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対話398 鈴木規夫, 青木聡, 甲田烈. 久保隆司 『インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論 』

2011.12.21.16:03



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


 このようにインテグラル理論では、統合的な理解のために、ある事象について少なくとも「主観的」「客観的」「文化的」「社会的」(「経験的」「行動的」「価値的」「制度的」)という4つの視点において「見る」必要があると考えます。
(p.27) 


 あらゆる物事を多面的に評価する――つまり多面的な評価基準を用意し使えるようにしておく――というのはこの現代社会において必須とまでは言わないけれども、それを獲得しようとする姿勢を持つことが多くの場面で多くの恩恵をもたらしてくれるのではないかと最近とみに実感する。

 特にこれはなんらかの価値づけを変えようとしている人たち――それはその人自身にとってもであるし、社会にとってもという意味を含む――に非常に有用なアドバイスだと思う。新しいアイディアを生み出そうとするとき、言い古されたことではあるけれども、0から何かを生み出すということは昨今もはや不可能に近い。

 ではどのように新しく見えるアイディアを生み出すかといえば、アイディアの中にある要素の分解および別のアイディアとの再結合という手段、すなわち編集能力が問われてくるのだと考えるが、その編集作業において重要なのが「そのものについている価値観や認識を別の角度で見る」ということである。そしてそれこそが、上の引用にあるような多面的な視野を持つということである。

 何を統合的な理解の対象にするかによって異なってくるとは思うが、諸学問をそれぞれ分けるのだとしたら
主観的:経験、現象学(哲学)
客観的:行動科学、自然科学、心理学、社会学
文化的:文化人類学、経営学
社会的:政治学、法学、経済学
という風に対応するといえるだろうか?

 個人の経験として、主観的にこうであると述べることは意識していたし、それが客観的にどうであるか(より正確にいえば「科学的」にどうであるか――この「科学的」という単語が非常に厄介なのであるが、もっと定義を明確にしようとすれば「行動科学的にどうであるか」などがふさわしいか――?」)も一応念頭に入れている。
そしてそれが文化的にどのような価値を持ちうるかは最近文化人類学やら宗教学やらに手を出していくにつれなんとなく知見が深まってきた(ような気がする)。

 おそらく自分に足りていないのはそれらが制度的にどういう意味づけをもっているのか?という、政治学、そして法学、経済学的な視点なのだろうということ。今まで文系とされる学問の中でなぜかこのあたりを綺麗にスルーしてきたつけがそろそろ回ってきているので、適当に落ち着いたころにでも政治学などにまずは手をつけていきたい所存。

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対話397 宗像 恵, 中岡 成文 (編著) 『西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開』

2011.12.21.15:38



読書時間:2時間半
個人的読みやすさ:D


したがって、抽象は損失であるという、心の二層的構造に立ったバウムガルテンの抗弁に対して、『純粋理性批判』でのカントであれば心の二元的・相補的構造から、直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目であると答えるに違いない。
(p.161)


 討論とは各々の直観同士の戦いである、と考えたら結構面白いのではないかと思う。

 引用内の言葉を借りれば、「直観なき概念」を戦わしている討論をたまに目にする。
これだと思考トレーニングにはなると思うんだけど、それ以上のものがなかなか見えないのが個人的に不毛だなあと考えていた。言い換えれば、なんのために議論しているのかがちょっとよくわからないのではないか?

 逆に、神秘主義者にありがちだと思うんだけど、その体験なり直観なりがその人にとってリアルすぎて、それを一歩引いた視点で考えられないっていうケースもとても多い。

 概念がない、というのはつまりその体験をひとつの絶対的な真実であるとみなしてしまうということだ。その見かたを1つの世界観として認識する≒概念化することで、その世界を共有しない他者との対話が可能になる。そういう意味でも、自分の体験なり直観なりをある程度多角的に、そして距離を持って表現する概念はいくつか持っていたほうが安全なのはあまり疑いようがない。

 まずは自分の体験・直観を耕す。そうした上で、どこまでそれを概念化できるのか?ということを突き詰める。
概念化というのはある意味「魔法の習得」みたいなものであり、そして「魔法」におぼれないようにするための礎になるのだと思う。

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対話395 中村 元 『ブッダのことば―スッタニパータ』

2011.12.19.15:09



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は愛執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。
(p.75)


 キリスト教における七つの大罪は文化メディアの力もあってすごい有名になっているけど(傲慢・嫉妬・憤怒・怠慢・強欲・暴食・色欲)、仏教にもそれに対応するものがあるんだよという引用文。こちらはそれぞれに対応するシンボルをとった7つの大罪と違い(たとえばレヴィアタン=嫉妬のように)、メタファーを軍隊としていて、いろいろな欲望がいろんな形でどどどどどーって感じで攻めてくるのを表現しているようで面白い。

 7つの大罪と比較すると、
第一の軍隊(欲望)はマモン(強欲)と対応し、
第二の軍隊(嫌悪)は対応者なし。
第三の軍隊(飢渇)はおそらくベルゼブフ(暴食)。
第四の軍隊(愛執)はアスモデウス(色欲)とも取れるしレヴィアタン(嫉妬)とも取れる。
第五の軍隊(惰眠)はそのままベルフェゴール(怠惰)に対応し、
第六の軍隊(恐怖)は対応者なし。
第七の軍隊(疑惑)も対応者なしで、
第八の軍隊(強情)はルシファー(傲慢)に対応する。

 こうして見ると、それぞれの宗教が重要視している価値観が明確になってて、しかもちょっとゲーム的ですらある。仏教だと憤怒はそのままの形では軍隊に入らないんだなー。

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対話394 E.ゴッフマン 『行為と演技―日常生活における自己呈示』

2011.12.19.14:55



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:D


 この世はすべて舞台、という主張は、あまりに陳腐で、読者諸賢はその限界にはよく通じていて、この言葉はあまり真正直に受け取るべきではないということをいつでも容易に自分に証明できることを知っておられ、だからこそそのように言いだされても寛大にできるのであろう。劇場で上演されている一幕はかなりこしらえられた幻想であり、しかもそうと了承されている幻想である。
(p.300)


 最近ものすごく人生における物語性、みたいなことをよく考えている。

 割と人生が物語だとか小説だとか幻想だとか、そういうことはよく言われることだ。

 実際、ゲームみたいに人生を送っていると自覚されるときは個人的にものすごく楽しい。なぜならそこに多少の距離が感じられるし、実際に幾分かは操作できるという実感がそこにあるからかもしれない。
物語という言葉をとるにしても幻想という言葉をとるにしても、そこにある「距離」みたいなのが実感できて好感が持てる。

 ただ、なかなか自分の人生をそう常に俯瞰して見ているわけにもいかないので、時には人はそれに没入せざるを得なくなるのかもしれない。そのゲームに、その物語にという意味で。
そしてしかしその乗っているものは物語にしかすぎずゲームにしかすぎないので、それは多少の条件の変動とかによって容易に壊れうる。

 ちょっと具体的な話をするのであれば、たとえば会社の昇進争いだってゲームだし、受験戦争だって物語であり幻想だ。
それを楽しむ分には良いけれども、同時にそれに没入することへの危機感を持っていないとなかなかやばいことになるのをいかに通奏低音のように自覚的であるべきなのか?

その人が乗っているもの、将来の夢だとか現在への位置づけ、そういうものはすべて物語であり、メタファーを持って記述するのであればスケート場の氷みたいなものである。
氷の上はスピードが出るし、見た目も美しい。技術が秀でていればそこでジャンプしたりターンしたりして周りを魅了することもできる。

 でも氷の上なので、やっぱりそこには地面とのふれあいがない。温かさがダイレクトに感じられていない。スピードがついているということはその分事故を起こしたときのダメージは大きい。転んだときに顔にひっつく氷の冷たさは並みじゃない。

 24時間スケート上にいるのではなくて、スケートシューズを脱いで地面と足を接続させる。それをすることにとって、快適にスケート場の上を踊れるのだろう。たとえどんなにスケートが楽しいのだとしても、定期的に地面に接することが大事なのだ。

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対話391 藤井 直敬 『ソーシャルブレインズ入門――って何だろう』

2011.09.28.00:07



読書時間:1時間10分
個人的読みやすさ:B


 ただ、これまでの僕たちの研究で、何となく分かってきたのは、ネットワーク要素間の関係というものは、脳内ネットワーク内の要素である各脳領野間に観察される、ある瞬間の関係構造そのものを指すというよりも、むしろ、その構造が時間の経過に合わせて変化するところに意味があるのではないかということです。
 なぜなら、関係構造が変わるということは、行動のルールが変わるということだからです。当然ながらルールの変更はわたしたちの行動に大きく影響を及ぼします。そのような関係構造の変化に対応して行動を選択する適応行動のしくみを知ることが、ソーシャルブレインズ研究ですから、おそらくこの方向性は間違っていないと思います。
(p.186)


 最近「集団のダイナミクス」が熱いと常々感じていたが、脳内の研究においてもそれは同様のようだ。筆者はここにはこのような機能があるというような従来のモジュール仮説的な立場には完全には立たず、すなわちそれは従来のような研究のやり方ではそれを計ることはできないということを必然的に意味してくる。「ではその常に変動する関係構造の変化をどう捉えていくか?」という大きな難問に対し筆者が脳機能学者の立場からECoG電極という具体的な一つの解を示しているのも好感が持てるし(この手のことを叫んでいる人は従来のやりかたを批判するだけで具体的な解決策を明示できないというケースが多々ある)、こういう流れこそがこれからの研究の中で主流とまでは言わずとも一つの大きな流れのうちの一つになってくるのかなと思わされる。

 僕自身、コミュニティ心理学で扱われるような(ところでコミュニティ心理学の動きはどちらかというと鎮静化、というかやや縮小化に向かっているような雰囲気を感じるのだけど実際のところはどうなのだろう?)動的な場における個人間の相互作用には非常に興味を持っている。今のところそのアプローチの方法についての知識が僕個人には乏しいというのが実情ではあるが、将来そちらの方面にも研究でタッチできたらいいなと願う。

 また、認知知覚機能の時間的前後関係を揺さぶるような事例も、いくつか心理物理実験で示されています。たとえば、右手、左手、の順番に誰かに触られたとして、普通、その順番を間違えることはありませんよね。ところが、自分の腕を交差させて、そのときに同じようなことをされると、触られた順番を逆に感じることがあると、順天堂大学の北澤茂氏が報告しています。
(p.23-24)

 そこで重要な考え方が、モジュール仮説という考えです。これは、ブロードマンによって定義された脳領野を一つの機能単位、つまり一つの機能モジュールとしてとらえ、そのモジュールの持つ働きを個別に理解するアイディアです。
(p.29)

 一つ断っておきますが、社会的ゾンビは、ある種の社会的機能障害を持つ特定の疾患患者さんを指しているわけではありません。たとえば自閉症やアスペルガー症候群とされる人たちは、発達機能障害を持っていますが、そのあらわれ方も人によってさまざまで、社会的ゾンビのように「空気」だけが読めずに、それ以外はまったく健常というのとは異なります。
(p.46)

 いずれにしても、わたしたちはじつは、自分たちで考えている以上に行動の選択しは少ない環境に生きているということを覚えていてください。そして、そのことには、おそらく意味があるのです。
(p.51)

 創造性については、多くの人々が議論しています。しかし、その他のあらゆる脳機能と同じく、創造性についても社会的なコミュニケーションの重要性が強調されることはあまりありません。
(p.54)

 とするならば、もしかしたら顔の認知機能は、さらに細分化され、目と顔の二つに分かれているのかもしれません。じつは、それは本当のようです。実際に人の目の動きだけが分からないという患者さんが存在するのです。この患者さんは、脳の側頭葉の一部が脳梗塞などで選択的に破壊され、それ以降、他人の目の動きが分からなくなってしまったのです。
(p.66)

 そのような状態を「病識がない」と言いますが、高次脳機能障害ではこの病識のなさが特徴と言っても」いいかもしれません。
(p.70)

つまり、扁桃体損傷患者の恐怖認知異常は、これまで言われてきたような単純な恐怖表現が理解できないという認知機能の異常ではなく、むしろ他者の目に対する注意の欠如のような理由で説明できるかもしれません。なぜなら、扁桃体損傷患者に、明示的に相手の目を見て恐怖表現の有無を判断してもらうようにお願いしたところ、その判断成績は大きく向上し、健常者の成績と変わらなくなったからです。
(p.78)

 いずれにせよ、リゾラッティらのミラーニューロンに関する定性的な記述は、同業の科学者たちからの突込みどころが満載の結果でした。
(p.87)

 誤解されがちなので、繰り返しますが、僕はサルで見つかったミラーニューロンの存在を疑っているわけではありませんから、まずそこはご理解ください。
(p.94)

 これまで繰り返してきた通り、僕はモジュール仮説という、脳の特定の部位に特定の機能を当てはめる考えに懐疑的です。むしろ、高次機能のほとんどが、複数の脳領域がつながるネットワークの中で、柔軟かつ動的に実現されているという考え方をとっています。
(p.95)

それでは、そのような自他境界が曖昧な脳が、自己と他者を区別するために利用しているもっとも重要な要素は何でしょうか。それは、身体感覚と視覚刺激のタイミングがマッチしているかどうかという同期情報です。
(p.102)

 ちなみに、ヒトとチンパンジーの脳の重さは、ヒトが4倍近いのですが、脳への血液量は2倍にしかなっていません。ヒトの脳内エネルギー環境はチンパンジーのそれとくらべてはるかに厳しいのです。
(p.129)

 この実験の中止に際して看守役から、実験を継続するようにとの強い抗議があったことは、看守役が陥っていた心境がきわめて異常な状態であったことを示しています。
(p.154)

 ECoG電極で記録される信号は皮質脳波と呼ばれています。これは、単一神経細胞活動を記録してきた電気生理学者にはあまり評判のよくない方法です。なぜなら、神経細胞活動こそ脳機能の基本であると考える人たちからみると、局所電位はその信号の源が明らかでないので、気持ちが悪いのです。
(p.175)

 それではここでもう一度、ECoG電極の特徴を」まとめてみましょう。
1 長期間安定して神経活動が記録できる
2 脳に電極をささないので、比較的脳へのダメージが少ない
3 脳の広範囲から同時に記録できる
4 非常にたくさんの情報が記録信号に含まれている
5 ヒトにも使われている技術である
(p.178)

(前略)ECoGを使うことで信号の安定性を確保したということは、もうコーヒーメーカーは消えないということを意味します。
(p.181)

 ただ、これまでの僕たちの研究で、何となく分かってきたのは、ネットワーク要素間の関係というものは、脳内ネットワーク内の要素である各脳領野間に観察される、ある瞬間の関係構造そのものを指すというよりも、むしろ、その構造が時間の経過に合わせて変化するところに意味があるのではないかということです。
 なぜなら、関係構造が変わるということは、行動のルールが変わるということだからです。当然ながらルールの変更はわたしたちの行動に大きく影響を及ぼします。そのような関係構造の変化に対応して行動を選択する適応行動のしくみを知ることが、ソーシャルブレインズ研究ですから、おそらくこの方向性は間違っていないと思います。
(p.186)

 そんな様子を見るにつけ、僕は人の喜びや幸せは、個人の中にあるのではなく、むしろ他者との関係性の中にあるのではないかと思うのです。
(p.198)

もし、胎児としてお母さんの体内にいるときに受けていた無条件の存在肯定を生存の前提条件として常に期待しているのなら、乳児期以降の他者とのコミュニケーションにおいてもその欲求が引き継がれていくことは、十分に考えられます。
(p.206)

もし、そんなリスクを持った他者が、みなさんにリスペクトを示してくれたとしたらどうでしょうか。おそらく、二人の間に存在する社会的な緊張感は低下し、その人に対して割かなければならない認知コストは大きく減るのではないかと思います。これは、脳にとっては望ましい状況です。
(p.210)

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