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対話410 島薗 進 『“癒す知”の系譜―科学と宗教のはざま』

2011.12.26.15:04

 <癒す知>への期待が高まると、ある種の宗教が掲げる途方もない夢に転ずることがある。また、宗教の掲げる途方もない夢が、人びとの<癒す知>への期待を呑み込んで膨張することもある。オウム真理教の中には<癒す知>や「科学と宗教の統合」といった理念に、強い関心をもった経験がある人びとが少なくなかった。また、大正時代に『変態心理』誌の森田正馬や中村古峡が「迷信打破」に使命感を抱いたのもごく自然なことに思えてくるかもしれない。<癒す知>の運動が掲げる知の妥当性について厳しくチェックし、怪しいものは排除した方がよいという考え方だ。(中略)
 しかし、現代の環境問題や医療が抱える諸問題を無視することができない現代人にとって、近代科学や近代的な制度を支える知の限界は、やはり霊性に見定めておくべき事柄である。そして近代知ではカヴァーしきれない領域に、何らかの認識システムの網をかぶせようとする試みを、すべて「迷信」として抑圧したり、笑い飛ばしてしまうわけにもいかないだろう。
(p.259)


 うっかり科学とか持ち出すとそれすなわち真理でしょ、みたいな話にもって行きやすくなるため、とりあえず霊性って言葉で落ち着けようよというのが筆者の見解だと思うし僕もまたそれが一番無難というか、科学を尊重する態度になるのかなと最近思う。そしてそのことについて肯定的になり、そこにある価値をそれでも認めること、これこそが今まで島薗先生の著作をいくつか拝見して見出した結論である。

 たぶんこの考えにものすごく同調できるのは、僕自身「宗教団体とかにどっぷり入っている人とは深い部分で違ってて仲良くなれなそうだけど、それに対してとりあえず叩いとくかみたいな風潮にも賛成できない」という価値観を持っているからだろう。なんというか、僕は天邪鬼なので、まず最初に叩く側に回るんだけど、その後叩く側が大して考えてもないのに叩いていることにげんなりして、だんだん嫌気が差してどちらも叩く側に回るという性質を持っていて、きっとそういう性格がこういう態度を取らせることにしている。別にこれは宗教とかに限らず、生活態度すべてにつながっている。われながらめんどくさい性格だ。

 「そこにまともな思考がはさまれていないのに、なんとなく叩く」みたいな浅はかさに対する嫌悪感は、この場合宗教側だろうが非宗教側(と本人が思っている側)に対してだろうが共通する。それが熟慮の上だとか経験ベースで何かあった場合はこの限りじゃないけど、とりあえず「批判することで耳を閉じ続けること」にはいざという時にそれ相応のリスクがあるということを承知してしかるべきだと思う。

 ちなみに僕の宗教的な、あるいは霊性的な態度を明言しておくと、大事なのは「そこに自由度がいかにあるか」ということである。言ってみれば遊びだとかゆとりという部分の余地が自分にとっては大事だ。

 つまりそれは「神を信じること」もできるし、「神を侮辱すること」もできるという両義性の態度である。「正しいことをしなければならない」と信じる正義側にも、「悪いことをしなければいけない」という悪側でもない、そのどちらもそのときに応じて行うことが出来るというコウモリの姿勢だ。もちろん風見鶏のようにならないように、あるいは寓話の中のコウモリのようにならないように、そのどちらをそのときに選ぶかについては熟考の元に行われる必要があるわけであるが。

 最近の漫画であればめだかボックスの球磨川君が同じようなことをいっていた。きっと球磨川君が好きな人は僕の考えにもある程度同調してくれるに違いない。



つまり、<癒す知>は何ほどか「近代知」に対する「代替知」(alternative knowledge)としての自覚を持っている。1970年代以降、<癒す知>が輝かしい可能性をもつものとして注目されるようになったのは、近代的な知や制度に対する不満や限界の意識が広まったことと深い関わりがある。
(p.11)

 ただし、<癒す知>が期待をかける宗教は、科学の知を否定して信ずることを求めるような宗教ではなく、霊性と知性の融合を求めるような姿勢こそ望ましいものとされる。それは自然の中に霊的な価値を見出さない超越性重視の宗教に対して、自然の中に霊的なものの働きを見出そうとする内在性重視の宗教性の伝統に連なるものである。
(p.12)

 だが、70年代の日本で期の思想への注目が高まっている際、中国経由の気孔とは異なる源泉が重要な役割を果たした。それは戦前から続いている「野口整体」とよばれる<癒す知>の運動だった。
(p.15)

近代的な科学的医療の弊害は、「臨床的医原病」「社会的医原病」「文化的医原病」の三つのレベルの「医原病」(iatrogenesis)に分けて論じられている。
(p.23)

 宗教氏の文脈からとらえると、この田中守平は「信」に重きを置くのではなく、「術」に重きを置く運動の流れに位置づけられる (西山、1988)。呪術による癒しは日本の宗教氏の中で太い脈流をなしてきた。仏教で言えば、浄土真宗が「信」の宗教の流れを代表するのに対して、密教や修験道は「術」の流れを代表する。西洋の近代でキリスト教が「術」の要素を帯びるカトリックから、「信」に重きを置くプロテスタントへと発展していったように、日本でも近代化の推進期には「術」がいとわれ、「信」の方向へ宗教も向かっていったように見える。ところが、日露戦争以後の時代と1970年代以降は「術」的な側面の興隆が際だっている。「霊術」が台頭するのはそのような逆方向の流れにそっていると西山は見ている。
(p.38)

こうして生活に浸透する科学を、いかがわしい「迷信」や「疑似科学」から腑分けする役割を『変態心理』はになった。「迷信」や「疑似科学」が科学の力に希望を託して元気づいたからである。それほどに「科学」が見出すであろう、新しい「真理」への期待が高まった。
(p.43)

 陰陽のバランスはまずは居住環境の寒暖の差と、海多陸少の知であるかによって異なる。暖国海国の大気中にはナトロン塩が多いからカリ塩を多く取るべきで、寒地高地大陸の大気中にはカリ塩が多いからナトロン塩を食する必要がある。日本は前者なので、動物食品は少ないほうが陰陽のバランスがよい。
(p.70)

 医学が科学であるなら、森田療法という<癒す知>は科学のなかにある場所をもつことができたことになる。しかし医学の中でも精神医学は科学の基準をはみ出す要素をたっぷり含んでいる。とりわけ「精神療法」はそうである。森田療法はその精神療法の一つとして自己確立した。だから、そもそも精神療法とは何であり、精神療法において<癒す知>がどのようにして近代制度にかなうものとなるのかを問うていく必要がある。
(p.118)

(前略)ここではそれを「世界観」的な論点とよんでおくことにしたい。宗教学的なコスモロジーや死生観、人生観の要素をもつが、理論的な、ときには科学的な言語をまじえて語られる思想である。自然についての包括的な解釈が含まれているという点では、学的な洗練を経ていない「自然哲学」「自然神学」とよぶことができるような論点である。
(p.125)

 精神医学史における精神療法という観点から見ると、森田は呉を引き継ぎ、ある種の神経症の治療法とその理論の形成という点で大きな功績をあげた。
(p.148)

 森田の「真の信仰」は近代科学の「事実」重視とあい通じるものをもっており、ここでいう「信仰」は「人間心理の事実をあるがままに受け入れ、修練による行為の結果を重視する」という森田独自の「世界観」の特徴が強調されて表現されたものである。しかし、井上円了の場合は、もう少し伝統的な「正しい」「信仰」の考え方に近い。
(p.163)

 なぜ妖怪が起こるのか、とくになぜ迷誤が起こるのかを説明するのが、妖怪学講義の主要な目的である。ところで、妖怪には物理的、心理的の二種がある。物理的な妖怪は主に「理学」(現在の「科学」「自然科学」にあたる)に関係し、心理的妖怪は心理学、宗教学、純粋哲学に関係する。
(p.174)

「また、日本人の健康を害している一番のものは砂糖だ」。
(p.186)

 <癒す知>を近代医療制度のなかに組み込もうとする森田の試みは正統的な知の制度の幅を広げるのに大きな役割を果たした。(中略)もちろん癒しの及ぶ範囲はもっと広く、とりわけ心理的な疾患ではなく、身体的疾患を対象とうる癒しにも及ぶ<癒す知>を見出し、うち立てようとする試みは次々と起こってくる。
(p.228)

 森田療法が森田の没後も弟子達によって発展の歩みを続け、日本の精神科医療の中で一定の位置を固めてきたことは第三章では示唆したが、心理療法の<癒す知>の試みはもちろん森田療法に限られるわけではない。
(p.243)

それに先立って、ヴィクトール・フランクル、カール・ユング、アブラハム・マスロー、カール・ロジャーズなど、トランスパーソナル心理学の先駆者たちの著作の翻訳が進められ、「宗教と心理学の間」に関わる<癒す知>の基盤は十分に培われつつあった。
(p.246)



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