タイのアチャンのこの言葉にショックを受け、涙をこぼした日本人がかつていた…。
(p.7)

 ただ現在の瞬間を確認するだけで、なんの反応もしないサティの状態は、完璧に対象を無視しています。
 相手にしてもらえなければ、悪魔くんも立ち去っていきます。
(p.7)

「絶えず感覚に意識を向けて妄想が起きないようにする」ということを、「絶えずラベリングの言葉で埋め尽くして妄想が起きないようにする」と誤解していたようです。
(p.10)

 したがってラベリングは、「現象が先、確認が後」の法則に従い、的確なタイミングで貼る。言葉の選び方としては、短い、簡潔なものが望ましく、ラベリングに充当するエネルギーは全体の1割程度でよい。
(p.11)

 中盤になり、もっと集中を高めたいと思っていましたが、映像が出てきたり、頭の中で音楽が聞こえたり…と妄想だらけでした。「妄想」とサティを入れていたのですが、ちっとも変わらないのでラベリングを変えてみました。「惑わされている」「心がここにない」で、少しマシになり、「楽しんでいる」と入れると、妄想はすっかり消え、おなかに戻ってこれました。これで、自分が妄想を楽しんでいたのだということが分かりました。
(p.18)

徹頭徹尾、事実の確認のみに終始するヴィパッサナーは、認知科学に分類すべきものであり、神秘主義に堕することはありません。「感じたこと」「経験したこと」と、その解釈や意味づけが、清潔に識別されます。危なげのない世界なのです。
(p.19)

サマタ瞑想は、擬似悟りモードと凡夫モードの往還を繰り返さざるを得ない宿命なのです。
(p.33)

 意識の透明感は体調によって左右され、体調は食事、食事はその素材と分量で決まります。初心者がよい瞑想をするのに、これほど簡単で即効性のあるものはないでしょう。身体条件の個人差、その時の瞑想の目的、何時間瞑想するのか、などさまざまな要因が錯綜するので、具体的なメニューは書きづらいのですが、多品目の食品を本の少量。これがポイントです。
(p.41)

 私もかつて断食と小食をやり過ぎて栄養失調の脂肪肝になった程でした。小食効果は目覚しく、座るや否やたちどころにサマーディに入定できる、異様なまでの透明感にやみつきになったのです。もう物も食べたくないと思いました。しかし1週間もすると飢餓難民のように体力も気力も萎え切って、物憂くてうら寂しい陰鬱な感じの低血糖症状で瞑想どころではなくなりました。どれだけ注意深くなろうとも、常に完璧な体調と意識状態を設定しきることは不可能なのです。
(p.41)

唯一の救いの道はマインドフルになるしかない、というのが仏教的答えです。一切の快楽がダメ、というのではありません。楽しんでもよいが静かに、マインドフルに、上品に、楽しみなさい。これが自分の未来にドゥッカ(苦)を発声させない仏教的やり方です。
(p.43)
 
 中心対象の一転に集中をかけ過ぎるとサマーディの要素が過剰になり、全方向型の機敏なサティは弱まるだろう。サマーディには求心力が働き、サティには遠心性の要素がある。サティ(気づき)とサマーディ(集中)は、ヴィパッサナー瞑想の両輪に相当するので必ず成長させなければならないが、その拮抗し合うバランスを以下に調整するかが問題である。
(p.51)

思考ではなく、サティの力強さが「あまりのあっけなさ」を体験させ、「執着するに足りないという理解」を心に刻み込んできたのである。
(p.63)

そこで「サティを入れても消えないんだ、とサティを入れる」という先生の言葉を思い出し、ラベリングした途端、フッと楽になって、仕事への引っ掛かりが消えた。
(p.66)

マハーシは「意識の焦点を各瞬間の直接体験に合わせるべきであり、ラベリングはさらに明晰に見るための些末な補助手段でしかない」と強調しています。
(p.68)

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