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対話402 清野 智昭 『ドイツ語のしくみ』

2011.12.22.14:26


 精神分析の始祖とも言えるフロイトは、自分自身で捉えられない無意識の世界をEs「エス=イド」と名づけました。こうしてみると、esを使った表現が段々と少なくなっているのは、ドイツ語という言葉が無意識なものよりも人間の自我を前面に出す表現を好むようになって来たからだと言えるのではないでしょうか。
(p.121)


 言葉がその文化の人たちに与える影響って果たしてどのくらいなのだろう?という研究を行っているのはおそらく認知言語とか認知心理学らへんなのだろうけど、その中でも主語の構造が与える影響ってのは体感レベルであるなあと思えるので、上記の引用に関しても自分の経験と照らし合わせてなかなか興味深く読んだ。

 というのも、結構日本語で「僕」とか「俺」とかつけるとなんか目障りというか、「この人自意識過剰じゃね?」とか思ってしまうし、「僕」という単語をものすごく使うtwitter上では他の人から「僕僕うっせよwww」みたいに突っ込まれることも稀ではない。

 なんか、僕とかそういう単語を最初にもっていくことで、自分のことを語る蓋然性が高くなるのではないか、もしかして?

 だからたぶんアメリカ人が自分語りとか多く感じる(少なくともそういうステレオタイプがある)のも、いちいち文頭に主語を持ってこなきゃいけないあの言語的構造に起因しているのではないだろうかとか、そういうことを妄想した一日の始まり(もう昼だけど


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対話401 ジョージ・E. マーカス, マイケル・M.J. フィッシャー 『文化批判としての人類学―人間科学における実験的試み』

2011.12.22.14:15



読書時間:4時間
個人的読みやすさ:D


アメリカでは、すでに見たように、相対主義が一般的な指導概念となった。この概念が、様々な移民から形成されているこの社会に適応したのである。一方イギリスにおいては、合理性の検討が同様に一般的なテーマとなった。おそらくは比較的階級意識の強いこの社会に適合したのであろう。
(p.239)


 どんな思想もある背景から生み出されていて、その背景を共有していないところには響かない。思想はまずその前に経験が先立っていて、そのあとから思想という体系が紡がれるのだから、これは当然といってしまってもよいと思う。アメリカでいえば相対主義が出てくるのは確かに必然のように感じるし、イギリスにおいて合理性が、という指摘ももしかしたらそうなのかもしれないなという気持ちにさせてくれる。

 それでは翻って日本ではどのような思想が?という疑問が次に出てくるのだが、これはどうだろう。相対主義も合理主義ももちろん部分的には取り入れられているし、その言葉が持つ説得力はすさまじいので頭の中では採用しなくてはという気持ちになる。しかしながら人種問題への問題意識が弱い日本において相対主義がアメリカのように行われるかといえば実践ベースがかけているために無理かなと思わざるを得ないし(これから変わってくる可能性はあるけど)、かといって階級意識がそこまでない気がする日本において合理主義が……というのもちょっと微妙だ。というか日本において合理主義が実権を握ったことは少なくとも社会文化レベルでは一度もない気がする。合理主義はそのお題目にそぐわず、あまり日本では採択されない思想だと思う。

 では日本文化としての特徴はどこにあるのか?ということを考えたときに「平等思想」とかそういうものに行き着きそうな気がする。「事なかれ」とかあるいはつーかーの仲的な、テレパシーじみてる暗黙の了解的文化。経験知的な文化といってもよい。

 じゃあそこからどのような生産的な思想が生まれてくるのか?あるいはそれをどう生産的な思想とさせていくのか?というのが次に生まれてくる疑問だ。たとえば「経験知」という言葉は近年少なくともビジネス界隈で使われ始めた言葉で、ある程度何かにコミットメントすることからくる言葉にはしづらい感覚をかっこよく見せ、それを再認識させる言葉だけど、こういう風に「日本人は議論が弱い」とか「出るくいは打つ文化」とかそういう風に自虐的にあるいは嗜虐的に中傷してみせるより、そこからどのようなおいしい利点、言い換えれば「長所」を見出してうまくラッピングし、それを強化する方向にもっていくかというところに注力したほうが望ましい。短所を変えるのは難しいが、長所を伸ばすのは簡単だし確実性がある。

 日本全体が今持っている長所を改めて認識し、それを手垢のついた言葉で表現するだけではなく、今風の「なんかちょっとかっこいいじゃん」って言葉で表現したり、それを編集しなおしたりする人および技術、レトリックが今求められている。

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対話400 ウィリアム・ハート 『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門―豊かな人生の技法 』

2011.12.21.16:50



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:A

――でも、心は全身にあると?
 そうです。全身に心があります。からだ全体にです。
(p.37)


 無意識というのは現代社会においてまったく神みたいな扱いを受けているし、みんな神みたいに利用しているなあというのが最近の雑感なのだけど、その無意識の表出において「身体」を挙げて、それを観察することで無意識とうまく向き合うようにする、というヴィパッサナー瞑想の基本姿勢は面白い。特に僕みたいな「無意識≒夢などのイメージ」と捉えてような人間にとっては弱い視点だったため、ひとつの価値観として採用する価値があるなと思う。

 また、概念としてその価値観を採用しようとする際(この場合であれば無意識=肉体)、体験ベースでそれを実感できるスキルの存在が必要不可欠だ。ちょっと前の投稿でも挙げたのだけど、「直観なき概念」は空虚である。ある意味宗教というのはこの直観の部分を瞑想などに代表されるプラクティスによって、そしてそこに宗教的な意味での「概念」を付与させることを目的とした機構とみなすことができるだろう。尤も、宗教的な側面しか「概念」の中に含まれていなければ、それはやはり盲目であり危険性を大いにはらむことにはなると思うが。

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対話399 アルボムッレ スマナサーラ 『自分を変える気づきの瞑想法【増補改訂版】』

2011.12.21.16:12



読書時間:30分
個人的読みやすさ:A


 無駄でない「思考」もあります。それは、論理的、具体的に事実に基づいて、自分の役に立つこと、人の役に立つことを考える思考です。
 事実、データに基づいて考えることですから結論が出ます。結論が出た時点で、その思考の流れは消えます。(中略)
 無駄な思考をやめる訓練をした人なら、論理的な思考が瞬時にできます。ほとんど間違いのない結論に達することができるのです。いくら考えても終わらない思考は、単なる「無駄」です。
(p.102)


 昔から思考するのが好きだった自分にとって、「思考というのは常に振りかざしていればよいというわけではないのではないか?」という最近の印象は結構革新的だ。

 僕はゲーム脳なので早速これをゲームに例えてみたいと思うが、思うに「思考する」ということはMPを使う立派な魔法みたいなものである。常にそれを常時行っている場合、そのほかの行動(物理攻撃)とかをとる暇がなくなっていくし、「思考」することでMPも減らされていくため精神衰弱になりやすい。逆に余計な思考を減らすことでMPを保存し、ここぞというときに問題解決的な思考能力をどかんと発揮することにつながるのではないか。

 だらだらと思考することにもおそらくある程度の効果はあると思うのだけど、ただ効果がその時に応じてランダムすぎるし、精神力を消耗するというのは体験的にある程度信用性があるなあと思えるので、これからはあんまり無駄なMP消費を避けていくようにしたい。

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対話398 鈴木規夫, 青木聡, 甲田烈. 久保隆司 『インテグラル理論入門I ウィルバーの意識論 』

2011.12.21.16:03



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


 このようにインテグラル理論では、統合的な理解のために、ある事象について少なくとも「主観的」「客観的」「文化的」「社会的」(「経験的」「行動的」「価値的」「制度的」)という4つの視点において「見る」必要があると考えます。
(p.27) 


 あらゆる物事を多面的に評価する――つまり多面的な評価基準を用意し使えるようにしておく――というのはこの現代社会において必須とまでは言わないけれども、それを獲得しようとする姿勢を持つことが多くの場面で多くの恩恵をもたらしてくれるのではないかと最近とみに実感する。

 特にこれはなんらかの価値づけを変えようとしている人たち――それはその人自身にとってもであるし、社会にとってもという意味を含む――に非常に有用なアドバイスだと思う。新しいアイディアを生み出そうとするとき、言い古されたことではあるけれども、0から何かを生み出すということは昨今もはや不可能に近い。

 ではどのように新しく見えるアイディアを生み出すかといえば、アイディアの中にある要素の分解および別のアイディアとの再結合という手段、すなわち編集能力が問われてくるのだと考えるが、その編集作業において重要なのが「そのものについている価値観や認識を別の角度で見る」ということである。そしてそれこそが、上の引用にあるような多面的な視野を持つということである。

 何を統合的な理解の対象にするかによって異なってくるとは思うが、諸学問をそれぞれ分けるのだとしたら
主観的:経験、現象学(哲学)
客観的:行動科学、自然科学、心理学、社会学
文化的:文化人類学、経営学
社会的:政治学、法学、経済学
という風に対応するといえるだろうか?

 個人の経験として、主観的にこうであると述べることは意識していたし、それが客観的にどうであるか(より正確にいえば「科学的」にどうであるか――この「科学的」という単語が非常に厄介なのであるが、もっと定義を明確にしようとすれば「行動科学的にどうであるか」などがふさわしいか――?」)も一応念頭に入れている。
そしてそれが文化的にどのような価値を持ちうるかは最近文化人類学やら宗教学やらに手を出していくにつれなんとなく知見が深まってきた(ような気がする)。

 おそらく自分に足りていないのはそれらが制度的にどういう意味づけをもっているのか?という、政治学、そして法学、経済学的な視点なのだろうということ。今まで文系とされる学問の中でなぜかこのあたりを綺麗にスルーしてきたつけがそろそろ回ってきているので、適当に落ち着いたころにでも政治学などにまずは手をつけていきたい所存。

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対話397 宗像 恵, 中岡 成文 (編著) 『西洋哲学史 近代編―科学の形成と近代思想の展開』

2011.12.21.15:38



読書時間:2時間半
個人的読みやすさ:D


したがって、抽象は損失であるという、心の二層的構造に立ったバウムガルテンの抗弁に対して、『純粋理性批判』でのカントであれば心の二元的・相補的構造から、直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目であると答えるに違いない。
(p.161)


 討論とは各々の直観同士の戦いである、と考えたら結構面白いのではないかと思う。

 引用内の言葉を借りれば、「直観なき概念」を戦わしている討論をたまに目にする。
これだと思考トレーニングにはなると思うんだけど、それ以上のものがなかなか見えないのが個人的に不毛だなあと考えていた。言い換えれば、なんのために議論しているのかがちょっとよくわからないのではないか?

 逆に、神秘主義者にありがちだと思うんだけど、その体験なり直観なりがその人にとってリアルすぎて、それを一歩引いた視点で考えられないっていうケースもとても多い。

 概念がない、というのはつまりその体験をひとつの絶対的な真実であるとみなしてしまうということだ。その見かたを1つの世界観として認識する≒概念化することで、その世界を共有しない他者との対話が可能になる。そういう意味でも、自分の体験なり直観なりをある程度多角的に、そして距離を持って表現する概念はいくつか持っていたほうが安全なのはあまり疑いようがない。

 まずは自分の体験・直観を耕す。そうした上で、どこまでそれを概念化できるのか?ということを突き詰める。
概念化というのはある意味「魔法の習得」みたいなものであり、そして「魔法」におぼれないようにするための礎になるのだと思う。

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対話396 西尾維新 『鬼物語』

2011.12.19.15:27



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:A


「色々足りないって気がするんだよな――誰かに何か、抜け目なくやられてるような――今までみんなで頑張って誤魔化していたことを、うまくやっていたことを、暗黙の了解で見過ごしていたあれこれを、さながら重箱の隅でもつつくかのように、端から端まで徹底的に糾されていっているような――」
(p.272)


 幻想の破壊。

 このブログは読書感想文というよりは読んだ本から何か考えたことを書いたりすることを主な目的とするブログなので鬼物語についての言及はここでは書かない。今ここで書きたいことは、この本で描かれているような、「共同幻想の破壊」つまり「今までの物語の破壊」ということが、この世界では割と頻繁に起きている――それどころか、むしろ世界とはそれの繰り返しなのではないのかということの指摘である。

 人が1人いれば物語は生まれるけど、それが受け入れられないと共同幻想としての物語にはならない。でも、一度共同幻想となった物語はそこそこの耐久力を持ってこの世にとどまる。少なくとも特に何もないで自壊するほど弱いものではまるでない。

そんな共同幻想としての物語がどのような時に破壊されるのかといえば、当然外部からの情報である。宗教にたとえてみよう。1人の思想家が今までついていた宗派から分離して、自分自身の物語=宗教をつくろうとする。そこに誰かが共鳴して入る。この時点で共同幻想は成立する。成立した共同幻想はしかしまだこの時点では教祖と1人の信者という2人の間でしか成り立っておらず、しかもこの宗教に対する社会的な視線が厳しい日本においてその耐久性はまるでない。

 だからこそ、もっともらしい理屈(脳科学的な説明ももちろんこのうちに含む)やら内側に引きこもって社会と断絶するやら、ありとあらゆる技法をつかってその共同幻想を保とうとする。もはやこの関係性において、主役は教祖でももちろん信者ですらなく、その関係性の中で産み落とされた共同幻想そのものである。

 しかしそれはおそらく社会的に、というか普通に考えていつまでも耐久し続けるかといえば疑問である。そもそも人数が多くなればなるほど外からの耐久度がもろくなるのが幻想である。内側からは暗黙の了解で見逃されていたものでも、大きくなればなるほどボロも大きくなり、それは外部からの格好の餌になる。そしてだんだんとその物語は破綻していく。

 これをずっとずっと繰り返しているのが文化というものなのではないかと思うし、哲学はこのサイクルに乗ってしまわないようなものを探求しているように僕の目には映る(哲学という言葉ですべてをまとめてしまう我ながらこの強引さ!)。その外からの指摘を無粋ととるかそうではないかは各個人に任せる問題として、僕自身はこの「幻想解除」「解呪」という営みについてもっと今後も思索を深めていきたい。

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対話395 中村 元 『ブッダのことば―スッタニパータ』

2011.12.19.15:09



読書時間:1時間
個人的読みやすさ:B


436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は愛執といわれる。
437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情とである。
(p.75)


 キリスト教における七つの大罪は文化メディアの力もあってすごい有名になっているけど(傲慢・嫉妬・憤怒・怠慢・強欲・暴食・色欲)、仏教にもそれに対応するものがあるんだよという引用文。こちらはそれぞれに対応するシンボルをとった7つの大罪と違い(たとえばレヴィアタン=嫉妬のように)、メタファーを軍隊としていて、いろいろな欲望がいろんな形でどどどどどーって感じで攻めてくるのを表現しているようで面白い。

 7つの大罪と比較すると、
第一の軍隊(欲望)はマモン(強欲)と対応し、
第二の軍隊(嫌悪)は対応者なし。
第三の軍隊(飢渇)はおそらくベルゼブフ(暴食)。
第四の軍隊(愛執)はアスモデウス(色欲)とも取れるしレヴィアタン(嫉妬)とも取れる。
第五の軍隊(惰眠)はそのままベルフェゴール(怠惰)に対応し、
第六の軍隊(恐怖)は対応者なし。
第七の軍隊(疑惑)も対応者なしで、
第八の軍隊(強情)はルシファー(傲慢)に対応する。

 こうして見ると、それぞれの宗教が重要視している価値観が明確になってて、しかもちょっとゲーム的ですらある。仏教だと憤怒はそのままの形では軍隊に入らないんだなー。

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対話394 E.ゴッフマン 『行為と演技―日常生活における自己呈示』

2011.12.19.14:55



読書時間:1時間半
個人的読みやすさ:D


 この世はすべて舞台、という主張は、あまりに陳腐で、読者諸賢はその限界にはよく通じていて、この言葉はあまり真正直に受け取るべきではないということをいつでも容易に自分に証明できることを知っておられ、だからこそそのように言いだされても寛大にできるのであろう。劇場で上演されている一幕はかなりこしらえられた幻想であり、しかもそうと了承されている幻想である。
(p.300)


 最近ものすごく人生における物語性、みたいなことをよく考えている。

 割と人生が物語だとか小説だとか幻想だとか、そういうことはよく言われることだ。

 実際、ゲームみたいに人生を送っていると自覚されるときは個人的にものすごく楽しい。なぜならそこに多少の距離が感じられるし、実際に幾分かは操作できるという実感がそこにあるからかもしれない。
物語という言葉をとるにしても幻想という言葉をとるにしても、そこにある「距離」みたいなのが実感できて好感が持てる。

 ただ、なかなか自分の人生をそう常に俯瞰して見ているわけにもいかないので、時には人はそれに没入せざるを得なくなるのかもしれない。そのゲームに、その物語にという意味で。
そしてしかしその乗っているものは物語にしかすぎずゲームにしかすぎないので、それは多少の条件の変動とかによって容易に壊れうる。

 ちょっと具体的な話をするのであれば、たとえば会社の昇進争いだってゲームだし、受験戦争だって物語であり幻想だ。
それを楽しむ分には良いけれども、同時にそれに没入することへの危機感を持っていないとなかなかやばいことになるのをいかに通奏低音のように自覚的であるべきなのか?

その人が乗っているもの、将来の夢だとか現在への位置づけ、そういうものはすべて物語であり、メタファーを持って記述するのであればスケート場の氷みたいなものである。
氷の上はスピードが出るし、見た目も美しい。技術が秀でていればそこでジャンプしたりターンしたりして周りを魅了することもできる。

 でも氷の上なので、やっぱりそこには地面とのふれあいがない。温かさがダイレクトに感じられていない。スピードがついているということはその分事故を起こしたときのダメージは大きい。転んだときに顔にひっつく氷の冷たさは並みじゃない。

 24時間スケート上にいるのではなくて、スケートシューズを脱いで地面と足を接続させる。それをすることにとって、快適にスケート場の上を踊れるのだろう。たとえどんなにスケートが楽しいのだとしても、定期的に地面に接することが大事なのだ。

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対話393 尾崎 真奈美, 奥 健夫 (編) 『スピリチュアリティーとは何か―哲学・心理学・宗教学・舞踊学・医学・物理学それぞれの視点から』

2011.10.30.18:52

 筆者は、スピリチュアル・エマージェンシーや精神病に見られる側頭葉辺縁系の機能の非定常状態を、基本的に病気とは捉えていない。人は、だれもが、辺縁系の非定常状態を作り出すことができる。パーソナリティの変容が起ころうとする時、あるいは、身体的・精神的な危機に陥った時、人は、返答用辺縁系の機能の非定常状態にして、ドリームタイムのレベルまでおりて、その危機を乗り越える力と知恵を得ようとするのであろう。そして、脳の器質的な疾患が認められる、統合失調症のような慢性的な疾患については、こちらの世界から「向こうの」世界に入ったまま、向こうの世界から「こちらの」世界に戻ってくることができなくなった病気であると考える。
(p.101)


 宗教における神秘体験を考え、捉え、そして見誤らないようにするために、この本に載っている記述はまことに興味深い。特に、神秘体験を一度した人はそれをまた求めたり、あるいはそのことで自己の優越性を誇示したりするという現象があるのだけど、そこに対する冷静な突込みが記載されている点が個人的にビビっときた。実際、僕自身もそういう風に思っていたこともあったので……

 特に上記の引用は「何故神秘体験をすると、そこから付随して人は何か悟りを得たようになるのか、そして苦行は何故苦行ならねばならぬのか?」ということへの説明率が高くて非常に参考になった。そうだよね、自分を一度不安定な状態にすることは爆発的な力を生む可能性がある。これは体感的にも非常に納得のいく話。HUNTERXHUNTERで言えば、念を使えるようになるための裏の技、つまりこじ開けるということに近いのかもしれんね。

 此岸と彼岸、あちら側にいけるのは何か特別な人だけなのかなと思いきや、むしろ現代社会にはあちらとなんらかの接触を持っている人が多いのだろう。それをコントローラブルにすることを古来の人は魔法と呼び、現代人は阿呆扱いをするというお話だ。

ここでも、「絶対」を「絶対」として、「相対」を「相対」として固定する思考習慣は破られなければならない。「絶対」は「相対」であり、「相対」は「絶対」であるということは、両者が相互に自己を否定しつつ、他者の働きの内に自己を肯定しているという、人格の働きを意味しているのだから。
(p.41)

 そして、舞踏がなかったら神話は存在しない。
(p.58)

 プラトンは、身体のトレーニング法としての体育を、レスリングと舞踏に分けている。さらに舞踏を大きく分けて戦いの踊り(ピュリケー)と平和の踊り(エンメレイヤ)に分けて説明している。
(p.62)

古来から、スピリチュアリティーの発現を司ってきたのは宗教であるが、その方法は多くの部分を言葉を媒介とするため、教条的になりがちなのではないだろうか?
(p.71)

 しかし、至高体験は、一度で終了するものでもなければ、それは、成長のゴールではない。至高体験は、順調にいけば、その後も何度も体験され、それは、やがて高原体験と呼ばれる、畏怖、神秘、驚き、美的衝撃といった至高体験と共通する特定の要素を含みながら、随意的であり、より安定した体験にとってかわられることになる。
(p.79)

 さらに、至高体験後、その高揚感が持続し、一時的な躁状態になる場合もある。彼らは、自分の体験のすばらしさを社会に訴えようとする。彼らの訴えは、しばしば、自己愛的な自己肥大を見せる場合がある。彼らは、至高体験者であることの自負から、自らを「特別な境地に至った、選ばれた存在」と認識し、他者を教育し、自分と同じ価値観を持つことを強要する。しかし、その焦燥感を伴った訴えは、日常生活の中で社会に取り入れられず、そのため、彼らは「なんで、わかってくれないんだ!」といったいらだちをつのらせ、躁のエネルギーは、理解のない社会への怒りへと容易に転換される。
(p.80)

 クンダリニーの覚醒のプロセスは、通常、それ自体の自然なペースとバランスをみつけるものである(サネラ, p.146)が、時には、コーンフィールドが紹介している若者のように、コントロールを失う状態にまで陥ってしまうことがある。そうした場合には、進行を緩めるために、重い食事(肉類など:筆者注)をとる、瞑想を中止する、よく身体を動かすなどの手段を講じる必要がある(サネラ, p.146)としている。
(p.85)

サイキックオープニングにおいて、もっとも危険なのは、その体験への固執である。サイキックオープニングへの執着は、至高体験への執着と同様に、禅仏教で言う魔境の状態とも考えられる。すなわち、超能力の獲得自体が、スピリチュアルな成長の証ではないのである。
(p.88)

 この事例からも示されるように、臨死体験者がすべて至高体験と非常に類似したパーソナリティの深い変容を直接的に起こすわけではないのである。
(p.91)

すなわち、精神病にせよ、スピリチュアル・エマージェンシーにせよ、感覚の過敏化とそれに続く幻覚・妄想は、側頭葉辺縁系の機能が何らかの関与をしていると考えられるのである。
(p.95)

 麻原およびオウム幹部信者たちの過激化の背景には、自己愛的テーマの活性化に加え、「自分の内面的な衝動の本当の源を見つめず、それと類似した状況を世の中でみつけて、それに参画していったり、その中心人物になろうとするアクティングアウト (吉福, 1996, p.199)」の状態があると考えられる。
(p.108)

 彼らは、修行や瞑想や精神的浄化の結果起こったことすべてに魅了されてしまい、自分がいかに悟りに近付いているのか、悟っているのかの証を求めようとしはじめる。そうした執着を、ラム・ダスは、スピリチュアルな物質主義と述べている (ラム・ダス, 1999, p.255)。
(p.108-109)

スピリチュアルな体験の意味は、<存在>そのものへ接する直接的な体験を通し、真理、善、美、および愛など、マスローが<存在価値(B価値;筆者注)>と呼んだ究極的価値に触れ (エルキンス, 2000, p.118)、洞察を得、新しいより拡張した価値観や世界観を作り上げることにあるのだが、スピリチュアルな物質主義は、その意味をとりあげ、古い価値観の中で強引に体験を理解し、その結果、意味から離れ、よりいっそう覚醒の証というシンボルに固着する結果を招くのである。
(p.109-110)

 一番肯定的な表現が多かったのは心の別荘というサイコシンセシスのイメージワークのCDを用いたワークであった。教室内を暗くし、イメージしやすい環境を作って行ったリラクゼーションを促すBGMが背景で流れながら、ゆっくりとした優しい語りで、具体的なイメージを誘導してくれるものである。
(p.125)

 最後に行った握手するワークは、握手をして今までのワークの感想を振り返り、できるだけ多くの人とその感想を分かち合うというシェアリングが中心のワークであった。このワークの感想記述には多くの肯定的表現が見られた。その具体的記述としては「ほとんど教室内には知らない人はいなくなっていて驚いた」「今日で授業が終わってしまうのはとても寂しい」「初回のワークではあんなに緊張していたのに、今では人と出会って会話をするのを楽しいと感じている自分がいる」など、自己の中での変化を感じているような記述は多く見られた。
(p.128)

 仏教瞑想では、サマーディ(三昧:Samadhi)あるいはサマタ(止;Samatha)と呼ばれる集中力を養うタイプの瞑想と、ウィパッサナー(観:Vipassana)と呼ばれる洞察を養うタイプの瞑想が明確に区別される。神秘体験は、サマーディによってもウィパッサナーによっても副産物として発生する。しかし、神秘体験や神秘体験がもたらす喜びなどの心理作用を対象として観察することができるのはウィパッサナー瞑想のみである。
(p.152)

 人は、人生の困難に出会うと人生の意味を問う。そして、その意味を説明してくれる信仰が得られると心が和み、喜びが生まれる。喜びはさまざまな怒りを静め、心をリラックスさせる。リラックスした心は集中しやすい。心がひとつの対象に集中していくと、感覚が鋭敏になり、神秘的な体験が起こりやすい。
(p.153)

 すなわち、許しや思いやりを含めて、宗教的あるいはスピリチュアルな体験の基盤は、人生初期の母親的養育者との関係の中で培われる一面があるのである。
(p.158)

 一方、ウィパッサナー瞑想において、自分の心身に生じている現象に純粋な注意 (Bare attention)を向け、ありのままを見つめる洞察智を養う手法も、フロイトの意識の技法に類似したものである。このように、精神分析と瞑想という、時代的にも社会的にも相異なった2つの伝統が共通して採用している、”ありのままに見つめる自覚”という手法が、スピリチュアルケアにおけるもっとも重要な意識の姿勢となる。
(p.165)

 しかし、ここでは「スピリチュアル」という言葉と同時に「ダイナミック」という言葉が追加されていることに注意する必要がある。すなわち健康とは、病気になったり死んだりすることを受けとめて、山あり谷ありの人生のすべてを全体的に引き受けて生きていくことのできることだと定義しようとしているのである。
(p.168)

私の眼には彼らの顔と姿は例外なく「穏やかな明るい光」を発して輝いているように見える。このゆえに、私はスピリチュアリティー(霊性)とは光であると語りたい。
(p.186)

第1因子は「Will 意思の働き・スピリチュアルな行動」、健全な自我の確立をもとに自尊感情をもち、自信に満ち溢れた意思の働きで、行くべき方向を選択し、行動かするという側面を表している。第2因子は「Joy 喜び・スピリチュアルな態度」である。これが主観的幸福感尺度と異なり特徴的なのは、外界の出来事によらない内面からわきあがる喜び感を特徴とすることである。第3因子は「Sense 狭義の意味でのスピリチュアリティー」、感覚的で、前個的・前合理的なスピリチュアリティーを含む可能性がある。
(p.191)

表9-2 スピリチュアリティー類型分類とその特徴
BAS: 理想的なスピリチュアリティー・愛の恋人
BAs: 地の足のついた健康な人
BaS: 義務感からの善行で無理してバーンアウト
Bas: 正義感・道徳観念が高いが悲壮感がある
bAS: 一人で悟って満足
bAs: 楽天的で無邪気な人たち
baS: 危険なスピリチュアリティー・カルト
bas: 無気力無関心

すなわち、第1因子「スピリチュアリティな行動」得点が低い個人に関しては、ライフスキル教育のような行動レベルでの変容を目的とした認知行動療法的アプローチが有効であろう。第2因子「スピリチュアルな態度」得点の低い個人に対しては、生きる意味を見出す実存的アプローチ、ロゴセラピーや森田療法などが有効であると考えられる。第3因子「スピリチュアルな感性」得点の低い個人に対しては、瞑想やイメージワークのような、いわゆるスピリチュアルなアプローチによって気づきを促すことが有効であろう。
(p.195)

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